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創出版: 2014年11月アーカイブ

 2008年の秋葉原無差別殺傷事件で1・2審と死刑判決が出て上告中の加藤智大被告について、最高裁は来る1218日に検察・弁護側双方の「弁論」を開くことを指定した。

新聞ではベタ記事にしかなっていないし、弁論といってもよくわからない人が多いかもしれない。しかし、関係者はこの知らせにドキッとしたに違いない。「いよいよ来たか」という感じである。

 最高裁は事実審理を行わないから、ある日突然、決定通知が届くというケースがほとんどなのだが、死刑事件については、判決をくだす前に、検察・弁護側双方の意見を聞く弁論の機会を設ける。逆に言うと、この弁論が行われると、判決が近い、ということなのだ。早ければ年明け1月にも判決が出るかも知れない。しかも判決内容は死刑以外ありえないから、そう遠くない時期に加藤被告の死刑判決が確定するということだ。日本中を震撼させた秋葉原事件がいよいよ結末を迎えたことになる。恐らくこの弁論期日が明らかになった時点で、新聞社などは判決へ向けてどんな紙面を作るか準備に入ったはずだ。

 死刑そのものは加藤被告は覚悟しているだろうから動じないにしても、死刑囚にとって刑確定が大きな意味を持つのは、その段階から接見禁止になるからだ。外部との接触を断つというのは、執行へ向けて心の準備に入れということなのだろう。

和歌山カレー事件の林眞須美死刑囚や連続幼女殺害事件の宮崎勤死刑囚(既に執行)など私が10年以上つきあってきた死刑囚の場合は、刑確定後の接見禁止はかなり過酷な措置だった。宮崎死刑囚など、最高裁判決の1カ月ほど前から、私へ届く手紙の内容は、ほとんど接見禁止に対する不安を表明したものだった。法律上は「死刑囚の精神の安定のため」とされているが、外部との交流を断たれることは多くの死刑囚にとってはむしろ精神的苦痛以外の何物でもないのだ。

 そのためにどうするか。一般にはあまり知られていないのだが、接見禁止への対応策として意外に多いのが、外部の人間と養子縁組ないし獄中結婚して新たな家族になってもらうという方法だ。実は林眞須美死刑囚も、今年からある男性と養子縁組をし、その人物が接見を重ねている。それまでは特別な面識もなかった男性に、突然彼女が手紙を書いて、養子縁組を依頼したのだ。普通に考えればそんなことあり得るのかという話だろうが、死刑囚も必死なのだ。

宮崎死刑囚の場合は、養子縁組という方法を使う前に、私が東京拘置所に特別接見許可願を書いたら一時は認められたし、その後も彼の母親を経由して手紙のやりとりはできた。

池田小事件の宅間守死刑囚(既に執行)の場合は、拙著『ドキュメント死刑囚』に書いたように、クリスチャンの女性と獄中結婚している。この女性は家族に迷惑がかからないように、一度自分の籍を抜いてから宅間死刑囚と結婚した。相当思い切った決断だ。

 

養子縁組とか獄中結婚といっても、戸籍制度のある日本では、簡単なことではない。月刊『創』では、1994年に起きた大阪・愛知・岐阜連続殺人事件で死刑判決を受けた死刑囚と養子縁組した大倉さんという女性の不定期連載を今年に入って同時進行ドキュメントで載せているが、彼女の場合も、間もなく刑が確定するという段階で死刑囚から突然、養子縁組の依頼を受けた。

それほど親しかった相手でもない死刑囚に突然、家族になってもらえないかと依頼されたわけだから、彼女も相当悩んだに違いない。宅間死刑囚の場合も相手の女性はクリスチャンだったが、大倉さんもそうだ。このあたりは理解できない人も多いだろうが、宗教の力は大きいということかもしれない。でも大倉さんは子どももいる一般の市民だ。子どもたちにしてみれば、ある日突然、死刑囚が自分たちの「家族」になったわけだから、簡単ことではないだろう。

確定死刑囚にとって、外界との接触の機会が閉ざされることを回避するためにそういう手段にまで踏み込むというのにはいろいろな意味がある。ひとつはもちろん、刑執行まで死の恐怖と向き合う日々を送るうえで、話し相手がいるというのは大きな支えになるということだ。そして、もうひとつは、自分がどんな死を迎えるかという究極の問題に関してだ。

抵抗できない幼い子どもたちを小学校に押し入って無差別殺傷するという極悪非道な犯罪を犯し「鬼畜」と非難された宅間死刑囚は、獄中結婚した女性に、最後の頼みとして「遺体のまま外に出してほしい」と話していた。死刑囚の大半は家族とも離縁状態になり身寄りもないまま死んでいくので、拘置所側が火葬してしまうケースが多い。宅間死刑囚は、最後は人間として死にたいと希望し、遺体のまま車で搬出され、葬儀が行われたのだった。理不尽に子どもたちを殺された事件の被害者遺族からすれば、許せないことだろうが、死ぬことを覚悟して事件を起こした宅間死刑囚にとっても、いざ自分の死に直面すると、人間として死にたいという希望が生じたわけだ。

ちなみに私が12年間つきあった宮崎死刑囚の場合は、執行の翌朝、彼の母親から「長い間お世話になりました」と電話がかかってきた。突然の死刑執行は私にとっても自分の親が死んだ時と同じくらいの衝撃だったが、その時に彼の母親に「せめて線香くらいあげさせてほしい」と頼んだ。一瞬、母親は戸惑ったようだったが、「全部向こうにお任せしましたから」と言った。宮崎死刑囚も東京拘置所で火葬されたのだった。

前述した連続殺人事件の死刑囚と養子縁組した大倉さんがこの4月に接見した時に、突然話を切り出され、一瞬絶句したのが、執行があった時に遺体遺骨をどうするかという相談だった。我々はいつ自分の死に直面するかわからないからある程度の覚悟はしておかなければいけないのだが、死刑囚にとってそれはもっと身近な出来事だ。拘置所側としては、執行の後、遺体をどうするかについては、あらかじめ死刑囚本人の意思を確認しておく必要がある。どうやらその死刑囚も、4月に拘置所の所長が替わったのを機にそれを確認されたらしい。大倉さんはその時のことを「私にも心の準備ができておらず大変動揺しました」と語っていた。『創』にその話が掲載されたのは7月号だが、実は4月のその接見のあった日に彼女から、大きなショックを受けたというメールをもらっていた。死刑囚と養子縁組をするというのは、結局、相手が執行された時に自分はどうするのか、という人間として重たい課題をつきつけられることなのだ。

 

さて、恐らく1218日に最高裁で弁論が開かれると聞いた瞬間に、秋葉原事件の加藤被告も、その意味するところを理解したに違いない。彼は2審から法廷にも姿を見せずに、自分の死も覚悟しているようだし、弁護人以外は家族を含めいっさい外部との接触を断っているようだから、もう自分の運命は受け入れているのだろう。

だからブログで二度にわたって彼のメッセージを掲載した時には、まだ加藤被告に社会とのつながりを意識する気持ちが残っていたのを知って逆に驚いた。あれだけの事件を起こしたのだから、死をもって償う覚悟はできているはずだが、12月の弁論そして死刑判決確定という日が近づいたことを、彼はどんなふうに受け止めているのだろうか。

彼がこのブログに寄せた2回目のメッセージは、1回目の時ほど大きな反響を呼ばなかったのだが、刑が確定して社会に言葉を発する権利を失う前に、ぜひもう一度、彼の思いを聞いてみたいと思う。

 

 

 

1117日、参院議員会館で弁護士の海渡雄一さんらが会見、12日に出された朝日新聞社「報道と人権委員会(PRC)」見解に対する批判を表明した。この見解は、福島原発事故をめぐる「吉田調書」に関する朝日新聞の5月20日付の報道について検証したものだ。海渡弁護士の批判内容については後述するが、1113日付朝日新聞に全文公開された見解について少し説明しよう。

 いうまでもなく9月11日の朝日新聞社長らの謝罪会見で、誤報であり記事を取り消すべきと言明された吉田調書報道だが、そもそもは封印されていた吉田調書を独自入手したスクープとして朝日新聞自身が新聞協会賞にノミネートしていたものだ。それが一転、誤報と断罪され、社長会見でいきなり、記事を書いた記者の処分まで公表されてしまった。

 その後、社の内外から、あの記事は本当に取り消すべきものなのか、という批判が起き、大きな議論になりつつあった。12日に出されたPRCの見解は、聞き取り調査によって得られた朝日社内の記事をめぐる経緯などについて詳しく書いていて、それは大変興味深いものだったが、がっかりしたのは、結論が「記事取り消しは妥当」などと、会社の方針の単なる追認に終わってしまっていることだ。これではむしろ、記者を処分するという会社側にお墨付きを与えたようなものだろう。謝罪会見以降の議論はいったい何だったのかといささか失望せざるをえない。

 ただそれは当初から危惧されていた。『創』11月号で、PRC元委員の原寿雄さんがこう語っている。「そもそもPRCは第三者機関と言われているけれど、司会をするのは3人の委員の中の1人ではないんです。僕らの時は局デスククラスが司会をやっていました。そうすると、朝日の社の意図・意思に基づいて進行がリードされるわけです」。

 もともとは報道被害を訴える人の申し入れを受けて3人の委員が検証を行う委員会だから、3人のうちにジャーナリストが1人で他の2人はいわゆる識者という構成も本来はおかしくないのだが、今回は朝日新聞社の会社側の申し出で行うのだから、そもそもこのPRCによる検証でよいのかという疑問は当初から指摘されていた。社長が最初に「記事取り消し」「記者の処分」という結論を会見で発表してしまったものを、この委員会でひっくり返すことなどありえないように見えたからだ。そして案の定、会社の方針を追認する見解が出されたのだった。

この間、この朝日側の認定については、多くの論点から批判がなされてきたのだが、きょうの会見で表明されたのは、原発問題ないし原発事故の問題について以前から取り組んできた海渡弁護士ならではの内容で、なかなか興味深い。

 見解全文をどこかのHPにアップするならリンクを張ろうと思ったのだが、今のところアップされてないようなので、以下に主要部分を紹介することにする。朝日のPRCの見解全文は朝日側のサイトで読めるので、ぜひ読み比べていただきたい。

 

===1112朝日新聞社・報道と人権委員会見解によせて===

 

'''原発事故情報公開弁護団   弁護士 海渡雄一'''

 

第1 前提問題

1 東電撤退問題の本質

 ウクライナではチェルノブイリ原発事故の収束作業で命を喪った消防士たちを悼む碑をみることができる。社会全体で、原発事故の危機の中で、命を捨てて市民を守った作業員に対する感謝の気持ちが表現されている。福島第一原発事故を引き起こした東京電力の経営幹部の法的責任は徹底的に追及しなければならないが、命がけで事故への対応に当たった下請けを含む原発従業員に対しては、社会全体で深く感謝するべきである。

 私は、そのような思いで、原発労働者弁護団を組織し、福島第一原発の収束のための労働に従事している労働者を代理して、不必要な被曝を強いられた従業員の慰謝料請求の裁判や今も引き続いている危険手当のピンハネに対して東電と下請け会社各社の責任を問う裁判などを担当している。

 多くの東京電力社員や関連企業の社員の生命の危機に際して、企業のトップとして社員の命と安全を考えたことは責められないかもしれない。原発事故災害の拡大を防ぐために労働者の命まで犠牲にしなければならない、原子力技術のもつ究極の非人間性が浮かび上がってくる。深刻な原発事故が生じて、これに対する対処作業が極めて危険なものとなったとき、このような労働は誰によって担われるべきなのだろうか。東京電力などの作業員の撤退という事態は、作業員の生命と健康を守るための措置であった。しかし、もし作業員の大半がいなくなり、事故対応ができなくなれば、その結果は多くの市民に深刻な被害をもたらしうる。

 13日に追加公開された調書の中に、東電の下請けの南明興産社員の調書が存在する。この社員は15日の朝に2Fに避難しているが、その後4号機で火災が発生し、「あなたたちの仕事なんで戻って下さい」と東電社員から言われたが、上司が「安全が確保できない」として、この依頼を断り、柏崎に向かったと証言している。まさしく、火事が起きても、これを消しに行く者がいない深刻な状況が発生していたのである。

 朝日新聞の吉田調書報道は、このような15日の朝の事故現場の衝撃的な混乱状況を「所長の命令違反の撤退」と表現した。事故対応作業を停滞させる異常な混乱が生じていたことは事実であり、個々の作業員に指示が届いていなかった場合があったとしても、本稿で客観的な証拠とも照らし合わせて論証するように、所長の指示命令に明確に反した事態が生じていたことは事実なのである。

 取り消された朝日新聞の記事は、「吉田調書が残した教訓は、過酷事故のもとでは原子炉を制御する電力会社の社員が現場からいなくなる事態が十分に起こりうるということだ。その時、誰が対処するのか。当事者ではない消防や自衛隊か。特殊部隊を創設するのか。それとも米国に頼るのか。現実を直視した議論はほとんど行われていない」とその末尾で述べている。

 この記事の指摘は極めて重要であり、吉田調書が社会に突きつけている課題である。そして、今回の記事取消によって、このような重要な指摘・問題提起までを葬り去るようなことは、決してあってはならないことである。そのような観点から、このPRC見解の問題点を掘り下げてみることとする。

 

2 PRC見解の内容

 11月12日、朝日新聞社の第三者機関「報道と人権委員会(PRC)」は、東京電力福島第一原発対応の現場責任者であった吉田昌郎所長が政府事故調査・検証委員会に答えた「吉田調書」についての朝日新聞5月20日付朝刊「命令違反で撤退」との記事を朝日新聞社が9月11日に取り消した件について、「報道内容に重大な誤りがあった」として記事取り消しを「妥当」と結論づける報告を出した。

 PRCは1面記事「所長命令に違反 原発撤退」について、1所長命令に違反したと評価できる事実はなく、裏付け取材もなされていない、2撤退という言葉が通常意味する行動もなく、「命令違反」に「撤退」を重ねた見出しは否定的印象を強めている、とした。2面記事「葬られた命令違反」についても「吉田氏の判断に関するストーリー仕立ての記述は、取材記者の推測にすぎず、吉田氏が述べている内容と相違している」と指摘した。

 この報告報道に接した多くの人は、9月11日の社長謝罪会見に続き、朝日新聞が極めて重大な誤報を行ったと信じたものと思われる。

 しかし、私は、吉田調書などの公開を求め、情報公開訴訟を提起してきた原発事故情報公開弁護団の一員として、このPRC見解については以下のとおり重大な疑問を提起せざるをえない。そして、膨大な量のPRCの報告内容を読み込んでも、以上のような結論に至った明確な論拠を見いだすことは困難であった。PRCは取材記者に対しては事実と推測を峻別せよといいつつ、客観的に事実を確定できない経緯について推測の積み重ねにもとづいて論旨を組み立て、吉田調書報道を論難しているにすぎないように見える。

 この問題をめぐって、私は雑誌「世界」11月号において、「日本はあの時破滅の淵に瀕していた」と題する論考を発表したが、今回PRCの報告を読み、ここに引用されている後記の原資料にも当たって確認した結果、朝日新聞の当初の「命令違反による撤退」とする報道の方が正確なものであって誤報とされるようなものではなく、記事全体を取り消した朝日新聞の判断は誤りで、これを追認したPRC見解こそが誤報であると確信するに至った。その理由を以下に詳述する。

 朝日新聞社とPRCは、3月15日の福島第一原発の真実が何であったかを解明できておらず、真相をあいまいなままにして記事全体を取り消すことは、明らかに行き過ぎである。行われるべきであった作業は、続報記事をまとめ、一歩ずつ真実に近づこうとする努力を継続することだったはずである。事実の評価とその表現方法を理由として記事全体を取消すことは、調査報道に当たる記者を著しく萎縮させ、報道機関の取材報道の自由を損なうものであることをここで改めて強調しておきたい。

 

3 未解明の謎の究明こそジャーナリズムの責任

 このPRC見解について、論評する際に、最初に確認しておくべきことは、3月15日の福島第一原発において、どのような事態が発生していたかについては、未だ解明されていない謎が多数存在するということである。

 たとえば、

○清水社長が発言していた最終避難と吉田所長が午前6時42分に指示した福島第一原発構内での待避とは、どのような関係なのか。同じなのか、異なるのか。両者はどのように交錯しているのか。

○小森常務がテレビ会議で発言していた退避基準は作成されたのか。そこでは、どの部署の何人の要員を残すこととなっていたのか。

○緊急事故対策本部の要員は400名とされているが、この原子炉のコントロールのためには、どれだけ要員が必要だったのか。現実に残った69人の人員で十分な作業ができたのか。

○吉田所長ら69名が福島第一原発に残ったが、何をしていたのか。2号機では午前7時20分から午前11時20分までパラメータの計測をしない「空白の4時間」が発生し、この間に火災など深刻な事態が次々と発生した。

 

 このように、真相はなお不明といわざるを得ない。今回の見解は、この謎を明らかにしようとしたものではなく、むしろ謎に挑んだジャーナリストの言葉尻を捉えて、矛先を鈍らせ、結局のところ真実にふたをしようとする者に手を貸したといわざるをえない。

 まず、私は、真実にたどり着いていない者に、真実を明らかにしようとする者を批判する資格はあるのかと問いたい。

 

4~7(略)

第3 なぜ、吉田所長は1F内待機を命じたのか

1 PRCの分析

 PRC見解は吉田所長による1F内待機の指示の存在を認めながら、以下のような点から、実質的には、「命令」と評することができるまでの指示があったと認めることはできず、所員らの9割が第二原発に移動したことをとらえて「命令違反」と言うことはできないとしている。

しかし、吉田所長による1F所内待機の指示は、テレビ会議を通じて発せられている。当時の社内の指示はすべてこのシステムを通じて、緊急時対策本部長席に座って発話する方法でなされていたのであるから、この記録に指示が記録されていることをもって、このような指示命令が存在したことの証拠は十分である。さらに、前述したように、これを明らかに裏付ける、東電記者会見のプレスリリースと、保安院宛のFAX追加の指示などが存在していたことが明らかになった。指示命令は明確であり、指示があいまいであるとするPRC見解には根拠がない。

 

2 PRCが無視した吉田調書の記載(略)

 

3 2F退避の指示が途中で変更されたことは下請けの作業員の調書でも裏付けられる

 2Fへの退避という方針は確立されたものではなかった。この日、本店で午前6時頃に演説をした菅首相の「撤退はあり得ない」という演説がなんらかの形で、この方針の動揺に影響した可能性もある。

 このことは、今回新たに公開された東電下請けの南明興産社員の陳述書からも裏付けられる。該当箇所を、以下に掲げる。(略)

この調書では、14日の深夜に菅首相の演説があったことになり、客観的な事実とは完全に符合はしないが、いったん決められた2F退避の方針が官邸の意向で中止となり、その後、2号機の爆発(実際には4号機であった)によって、再度退避することとなった状況が説明されている。下請け社員の受けた印象の記録として貴重なものである。

 

4 所内に線量の低い箇所はあったのか

 PRC見解の中で技術的に疑問な点は、福島第一原発構内には免震重要棟内より線量の低い箇所などはなく、所内待機の指示には合理性がないとしている点である。PRCは所員が6時42分の時点では、すでに免震重要棟の外にいるという事実を見落としているのではないか。柏崎刈羽メモに記載されている各地点の放射線量を比較すれば、このような主張には全く根拠がない。

 PRCの見解によれば、午前6時42分に発せられた吉田所長の「構内の線量の 低いエリアで退避すること。その後本部で異常でないことを確認できたら戻ってきてもらう」との指示(5月20日付朝刊報道は命令と表現)があったとき、「すでに第二原発への退避行動が進行している最中」だった。だとすれば、所員は全員でないにしても免震重要棟の外に出ている、あるいは外に用意されているバスに乗車していると考えるのが相当である。これは、PRCの見解によらなくとも、柏崎刈羽メモには午前6時27分に「退避の際の手順を説明」とある。東電が開示したテレビ会議の映像を見ても午前6時30分ごろから人の移動があわただしくなっていることが確認できる。福島第二原発に向けた退避行動がいったん起き、所員が免震重要棟から外に出始めているのは事実であろう。

 そこで、各場所の放射線量をみると、柏崎刈羽メモの記述では、免震重要棟内の放射線量は15〜20μSvh(6時29分)と外部より低い値が報告されている。しかし、免震重要棟の周り、すなわち所員が全員と言わないが存在している場所の放射線量は5mSv(5000μSv)h(7時14分)と記述されている。そこに12分居るだけで一般の人の年間許容線量1mSvに達してしまうほどの高い線量である。したがって、所員を免震重要棟に安全に戻すこと自体が難しくなっていた。ただちに、別の場所に移動させる必要があったのである。

一方、例えば福島第一原発正門付近の放射線量は当時131.5μSvh〜882.7μSvhと柏崎刈羽メモには記録されている。所員が居る免震重要棟周辺の38分の1〜5分の1と低いエリアが存在している。所内の線量はバラバラであり、免震重要棟からでている作業員にとっては、極めて線量の高い免震重要棟付近より、線量が大幅に低い場所もあったのである。このような場所への移動の指示は合理的なものであるといえる。

 福島第一原発の敷地は東西方向より南北方向の方が長い。正門は1〜4号機のほぼ真西にあり、敷地の北端や南端に比べて近い位置にある。吉田所長は調書の中で「免震重要棟はその近くですから、ここから外れて、南側でも北側でも、線量が落ち着いているところで一回退避してくれというつもりで言った」と述べている。正門付近は、所員が現に居る免震重要棟の周辺より「比較的線量の低い」ところであり、南北に長い敷地、あるいは風向きを考えると、この正門付近よりさらに「比較的線量の低い」ところが存在していたともごく自然に考えられるのである。

 PRCは吉田所長の午前6時42分の待機指示が発出された時に所員の居た場所について、正確な理解を欠いていると言わざるを得ない。所員の多くがまだ免震重要棟にいるかのように誤解し、放射線量の比較に免震重要棟を基準としている。しかし、このような間違った前提から導き出された「所員が第二原発への退避をも含む命令と理解することが自然であった」「実質的には『命令』と表することができるまでの指示があったと認めることはできず、所員らの9割が第二原発に移動したことをとらえて『命令違反』と言うことはできない」などという総括はまさに誤った前提に基づく推測であると言わざるを得ない。

 

5 PRCが見解の基礎とした吉田証言には客観的裏付けが欠けている

 吉田所長がいったんは格納容器の爆発の危機を想定したのは事実である。しかし、「その後は一貫して、格納容器の爆発を疑って、所員を退避させたと語っている」と断定する論拠をPRCはいったいどこに求めているのか。この柏崎刈羽メモによれば、時間が経つにつれて、格納容器の爆発の可能性があるかどうかを冷静に判断し、2Fに移動するのではなく、1F構内での待機へと判断をシフトさせた根拠となる記載が散見できる。

 たとえば、午前630分には、吉田所長は「一旦退避してからパラメーターを確認する」としている。また午前6時42分の指示よりは少しあとになるが、午前7時6分の「1F-4  原子炉建屋の屋根に穴があいている、破片が下に落ちている」などの記載も、重要である。当初から、吉田所長は格納容器の爆発までは起きていない可能性があると考え、まだ残留できると考えて、指示内容を変更したと推測する根拠となりうる。そのことが、徐々に裏付けられて行っている過程と言えるだろう。

 PRCは「以上からすれば、2面における吉田氏の判断過程に関する記述は、吉田氏の『第一原発の所内かその近辺にとどまれ』という『命令』から逆算した記者の推測にとどまるものと考えられる」と結論づけている。しかし、柏崎刈羽メモという客観的資料を元に証言の裏付けをしているのは当初の朝日新聞の吉田調書報道の方であり、資料の裏付けのない証言をそのまま引いているPRC見解こそ、「推測にとどまるもの」といわざるをえない。

 

第4 結論

 以上のとおりであって、吉田所長の1F構内待機指示は、柏崎刈羽メモに明確に記載されていたし、15日朝8時30分の東電本店記者会見で配布された資料にも明記されていた。そして、東電は、この会見時には、650名の2Fへの移動の事実が判明していたにもかかわらず、この事実を明らかにせず、退避した社員は1F近くに待機していると発表していた。650名の2Fへの移動は所長の指示命令に明らかに反しており、だからこそ、東電は記者会見においてこの事実を隠蔽したのだと考えられる。

 吉田所長の1F内待機の指示の存在を認めながら、この指示があいまいなものであったかのように分析するPRC見解は、これらの客観的資料やこれと符合する吉田調書をあえて無視し、推測にもとづいて議論を組み立てている。事実と推測を混同しているのは吉田調書報道ではなく、このPRC見解の方である。

 真実にたどり着いていない者に、真実を明らかにしようとする者を批判する資格はない。

 朝日新聞社も含めて、すべてのジャーナリストには、3月15日朝の福島第一原発の真実を明らかにするという責任が残されている。

 今年の3月、朝日新聞が「やらせがあった」と告発し、上映中止に追い込まれた映画「ガレキとラジオ」の再開後初の上映会が11月9日、秋葉原で行われたので足を運んだ。岩井俊二監督らが運営している「ロックの会」が主催で、上映後のトークイベントには東ちづるさんや、宮本亜門さん、岩井監督らそうそうたるメンバーが顔を見せた。
 そもそも新聞が「やらせ」と告発したのは、準主役とも言える高齢の女性が、南三陸の避難所生活で本当はラジオが聞こえないのに「FMみなさん」という災害FM放送を聞いていたかのように描かれている、というものだった。しかも、やらせをさせられた女性が悩み苦しんでいる、という読んだ人の情緒に訴える記事だったために、大きな反響を呼んだ。 
 ところがその後、当の女性がそういう事実はないと朝日新聞に抗議。事態は予想外の展開をたどったのだった。その騒動の経緯については月刊『創』8月号に書いた記事をヤフーニュース雑誌で公開しているのでご覧いただきたい(下記をクリック)。

 [http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20140825-00010000-tsukuru-soci 映画「ガレキとラジオ」「やらせ」騒動の顛末]


 さて、その騒動について取材していた段階では、私は映画「ガレキとラジオ」を見ていなかった。騒動勃発後は映画を封印するという決定がなされたために、関係者に見せてもらうこともできなかったのだ。当時「やらせと演出」の線引きはどこなのかという議論になったその騒動でコメントした識者もほとんどが映画自体を見ていなかったと思う。聞こえない避難所でラジオを聞いているかのように演出がなされていた、と聞いたら、誰だってそれはドキュメンタリーではあってはならないことだ、と答えるに違いない。しかし、今回、映画を見て、問題はそう単純でないことを思い知った。
 ちなみに、今回再上映された映画は、問題になったシーンを削除し、新たに撮り直したシーンを加えているために「ガレキとラジオ2014」という、前作とは別のタイトルになっている。そんなふうに問題を指摘された表現を削除して済ませてしまうという対応に、私はもちろん不満はあるのでが、それ以上に実際に映画を見て、多くの発見があった。そして、この議論は、きちんと作品を見てからやらないといけないと感じた。
 この映画は、全編を震災で亡くなった「死者」が語るという設定でなされている。その死者のナレーションを役所さんが行っているのだが、これがすごい。役所さんの語りもすばらしいが、ナレーションの内容もすごいのだ。
 11月9日のトークイベントで、宮本亜門さんが、それについて監督に訊いていた。「ドキュメンタリー映画と思って見にいたら、いきなりファンタジーで幕をあけたので驚いた」というのだ。監督はそれに対して、震災で家族を亡くした人たちにとっては、まだ身元不明者も多いし、死者とともに生きているというのが実感だ。だから死者とともに生きるという設定がリアリティをもっているのだ、と説明した。つまりこの映画は、従来のようなドキュメンタリー映画とも、震災を描いたドラマとも、どちらとも違うものなのだ。
 だから本当は、3月に「やらせ」が議論された時に、この映画のそういう特性を含めて語られなければならなかったのだと思う。それを含めて、ドキュメンタリー映画における演出や表現について議論されるべきだったのだ。
 この映画をめぐる話については、もう少し取材して、次号の『創』に記事を書きたいと思っている。9日のトークイベントには、映画に出演していた女性・平形さんも登壇し、前の取材では電話で話しただけだった私はイベント終了後、初めて直接話をした。ちなみに前述した朝日新聞に抗議したという高齢の星さんは、震災の津波で子供と孫が行方不明となり、いまだに避難所で暮らしながらその家族を探している。震災は東京にいると風化しつつあると感じるが、被災者たちにとってはまだ終わっていない。そういう深刻な現実を、笑いとペーソスに包んで描いているのが「ガレキとラジオ」だ。
 これから各地で自主上映が始まるので、ぜひ多くの人に見てほしいと思う。震災を描いた映画としてなかなかよくできた作品だ。そして2人の監督がチャレンジした映画の手法についても、見てからおおいに議論してほしいと思う

 柳美里さんとの件については決着がついた。1030日付で「覚え書き」を交わし、そこで確定された金額を11月4日に振り込み、柳さんがブログで「土壇場で篠田さんが示してくれた誠意に感謝します」と書き込んでくれた。お騒がせしたことを改めてお詫びするとともに、詳しい経緯を書いておこう。柳さんはいまだに、当初の話では原稿料が1枚2万円だったと書いており、当方はそれはありえないと主張し、そういう点では平行線なのだが、その応酬をやっていても仕方ないので、それぞれの主張は入れずに、合意できる金額で合意したのが「覚え書き」だ。

11月1日に「柳美里さんとの対立を煽る捏造記事について」という説明をこのブログにアップしたが、ここで非難した業界紙は、以下のような謝罪訂正を関係各所に送付してくれた。

1031日発行の『メディアクリティーク』における「月刊『創』誌の柳美里氏への原稿料不払い問題 出版不況がもたらしたもう一つの側面~篠田博之編集長に聞く~」(田辺英彦)と題する記事について間違いがありました。》

《記事中における、「柳さんも参加されましたが、」の部分は、篠田氏の原稿チェック後に担当記者の田辺英彦が事実を誤解して勝手に書き加えたものでした。2012年6月の『創出版30周年記念&ジャーナリズムを語る会』に、柳さんは出席していません。また、篠田氏も「柳さんも参加されました」という発言はしておりません。この誤報をもとにして柳さんがブログを書かれるなどの波紋を引き起こしてしまいました。ここに、誤報であったことをお知らせして訂正し、篠田博之さん、柳美里さん、読者のみなさまにお詫びいたします。株式会社 出版人》

 

 確認済のコメントに勝手に手を加えるというひどいことをやったので「捏造記事」と強く非難したが、この「出版人」も誤報訂正に尽力し、誠意を示したと思う。今回、ネットに書かれた情報は事実と違うものがかなりあるのだが、この「メディアクリティーク」は、編集部まで取材に訪れ、事実関係を確認しようとしたという点では評価できる。他のひどい記事を書いているところは、事実確認さえしていないのがほとんどだ。

例えば前述の原稿料1枚2万円云々については、「メディアクリティーク」の質問にこう説明した。1027日時点での説明だ。

《――柳美里さんは22日付けのブログで未払額を、依頼当初の条件だった400字詰め原稿用紙1枚2万円で計算すると、対談のギャラや印税を含めて11368078円、『創』の標準的な原稿料である1枚4000円で計算すると、同様に1746500円と算出していましたが、いくらの金額で納得したのですか?

「1枚2万円という話はしていません。『創』は当時、400字原稿1枚4000円を基準にしており、コラムはほとんど4ページなのですが、当時はどの方にも謝礼は5万円なんです。柳さんのコラムは、彼女を応援するというつもりで始めたので、負担にならないように、写真を入れるので原稿は短くても構いませんとお伝えしました。実際、連載開始当初は、ページの半分以上を彼女がブログにアップした写真や画像で構成していました。カラーグラビアのページなので写真中心でよいと思ったのです。ですから本文ページの連載コラムの執筆者の方たちには4ページだと原稿用紙10枚分を書いていただいているのですが、柳さんの場合は、原稿の分量は最初は2枚か3枚くらいだったと思います。今思うと、そこから、原稿400字1枚分が2万円、というふうに思われたのかもしれません。

 原稿の分量については、柳さんから届くのは号によってまちまちで、時には十数ページ分送られてくることもありました。そういう場合、せっかく書かれたのだから何とかして掲載しようと、校了直前に全部の台割を変え、グラビアから本文ページに移して十数ページを確保したりしてきました。今回、合意に時間がかかったのは、そういうケースについてどう考えるのかという問題があったからです。》

  こういう話を続けてもほとんど生産的でないのだが、この点についても他の媒体が事実確認さえせずに書いているので、あえて紹介した。創出版がいま、私と経理の2人しかいないとか、デマを平気で書き散らしているところもあるが、法的措置については弁護士と協議中だ。

今回の騒動の経緯と背景については11月7日発売の『創』12月号に書いた。それを、ほぼそのままここにアップすることにする(一部言葉を補った箇所もある)。

  《作家の柳美里さんの連載終了をめぐって、1015日夜に彼女がご自身のブログに書いた内容が大きな反響を呼び、騒動になった。そうなった一番の原因は、編集部の対応がまずかったためだ。柳さんに改めてお詫びするとともに、経過を説明しておこう。

 柳さんの連載終了の意向を伝えるメールが届いたのは9月1日のことだった。3・11以降、厳しい状況が続き、特にこの半年ほどはこれまでになかったほど生活が大変だといった事情が書かれていた。本誌の原稿料支払いが遅れており、連載は続けられないとのことだった。申し訳ないという思いで大きなショックを受けた。とりあえず連載終了についてはわかりましたという返信をした。そこで終了へ向けた話しあいをすぐに進めていれば今回のように問題がこじれることはなかったと思う。

 柳さんには7年間も連載を続けていただいていたし、おつきあいが始まったのは1997年のサイン会脅迫事件だった。連載をお願いしている間も、彼女のサイン会やトークライブに足を運んだり、本誌編集部を外部からの連絡先に使っていただくなど、関係は悪くなかった。7年前に連載をお願いしたのも、応援したいという気持ちからだった。

 だから連載終了についても一度話しあいをしたうえでと考えたのだが、9月中はなかなか時間がとれなかった。「黒子のバスケ」脅迫犯の渡邊博史受刑者が9月29日の誕生日に控訴を取り下げるまでに彼の本を出さなければならなかったり、やらなければならないことが山積していたからだ。10月になってこちらから提案を含めて話しあいをし、そのうえで手続きをと考えた。

 そうやって曖昧なまま1カ月がたってしまったことが状況を悪くした。その間、11月号の締切があったのだが、私としては連載終了については話しあいをしたうえでもう1号先の号で説明しようと思ったので、何の説明も誌面でしなかった。これが柳さんをひどく傷つけたようだ。11月号でそうするのなら、柳さんと相談すべきだったと反省するしかない。

 柳さんは11月号を見て、連載終了について何の説明もなかったことに怒ったようだ。そして、突然、ブログに本誌への批判を書き込んだ。実は柳さんなりに11月号で連載終了のお知らせとともに読者への説明も考えていたらしい。読者を大切にしたいと考えている柳さんなら当然のことで、今回1016日のメールでそのことを知らされ、申し訳ないという思いでいっぱいになった。私もそれを知ったら必ず対応したはずだが、思いを馳せることができなかったのは、編集者として至らなかったと反省するしかない。柳さんとの今回の問題は、編集者として迅速な対応ができなかったという、それが一番大きな理由だったのだと思う。

  2年前、創出版30周年記念パーティーを行ったのだが、その頃から会社の業績が悪化し、制作にかかる費用がまかなえなくなった。一番大きな理由は、弊社の経営を支えていた『マスコミ就職読本』関連の売上が、就職戦線の情報源がネットへシフトしたことで激減したことだ。情報収集のツールがネットに移るとともに「情報は無料だ」という文化ができあがり、就職情報に受け手が対価を払うという文化がほとんどなくなった。『マス読』も情報発信をネットでも行うようにしたが、そのメールマガジンは無料だから、収益にはならなかった。

 『創』自体は固定読者の比率が高いのでそう大きな落ち込みではなかったのだが、もともと雑誌自体は赤字で、それを他の収益で補ってきたのだった。会社全体の売り上げが何年かの間に半減してしまうほど急激に状況が悪化したために、迅速な対応ができなかった。

 『創』を休刊させることも考えたが、がんばって続けてほしいという声も多く、執筆者からも『創』を支えようという提案があった。そこでその時期、連載執筆者の方々に、支払いを待っていただいたり、あるいは原稿料を会社への出資へ回していただくことをお願いした。支払いが遅れていた100万円以上の原稿料を出資に回してくださった方も何人もいるし、支払いは『創』に余裕ができてからでよいとわざわざ言ってきてくださった方もいた。連載執筆陣以外でカンパや出資をしてくれた方を含めると出資者は約50人にのぼり、金額は約1千万円に達した(未払い分を出資金に回すというケースも含むから現金がこれだけ集まったということではない)。

 ただそのあたりは執筆者の方たちの事情もあるし、考え方もいろいろあり、一律にどうこうとすべき話ではない。柳さんを含め、出資のお願いをしていない方もいるし、実際、柳さんへの支払いは何とかしようと思っていた。ところが出版不況は悪化の一途をたどるばかりで、この2~3年、環境の悪化は底なしの落ち込みといった状況だった。

 この夏、今までにないほど柳さんたちの生活が厳しいと聞かされた。3・11以降、柳さんは福島へ通ってコミュニティFMの仕事を始めたりと、大変な仕事をしていたので、生活にもいろいろな影響が出たのだと思う。私は「何とかします」と答え、本当に何とかしようと思ったのだが、8月9月は、こちらも本当に厳しく、対応ができなかった。

 今回、ふと思い出したのは三浦和義さんが2008年、突然、サイパンでアメリカの当局に身柄を拘束された時のことだった。三浦さんとは1984年のいわゆるロス疑惑事件で彼が逮捕された後、本誌に連載をお願いしてからのつきあいだから20年以上に及ぶ友人だった。

 サイパンでの逮捕からすぐに連絡がとれ、たぶん弁護士費用にあてるためだろう、独占手記をお願いしたいとのオファーを承諾し、原稿料として50万円を用意してほしいと提案された。今回、その話を思い出したのは、当時はまだそのくらいのお金をすぐに用意できるくらいの余裕はあった、わずか6年前はまだそうだったと思い至ったからだ。

 ちなみに三浦さんは周知の通り、同年10月、ロスへ移送され、房内で自殺してしまう。面会にサイパンへ行こうと思いながら忙しくてかなわず、そうするうちに自殺というその結末に愕然とするとともに、十分な支援ができなかったことを激しく後悔した。

 だから柳さんを応援するつもりで始めた連載で逆に迷惑をかけることになっている状況についても、申し訳ないとしか言いようがなかった。

 柳さんのブログは影響力が大きいし、今回の話も当方が十分な説明をする機会もないままネットで様々に増幅された。『創』誌面ではこれまでも厳しい状況については説明していたし、『創』を知っている人ならある程度の理解はしてくれたと思うが、ネットでの拡散というのはそういう状況を飛び越える事態を作り出した。

 幸い、他の連載執筆の方々は、12月号の原稿はいつも通りに送ってきてくれたし、激励してくれる人も少なくなかった。原稿料が払えない状況を良いとは思っていないが、『創』ががんばって続けているのだから、もう少し様子を見ようということだろう。 

  かつて2030年ほど前、インディペンデント系の雑誌が林立した時代があって、それが言論の多様性を確保するのに貢献していた。だが、個人で雑誌を支えていくことが可能だった時代は終わりつつあるのかもしれない。私は、もう10年以上も会社から報酬を得ていないし、赤字を補填するために逆に数千万円を投入している。今や大手出版社でも雑誌を維持するのは難しい時代だから、個人の力で雑誌を支えるというのは限界があるのは明らかだった。

 それでも、この何年か無理をしてでも続けようと思ったのは、大手出版社が総合誌やジャーナリズム系の雑誌を次々と休刊させたのを見てきたからだ。もともとジャーナリズム系の雑誌は収益をあげるのが難しいから、ビジネスを考えれば雑誌をやめてしまうのもわからないではなかった。

 ただ、2008年に講談社が月刊『現代』を休刊させた時、ノンフィクション系のライターやジャーナリストたちから、大きな懸念の声があがった。このままではノンフィクションというジャンルが壊滅してしまう、それでよいのかという危惧の表明だった。総合誌の雄である『文藝春秋』も、かつてのように大事件が起きた時に、総力取材でノンフィクションレポートを掲載するという編集方針をとらなくなっていた。コストがかかる割に部数につながらないからだ。

 もちろん『創』がそれらに代わって、などと大それたことを言うわけではない。ただ、そうやって大手出版社が次々とジャーナリズム系の雑誌を休刊させてしまうのを批判してきたから、利益が出ないからとすぐにやめるわけにはいかないと思った。画一化を強めるマスメディアの状況の中で、異論や少数意見の発表の場を確保し、言論の多様性を保証すべきことを訴えてきたのが『創』だったからだ。

 昨年来の「黒子のバスケ」脅迫事件でも、渡邊博史受刑者は、大手マスコミを通じて自分の意見を世間に表明するのは困難と思い、『創』に接触してきた。また、この間の朝日新聞バッシングをめぐっても、週刊誌のほとんどが嫌韓から朝日叩きへと一色に染まっていく流れを見て、それを批判するキャンペーンを行っている。

 ご迷惑をおかけしている方々にはそういう思いを訴えて、可能であれば猶予をいただけないかとお願いしてきたのだが、ただ今は出版社だけでなく書き手も大変な状況だ。柳さんがご自身の生活も大変ななかでこれ以上続けるのは無理、と言われるのは当然だと思う。

 今回の事件で出版をめぐる深刻な状況を改めて認識させられた。「志」といったことだけで対応できる時代は終わり、現実的に何とかしないと出版社も書き手も書店も共倒れしてしまう。今はそういう時代なのだと思う。本誌もいろいろな対応を手探りで試みており、努力はしているのだが、出版環境の悪化は、予想を超えるペースで進んでいる。

 『創』は私が会社をたちあげてからでももう32年。その前に別の会社が発行していた時期を含めると創刊から42年になる。過去、右翼団体の猛攻撃を受けたり、厳しい局面に立たされたのは何度もあったが、今は一番厳しい時かもしれない。今回の事件では、いろいろな方にご心配をおかけし、カンパや激励もいただいた。改めてお礼を言いたい。》

  以上である。最後に、柳さんが創出版から上梓した『沈黙より軽い言葉を発するなかれ』の後書きから一部を引用しよう。

 《『創』と、篠田編集長について、少しお話したいと思います。 『創』は、主に言論や表現に関する問題を取り上げている月刊誌です。 

 特筆すべきは、殺人事件の加害者の手記や手紙などを全文掲載する、その姿勢です。 中でも、連続幼女誘拐殺人事件の宮崎勤や、奈良小1女児殺害事件の小林薫や、土浦無差別殺傷事件の金川真大の手紙は、その一語一語をつぶさに読んだ記憶があります。

 マスメディアは、人殺し、特に幼女を誘拐し殺害した者に対しては、自分たちとは地続きではない特殊な人間の所業だとして一斉に「鬼畜」「殺人鬼」「モンスター」などのレッテルを貼り、その犯行を「理解」することから遠ざけてしまいます。

 加害者の生育過程などを辿る記事もありますが、遺族や視聴者や読者の怒りや悲しみや嫌悪感や敵意に配慮あるいは同調し、加害者への糾問に先行して被害者や遺族への「心ある謝罪の言葉」を求めます。

 そして、極刑の執行によって彼らの罪は「心の闇」の中に置き去りにされるのが常ですが、彼らが遺した手紙や手記は(それがどんなに利己的で支離滅裂な内容であっても)「心の闇」を歩くための手がかりとなります。 『創』という雑誌の、加害者への「理解」に力点をおいた編集方針に、私は敬意を払っていました。

 私が『創』の篠田さんと初めてお逢いしたのは、1997年、私の芥川賞を記念するサイン会が、右翼を名乗る男からの脅迫電話によって中止になった事件の記者会見場でした。会場の最後列で何度も挙手して質問をしていた姿が強く印象に残っています。》

《篠田編集長は、最高裁が戦後初の発禁処分の判決を下した、私の処女小説『石に泳ぐ魚』事件の記者会見でも何度も質問し、『創』で大きくページを割いてくださいました。

 必ずしも、私の側に立った言説で構成されていたわけではありませんでしたが、脅迫や抗議がくるかもしれない事件を、言論や表現に関わる重大な「問題」として提起してくださったことに深く感謝しています。

 『創』の創刊は1971年ですが、同誌を発行していた会社が休刊を決め、それに納得できなかった篠田編集長らが1982年に創出版を設立し、『創』の発行を続けてきました。篠田編集長は先頃、その30年間についてまとめた『生涯編集者』という著書を上梓しました。

 私は2007年8月から『創』で「今日のできごと」というエッセイを連載しています。 今年の5月、篠田編集長から、「月刊『創』を発行するために創出版を立ち上げて、今年でちょうど30年になります。 苦労の連続で、我ながらよくここまで続いたと思わざるをえません。 ここまで続いたのは、ひとえに皆様のご協力があったからで、本当に感謝しています。 月刊総合誌が次々と休刊になっていくのを見ていて、一緒に休刊するのには何となく抵抗があって、悩みながら続けていますが、さすがにこの2~3年の大変さはこたえています」という文面のメールが届きました。

 次号を出すのが精一杯という綱渡りの状況は続き、綱渡りができなくなったら休刊ということになるのでしょうが――、『創』と、篠田博之編集長の輪郭を宿している本書が、ひとりでも多くのひとに読まれることを願ってやみません。》

 『創』についてこう書いてくれていた柳さんとの関係が、当方の対応のまずさから今回のようなことになってしまったことが残念でならない。       (月刊「創」編集長・篠田博之)

 作家・柳美里さんとのことはご迷惑をおかけして申し訳ないと思っていますし、近々詳しい説明をアップする予定ですが、その前に、あまりにもひどい状況が横行しているのでそのことを指摘します。

 1031日に柳さんがブログに「篠田さんは、嘘つきです」というタイトルで、2012年の創出版30周年記念パーティーに「柳さんも参加されましたが」と私が嘘を言っていると非難しています。「メディアクリティーク」という業界紙に載った私のコメントを見てそう思い、怒られたようです。

 指摘されて仰天しました。柳さんがパーティーに参加していないことは明らかで、そんな明白な事実について嘘を言うなどありえないからです。実は私は柳さんのブログを111日の夕方まで見ていなかったのですが、その「メディアクリティーク」を発行する「株式会社出版人」の記者が突然、訪ねてきて、あのくだりは自分が勝手に書いてしまったものだと謝罪しました。来訪前に、下記のメールも届いていました。私信を公開するのはよいことではないのですが、緊急事態で、しかも先方は代表に連絡がとれないと言っているので、事実関係の部分についてのみ引用します。

 

《創出版 篠田編集長様

柳美里さんの31日付ブログはご覧になりましたでしょうか?この責任は私の方にあります。「『創出版30周年記念&ジャーナリズムを語る会』を開催し、」のあとに「柳美里さんも参加されましたが」という一文は、校了の際に書き加えました。記事の話の流れから、創出版30周年記念の会でこうしたことがあったというのを、読者が、柳美里さんと関係ない話と捉えられないようにと考えたからです。大変申し訳ありません。柳美里さんのブログにコメント欄があれば、まず、このことを直接説明してお詫びし、篠田さんにも同様にしてお詫びしようと思いましたが、ブログにそうしたものがなかったので、篠田さんの方にご連絡した次第です。お手数をおかけしまして、また、いわれのないバッシングを引き起こしてしまい、誠に申し訳ありません。》

 

仰天したと書いたのは、実はこの記事のコメント部分は私が確認をし、不正確なところを直したものを返送していたからです。そこまで手続きしたものを編集部が再び勝手に手を入れてしまうというのは、常識としてありえないし、コメント部分が間違っていたとしても読む方は、言った人間が間違ったことを言っているととるのが普通でしょう。ちなみに私が確認して30日の1340分に送った原稿はこうなっていました。

 

2012年6月に『創出版30周年記念&ジャーナリズムを語る会』を開催しましたが、そのときに個人で雑誌を1冊支えるというのは無理なことなので、みんなで支えて続けていく方法はないかという提案があり、原稿料を出資という形に回していただいたり、いろいろなお願いをしました。だから100万円単位で出資をしてくれている方もいるし、連載陣以外でもカンパや出資をいただきました。出資者は50人くらいになっています。いろいろな人にサポートしていただいて雑誌を継続することにしたのですが、ただ、そのサポートのしかたはそれぞれ人によって違います」

ところが実際に発行された「メディアクリティーク」を見ると、「2012年6月に『創出版30周年記念&ジャーナリズムを語る会』を開催し、柳さんも参加されましたが~」となっていました。常識ではありえない「改ざん」「捏造」です。これだと、柳さんも参加していたそのパーティーで説明したはずだと私が言っているように見えます。

 

 この事例はあまりにひどすぎるので、緊急にアップしましたが、この間、同じようなひどい情報が相当流布されています。上記の「メディアクリティーク」も、記事全体としては騒動に便乗して面白おかしく書いたものと言わざるをえません。当方としては事実確認に応じるのは責務だし、正確な情報を伝えてほしいという気持ちから取材に応じたのですが、今回のやり方はひどすぎると言わざるをえません。柳さんとのことはこちらに非があるので謝罪しますし、誠意をもって対応しますが、何を書いてもよいだろうとばかりに事実と離れた事柄を書いているものについては、連休明けにも場合によっては法的措置をとらざるをえないと考えています。

 

と書いたところで、「出版人」からの正式な謝罪文が届きました。アップします。

 

先日「出版人」のインタビューをさせていただいた件について、ご迷惑をお掛けしてしまい、申し訳ございません。篠田さんの発言にもなかった「柳美里さんも参加されましたが」という、誤解に基づいた余計な文を入れてしまいました。これは、ひとえに事実誤認に基づくもので、せっかく発言をチェックしていただきながら、当方が勝手に挿入した過ちでした。このことで、篠田さま、柳美里さま、読者の方々に多大なご迷惑をおかけいたしました。この誤報についてお詫びするとともに、すみやかに読者の皆さまに訂正をお伝えし、正しい事実を理解いただくようにいたします。

出版人

特派記者・田辺英彦

編集人・今井照容