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創出版: 2014年12月アーカイブ

前回アップした記事「オウム麻原元教祖の子どもたちが語る『普通に生きたい』という希望とは」には120万というアクセスがあった。だからどうなんだと言われればそれまでだが、紙の媒体に長年関わってきた者にとっては120万というのは巨大な数字だ。故・筑紫哲也さんが昔、「テレビは作り手も把握できないくらい影響力を肥大化させつつある」という趣旨のことをよく語っていたが、いまやスマホの爆発的普及によって、ネットがそういう存在になりつつあるといえる。

 いろいろな反響もあったなかで、オウム麻原元教祖の三女からもメールが届いたので触れておこう。私信だからそのまま公開はできないのだが、前回の記事についての意見を書いたうえで、2点について訂正ないし注意を依頼するという内容だった。

 ひとつは、「松本家の子どもたち」という見出しで四女の話を紹介することへの異論だった。四女は松本家に反発して家出した存在で、その意見を松本家の子どもたちを代表するかのように紹介するのは納得できない、というわけだ。

 もうひとつは、新聞・テレビなどのマスコミが公安情報をタレ流してしまうことを批判した文脈で私が「アレフや松本家関係者が取材拒否しており、結果的に公安情報だけが一方的に流されることになる」と書いたことへの批判だ。これでは取材拒否しているから公安情報が一方的に流されるのだと読めてしまうという指摘だ。これは彼女の言う通りなので、前回の記事を修正する。

 来年3月はオウム事件20周年ということでマスコミ各社が取材に動いているうえに、公安も活発に教団や松本家についての情報を流している。幸い、前回の記事はマスコミ関係者もよく見てくれているので、ここで改めて、公安情報を批判的視点抜きに垂れ流してしまうことへの注意を喚起しておきたい。四女と松本家の関係についても前の記事で説明はしたつもりだったが、松本家の子どもたち各人の立場は異なることも改めて指摘しておきたい。

 対立している四女の意見を紹介した記事だったため、批判的意見ではあったが、三女がメールをくれたこと自体、うれしく思った。彼女はマスコミへの強い不信から、外へ向けて意思表示することさえしなくなっている様子だからだ。オウム報道については問題も多いし、彼女が取材拒否するのはよくわかる。ただ、当事者と社会との回路が全く断絶してしまうことはよいことではないというのが私の考えだ。

 

 前回も書いたように、松本家の子どもたちのなかで私は三女とのつきあいが一番多い。最初に会った彼女が13歳の時の印象が強く残っているのだが、その後、後述する和光大学入学拒否裁判の時に数年ぶりに会った時など、すっかり大人の女性になっていたので驚いた。三女と四女は現在、対立しているのだが、松本家の子どもという意味では、同じ問題に直面しているような気がする。前回書いた記事はそれをテーマにしたものだが、三女についても同じような事例はたくさん見聞きしてきた。

 松本家の子供たちは、上九一色村が解体されて以降、学校に通おうとしても就学拒否にあうなどしてきたし、成人して社会に出てからも、出自を理由に仕事を辞めさせられることなどしょっちゅうだった。

 改めて言うまでもないが、彼らは決して自分で選択して松本家に生まれてきたわけではない。四女などはオウム事件の時はまだ幼くて、何が起きているかさえわからなかったに違いない。それが元教祖の娘であることを理由にいまだに仕事をクビになるというのはどう考えても理不尽だ。でも、それが現実なのだ。

 三女は幼稚園を出てすぐに教団本部で生活するようになり、小学校にも行っていなかった。同じ年頃の友達がほしいと学校へ行くことを望んだ彼女だったが、結局、それがかなわないまま通信制の高校などを経て、2003年から翌年にかけて、独学で幾つかの大学に合格したのだった。目的意識もなく大学進学する者が多い昨今、そこまでして大学に合格したこと自体、大変なことだと思うのだが、その三女に対して、大学側がとった措置は入学拒否だった。彼女が合格した複数の大学は、全て次々と入学拒否を通告したのだった。

 三女はその中で和光大学を許せないと提訴した。なぜ許せなかったかというと、受験にあたって大学の建学の理念などを調べたところ、差別をなくすことなどを理念として掲げていたから、この大学ならカミングアウトできるのではないかと彼女が期待していたからだ。その思いで書類を提出したのに入学拒否されたことは、彼女を絶望的な気持ちにさせたに違いない。それが三女には許せなかった。

 実は、和光大学の入学拒否決定には、教授の中にも反対意見が多く、当時、学生らが何度も学内集会を開いて激しい議論が行われた。自由な気風で知られた同大学には、森達也さんや大塚英志さんらが非常勤講師を務めていたし、彼らにまじって私も学内集会に参加して発言した。三女が苦労して大学合格を勝ち取った経緯を知っていた私にとっても入学拒否という決定はあまりに残酷で許せないと思ったから、朝日新聞のオピニオン欄に投稿したり、『創』でも連続してこの問題を誌面化した。

 ただ、この問題が単純でないのは、和光大学とて決してオウムの子供たちへの差別的意図から入学拒否したのではないことだ。元学長自身が法廷で「苦渋の選択」と何度も述べていた。法廷では三女が泣きながら大学の非情な措置に家族がどんなに辛い思いをしたか訴え、傍聴席の人たちも涙ぐまずにいられなかった。

 この法廷には新聞・テレビの大手マスコミの記者はほとんど取材にも来ておらず、裁判の中身もほとんど報道されなかったが、『創』では法廷メモをもとにやりとりを詳細に報じた。そのやりとり自体が現代社会の一側面を映し出しており、我々にとって考えなければならない問題を提起しているからだ。

 

 2005年6月13日の法廷に和光大学の三橋修元学長が出廷した時には、出自ゆえに入学を拒否したのでなく、大学として警備態勢の問題などに対応できると思えず、学生たちも三女本人も守りきることは難しいと判断した、と証言した。実際、オウム教団に対しては本部に右翼が押しかけたり、といったことも起きていた。元学長は「苦渋の選択」だったことを強調し、三女あての大学の文書に「ご寛恕ください」という一文を、自分で付け加えたことを明らかにした。

 三橋元学長は『差別論ノート』の著作もあるなど、差別問題には造詣が深い人だから、その言葉に嘘はないのかもしれない。しかし、かといって差別された側が納得できるはずはなく、三女は法廷で涙ながらに学長に詰め寄ったのだった。

「入学取り消しは間違いだったとどうして言ってくださらないのですか。私が大学に入るためにどんな大変な思いをしたかご存じないでしょう。高校受験の時は、掛算の九九から始めたんですよ」

「あなたの陳述書も心にしみましたし、本当に残酷なことをしたと思います。残念だと思っています」

「あなたの子供がもし同じ目にあったらどう思いますか。私だけでなく母も周りの人も皆悲しむんですよ。私だけじゃないんです。苦渋の選択とか言ってますが、母や姉、弟がどんな思いをしたかまで考えてくれましたか」

「個人としては考えましたが、組織としてはそこまで考えませんでした」

「母は自分の名前を書いたために取り消しになったと自分を責めて、もう二度と名前を出さないでほしいと言って泣いたんですよ。和光大学なら(差別に反対している大学だから)大丈夫だからというので親の名前を書いたのに、どうして考えてくださらなかったのですか」

「そこまでは考えませんでした」

「いくらお金を出せばいいのかと書いていましたが、私たちの苦しみはその程度のことと思ったのですか」

 三女の泣きながらの訴えに、傍聴席でも多くの人がもらい泣きしていた。彼女が小さい頃からどんなに努力して大学に合格したか知っていた私も傍聴席の最前列で、涙を拭いながらメモをとった。三女が明らかにした母親の言葉、もう親の名前を絶対に出してはいけないという話は、島崎藤村の『破戒』が描いた差別の現実とそっくりだ。

 

 確かにオウム事件は決して許してはいけないものだし、三女の教団への影響力についてもいろいろな意見はあるだろう。親が犯罪者であるという出自によって、その子供たちを就学拒否や就労拒否することが理不尽な仕打ちであることも、理屈では誰でもわかる。しかし、本人たちが語っているように、松本智津夫の子供だとわかったとたんに理不尽な仕打ちは現実に行われているのだ。

 三女はその後、和光大学とは別の入学拒否した大学に対して裁判所に仮処分申請を行い、無事に入学ができたのだが、実際には当時の大学側が心配したような混乱は起きなかった。その学生生活についても、後日、私は三女から直接聞いたのだが、どうも事件当時小さくてあまりリアルな記憶がない世代にとっては、松本家の家族に対する偏見も少なかったらしい。それは三女にとってはよいことだったのだが、逆に私はその話を聞いて、オウム事件の風化についても思い知らされ、別の意味で深刻な気持ちになった。

 確かに今の学生の中には、オウム事件と聞いても知らない人もいる。あの事件から、まもなく20年がたとうとしているのだ。

 

 なお前述した和光大学裁判についての記録など、以前『創』に掲載した関連記事を、下記からアクセスできるようにした。関心ある方は是非ご覧いただきたい。 (文責・篠田博之)

https://viewer.yondemill.jp/?cid=4374

 

元オウム教団アレフと松本家の関係をめぐって、最近いろいろな報道が出始めた。団体規制法に基づく観察処分は3年ごとに可否が判断されるのだが、その期限が2015年1月に訪れる。公安調査庁は観察処分の更新を公安審査委員会に請求することを決めているのだが、そのキャンペーンとして「旧オウム不気味な拡大」(11月8日付産経)などの報道が出るようになっているのだ。公安情報というのは、ある思惑のもとになされるから、本当ならそれをそのまま報じるのでなく、アレフや松本家関係者にあてて裏をとっていかなければならないのだが、実際は公安情報だけが一方的に流されているのが現実だ。

 私・篠田は松本家の三女とは、1996年、彼女が13歳の時に初めてインタビューして以来、何度も会って来たし、四女とも時々会っている。今回、松本家の家族、特に子どもたちがどういう状況にあるのか、10月に長男がアレフを訴えたという報道がなされたが、どういうことなのか、直接聞きたいと思い、連絡をとった。三女は2013年7月から「お父さん分かりますか?」というブログを立ち上げ、父親のことを案ずる文面をずっとつづっているのだが、その中でも、自分は教団とは無関係だと書いている。だから会ったとしても、同じことを繰り返すだけだとは思ったが、久しぶりに会って話を聞きたいとも思った。

 しかし、結局、彼女からの返事は、今回は取材に応じることはできない、というものだった。家族と教団の関係といった自分たちのプライバシーに関わるテーマだったからだろう。そこで四女に会って話を聞いた。松本家の家族は、かつて2000年の長男連れ去り事件を機に家を出た長女、仲の良い二女と三女、それに年の離れた四女、そして一時期、新たな教祖とされた長男・二男、6人の子どもたちがいる。私は、かつて何度か松本家を訪れ、まだ小さかった四女にも会っていたが、彼女は2005~6年頃に家出をして、それ以降松本家とは没交渉になっている。

 最近では月刊『創』2014年3月号に登場してもらったが、そのインタビューは、彼女が自殺未遂を繰り返しているという衝撃的な内容だった。彼女は思春期を迎えた頃に、オウム事件についての文献を自分なりに調べ、父親が率いた教団が多くの罪もない人を殺害したことを知って、自分がその首謀者の娘であることを呪い、死んでしまおうと思ったのだった。

四女は、家庭を出て一人で暮らしながら、今もなおオウム事件や教団について関心を持ち続けている。オウム事件は許せないと思い、教団や家族と決別した彼女だが、そんな彼女に対しても世間の目は容赦ない。あの松本智津夫の娘だというのがわかって、バイト先をクビになったことも何度もあるし、住まいも転々としているという。今回、その四女に話を聞いた。インタビュー内容は12月6日発売の『創』1・2月号に掲載したが、ここに概略を紹介しよう。

 

 まず、現在大学生である長男がアレフを提訴したという一件だが、長男二男と教団の関係はなかなか微妙な状況にあることがわかった。私が以前、松本家を訪れた頃には、二人とも小学校に入るかどうかという年齢で、家の中をやんちゃに走り回っていたのだが、彼らが成人したということが、信者たちにとってはある種の意味を持ち始めているらしい。

 四女の話を紹介しよう。

「長男は秋に誕生日を迎えたのですが、今年は1歳半離れた二男も春に成人を迎えました。元教祖の息子が二人とも成人したというのは、信者たちにとっては心待ちにしている者も多く、教団を離れた元幹部が戻ってくる動きもあると言われています。2014年の長男の誕生日は『生誕祭』として教団が全国的に大々的に祝ったようなのです。ただ教団と離れていたいと思っている長男はそれを怒ったそうです。アレフを提訴したのはそれゆえだと思いますが、長男のその意思は二女と三女も支持していると言われます。確かに長男は、普通に暮らしていきたいという思いを持っている可能性があります」

 長男と二男はいずれも大学生なのだが、一時は一方的に教祖に祭り上げられた経緯もあるだけに、今も教団側としては気になる存在であるらしい。

「今、アレフの実権を握っているのは唯一教団に残った正悟師である二ノ宮耕一さんです。もともと三女と仲が良かったのですが、会議で意見が対立し、2014年夏に、三女に組する幹部2人を除名処分にしたとも言われています。三女は二ノ宮さんよりもともとのステージが上なのですが、二ノ宮さんがどうして強い態度に出られたかというと、二男と関係がいいからだと言われているようです。二ノ宮さんはどうやら母を通じて二男と良好な関係になっているようなのです。

 二男が教団との関係についてどう考えているのかわかりませんが、もともと長男と二男はすごく仲が良く、長男としては二男も教団には関わってほしくないと言っているようです」

 断っておくが、四女は前述したように、現在、松本家とは絶縁状態で、もちろん教団とも対立しているから、兄弟姉妹についての話も直接当事者としての証言ではない。だから本来なら、二女三女に直接、それらの事実を確認せねばならないし、否定したら否定のコメントを明らかにせねばならないのだが、今回は残念ながらそれができていない。

 

 そして四女が、長男二男ら家族についてどう思っているのかもぜひ伝えておきたい。

「私も松本家で暮らしていた頃そうでしたが、周りに普通の社会の感覚で生きている人が誰もいないのです。今でも信者の中には、松本家の家族のためなら何でもするという人もいます。

弟たちがどうやったら社会に帰る、普通に生きていくことができるのか、そもそも普通に生きていくとはどういうことなのか、私はどうにかして伝えたいと思っています。弟たちだけじゃなくて、二女や三女にしても小さい頃から教団の人たちの中で育っているので、その世界しか見ていない。恐らく自分たちが世間から非難されるのは、松本智津夫の娘だからで、それは一方的に不当なことだと思っていると思うのです。

 でも、松本家に育った家族がその後自分で選択していった部分について社会が咎めている部分もあると思うし、教団が罪のない人たちを殺傷したことについては、自分には関係ないと言い切ることはできないと思うのです。

だから二女や三女、兄弟たちについて、普通にどうやって生きていくかということを考えてほしい。それをいわゆるマスコミが言うと、これまでさんざん誤ったひどい事を報道してきたマスコミがまた言っているとしか思わないと思うのですが、そういう偏見を持ってこなかった『創』だったら、彼女たちも考えてくれるのではないか。兄弟たちも見てくれるのではないか。そう期待しています。

長男は少なくとも、教団とは関わりなく、普通に暮らしていきたいと考えているようですが、でも普通の生き方とはどういうものなのか、なかなか明確にはわからないと思います。私も松本家で暮らしていた時には、信者の人たちが、私たち松本智津夫の子どもたちは普通の社会で生きたことがないから生きていけない、と思い込み、それをずっと刷り込まれていました。その恐怖は今でもたまに襲ってきて私は辛くなるのです」

 

 四女が何度も自殺を図ったことは『創』のインタビューで詳しく語っていた。それから約1年ぶりに会って、少しは気持ちが安定してきているのか聞いてみた。以前よりは良くなったが、自殺未遂はこの10月にもあったとの返事だった。

「死にたいと思う気持ちは、3歳の頃からずっとありました。死にたいというよりも死ななくてはいけない、死ぬしかないという感じでしょうか。自分の立場から解放されるためにはそれしかないという感覚です。

 特にオウム事件について知ってからは、幸せとか喜びを感じるたびに、オウム真理教は普通の人のそういう喜びを奪ってしまったのだなと感じざるをえないし、いつも被害者の方々のことを忘れたことがありません。そういう思いのなかで自分はどう生きて行けばよいのか考えていかないといけないと思っています」

 

 前述したように、私が三女に初めてインタビューしたのは199612月。オウム真理教の本拠地だった上九一色村が解体されて1カ月後のことだった。他の子どもたちが茨城県に移り住んだなかで三女だけは他の福島県で暮らし、四六時中、公安の監視下にあった。まだ13歳のあどけない少女が、公安から毎日尾行されているといった話を淡々と語るのを聞いた時には驚いたものだ。

 そしてそのインタビューの中で三女は、学校へ行きたいという希望を語っていた。勉強は嫌いだが、同じ年頃の子と遊んでみたいと話していた。その後、彼女は独学で大学に合格するのだが、合格した3つの大学から入学を拒否され、裁判を起こす。その裁判の経緯と、無事にある大学へ入学できて以降の話も『創』では何度も報じてきた。

 考えてみれば松本家の子どもたちは、みな普通の生活がしたいと願いながら生きてきたとも言える。ただ四女の話にもあったように、普通の生活とは何なのか、オウム元教祖の子どもという存在に対する社会の冷ややかな視線のなかでどう生きていくべきなのか、それは簡単にわかることではないのかもしれない。

 日本中を震撼させたオウム事件からまもなく20年。最近は大学生にオウム事件と言ってもわからない者もいる。社会的にはオウム事件も風化しつつあるようなのだが、元教祖の家族にとってはもちろん、オウム事件はまだ全く過去のものとなってはいない。

 (『創』編集長・篠田博之)

ろくでなし子さんの再逮捕と、北原みのりさん逮捕というニュースには驚いた。

幾ら何でもこれはひどすぎる。前回の釈放後、ろくでなし子さんがあくまでも闘うという姿勢を見せていろいろな発言をしてきたことへの威嚇なのだろうが、表現に関する問題でここまで警察権力がやり放題というのは無茶苦茶だ。

そもそも前回の逮捕についても相当乱暴だったが、その後も起訴でもなく不起訴でもなくという状態を維持しておいて、今回のように言うことを聞かないとさらに強権を発動するというのは、相当卑劣だ。実は、警察がいきなり強制捜査に入ってから処分が決まるまで何カ月も経過するという、こういうやり方は、先頃最高裁判決が出たビデ倫事件もそうだし、篠山紀信さんの写真集摘発事件もそうだった。

逮捕後の勾留は23日が限度で、そこで起訴か不起訴か決められるのだが、ろくでなし子さんのように釈放された場合は、起訴か不起訴か結論を出す期限というのがないので、警察の出方次第という状態がずっと続くことになる。容疑をかけられた側からすると、起訴されるならそれで裁判で闘うという決意にもなれるのだが、どうなるかわからないまま何カ月も経過するというのもかなりの苦痛だ。その間、恭順の意を示さない者に対しては、今回のように見せしめが行われるわけで、警察権力の行使のしかたとしてもひどすぎると言うほかない。

前述したビデ倫事件は、2007年8月に日本ビデオ倫理協会という自主規制審査団体にワイセツ図画販売幇助といった容疑で強制捜査が入ったものだが、7カ月も経た08年3月に関係者が逮捕され起訴される。その間、関係者の事情聴取が執拗に行われ、その一連の捜査自体が大きな圧力となって、裁判で判決が出る頃にはビデ倫という組織自体が壊滅してしまっていた。

かつて大島渚監督が健在だった時代には、表現に権力が介入することに対しては、大きな反対の声が上がり、ワイセツをめぐって大論争が起きたものだが、ビデ倫事件など裁判の過程でマスコミも取り上げなくなり、先頃の最高裁判決の報道などほとんどベタ記事扱いだった。表現に権力が介入するといったことに対して、ジャーナリズムの意識も鈍感になってしまったのだ。

ろくでなし子さんの主張や表現に対しては賛否いろいろな意見があるのは当然だろう。しかしその言論や表現に対して、警察が暴力的規制を行うことについては反対だという、そういう社会的コンセンサスがかつてはあったと思う。最近はそういう社会的空気が希薄になってしまったために警察がやり放題になっているといえる。

前回の逮捕時もそうだが、今回もネットで不当逮捕に抗議する署名運動が行われているのがせめてもの救いだ。

前回の逮捕後、ろくでなし子さんへのインタビューを『創』9・10月号に掲載したものを、昨日、「ヤフーニュース雑誌」にアップし無料公開した。ぜひ読んでいただきたい。

http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20141204-00010000-tsukuru-soci