月刊「創」ブログ

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 人気バンド「ヒステリックブルー」(Hysteric Blue)のギタリスト、ナオキこと赤松直樹受刑者が突如逮捕され、ファンに衝撃を与えてからもう12年になる。バンドの活動休止、逮捕、バンド解散と2003年から2004年にかけて事件は起きたのだが、ナオキは1審判決が懲役14年、控訴審で懲役12年の実刑が確定した。いったい何が起きたのか真相はよくわからぬまま、その後、服役が10年になる本人は、沈黙を保ったままだった。

 そのナオキが事件後初めて、自分の言葉で、事件のこと、その後の更生の日々について手記をつづった。7月7日発売の月刊『創』8月号に「罪と償いについて考える」というタイトルで掲載されるもので、これは本人がつけたものだ。未決勾留日数が刑期に加えられるため、実はナオキはまもなく出所するのだが、社会に戻るにあたって自分自身を見つめなおすという意図で書かれたものだ。1審では夫を支えると証言した妻ともその後、離婚。孤独の身となって12年の獄中生活から市民社会へ復帰するというのは、本人にとっても大変大きなことだ。

  実はナオキとは何カ月か前から手紙のやりとりを続けてきた。月刊『創』はいろいろな事件を取り上げているが、逮捕や刑の確定で事件は終わるのでなく、更生のプロセスは出所後も続くというスタンスで、受刑者の手記も数多く掲載してきた。例えば連続放火事件で懲役10年の刑が確定した「くまぇり」は今も獄中生活をマンガで連載している。『創』がそういう編集方針であることを知って、最近は獄中者から毎月多くの手紙が届く。ナオキもそのひとりだった。

 彼の場合は性犯罪、しかもかなり悲惨な犯罪だ。掲載にあたってはもちろん事件についての当時の報道や裁判資料などを読み込んだ。これまで『創』が取り上げてきた性犯罪の当事者としては奈良女児殺害事件の小林薫死刑囚(既に執行)がいる。女児を殺害するというその事件とは異なるとはいえ、ナオキの事件も相当深刻なものだ。

 今回、彼の事件やその更生のあり方について誌上で問題提起をしようと考えたのは、薬物犯罪とともに性犯罪についても、これまでのような対処のしかたを改めるべきではないかという動きが法務省などを中心に起きつつあるからだ。前述した奈良女児殺害事件をきっかけに本格的な治療プログラムが刑務所などに導入されつつある。実際、ナオキも刑務所でそれを受けていた。

 薬物依存者と同様に、性犯罪を犯した者を刑務所に隔離し、満期になったら何のフォローもなく社会に放り出すという、これまでの対処法では再犯を防ぐことはできないという認識が高まりつつあるわけだ。性犯罪者については、出所後、その個人情報を社会にさらすことで社会防衛を図ろうという倒錯した考え方が「ミーガン法導入を」という声となって事件のたびに出て来るのだが、そんなことよりももっと前にやるべきことはあり、実際、司法や行政は既にそれへ向けて動き始めているわけだ。

 多くの死刑囚などとこれまで関わって来たが、性犯罪というのは以前は正直言ってあまり関わろうとする気が起きなかった。あまりに悲惨で弁解の余地のない犯罪だからだ。しかし、昨年夏の寝屋川中学生殺害事件などを見ても、社会全体がシステムの変更を含めてきちんと取り組むべき問題であることは明らかだ。 

 どんな取り組みが始められているかについては、『創』201512月号に掲載した寝屋川事件関連の記事の1本である渋井哲也さんの「性犯罪再犯防止の取り組み その最前線を探る」を、今回、ヤフーニュース雑誌で読めるようにした。記事に出て来る樹月カインさん(仮名)とはその後も手紙のやりとりをしている。

[ http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20160706-00010000-tsukuru-soci]

 

 ナオキが手紙をくれたきっかけは、彼が『創』連載陣の森達也さんや佐藤優さんの愛読者だったりと、幾つか要因があるのだが、ともあれ、今回掲載した手記を機に、12年前の事件を彼がどう総括し、社会に何を発信しようとしているのか、考えていこうと思っている。

 手記の全文はぜひ『創』8月号を読んでいただきたいが、ここでその冒頭の一部を紹介しておこう。かつてのファンは、12年ぶりの本人の告白をどう受け止めるのだろうか。

 

元『ヒステリックブルー』ナオキの獄中手記

罪と償いについて考える 赤松直樹

 

 山形刑務所では毎年4月に「観桜会」が実施される。もっとも、その名称ほど大仰なものではなく、運動場の片隅に数本生えている桜の木の下にブルーシートを広げ生菓子を喫食するという1015分の行事だ。

 冬の間ずっと不機嫌だった太陽がようやく顔を出した昨年の観桜会。春風にあおられた花びらが小躍りする様を眺めながら、「交談禁止」のため黙々とプレミアムスイーツ『ふんわりワッフル(4ケ入り)』を食していた。脳内再生されていたBGMはオリビア・ニュートンジョンである。その瞬間、私は確実に小さな幸せを噛み締めていた。生クリームとともに。

 税金で犯罪者にそんな贅沢させるなという意見もあるだろう。しかし、単調な生活を送る毎日にあって、このような行事が受刑者に与える心理的影響は決して小さくない。幸せを感じると同時に、改めて気付かされるのである。

 ――ああ、幸せだ。社会からは忌み嫌われるべき存在でしかない犯罪者のオレが、こうして美味しいお菓子を食べさせてもらいながら桜を眺め幸せを感じている。でも、オレの被害者の人たちは事件以降こんな幸せさえ感じることができなくなってしまったのかもしれない。彼女たちは事件の傷とどう向き合い、どう乗り越え、あるいは乗り越えられず今も苦しんでいるのだろうか。本当に、本当に申し訳のない、取り返しのつかないことをしてしまった......。

 

 2004年3月4日、私は建造物侵入及び強制わいせつ容疑で逮捕された。事案は、マンション内の共用廊下に立ち入り、その場で女性にわいせつ行為をしたというもの。その後、余罪を自供し、強姦1名を含む計9名に対するわいせつ・強姦事件で06年6月に実刑判決が確定した。

〈そのような事を行うのは、人間の行い得る犯罪の中で最も醜悪で下等で、残酷な犯罪だと、自分はいまでは思っています。〉(太宰治『人間失格』新潮文庫)

 逮捕から12年、受刑者としてはちょうど10年の節目を迎える。償いとは何か。被害者の方々に罪を償うにはどうすればよいのか。それをずっと考えてきた。......いや、ちょっと待てよ。その問いの背景には、何らかの方法によって償うことができるとの前提が隠れているのではないか。「償える」と思うことが被害者の苦しみを過小評価した加害者側の傲慢さの表れではないのか。そもそも、加害者(しかも性犯罪)が被害者に対し償うこと自体可能なのか。答えは否である。たとえ死んでお詫びしたところで被害者の傷が癒えるわけでもない。ならば私は償うことさえ叶わない大きな罪を犯したのだという自覚を持ち、一生それを背負って生き続けなければならないのだ。

 懲役刑に服するということはあくまで社会治安を乱したことに対する国家への償いでしかなく、むしろ服役を終え自由を手にした後こそが真の償いの始まりである。自分の被害者に対して償えないのであれば誰に対して償うのか。まずは「未来の被害者」なのだと思う。今はまだ被害に遭っていないが将来何らかの事件に巻き込まれるかも知れない存在。つまり私自身が再犯に至らないことを大前提として、その上でなお、新たな犯罪を防ぐことができないだろうか。

 統計数字を見る限り、そして私自身の経験からも、刑務所とは「矯正施設」ではなく「再犯者養成所」である。適切な運営と教育により大きく再犯率を下げることができるにも関わらず。

 加害者も被害者も、受刑者も刑務官も、市民も政府も、それぞれ立場は異なるものの「新たな被害者や加害者を生み出さないために何ができるのか」との一点においては同じ目的を共有できるのだと信じたい。

 こうして私が自分なりに罪と向き合うことができているのには、ふたつの大きな要因があるからだろう。ひとつは通称「R3」と呼ばれる更生プログラムを受講したこと。そしてもうひとつはキリスト教の信仰を得たことだ。

 全員というわけではないが、多くの性犯罪者は服役中にR3の受講を義務付けられる。これは認知行動療法に基づいたプログラムで、週2回、半年かけて実施される。受講者8名(固定メンバー)と臨床心理士・教育部門スタッフなど計10名前後で行われ、各自が課題として作成したワークブックの内容について発表し、ディスカッションするグループワークだ。私はこれを2009年に受講した。

このプログラムの効果は昨年度版『犯罪白書』で明らかにされ、出所後の再犯率はR3受講者が9・9%、非受講者は36・6%とのことである(出所者全体では47・1%)。

 R3では感情統制方法など様々なスキルを学ぶこともできるが、私にとって最も効果があったのは「心を開くことができるようになった」ということだ。

 元来私はそれができず、常に本音を隠して生きてきたように思う。その結果、親友なるものができたことはなく、また、人に弱音を吐くことができないためひとりでストレスを抱え込むこととなる。それが極限まで高まったのは2002年だった。 (略)

 

 女性に困っていたわけでも特殊な性癖があったわけでもない。もしかしたら性犯罪ではなく薬物や暴力だった可能性もあったかもしれない。今更ながら身勝手極まりなく、被害者の方々にはお詫びのしようもない。

 二度と犯罪に関わりたくないというのは、多くの受刑者が持ち合わせている願いだ。私も、自身の再犯防止のため、R3の効果を最大限享受したいと思い受講に臨んだ。そしてそのために、これまでずっと閉じてきた心の扉を常時オープンにする必要に迫られた。なんせこれまで本音を見せずに生きてきた人間が、幼少期から現在に至るまでの自分史や当時の感情、性の芽生えや性的嗜好などを人前で発表するのである。

 しかし受講を重ねるうちに気付いてきた。自分を晒け出すことに何の不都合もないのではないか、と。むしろこちらが心を開けば相手も同じように接してくる。距離が縮まる。そんな当たり前のことや対人関係の築き方を30歳(当時)にもなって初めて知ったのだ。逆に、なぜこれまでの人生においてあんなにも頑なに心を閉ざしてきたのか疑問にさえ思った程である。

 心を開く対象は他人だけではなく自分自身をも含む。本当は傷付いて生きてきたにも関わらず傷付かない振りをして、あるいはそれを認めたくないから意図的に目を逸らしていたのだろう。自分の痛みに向き合えない人間が他人の痛みを想像することなんて決してできない。だからこそ簡単に人を傷付けることができた。    (以下省略)

 

 

 昨年6月にシリアで消息を絶ったジャーナリスト安田純平さんが「助けてください。これが最後のチャンスです」と書かれた紙を持った写真が5月末に公開され、代理人を自称するシリア人が「期限は1カ月」と言ったと報じられて1カ月が経過する。ちょうど安田さんが1年前に拘束された時期であり、拘束側が1周年を機に何らかの動きに出る可能性がある。

拘束しているのはアルカイダ系のヌスラ戦線と言われるが、身代金目当てであることは明らかになっている。だから、この「期限は1カ月」というメッセージも一種の揺さぶりだという見方もある。ただ、昨年、これはイスラム国という別の組織に拘束された後藤健二さんら2人の日本人が実際に殺害されているから楽観は禁物だ。 

 5月末に写真が公開される前には3月16日に安田さんの動画とメッセージが公開されている。安倍政権はテロリストは相手にしないと言明しているから、拘束した側も間もなく1年ということで焦りが出ている可能性もある。

 そうした状況を受けて、ここへきて日本でもいろいろな動きが出始めている。NHKなどテレビのニュースでも報道されて話題になったのは、6月6日夜に首相官邸前に100人以上の市民グループが集まり、安田さん救出へ向けてあらゆる努力をすべきと訴えたことだ。市民グループがイメージしたのは2004年に高遠菜穂子さんらがイラクで人質になった時の救出運動だろう。あの時はいろいろな人が声を上げ、人質は無事に解放された。ちなみに安田さんもその後に一時拘束され解放されている。

 ただ、この市民グループのデモについては、批判も含めていろいろな意見が投げられた。今回は2004年と違って、拘束した側が身代金獲得を目的としているため、下手に動くと拘束グループの思うつぼになりかねない。安田さん自身もこれまで戦場取材の経験を積んで、こういう局面で自らが何らかの取引に使われることを良しとしないという覚悟を表明してもいた。その本人の意志も尊重せねばならない。

実際、安田さん救出へ向けての動きは昨年からいろいろな人が行っていたのだが、それが水面下にとどまっていたのは、秘密裡にやったほうが解放への近道だという判断が働いていたからだ。その後、拘束グループが安田さんの映像を公開して揺さぶりをかけてくるという新たな局面に至って、安田さんの解放を望むジャーナリストらの間でも、救出へ向けてどう行動すればよいかについてはいろいろな考え方が表明されている。

 そういう意見の違いが対立にまで至ったのが、6月9日発売の『週刊新潮』6月16日号に「勝手に『安田純平さん』身代金交渉という自称ジャーナリストの成果」と題してジャーナリスト西谷文和さんを名指しで非難する記事が掲載されたケースだ。西谷さんのこの間の動きが事態を悪化させたのではないかという、この記事に対して西谷さんは憤り、記事でコメントもしている常岡浩介さんを、「イラクの子どもを救う会ブログ」で激しく批判した。

 さて、この段階で、どう行動することが安田さん解放への近道なのかという問題を含め、これまで戦場取材に関わって来たジャーナリストが率直に意見を交わそうという趣旨で開催されたのが、月刊『創』主催の4月19日のシンポジウム「安田純平さん拘束事件と戦場取材」だった。昨年、後藤健二さんらの事件の後にシンポジウムを開催し、そこに安田さんも参加していろいろな議論を行った経緯があったため、今回改めていろいろな人に声をかけて開催したものだ。

 罵倒にまでは至らなかったものの、そこでは相反する立場も含め、いろいろな意見が表明された。ジャパンプレスの藤原亮司さんは「今日のシンポジウムの開催趣旨にもありますが、『こういう局面で私たちが何をすべきか、何ができるのか』ーー私は、何もしないでほしいと思っているんです」と語った。つまり下手に動くべきでないという主張だ。

 中東ジャーナリストの川上泰徳さんは、それに異議を唱えてこう発言した。「私は、交渉イコール身代金を支払うものだと決めつけないで、いったい何を求めていて、どういうコネクションがあってどういう話ができるかということをまず探るべきだと思っています」

シンポジウムではそのほか、アジアプレスの野中章弘さんが戦場取材におけるフリーランスの置かれた状況について、新聞労連委員長の新崎盛吾さんが組織ジャーナリズムとフリーランスについて語った。さらにフリージャーナリストの志葉玲さんや、作家の雨宮処凛さんがそれぞれの意見を述べ、中身の濃い議論が行われた。安田さん救出のために何ができるのかという問題だけでなく、そもそも戦場へ足を運んで戦争の実態を報道することにどういう意義があるのか、あるいはもっぱらフリーランスに危険な取材を負わせている現在の日本における戦場取材のあり方をどう考えるべきかなど、ジャーナリズムの基本に関わる多くの問題が提起された。

それらの議論は、発売中の月刊『創』7月号に28ページにもわたって詳細に掲載されているし、創出版のホームページからその部分だけをスマホなどで読めるようにしてある。

  関心ある人はぜひ議論の全文を読んでいただきたいが、ここではその中から幾つかの発言を抜粋して公開しよう。

 実はこのテーマについては6月11日に産経デジタルのサイトiRONNAに幾つかの発言や論考を公開したのだが、最後に産経デジタルの編集部が設定したアンケート「命を落とす危険があってもジャーナリストは戦地に行くべきだと思いますか?」に対して、現状で「行くべき」が97票、「行くべきではない」が911票。圧倒的に戦場取材についての理解が得られていないという結果が出ている。もちろんこういうアンケートはどういう情報を提示してどういう設問にするかによって結果がある程度左右されるのだが、この結果が今の日本における市民感覚と言えるかもしれない。

 この問題をめぐっては、6月20日過ぎが安田さん拘束から1年を迎えるため、再び拘束グループが揺さぶりをかけてくる可能性がある。またその時期に、川上さんやイラク戦争の報道で知られる綿井健陽さんら戦場取材に関わって来たジャーナリストを中心に「危険地報道を考えるジャーナリストの会」という会を立ち上げ、安田さん解放へ向けた声明を世界に発信しようという動きもある。

多くのジャーナリストや市民がぜひこの問題を一緒に考え、議論してほしい。シンポジウムの発言もぜひ全文を読んでほしいが、ここではその中から藤原さんと川上さんの発言だけを紹介しよう。

 そして安田さんが一刻も早く無事に解放されることを祈りたいと思う。

 ●藤原亮司さん(ジャパンプレス)の発言

 安田純平さんが昨年6月23日にトルコの国境を越えてシリアに入って、すぐに地元の武装勢力につかまったということを、私はその数日後に耳にしました。個人的にも親交がありますので、私はそれから安田さんの情報をずっと追いかけてきました。私自身もシリアで取材したことがありますので、現地の友人や安田さんの友人、あるいは私が使っていたコーディネーターなどから情報を得ています。おそらく今はヌスラ戦線というシリアの反体制派グループに拘束されているだろうと言われています。

 彼がつかまって以降、公にはずっと情報がなかったのですが、昨年1222日付で、「国境なき記者団」という団体が声明を出しました。その内容は、日本政府が解放交渉を行わなければ安田純平は人質として転売されるか殺されるであろうというものでした。なぜそんな発表がなされたかというと、セキュリティ会社の社長を名乗るスウェーデン人の男がおりまして、それまでもずっと日本のメディアや政府に自分が仲介役になれる、交渉できると持ちかけて、一儲けしようと企んでいたのです。しかし相手にされず、国境なき記者団でよく知っているベンジャミンというアジア太平洋担当デスクに話を持ちかけた。そして彼が上司の判断を得ず、会社の会議にかけずに個人の判断でリリースを出してしまい、世界に広まってしまったということです。

 それは全くの誤報であり、国境なき記者団に抗議を送ったところ、ベンジャミンの上司からすぐにメールが返ってきて、撤回させるとのことでした。私だけでなく複数の人が働きかけたと思いますが、それによって国境なき記者団は、声明を取り下げたわけです。

 その後、今年の3月、今度は安田純平さん本人がビデオで語っている映像が流れ、大きく報道されて知られることになりました。今日のシンポジウムの開催趣旨にもありますが、「こういう局面で私たちが何をすべきか、何ができるのか」。私は、何もしないでほしいと思っているんです。

というのは、安田さんが3月16日のメッセージの中で、ご家族や奥様、ご兄弟のことを言っています。「いつもみんなのことを考えている。みんなを抱き締めたい。みんなと話がしたい。でも、もうできない」。これは、安田さんが家族や関係者に伝えようとした強烈な覚悟、意思表示だったと思うんです。自分は身代金による解放を望んでいないので、もう家族たちには会えないだろうという決意表明をしたのだと思います。私はこれは、一人の職業人として、ジャーナリストとして、本当に立派な覚悟のしかただと思っています。

 安田さんは過去に一度、3日間ほどではありますが、イラクでも拘束されたことがあります。戦場においてジャーナリストや取材者が一時的に拘束されるというのは、時々起こりうることなんです。12年前にイラクで安田さんが拘束されたこともよくあることの一つだったにもかかわらず、大きく扱われてしまった。高遠菜穂子さんら他の3人の誘拐事件とタイミングが重なったために、非常に大きな扱いをされたわけです。

 それ以降、彼はずっと、自分がもしどこかで拘束されたり、身の上に何かがあった時どう処すればいいかを考えて取材地に向かっていたはずです。彼はそれを、今回ヌスラ戦線と思われるところから流れてきたビデオによって、しっかりと表明したんです。それに対して我々はじめ同業者、あるいは関係者や一般の人たちが、政府に安田さんを解放してやってほしいと働きかけることは、安田さんの意に反することでもあるのです。これは国家が国民の身に何かが起きた時に、尽力する責任がある、義務があるということとは全く別の話で、当然政府にはそうした責務があるのですが、一方で安田純平さん個人が、自分の職責において、自分の生き方において、政府による交渉を望んでいないので何もしないでくれという訴えかけをしてきた時、私は友人として、同じ仕事をしている人間として、彼の意志を尊重したいと思うんです。

 また、闇雲に政府に働きかけたり、それによって政府が何か動いたり、また我々の側からヌスラ戦線に解放してくれとアピールするといったことは、身代金を欲しがっている人間のことをこちらから宣伝してやっているようなものです。それは安田さんにとって何のメリットもないことだと、僕は思っています。

 

●川上泰徳さん(中東ジャーナリスト)の発言 

 私は朝日新聞で20年ほど中東記者をやって、1年前からフリーになっています。ちょうど1年前というのは後藤健二さんたちの人質事件があった時で、それを受けて、土井敏邦さん、石丸次郎さん、綿井健陽さんと私の4人で「危険地報道を考えるジャーナリストの会」を立ち上げました。そこで、ジャーナリストが危険地に行くというのは、ジャーナリストにとってはある意味当然のことなんだが、社会的には理解されていないという話をしてきました。安田さんもその会に参加して、自分の経験やいろんな意見を話してくれました。6月に行方不明になる前の話です。

 安田さんの問題は非常に難しくて、今年の3月に映像が出てくるまで、確認情報がなかったんです。この映像も確認情報と言えるかという問題はありますが、それ以前は、安田さんが拘束されているのかどうかもわからない、誰が拘束しているかもわからない、その中で私たちも声明を出すこともできないし、動きようがないという状況でした。インターネット上では、安田さんのことが公表されないのは政府の意向などを受けて意図的に隠されているんじゃないかという声も出ている状況でした。私もあの映像が出て初めて、WEBRONZAで安田さんについての記事を書きました。

 安田さんを拘束しているのは、ヌスラ戦線と言われています。ヌスラ戦線はシリアのアルカイダ組織ということですが、あまり理解されていないんじゃないかと思います。イスラム国とヌスラ戦線というのは、どちらも国際社会、安保理でテロ組織として認定されています。ただしこの二つが全く違うのは、これまでヌスラ戦線は人質をとっても、イスラム国のように殺した例はないんです。身代金の問題はありますが、何らかの形で解放されている。私は、これは重要なことだと思うんです。相手がどういう組織なのか。アルカイダ系ではあるけれども、少なくともイスラム国とは違う。ヌスラ戦線は、アサド政権軍に対して最も激しく戦っているグループと考えていいと思います。逆に、この前ロシア軍がアサド政権を支えるような形で空爆を行いましたが、その時、イスラム国に対する空爆よりも、自由シリア軍やヌスラ戦線などに対する空爆の方がひどかったし、それによる民間人の被害もかなり多く出た。だからまさに、内線の中で、政権軍と戦っている最前線にいるグループと考えてよいと思います。

 だから私は、交渉イコール身代金を支払うものだと決めつけないで、いったい何を求めていて、どういうコネクションがあってどういう話ができるかということをまず探るべきだと思っています。それは民間でもできるし、当然政府にしかできないこともある。

 実はアメリカが昨年6月に、人質についての政府の対応策を変更しました。それまでテロ組織とは全く交渉しない、関わらないと言っていたけれど、それを、身代金は払わないが、家族が支払うことを政府は止めないとか、その際に家族が騙されないように政府がいろんな形で支援すると方針を変えました。支援の中には、政府の担当機関が直接そういう組織と関わったりコミュニケートするということを含んでいるんです。アメリカがそれまで自国民を人質にとったテロ組織と全く関わらないとしてきたのを方向転換して、人質の安全な救出を最優先するとしたことは、すごく大きいと思うんです。

 アメリカは決して、国家の安全保障は二の次だと言っているわけではありません。国家の安全保障は重要で、身代金は払わない。しかし一方で、人質の安全解放に向けて国は最善を尽くす、担当チームを政府の中に作って動く、情報収集をすると言っている。そういう態勢は日本でも必要だと思います。「身代金は払いません、テロ組織とは関わりません」でおしまいではなく、いろんな形で、人質をとっている組織とコネクションがあるところに当たり、政治的経済的宗教的に当たって、身代金を払わなくても解放する道があるのではないか。

 アメリカでは実際に、ヌスラ戦線から解放されたフリーランスのジャーナリストがいます。その際にはアメリカ政府は20カ国のコネクションに当たったそうです。最終的には、ヌスラ戦線とコネクションのあるカタールが交渉に当たって人質解放がなされた。アメリカは直接的には交渉には関わっていないという立場ですが、周辺への働きかけはしている。日本も相手が「テロ組織」であっても何もしないというのではなく、できる限りの努力をする必要があり、そのためにはジャーナリストである私たちも動く必要があるし、政府しか使えないチャンネルもたくさんありますから、政府としても働きかけていくべきだと思っています。

 それから、こういった危険地報道を考える時に、ジャーナリストの間で中心になって動くところがないということで、今、そういうものを作ろうと正式な立ち上げに向けて動いています。

 

 昨年6月にシリアで消息を絶ったジャーナリスト安田純平さんが「助けてください。これが最後のチャンスです」と書かれた紙を持った写真が5月末に公開され、代理人を自称するシリア人が「期限は1カ月」と言ったと報じられて1カ月が経過する。ちょうど安田さんが1年前に拘束された時期であり、拘束側が1周年を機に何らかの動きに出る可能性がある。

拘束しているのはアルカイダ系のヌスラ戦線と言われるが、身代金目当てであることは明らかになっている。だから、この「期限は1カ月」というメッセージも一種の揺さぶりだという見方もある。ただ、昨年、これはイスラム国という別の組織に拘束された後藤健二さんら2人の日本人が実際に殺害されているから楽観は禁物だ。 

 5月末に写真が公開される前には3月16日に安田さんの動画とメッセージが公開されている。安倍政権はテロリストは相手にしないと言明しているから、拘束した側も間もなく1年ということで焦りが出ている可能性もある。

 そうした状況を受けて、ここへきて日本でもいろいろな動きが出始めている。NHKなどテレビのニュースでも報道されて話題になったのは、6月6日夜に首相官邸前に100人以上の市民グループが集まり、安田さん救出へ向けてあらゆる努力をすべきと訴えたことだ。市民グループがイメージしたのは2004年に高遠菜穂子さんらがイラクで人質になった時の救出運動だろう。あの時はいろいろな人が声を上げ、人質は無事に解放された。ちなみに安田さんもその後に一時拘束され解放されている。

 ただ、この市民グループのデモについては、批判も含めていろいろな意見が投げられた。今回は2004年と違って、拘束した側が身代金獲得を目的としているため、下手に動くと拘束グループの思うつぼになりかねない。安田さん自身もこれまで戦場取材の経験を積んで、こういう局面で自らが何らかの取引に使われることを良しとしないという覚悟を表明してもいた。その本人の意志も尊重せねばならない。

実際、安田さん救出へ向けての動きは昨年からいろいろな人が行っていたのだが、それが水面下にとどまっていたのは、秘密裡にやったほうが解放への近道だという判断が働いていたからだ。その後、拘束グループが安田さんの映像を公開して揺さぶりをかけてくるという新たな局面に至って、安田さんの解放を望むジャーナリストらの間でも、救出へ向けてどう行動すればよいかについてはいろいろな考え方が表明されている。

 そういう意見の違いが対立にまで至ったのが、6月9日発売の『週刊新潮』6月16日号に「勝手に『安田純平さん』身代金交渉という自称ジャーナリストの成果」と題してジャーナリスト西谷文和さんを名指しで非難する記事が掲載されたケースだ。西谷さんのこの間の動きが事態を悪化させたのではないかという、この記事に対して西谷さんは憤り、記事でコメントもしている常岡浩介さんを、「イラクの子どもを救う会ブログ」で激しく批判した。

 さて、この段階で、どう行動することが安田さん解放への近道なのかという問題を含め、これまで戦場取材に関わって来たジャーナリストが率直に意見を交わそうという趣旨で開催されたのが、月刊『創』主催の4月19日のシンポジウム「安田純平さん拘束事件と戦場取材」だった。昨年、後藤健二さんらの事件の後にシンポジウムを開催し、そこに安田さんも参加していろいろな議論を行った経緯があったため、今回改めていろいろな人に声をかけて開催したものだ。

 罵倒にまでは至らなかったものの、そこでは相反する立場も含め、いろいろな意見が表明された。ジャパンプレスの藤原亮司さんは「今日のシンポジウムの開催趣旨にもありますが、『こういう局面で私たちが何をすべきか、何ができるのか』ーー私は、何もしないでほしいと思っているんです」と語った。つまり下手に動くべきでないという主張だ。

 中東ジャーナリストの川上泰徳さんは、それに異議を唱えてこう発言した。「私は、交渉イコール身代金を支払うものだと決めつけないで、いったい何を求めていて、どういうコネクションがあってどういう話ができるかということをまず探るべきだと思っています」

シンポジウムではそのほか、アジアプレスの野中章弘さんが戦場取材におけるフリーランスの置かれた状況について、新聞労連委員長の新崎盛吾さんが組織ジャーナリズムとフリーランスについて語った。さらにフリージャーナリストの志葉玲さんや、作家の雨宮処凛さんがそれぞれの意見を述べ、中身の濃い議論が行われた。安田さん救出のために何ができるのかという問題だけでなく、そもそも戦場へ足を運んで戦争の実態を報道することにどういう意義があるのか、あるいはもっぱらフリーランスに危険な取材を負わせている現在の日本における戦場取材のあり方をどう考えるべきかなど、ジャーナリズムの基本に関わる多くの問題が提起された。

それらの議論は、発売中の月刊『創』7月号に28ページにもわたって詳細に掲載されているし、創出版のホームページからその部分だけをスマホなどで読めるようにしてある。

  関心ある人はぜひ議論の全文を読んでいただきたいが、ここではその中から幾つかの発言を抜粋して公開しよう。

 実はこのテーマについては6月11日に産経デジタルのサイトiRONNAに幾つかの発言や論考を公開したのだが、最後に産経デジタルの編集部が設定したアンケート「命を落とす危険があってもジャーナリストは戦地に行くべきだと思いますか?」に対して、現状で「行くべき」が97票、「行くべきではない」が911票。圧倒的に戦場取材についての理解が得られていないという結果が出ている。もちろんこういうアンケートはどういう情報を提示してどういう設問にするかによって結果がある程度左右されるのだが、この結果が今の日本における市民感覚と言えるかもしれない。

 この問題をめぐっては、6月20日過ぎが安田さん拘束から1年を迎えるため、再び拘束グループが揺さぶりをかけてくる可能性がある。またその時期に、川上さんやイラク戦争の報道で知られる綿井健陽さんら戦場取材に関わって来たジャーナリストを中心に「危険地報道を考えるジャーナリストの会」という会を立ち上げ、安田さん解放へ向けた声明を世界に発信しようという動きもある。

多くのジャーナリストや市民がぜひこの問題を一緒に考え、議論してほしい。シンポジウムの発言もぜひ全文を読んでほしいが、ここではその中から藤原さんと川上さんの発言だけを紹介しよう。

 そして安田さんが一刻も早く無事に解放されることを祈りたいと思う。

 ●藤原亮司さん(ジャパンプレス)の発言

 安田純平さんが昨年6月23日にトルコの国境を越えてシリアに入って、すぐに地元の武装勢力につかまったということを、私はその数日後に耳にしました。個人的にも親交がありますので、私はそれから安田さんの情報をずっと追いかけてきました。私自身もシリアで取材したことがありますので、現地の友人や安田さんの友人、あるいは私が使っていたコーディネーターなどから情報を得ています。おそらく今はヌスラ戦線というシリアの反体制派グループに拘束されているだろうと言われています。

 彼がつかまって以降、公にはずっと情報がなかったのですが、昨年1222日付で、「国境なき記者団」という団体が声明を出しました。その内容は、日本政府が解放交渉を行わなければ安田純平は人質として転売されるか殺されるであろうというものでした。なぜそんな発表がなされたかというと、セキュリティ会社の社長を名乗るスウェーデン人の男がおりまして、それまでもずっと日本のメディアや政府に自分が仲介役になれる、交渉できると持ちかけて、一儲けしようと企んでいたのです。しかし相手にされず、国境なき記者団でよく知っているベンジャミンというアジア太平洋担当デスクに話を持ちかけた。そして彼が上司の判断を得ず、会社の会議にかけずに個人の判断でリリースを出してしまい、世界に広まってしまったということです。

 それは全くの誤報であり、国境なき記者団に抗議を送ったところ、ベンジャミンの上司からすぐにメールが返ってきて、撤回させるとのことでした。私だけでなく複数の人が働きかけたと思いますが、それによって国境なき記者団は、声明を取り下げたわけです。

 その後、今年の3月、今度は安田純平さん本人がビデオで語っている映像が流れ、大きく報道されて知られることになりました。今日のシンポジウムの開催趣旨にもありますが、「こういう局面で私たちが何をすべきか、何ができるのか」。私は、何もしないでほしいと思っているんです。

というのは、安田さんが3月16日のメッセージの中で、ご家族や奥様、ご兄弟のことを言っています。「いつもみんなのことを考えている。みんなを抱き締めたい。みんなと話がしたい。でも、もうできない」。これは、安田さんが家族や関係者に伝えようとした強烈な覚悟、意思表示だったと思うんです。自分は身代金による解放を望んでいないので、もう家族たちには会えないだろうという決意表明をしたのだと思います。私はこれは、一人の職業人として、ジャーナリストとして、本当に立派な覚悟のしかただと思っています。

 安田さんは過去に一度、3日間ほどではありますが、イラクでも拘束されたことがあります。戦場においてジャーナリストや取材者が一時的に拘束されるというのは、時々起こりうることなんです。12年前にイラクで安田さんが拘束されたこともよくあることの一つだったにもかかわらず、大きく扱われてしまった。高遠菜穂子さんら他の3人の誘拐事件とタイミングが重なったために、非常に大きな扱いをされたわけです。

 それ以降、彼はずっと、自分がもしどこかで拘束されたり、身の上に何かがあった時どう処すればいいかを考えて取材地に向かっていたはずです。彼はそれを、今回ヌスラ戦線と思われるところから流れてきたビデオによって、しっかりと表明したんです。それに対して我々はじめ同業者、あるいは関係者や一般の人たちが、政府に安田さんを解放してやってほしいと働きかけることは、安田さんの意に反することでもあるのです。これは国家が国民の身に何かが起きた時に、尽力する責任がある、義務があるということとは全く別の話で、当然政府にはそうした責務があるのですが、一方で安田純平さん個人が、自分の職責において、自分の生き方において、政府による交渉を望んでいないので何もしないでくれという訴えかけをしてきた時、私は友人として、同じ仕事をしている人間として、彼の意志を尊重したいと思うんです。

 また、闇雲に政府に働きかけたり、それによって政府が何か動いたり、また我々の側からヌスラ戦線に解放してくれとアピールするといったことは、身代金を欲しがっている人間のことをこちらから宣伝してやっているようなものです。それは安田さんにとって何のメリットもないことだと、僕は思っています。

 

'''●川上泰徳さん(中東ジャーナリスト)の発言''' 

 私は朝日新聞で20年ほど中東記者をやって、1年前からフリーになっています。ちょうど1年前というのは後藤健二さんたちの人質事件があった時で、それを受けて、土井敏邦さん、石丸次郎さん、綿井健陽さんと私の4人で「危険地報道を考えるジャーナリストの会」を立ち上げました。そこで、ジャーナリストが危険地に行くというのは、ジャーナリストにとってはある意味当然のことなんだが、社会的には理解されていないという話をしてきました。安田さんもその会に参加して、自分の経験やいろんな意見を話してくれました。6月に行方不明になる前の話です。

 安田さんの問題は非常に難しくて、今年の3月に映像が出てくるまで、確認情報がなかったんです。この映像も確認情報と言えるかという問題はありますが、それ以前は、安田さんが拘束されているのかどうかもわからない、誰が拘束しているかもわからない、その中で私たちも声明を出すこともできないし、動きようがないという状況でした。インターネット上では、安田さんのことが公表されないのは政府の意向などを受けて意図的に隠されているんじゃないかという声も出ている状況でした。私もあの映像が出て初めて、WEBRONZAで安田さんについての記事を書きました。

 安田さんを拘束しているのは、ヌスラ戦線と言われています。ヌスラ戦線はシリアのアルカイダ組織ということですが、あまり理解されていないんじゃないかと思います。イスラム国とヌスラ戦線というのは、どちらも国際社会、安保理でテロ組織として認定されています。ただしこの二つが全く違うのは、これまでヌスラ戦線は人質をとっても、イスラム国のように殺した例はないんです。身代金の問題はありますが、何らかの形で解放されている。私は、これは重要なことだと思うんです。相手がどういう組織なのか。アルカイダ系ではあるけれども、少なくともイスラム国とは違う。ヌスラ戦線は、アサド政権軍に対して最も激しく戦っているグループと考えていいと思います。逆に、この前ロシア軍がアサド政権を支えるような形で空爆を行いましたが、その時、イスラム国に対する空爆よりも、自由シリア軍やヌスラ戦線などに対する空爆の方がひどかったし、それによる民間人の被害もかなり多く出た。だからまさに、内線の中で、政権軍と戦っている最前線にいるグループと考えてよいと思います。

 だから私は、交渉イコール身代金を支払うものだと決めつけないで、いったい何を求めていて、どういうコネクションがあってどういう話ができるかということをまず探るべきだと思っています。それは民間でもできるし、当然政府にしかできないこともある。

 実はアメリカが昨年6月に、人質についての政府の対応策を変更しました。それまでテロ組織とは全く交渉しない、関わらないと言っていたけれど、それを、身代金は払わないが、家族が支払うことを政府は止めないとか、その際に家族が騙されないように政府がいろんな形で支援すると方針を変えました。支援の中には、政府の担当機関が直接そういう組織と関わったりコミュニケートするということを含んでいるんです。アメリカがそれまで自国民を人質にとったテロ組織と全く関わらないとしてきたのを方向転換して、人質の安全な救出を最優先するとしたことは、すごく大きいと思うんです。

 アメリカは決して、国家の安全保障は二の次だと言っているわけではありません。国家の安全保障は重要で、身代金は払わない。しかし一方で、人質の安全解放に向けて国は最善を尽くす、担当チームを政府の中に作って動く、情報収集をすると言っている。そういう態勢は日本でも必要だと思います。「身代金は払いません、テロ組織とは関わりません」でおしまいではなく、いろんな形で、人質をとっている組織とコネクションがあるところに当たり、政治的経済的宗教的に当たって、身代金を払わなくても解放する道があるのではないか。

 アメリカでは実際に、ヌスラ戦線から解放されたフリーランスのジャーナリストがいます。その際にはアメリカ政府は20カ国のコネクションに当たったそうです。最終的には、ヌスラ戦線とコネクションのあるカタールが交渉に当たって人質解放がなされた。アメリカは直接的には交渉には関わっていないという立場ですが、周辺への働きかけはしている。日本も相手が「テロ組織」であっても何もしないというのではなく、できる限りの努力をする必要があり、そのためにはジャーナリストである私たちも動く必要があるし、政府しか使えないチャンネルもたくさんありますから、政府としても働きかけていくべきだと思っています。

 それから、こういった危険地報道を考える時に、ジャーナリストの間で中心になって動くところがないということで、今、そういうものを作ろうと正式な立ち上げに向けて動いています。

 

 和歌山カレー事件で死刑が確定している林眞須美さんから最近、封書が届いた。確定死刑囚というのは家族と弁護人以外とは基本的に通信が禁じられており、こんなふうに手紙が届くこと自体が驚きなのだが、その中身についてお伝えしたい。

 眞須美さんはこの何年か、次々と裁判を起こしている。獄中で同じように訴訟を行ったことで知られるのは、いわゆるロス疑惑事件の三浦和義さんだ。三浦さんは相当数のメディア訴訟を行ったことで知られているが、宮城刑務所に服役中、処遇改善の闘いも展開し、受刑者が読める書籍の冊数を増やすことや暖房設備の導入など次々と要求を勝ち取っていった。

 その三浦さんから大きな影響を受けたのが和歌山カレー事件の林眞須美さんだ。三浦さんは2008年に不遇の死を遂げてしまったが、眞須美さんが最高裁の段階から支援活動を続けていた。その三浦さんの影響もあって、眞須美さんは死刑確定後も、大阪拘置所などを次々と提訴するという闘いを続けている。確定死刑囚が外部と通信や面会を行う「接見交通」権をめぐっては、いろいろな議論がなされているのだが、眞須美さんのように次々と裁判を起こして闘っているケースは珍しいのではないだろうか。

 

 確定死刑囚は懲役囚と違って死刑執行を待たされている存在だ。それゆえ刑務所でなく拘置所に収監されているのだが、そういう存在であることを理由に極端に権利が制限される。いわば死刑が確定した時点で社会との接点を断ち切られてしまうのだ。確定死刑囚がどんな生活を送っているのかこれまでほとんど知られてこなかったのはそのためだ。

 眞須美さんについては昨年8月にも彼女からの手紙の話をブログに書いた。

[ http://bylines.news.yahoo.co.jp/shinodahiroyuki/20150825-00048822/]

 実は今回の手紙もその話と関連している。今回初めて知ったのだが、その昨年送った私の手紙が大幅に墨塗りされていたことを不服として、眞須美さんは大阪拘置所を提訴していたのだった。今回送られてきたのはその訴状や拘置所の答弁書などの資料だ。私はいわば裁判の関係者だから、その資料が送られることが認められたのだろう。拘置所側は、彼女の接見交通権についてどう判断したかを裁判所に対して主張しているのだが、これがなかなか興味深い。拘置所当局の具体的な判断基準は、これまであまり公開されていないからだ。

 例えば私はかつて、連続幼女殺害事件の宮崎勤死刑囚(既に執行)とは、彼の死刑が確定してからも一時面会が許可されていた。特別接見許可願いを東京拘置所に出して認められたのだが、もちろん眞須美さんについても大阪拘置所に提出している。それを大阪拘置所は却下したのだが、どういう場合に許可され、どういう場合に不許可になるのかの基準は曖昧だ。それを眞須美さんが裁判所に訴えたために、大阪拘置所としての判断を提示しなければならなくなったのだ。

 受刑者や確定死刑囚をめぐる処遇について歴史的な出来事といえば2006年の旧監獄法の改正だった。何しろ明治以来100年ぶりに監獄の処遇が改正されたわけで、この改正によって制限が緩和された。獄中者にとっては大変な変化だった。ちょうど宮崎勤死刑囚の刑が確定したのは2006年で、私が一時的とはいえ確定死刑囚となった彼に接見できたのはその改正の動きの影響だろう。

このあたりについては拙著『増補版 ドキュメント死刑囚』をお読みいただきたいが、2006年の法改正では、親族と弁護士以外に「知人」も接見を許されることになった。ただその知人には「法律上、業務上重大な用務の処理に必要な人」と「心情の安定に資する人」という条件が付けられ、許可するかどうかは拘置所長の裁量に任された。そして法改正の後、一時的に緩和された接見交通権の制限は、その後再び厳しくなっていった。

 

 さて昨年私が眞須美さんに送った手紙だが、今回、裁判資料を読んで、どんな形で彼女に渡されていたか知ることになった。もともと私も用件に関係ない話を書くと不許可になることを知っていたから、内容を絞って書いたつもりだったが、それでも何と1行を除いて全て墨塗りされていたのだった。

 私が実際に眞須美さんに送った文面のコピーが残っているから、それと墨塗りされた両方の写真をアップしておこう。元の文面でも一部が黒くなっているのは、個人名が書かれていたので私が今回伏せたものだ。

 裁判ではその墨塗りした理由が争点のひとつなのだが、私が気になったのは、手紙の後段、大阪拘置所に特別接見許可願を提出したので「そちらから聞いてみてください」という部分だ。たぶん拘置所は私の特別接見許可願を不許可にしながら私に知らせなかっただけでなく、眞須美さんにも教えないことにしたのだろう。

[[image:image01|right|]]

 

 眞須美さんが墨塗りに抗議して提訴したのは昨年1030日だが、今年3月7日付で拘置所側から答弁書が出されている。死刑確定者の接見交通権が制限されるのはやむをえないし、知人の場合は「心情の安定に資する」場合に限られるとして、私からの手紙についてはそれに該当しないという主張だった。それは概ね予想の範囲内だったが、私が注目したのは、その裁判のやりとりで拘置所側が提出した書類の中に、眞須美さんに対して接見許可をした個々のケースについて拘置所がどういう判定をしたかなど、具体的な資料が含まれていたからだ。弁護士以外は個人情報に関わる部分は全て墨塗りされてはいるのだが、「心情の安定に資する人」といった抽象的な表現だけでない拘置所側の判断が多少わかるものだった。

 私は宮崎勤死刑囚との接触の過程でも、死刑囚の接見禁止処遇の壁に何度も突き当たった経験があり、しかもそれについて拘置所側から判断基準などを聞かされたことは一度もなかったから、今回の資料を読んで、なかなかすごいと感心した。眞須美さんに現状でどういう人が接見許可を与えられどう判断されてきたかを示すものだったからだ。ただ具体的な事例についてはプライバシーに関する部分もあるため、ここで公表するのは控えたいと思う。

 

 眞須美さんの裁判は、そうしたこれまで曖昧だった確定死刑囚の接見交通権をめぐる基準について判断するひとつのきっかけになるだけでなく、実はもうひとつ大きな意味を持っている。彼女は何人かの知人の親書について同様の裁判を起こしているようで、その資料をそれぞれの知人に送っていると思われる。裁判資料が関係者に送られるケースなので拘置所も黙認しているようなのだが、このプロセスを重ねていくと、これまで完璧に閉ざされていた外部との交通権に少しずつ風穴があけられる可能性がある。実際、私のところにも、昨年何度か彼女の手紙が届いているし、今回も拘置所が特別に判断して許可したのは明らかだった。

 実をいうと、これまでも拘置所側は、幾つか特別なケースについては、手紙のやりとりを認めてもいた。前述した宮崎死刑囚に面会まで認められたケースのほかにも、私のもとには一度、同じ大阪拘置所から奈良女児殺害事件の小林薫死刑囚(既に執行)の手紙が届いたこともあった。こうした特例は個々の事例ごとに拘置所側が判断しているのだろうが、眞須美さんのようにいろいろなケースについて風穴をあけようと試みていけば、これまで閉ざされていた死刑確定者の接見交通権についても新たな動きになるかもしれない。

 断っておくが、死刑確定者からの手紙も、例えば接見を許可されている家族や弁護人を経由すれば、これまでも外部とのやりとりは可能だった。眞須美さんのメッセージは『創』にも何度も掲載され、支援集会でも読みあげられているが、基本的に家族経由だ(眞須美さんの手紙については『和歌山カレー事件 獄中からの手紙』として創出版から刊行されてもいる)。

[ http://www.tsukuru.co.jp]

 ともあれ眞須美さんの闘いは、死刑確定者をめぐる新たな状況を作り出す可能性を秘めているとして注目していきたい。もちろん私の手紙を契機にした彼女の裁判については、さっそく陳述書を書いて送るつもりだ。

 1127日に出された元オウム信者・菊地直子さんの逆転無罪判決には驚いた人が多かったと思う。1審の裁判員裁判の懲役5年という有罪判決を、2審でプロの裁判官がひっくり返したわけで、裁判のあり方をめぐる議論も起きている。そこでここでそれについて書くとともに、菊地直子さんが『創』8月号に書いた手記を公開しよう。 

『創』編集長の私のところへも判決について取材が入り、TBSの1130日放送の「白熱ライブ・ビビット」の取材には応じた。そこで『創』の手記を引用したいという申し出があったので、公に刊行されたものなので出典を明記して引用はどうぞ、と応じた。ただ考えてみると、たぶんテレビなどの引用は一部を抽出してなされるので、彼女の真意が伝わらないと困るなと思い、このブログで彼女の手記全文を公開しようと思い至った。この手記を読むと、彼女の訴えていたことがよくわかるからだ。

 手記の中でも書いているが、彼女はマスコミに対して相当強い不信感を抱いており、たぶん今後もマスコミのインタビューなどに応じることはないと思う。その意味では『創』に書いたこの手記が、彼女が直接社会に訴えた最初で最後の機会になるかもしれない。

  その手記の前に今回の高裁判決について私見を少し書いておきたい。これはいろいろな意味で大きな問題提起であり、まずは裁判官のプロの法律家としての見識に敬意を表したいと思う。かつて「ロス疑惑」事件の三浦和義さん(故人)への無罪判決が出た時のことを彷彿とさせる。つまり、社会的イメージにとらわれず、法律に則って裁くという意志が感じられるのだ。

 実は私も5月に最初に菊地さんに接見した時、彼女が控訴したのは1審の懲役5年という量刑が重すぎるという意図かと思ってそう率直に尋ねたのだが、彼女からはいやそうでなく無罪を争っているのですよ、と言われた。その後私も裁判を傍聴して審理の中身を理解するようになったのだが、特別指名手配され17年間も逃亡していた彼女への世間のイメージには「無罪」という言葉はありえなかったと思う。1審の裁判員たちもそうだったと思われる。

 ただそれは恐らく社会の側のある種の先入観なのだと思う。裁判員裁判は、裁判に市民感覚を取り入れるという趣旨で私もその趣旨には賛同するが、同時にそれはある種の社会的イメージも入り込むことになる。菊地さんが接見の時に、いまだに自分に対して何か死刑相当の凶悪犯というイメージで捉えている人が多くて驚いてしまうと言っていた。彼女の特別指名手配の容疑はサリン製造に関与した殺人及び殺人未遂で、17年間、マスコミはずっとそう報道し続けてきた。彼女は今年に入ってようやくそういうマスコミ報道をただそうと、週刊誌に抗議文を送ったりしていたのだが、実はサリン事件関連では彼女は起訴もされていない。だから捜査側も相当ずさんなのだが、オウムに関連したこととなるとそういうずさんさも許容されるという社会的風潮があった。

 今回、改めて菊地直子さんの裁判についての論評を検索してみたら、菊地さんの捜査のひどさをほかならぬ江川紹子さんが指摘していた。江川さんは高裁の無罪判決を評価している。オウムをずっと追い続けてきた江川さんゆえに、その論評にはすごく説得力がある。]今回の高裁判決の評価をめぐる議論はこれからなされると思うが、これは同時に、裁判員裁判による市民感覚を反映させた法廷と、プロの法律家による法解釈と、それぞれどこにメリットデメリットがあるかという大事な問題を提起しているのかもしれない。判決の報道のしかた自体、メディアごとの評価が見出しの立て方その他に反映されている。

 たぶん世間の大方の受け止め方は、無罪なのだったらなぜ17年間も逃亡していたのか、という疑問だろう。ただ、私も彼女の手記を掲載し、何度か接見して話しているうちに理解できたのだが、実は順序があべこべなのだ。彼女の手記にある通り、もともとサリン事件に直接関与するような幹部でも何でもなかったのに、突然、1995年5月16日にサリン事件の殺人・殺人未遂容疑で逮捕状が出されたことから話は始まる。幹部の林泰男死刑囚らが逃亡を決めた時に、同じ逮捕状が出ていたので彼女も一緒に逃亡した。彼女にしてみれば身に覚えがないのにそうなってしまったわけだ。

 じゃあ、どうして17年間も出頭しなかったの?という疑問は当然湧くだろう。彼女も思い悩んでいたらしい。私も接見の時に、弁護士さんにでも相談すれば絶対に出頭した方がよいと言われたと思う、と彼女に訊いてみたが、彼女の返事はこうだった。そんな相談をする相手はいなかった、と。確かに殺人容疑で指名手配されたら、怖くて誰かに相談することなどできなかったかもしれない。そのへんの心境も彼女は手記に書き込んでいる。

 今回の判決で、彼女は再び教団に戻るのかなどとネットに書いている人もいるが、これも手記にある通り、彼女は逃亡を続けたことで教団からも除名処分になっている。もう帰る場所がなくなったまま、17年間、漂流を続けたのだ。 

 彼女がマスコミ不信に陥っていると前述したが、彼女に聞いてわかったのは、これまでのマスコミ報道が相当間違っていることだ。例えばこれは極めて重要な点なのだが、彼女がオウム教団に入ったきっかけは、陸上競技で脚を痛めてヨガ道場に通い始めたということで、これはもう定説になっているのだが、接見の時に彼女は、それは全く違うんです、と言っていた。その定説自体がいったいどういう根拠に基づいているのか、今となってはわからないが、マスコミはいまだにそう報じている。そのほかにも週刊誌が大々的に報じているいわゆる菊地ノートの解釈についても、彼女は、あそこが違う、これが違うと指摘していた。考えてみればマスコミが相当量報じている菊地直子伝説は、伝聞や推定による部分がかなりあるらしいのだ。

 しかし、彼女はそういうものにいちいち、自分のプライバシーをさらしてまで応える気はないようだ。逃亡中の生活についても、お世話になった人に迷惑がかかるのでいっさい話す気はないと言っていた。

 ついでに言っておけば、彼女が逮捕された時に同居していた男性についても、今回の判決後、マスコミが一斉に取材をかけたようで、彼の娘にまで取材が来るような事態に当事者たちがみな怒っているという。菊地直子さんの逮捕を機に別れた男性にまで集中的に取材をかけるというのは、批判されている「集団的過熱取材(メディアスクラム)」そのものだ。新聞・テレビは一過性だから3日もすれば収まるが、これから週刊誌がそれに続く可能性があるので、それについても当事者たちが迷惑だと怒っていることをお伝えしたい。私は『創』の菊地手記掲載後、その男性から連絡をもらいいろいろ話す機会も得たが、いまだに取材が殺到していると聞いて気の毒になった。

 以上、現状での感想を記したが、実は私自身、ここまですごい判決が出るとは予想しておらず、菊地さんとはしばらく連絡をとっていなかった。判決が出て落ち着いたらまた接見しようと思っていたのだが、接見どころか一気に釈放までなされてしまった。この急展開にはただ驚くばかりだ。

 では、『創』8月号に掲載された菊地直子さんの手記を掲載しよう。今から読み返すと、なかなか重要な示唆をたくさん含んだ内容といえる。この手記は『週刊新潮』への提訴を決めたという話で終わっているのだが、その後接見した時に確認したら、手続きに時間がかかって提訴はまだしていないとのこと。そうするうちに今回の高裁判決になったわけだ。(以上文責・篠田博之)

 

「走る爆弾娘」と呼ばれた非日常すぎる状況

 「過去のオウム裁判の記録を見ても、菊地さんの名前がほとんど出てこない。菊地さんはサリンの生成には関与していないのではないか」

 接見室で国選の弁護人の先生からそう言われたのは、私が平成24年6月3日に逮捕されてから、それほど経っていないある日のことでした。

「えっ、そうなんですか?」

私は全国指名手配されて逃げているうちに、自分が地下鉄サリン事件で使われたサリンの生成に、なんらかの形で関与してしまったのだろうと思いこんでしまっていました。しかし、よくよく思い出してみると、指名手配になった当時は「なんで私が?」「幹部と言われている人達とたまたま一緒にいたからかなあ?」などと思っていたのです。

 後になってから、「あの作業がサリンと関係していたのだろうか?」と考えてみましたが、私と一緒にその作業をしていた人は、地下鉄サリン事件では逮捕されていません。「薬事法違反」で起訴されているだけでした。「それでは何が?」と考えても他に思いつきませんでした。結局、何がサリンと関係していたのかがはっきりしないまま、私は17年も逃げ続けてしまったのです。

先生に「サリンの生成には関与していないのではないか」と言われて、ようやく気付いたのです。「ああ、私はサリンの生成には関わってなかったんだ。何がサリンと関係していたのかがわからなくて当たり前だったんだ」と。

 私に地下鉄サリン事件の殺人・殺人未遂容疑で逮捕状が出たのは平成7年(1995年)5月16日のことです。地下鉄サリン事件が起きたのは、同年の3月20日のことです。事件が起きた直後、教団への強制捜査がせまった為に私が林泰男さんと逃走を始めたとか、八王子市内のマンションで潜伏していたなどの報道が一部でされていますが、それは正しくありません。逮捕状が出る直前まで、私は強制捜査の行われている山梨県上九一色村のオウム真理教の施設内で普通に生活をしていました。こんな事件を教団が起こすはずがないと思っていた私は、この騒動も直に収まると考えていて、まさかその後自分に逮捕状が出るなど夢にも思っていなかったのです(逃走生活が始まってからも、しばらくの間、私は地下鉄サリン事件は教団が起こしたものではないと信じていました)。

 林泰男さん達との逃走が始まったのは、逮捕状が出た直後の5月18日のことです。逮捕状が出る直前に中川智正さんに東京都内に呼び出されていた私は、5月17日に都心の某マンションに行くように中川さんから指示をされました(中川さんはその指示を出した直後に逮捕されてしまいました)。マンションに一晩泊まった次の日に林さんがやってきました。お互い相手の顔と名前は知っていましたが、話をしたことはありません。

「じゃあ、行こうか」

と林さんに声をかけられ、

「どこに行くのかな?」

と思いながら、彼と一緒にマンションを出たのが、17年にわたる逃走の始まりとなりました。

  逃走が始まったばかりの頃は、突然身に覚えのないことで全国指名手配になるという、あまりにも非日常すぎる状況に、現実が現実として感じられず、まるで映画の世界の中に迷い込んでしまったかのように感じた記憶が残っています。

しばらくして、TVで私が「走る爆弾娘」と呼ばれるようになりました。自分が地下鉄サリン事件で指名手配になった時もそうでしたが、全くの寝耳に水の出来事です。上九一色村にいた時に、中川さんに頼まれて八王子のマンションに薬品を運んだことがあったのですが、それが爆弾の原材料として使われたらしいということにこの時初めて気が付きました。

「大変なことになった。じゃあ、やっぱりサリンの生成にも関わったのだろうか?」。そうは思っても、出頭する勇気は出ませんでした。「きっと『知らなかった』と言っても信じてもらえない。私は地下鉄サリン事件の犯人として裁かれてしまうんだ」。そう思いこんでしまったのです。

 私は高校卒業後、18歳の時にオウム真理教に出家しました。両親との関係はとても悪く、実家には絶対に戻りたくないと思っていました。一方、指名手配されて1カ月ぐらい後のことだったと思いますが、教団の「出頭するように」という呼びかけに応じなかった為、上祐史浩さんに除名処分にされてしまいました。私には帰る場所が無くなってしまったのです。これは、私がその後17年逃げ続けてしまった一つの要因にもなりました。

 

 紆余曲折の17年の末、私はとうとう逮捕されてしまいました。警察につかまれば暴力をふるわれてでも嘘の自白をさせられると思っていた私は、取調官の応対が思いの外、紳士的に感じられました。

「なんだ。こちらの言い分もちゃんと聞いてくれるんだ」

 私の供述の都合のよい部分だけがマスコミに流されていることを知らなかった私は、不覚にもそう思ってしまいました。

しかし、その思いは突然裏切られることになりました。

「地下鉄サリン事件について、まだ何も話していないじゃないか! まだ話していない事があるだろう!」

それまで穏やかだった取調官の態度が豹変し、私は怒声を浴びせられたのです。私を睨みつけるその目はまるで氷のようでした。

その瞬間、私の頭の中でいろんな思いが交錯しました。「地下鉄サリン事件についてと言われても、心当たりのありそうなものについてはもう話したのに。他に何を話せと言うのだろう?」「初日に『知らなかった』と話した時は信じてくれているように見えたのに」「『知らなかった』のだから、何が地下鉄サリン事件と関係があるかなんてわからないのに」「やっぱり信じてもらえないんだ」「17年間、『どうせわかってもらえない』と思っていたのは正しかった」「少しでも『わかってもらえるかも』と期待した私が馬鹿だった」......。

私は取調官に心を開きかけていたことを後悔しました。そしてこう言ったのです。

「『何も話していない』と言うのなら、もう本当に何も話しません」

 そして二度と言葉を発することはありませんでした。

 

 結局、私は地下鉄サリン事件では処分保留となり、起訴される事はありませんでした。続いて逮捕されたVX殺人事件でも処分保留になりました(この事件については、自分に逮捕状が出ていることすら知りませんでした)。そして、最後に逮捕された都庁小包爆弾事件で起訴されたのです。

 起訴されて、湾岸署の留置所から東京拘置所に移った後、私は弁護人の先生が言っていた事が正しかったと知ることになりました。関係者の膨大な供述調書と裁判調書が差し入れられたからです。どのぐらい膨大な量かというと、ファイルにとじて30センチぐらいに平積みしたものが7山です。しかも、これは表と裏にそれぞれ調書4ページ分を縮小コピーしているので、実際には8倍の量です。つまり全部積み上げると、16・8mもの分量ということになります。このうち私の事に触れられているのはほんの一部なのですが、関係者の全ての調書を検察に開示請求したところ、このような量になってしまったのです。これらの調書から、私がサリン生成に関わっていないのは明らかでした。

また、厚生省(当時の教団の部署名)のメンバーのうち3人(私を含めると4人)が、地下鉄サリン事件で逮捕された後に釈放されていたこともわかりました。恐らく警察は事件の早期解決を図って、証拠が揃っていない人物にまで逮捕状を出したのでしょう。この3人はすぐに逮捕された為、私のように指名手配になることもなく、釈放されたことも大きく報道されていなかったので(もしくは全く報道されなかったのかもしれません)、私はその事に全く気付かなかったのです。もし気付けていれば、自分がサリン生成に関わっていなかったことにも気付けたかもしれません。

しかし、全ては後の祭りでした。「どうすることもできない」と私はあきらめてしまっていました。

 

 逮捕されて約2年後の昨年の5月、私の裁判(都庁小包爆弾事件)が始まりました。この裁判の一審では、私が教団内でどのような活動をしていたのかが詳細に審理されました。つまり私がサリン生成に関与していないということが明らかにされたのです。

そして同年6月30日、私は懲役5年の有罪判決を受けました。起訴時の罪名は爆発物取締罰則違反ほう助と殺人未遂ほう助でしたが、爆発物を製造し使用することについては認識が認められず、ほう助罪は成立しないとされ、殺人未遂ほう助のみが認定されました。私はこれを不服として即日控訴しました。

 この一審の有罪判決直後に、私はある報道を知ることになり、自分が今だに地下鉄サリン事件の犯人であると世間から認識されていることに気付きました。私は狐につままれたように感じました。私は地下鉄サリン事件では起訴されていません。加えて、サリン生成には関与していないことが裁判で明らかになったばかりです。傍聴席にはマスコミの専用席が設けられており、その席が割り当てられた司法記者クラブの人達は、私の裁判を通しで傍聴しているはずです。であるのにかかわらず、なぜ私が地下鉄サリン事件に関わったかのような報道が、その裁判の直後に流れるのでしょう。

 裁判で有罪判決が下されたことのショックに加え、私はただただ失望を感じることしかできませんでした。

 

 控訴審の準備を進めていた昨年の終わり頃、私は創出版・篠田編集長の『生涯編集者』という本を拘置所内から購入しました。その中に「ロス疑惑」で有名になった故・三浦和義さんの記事が載っていました。なんと彼はマスコミ相手に約500件もの裁判を起こし、そのほとんどに勝訴したというのです。初めてこれを読んだ時、「ふ~ん、すごいね」とは思いましたが、他人事でした。自分にこんなことができるとは想像できなかったのです。

 ちょうどその頃、私は両親との関係に悩んでいました。両親は定期的に面会に来てくれていましたが、私には両親が自分をコントロールしようとしているようにしか感じられず、面会の度に強い恐怖を感じていたのです。

「いったい何がこんなに恐怖なのだろう?」

 この状態から抜け出したくて、私は幼少期の体験まで思い起こして、必死にその原因を探ろうとしました。そしてやっと、無意識的にある思考パターンに陥っていることに気付いたのです。そのパターンとは、「話してもどうせわかってもらえない」「わかってもらえなくて傷付くだけ」、だから「最初から話さない」、もしくは「一度話してだめだったらすぐにあきらめてしまう」というものでした。

 そのことに気付いた時、私は初めて、傷つくことを恐れずに自分の思っている事を相手に伝えようと思いました。そう決意して面会したところ、それまでは全く伝わらなかったこちらの意思がすんなりと相手に伝わったのです。それは劇的な変化で、いったい何が起きたのかと呆然としてしまったほどです。

 この時、伝わらなくて困っていたのは「週刊誌は読まないから差し入れないでほしい」という些細な内容でした(私の記事が載っていたわけではないのですが、読みたくなかったのです)。「入れないで」と言っているのに、「外の情報がわかった方がいいから」と親が差し入れをやめてくれなかったのです。しかし、私がそれをうまく断れないのは、「断ると相手に悪いから」という相手を思いやる気持ちから来るのではなく、「自分が傷付きたくない」という理由でしかなかったことに気付いたとたん、状況が一変したのでした。これ以降、親に対して「伝わらない」と感じることがどんどん少なくなっていきました。

 この体験を機に、私の中で世界の見え方が徐々に変化していきました。この世の現実というのは、心が作り出しているのではないかと思うようになったのです。親との関係で言えば、「親にわかってもらえない」という現実が先にあるのではなく、「傷付きたくない」「どうせわかってもらえない」という否定的な想念が先にあり、その想念が心に壁を作り、その壁が言葉を遮断し、言葉を発しているのにもかかわらず「伝わらない」という現実を生み出していたのではないかと思ったのです。

 そこで初めて、私にも三浦和義さんと同じことができるのではないかという思いが湧いてきたのです。三浦さんの著書『弁護士いらず』(太田出版/現在絶版)には、「きちんと話せばきっと理解してくれる、という思いがあった」など肯定的な言葉が何度も出てきます。

「私と正反対の考えで生きている人だったんだなあ。きっとこの信念こそが高い勝訴率を生み出した原因に違いない。私はずっと『どうせわかってもらえない』と思いこんでいた。その思いこみが、犯人とされることに甘んじる結果につながっていたのではないか。このままでは誰も真実を報道してくれない。だったら自分から声を上げよう。必ずわかってもらえると信じた上で、きちんと説明すれば、きっと今の現実を変えることができる。その過程で傷付くことがあったとしても、それでもかまわない」

私は次第にそう思うようになったのです。

 私はそれまで、マスコミに対する極度の不信感から、徹底的に自分の報道から目を背けてきました。弁護士の先生との会話で自然に入ってきてしまうものはありましたが、特に週刊誌や新聞など紙媒体のものは、逃走中も含めてほとんど目にしていないのです。

 私は初めてこれらと真正面から向き合う決意をしました。今までの自分の報道に全て目を通そうと考えたのです。そしてもし間違った報道があったならば、きちんと抗議をし、それでも間違いを認めてもらえないならば、法廷という公の場で第三者にきちんと判断をしてもらおう。そう思ったのです。

 果たして裁判官が公正な判断をしてくれるだろうかという不安はありましたが、「最初から100%の結果が出なくてもいい。最初は10%か20%ぐらいしか伝わらなかったとしても、あきらめなければきっと伝わる。それに、何も行動を起こさなければ0%だけど、10%でも20%でも伝われば意味がある」と思ったのです。それは、自分の刑事裁判の体験から生じた思いでもありました。判決は「有罪」でしたが、裁判を傍聴していた(面識のない)方から、「本当に知らなかったんだなと思った」「(私の)証言に説得力があった」等のお手紙を頂いていたのです。

「裁判官には伝わらなかったけど、一部の人達には確実に伝わったんだ」

この体験は、「どうせわかってもらえない」と感じたことについては、最初から話さない癖のある私にとって、大きな成功体験になったのです。

 私はまず最初に週刊誌の記事を集め始めました。案の定、事実無根の記事ばかりでした。想定していたとはいえ、あまりにもひどい内容に意気消沈しましたが、気を取り直し、その中でも特にひどかった『週刊新潮』『週刊文春』『週刊実話』の三誌に内容証明郵便を送りました。

 いち早く回答が返ってきたのは『週刊新潮』でした。その回答書の内容は抗議した記事の内容以上にひどいものでした。私はサリン生成に関わったと断定する記事を載せられたことと、最高で無期懲役もあり得るなどという量刑予想を載せられたことについて主に抗議をしたのですが、『週刊新潮』は、「サリン製造に関わった」と表現することには何ら問題がないと主張し、その根拠として、「(私が)土谷正実実さん率いる第二厚生省に移った事」と「第二厚生省の拠点である『クシティガルバ棟』でサリンが製造された事」を挙げてきました。そして、サリンがクシティガルバ棟で製造された事は、過去のいくつかのオウム裁判で事実として認定されていると主張してきたのです。

 しかし、私の手元にある関係者の裁判記録では、クシティガルバ棟でサリンが生成されたのは、「93年(平成5年)12月~94年(平成6年)2月」です。これより後にクシティガルバ棟でサリンが生成されたという記録は一切ありません(95年3月に教団内でサリンが生成されたことがあったようですが、クシティガルバ棟とは別の施設でのことです)。一方、『週刊新潮』は記事の中で、「94年半ば、オウムが省庁制を定めた頃、『達成部』(私が所属していた部署名)は自然消滅。菊地は土谷正実率いる第二厚生省に移り、サリンの製造に関わるようになる」と、私が第二厚生省に移ったのは「94年半ば」だと明記しているのです。さらに回答書の中で「クシティガルバ棟は部外信者の立ち入りが禁じられた上」と書いています。サリンが作られた時期である「9312月~94年2月」に「達成部」に所属していた私が、いったいどのようにして、部外信者の立ち入りが禁じられていた「クシティガルバ棟」で、サリン生成に関与することができたのでしょうか?

 

『週刊新潮』は、私が第二厚生省に移った時期については調べることができたのに、「クシティガルバ棟」でサリンが作られた時期については調べることができなかったのでしょうか? 私の手元の裁判記録では、「クシティガルバ棟」でサリンが生成されたことと、その「時期」については、セットで記録されています。『週刊新潮』がその「時期」について、裁判記録を調べはしたけれども見落としてしまったのか、それとも見たけれども見なかったことにしているのか、もしくはそもそも裁判記録など調べていなかったのかはわかりません。そのいずれであったとしても、きちんと裏付けを取らずに「(私が)サリン製造に関わった」ことを記事にしたのは明らかです。

 さらに『週刊新潮』は、「小誌は貴殿が、サリン製造の認識を持って、この作業に従事していたものと確信しております」と私を犯人であると確信していると述べた上、私がこのような抗議文を送り付けてくるのは「一連のオウム事件への反省がないことの証左」だとして、私を激しく非難してきたのです。

 私はこれを読んでおかしいと思いました。もし私が実際にサリン生成に従事していてこのような抗議を行ったのなら、確かに「反省していない」と言われても仕方ありませんが、この件については完全な冤罪なのです。自分のやっていないことについて「やっていません」という権利すら、私にはないと『週刊新潮』は言うのでしょうか? 私はどんなに長くても、あとたった数年で外の社会に放り出されます。地下鉄サリン事件の犯人だというレッテルを貼られた上、社会でそれを否定することすら許されないとしたら、私はどのように生きていけばよいのでしょうか。私は『週刊新潮』に「お前には生きる権利がない」と言われているように感じました。

この回答書を呼んで深く傷ついた私は、声を上げて泣き出してしまいました。拘置所の職員さんが心配して声をかけてくれましたが、それに対して返事もできなかったのです。

 以前の私なら「やっぱりわかってもらえない」と、ここであきらめてしまっていたでしょう。しかし、私は「あきらめない」と固く心に決めていました。こちらが冤罪であることを主張しても、相手側がきちんとした事実確認を行わないままに私を犯人だと決めつけ続けるのであれば、訴訟を起こすしかありません。

 しかし、私はここで壁にぶち当たってしまいました。私は三浦さんにならって、マスコミ相手の民事訴訟を弁護士をつけずに本人訴訟という形で行おうとしていました。それが突然、あまりにも無謀なことのように思えてきたのです。抗議文を出しただけで、これだけ激しく攻撃されるのです。新潮社を訴えたとして、はたしてたった一人で最後まで闘えるのだろうか? と不安になったのです。

 仮に弁護士に代理人を頼むとしたら、刑事裁判でお世話になっている先生に頼むのがベストです。他の先生に頼む場合、私がサリンの生成に関与していないことを一から説明しなくてはいけないからです。しかし、刑事裁判だけでも大変なのに民事までお願いしてよいのだろうか? 私はそう感じていて、「民事訴訟を起こすかもしれません」とは伝えていたものの、内容証明を出したことや、ひどい回答書が届いたことまでは説明していませんでした。

「どうしてもあきらめたくない」という思いのもと、法律関係の本をひっくり返しながら、自ら訴状等書き上げてみましたが、どうしていいものか悩んでいるうちに数週間が経ちました。

そして、今年の5月1日のことです。弁護人の先生が飛んできました。

「菊地さんが内容証明を出したことが『週刊新潮』の記事になっているんですが......」

『週刊新潮』は、私が抗議文を出したことを、本誌の記事上でも批判してきたのです。その記事には、「届かぬ被害者の言葉」という見出しのもとに、「被害者の重い言葉を踏みにじる」などと書かれていました。私としてはそんなつもりは全くありません。事実を事実として正しく報道してもらいたかっただけなのです。私はこの記事にも大変落ちこみましたが、結果としてこれがきっかけとなり、刑事裁判でお世話になっている先生に民事訴訟の代理人となって頂ける運びとなりました。

こうして私は新潮社を訴えることになったのです。

 

 1127日に出された元オウム信者・菊地直子さんの逆転無罪判決には驚いた人が多かったと思う。1審の裁判員裁判の懲役5年という有罪判決を、2審でプロの裁判官がひっくり返したわけで、裁判のあり方をめぐる議論も起きている。たぶん週刊誌などにもこの判決に疑問を呈する記事が出るだろう。そこでここでそれについて書くとともに、菊地直子さんが『創』8月号に書いた手記を公開しよう。

 本誌にも判決について取材が入り、TBSの1130日放送の「白熱ライブ・ビビット」の取材には応じた。そこで『創』の手記を引用したいという申し出があったので、公に刊行されたものなので出典を明記して引用はどうぞ、と応じた。ただ考えてみると、たぶんテレビなどの引用は一部を抽出してなされるので、彼女の真意が伝わらないと困るなと思い、このブログで彼女の手記全文を公開しようと思い至った。この手記を読むと、彼女の訴えていたことがよくわかるからだ。

 手記の中でも書いているが、彼女はマスコミに対して相当強い不信感を抱いており、たぶん今後もマスコミのインタビューなどに応じることはないと思う。その意味では『創』に書いたこの手記が、彼女が直接社会に訴えた最初で最後の機会になるかもしれない。

 その手記の前に今回の高裁判決について『創』編集長・篠田の私見を少し書いておきたい。これはいろいろな意味で大きな問題提起であり、まずは裁判官のプロの法律家としての見識に敬意を表したいと思う。かつて「ロス疑惑」事件の三浦和義さん(故人)への無罪判決が出た時のことを彷彿とさせる。つまり、社会的イメージにとらわれず、法律に則って裁くという意志が感じられるのだ。

 実は5月に最初に菊地さんに接見した時、彼女が控訴したのは1審の懲役5年という量刑が重すぎるという意図かと思ってそう率直に尋ねたのだが、彼女からはいやそうでなく無罪を争っているのですよ、と言われた。その後私も裁判を傍聴して審理の中身を理解するようになったのだが、特別指名手配され17年間も逃亡していた彼女への世間のイメージには「無罪」という言葉はありえなかったと思う。1審の裁判員たちもそうだったと思われる。

 ただそれは恐らく社会の側のある種の先入観なのだと思う。裁判員裁判は、裁判に市民感覚を取り入れるという趣旨で私もその趣旨には賛同するが、同時にそれはある種の社会的イメージも入り込むことになる。菊地さんが接見の時に、いまだに自分に対して何か死刑相当の凶悪犯というイメージで捉えている人が多くて驚いてしまうと言っていた。彼女の特別指名手配の容疑はサリン製造に関与した殺人及び殺人未遂で、17年間、マスコミはずっとそう報道し続けてきた。彼女は今年に入ってようやくそういうマスコミ報道をただそうと、週刊誌に抗議文を送ったりしていたのだが、実はサリン事件関連では彼女は起訴もされていない。だから捜査側も相当ずさんなのだが、オウムに関連したこととなるとそういうずさんさも許容されるという社会的風潮があった。

 今回、改めて菊地直子さんの裁判についての論評を検索してみたら、菊地さんの捜査のひどさをほかならぬ江川紹子さんが指摘していた。オウムをずっと追い続けてきた江川さんが論評するとすごく説得力があるので、興味ある方は下記をご覧いただきたいが、その江川さんの指摘が今回の判決では現実のものになったといえる。

http://blogos.com/article/44492/

  今回の高裁判決の評価をめぐる議論はこれからなされると思うが、これは同時に、裁判員裁判による市民感覚を反映させた法廷と、プロの法律家による法解釈と、それぞれどこにメリットデメリットがあるかという大事な問題を提起しているのかもしれない。判決の報道のしかた自体、メディアごとの評価が見出しの立て方その他に反映されている。

 たぶん世間の大方の受け止め方は、無罪なのだったらなぜ17年間も逃亡していたのか、という疑問だろう。ただ、私も彼女の手記を掲載し、何度か接見して話しているうちに理解できたのだが、実は順序があべこべなのだ。彼女の手記にある通り、もともとサリン事件に直接関与するような幹部でも何でもなかったのに、突然、1995年5月16日にサリン事件の殺人・殺人未遂容疑で逮捕状が出されたことから話は始まる。幹部の林泰男死刑囚らが逃亡を決めた時に、同じ逮捕状が出ていたので彼女も一緒に逃亡した。彼女にしてみれば身に覚えがないのにそうなってしまったわけだ。

 じゃあ、どうして17年間も出頭しなかったの?という疑問は当然湧くだろう。彼女も思い悩んでいたらしい。私も接見の時に、弁護士さんにでも相談すれば絶対に出頭した方がよいと言われたと思う、と彼女に訊いてみたが、彼女の返事はこうだった。そんな相談をする相手はいなかった、と。確かに殺人容疑で指名手配されたら、怖くて誰かに相談することなどできなかったかもしれない。そのへんの心境も彼女は手記に書き込んでいる。

 今回の判決で、彼女は再び教団に戻るのかなどとネットに書いている人もいるが、これも手記にある通り、彼女は逃亡を続けたことで教団からも除名処分になっている。もう帰る場所がなくなったまま、17年間、漂流を続けたのだ。 

 彼女がマスコミ不信に陥っていると前述したが、彼女に聞いてわかったのは、これまでのマスコミ報道が相当間違っていることだ。例えばこれは極めて重要な点なのだが、彼女がオウム教団に入ったきっかけは、陸上競技で脚を痛めてヨガ道場に通い始めたということで、これはもう定説になっているのだが、接見の時に彼女は、それは全く違うんです、と言っていた。その定説自体がいったいどういう根拠に基づいているのか、今となってはわからないが、マスコミはいまだにそう報じている。そのほかにも週刊誌が大々的に報じているいわゆる菊地ノートの解釈についても、彼女は、あそこが違う、これが違うと指摘していた。考えてみればマスコミが相当量報じている菊地直子伝説は、伝聞や推定による部分がかなりあるらしいのだ。

 しかし、彼女はそういうものにいちいち、自分のプライバシーをさらしてまで応える気はないようだ。逃亡中の生活についても、お世話になった人に迷惑がかかるのでいっさい話す気はないと言っていた。

 ついでに言っておけば、彼女が逮捕された時に同居していた男性についても、今回の判決後、マスコミが一斉に取材をかけたようで、彼の娘にまで取材が来るような事態に当事者たちがみな怒っているという。菊地直子さんの逮捕を機に別れた男性にまで集中的に取材をかけるというのは、批判されている「集団的過熱取材(メディアスクラム)」そのものだ。新聞・テレビは一過性だから3日もすれば収まるが、これから週刊誌がそれに続く可能性があるので、それについても当事者たちが迷惑だと怒っていることをお伝えしたい。私は『創』の菊地手記掲載後、その男性から連絡をもらいいろいろ話す機会も得たが、いまだに取材が殺到していると聞いて気の毒になった。

 以上、現状での感想を記したが、実は筆者自身、ここまですごい判決が出るとは予想しておらず、菊地さんとはしばらく連絡をとっていなかった。判決が出て落ち着いたらまた接見しようと思っていたのだが、接見どころか一気に釈放までなされてしまった。この急展開にはただ驚くばかりだ。

 では、『創』8月号に掲載された菊地直子さんの手記を掲載しよう。今から読み返すと、なかなか重要な示唆をたくさん含んだ内容といえる。なおこの手記は『週刊新潮』への提訴を決めたという話で終わっているのだが、その後接見した時に確認したら、手続きに時間がかかって提訴はまだしていないとのこと。そうするうちに今回の判決になったわけだ。

 

「走る爆弾娘」と呼ばれた非日常すぎる状況

 「過去のオウム裁判の記録を見ても、菊地さんの名前がほとんど出てこない。菊地さんはサリンの生成には関与していないのではないか」

接見室で国選の弁護人の先生からそう言われたのは、私が平成24年6月3日に逮捕されてから、それほど経っていないある日のことでした。

「えっ、そうなんですか?」

私は全国指名手配されて逃げているうちに、自分が地下鉄サリン事件で使われたサリンの生成に、なんらかの形で関与してしまったのだろうと思いこんでしまっていました。しかし、よくよく思い出してみると、指名手配になった当時は「なんで私が?」「幹部と言われている人達とたまたま一緒にいたからかなあ?」などと思っていたのです。

 後になってから、「あの作業がサリンと関係していたのだろうか?」と考えてみましたが、私と一緒にその作業をしていた人は、地下鉄サリン事件では逮捕されていません。「薬事法違反」で起訴されているだけでした。「それでは何が?」と考えても他に思いつきませんでした。結局、何がサリンと関係していたのかがはっきりしないまま、私は17年も逃げ続けてしまったのです。

先生に「サリンの生成には関与していないのではないか」と言われて、ようやく気付いたのです。「ああ、私はサリンの生成には関わってなかったんだ。何がサリンと関係していたのかがわからなくて当たり前だったんだ」と。

 私に地下鉄サリン事件の殺人・殺人未遂容疑で逮捕状が出たのは平成7年(1995年)5月16日のことです。地下鉄サリン事件が起きたのは、同年の3月20日のことです。事件が起きた直後、教団への強制捜査がせまった為に私が林泰男さんと逃走を始めたとか、八王子市内のマンションで潜伏していたなどの報道が一部でされていますが、それは正しくありません。逮捕状が出る直前まで、私は強制捜査の行われている山梨県上九一色村のオウム真理教の施設内で普通に生活をしていました。こんな事件を教団が起こすはずがないと思っていた私は、この騒動も直に収まると考えていて、まさかその後自分に逮捕状が出るなど夢にも思っていなかったのです(逃走生活が始まってからも、しばらくの間、私は地下鉄サリン事件は教団が起こしたものではないと信じていました)。

 林泰男さん達との逃走が始まったのは、逮捕状が出た直後の5月18日のことです。逮捕状が出る直前に中川智正さんに東京都内に呼び出されていた私は、5月17日に都心の某マンションに行くように中川さんから指示をされました(中川さんはその指示を出した直後に逮捕されてしまいました)。マンションに一晩泊まった次の日に林さんがやってきました。お互い相手の顔と名前は知っていましたが、話をしたことはありません。

「じゃあ、行こうか」

と林さんに声をかけられ、

「どこに行くのかな?」

と思いながら、彼と一緒にマンションを出たのが、17年にわたる逃走の始まりとなりました。

 

 逃走が始まったばかりの頃は、突然身に覚えのないことで全国指名手配になるという、あまりにも非日常すぎる状況に、現実が現実として感じられず、まるで映画の世界の中に迷い込んでしまったかのように感じた記憶が残っています。

しばらくして、TVで私が「走る爆弾娘」と呼ばれるようになりました。自分が地下鉄サリン事件で指名手配になった時もそうでしたが、全くの寝耳に水の出来事です。上九一色村にいた時に、中川さんに頼まれて八王子のマンションに薬品を運んだことがあったのですが、それが爆弾の原材料として使われたらしいということにこの時初めて気が付きました。

「大変なことになった。じゃあ、やっぱりサリンの生成にも関わったのだろうか?」。そうは思っても、出頭する勇気は出ませんでした。「きっと『知らなかった』と言っても信じてもらえない。私は地下鉄サリン事件の犯人として裁かれてしまうんだ」。そう思いこんでしまったのです。

 私は高校卒業後、18歳の時にオウム真理教に出家しました。両親との関係はとても悪く、実家には絶対に戻りたくないと思っていました。一方、指名手配されて1カ月ぐらい後のことだったと思いますが、教団の「出頭するように」という呼びかけに応じなかった為、上祐史浩さんに除名処分にされてしまいました。私には帰る場所が無くなってしまったのです。これは、私がその後17年逃げ続けてしまった一つの要因にもなりました。

 

 紆余曲折の17年の末、私はとうとう逮捕されてしまいました。警察につかまれば暴力をふるわれてでも嘘の自白をさせられると思っていた私は、取調官の応対が思いの外、紳士的に感じられました。

「なんだ。こちらの言い分もちゃんと聞いてくれるんだ」

 私の供述の都合のよい部分だけがマスコミに流されていることを知らなかった私は、不覚にもそう思ってしまいました。

しかし、その思いは突然裏切られることになりました。

「地下鉄サリン事件について、まだ何も話していないじゃないか! まだ話していない事があるだろう!」

それまで穏やかだった取調官の態度が豹変し、私は怒声を浴びせられたのです。私を睨みつけるその目はまるで氷のようでした。

その瞬間、私の頭の中でいろんな思いが交錯しました。「地下鉄サリン事件についてと言われても、心当たりのありそうなものについてはもう話したのに。他に何を話せと言うのだろう?」「初日に『知らなかった』と話した時は信じてくれているように見えたのに」「『知らなかった』のだから、何が地下鉄サリン事件と関係があるかなんてわからないのに」「やっぱり信じてもらえないんだ」「17年間、『どうせわかってもらえない』と思っていたのは正しかった」「少しでも『わかってもらえるかも』と期待した私が馬鹿だった」......。

私は取調官に心を開きかけていたことを後悔しました。そしてこう言ったのです。

「『何も話していない』と言うのなら、もう本当に何も話しません」

 そして二度と言葉を発することはありませんでした。

 

 結局、私は地下鉄サリン事件では処分保留となり、起訴される事はありませんでした。続いて逮捕されたVX殺人事件でも処分保留になりました(この事件については、自分に逮捕状が出ていることすら知りませんでした)。そして、最後に逮捕された都庁小包爆弾事件で起訴されたのです。

 起訴されて、湾岸署の留置所から東京拘置所に移った後、私は弁護人の先生が言っていた事が正しかったと知ることになりました。関係者の膨大な供述調書と裁判調書が差し入れられたからです。どのぐらい膨大な量かというと、ファイルにとじて30センチぐらいに平積みしたものが7山です。しかも、これは表と裏にそれぞれ調書4ページ分を縮小コピーしているので、実際には8倍の量です。つまり全部積み上げると、16・8mもの分量ということになります。このうち私の事に触れられているのはほんの一部なのですが、関係者の全ての調書を検察に開示請求したところ、このような量になってしまったのです。これらの調書から、私がサリン生成に関わっていないのは明らかでした。

また、厚生省(当時の教団の部署名)のメンバーのうち3人(私を含めると4人)が、地下鉄サリン事件で逮捕された後に釈放されていたこともわかりました。恐らく警察は事件の早期解決を図って、証拠が揃っていない人物にまで逮捕状を出したのでしょう。この3人はすぐに逮捕された為、私のように指名手配になることもなく、釈放されたことも大きく報道されていなかったので(もしくは全く報道されなかったのかもしれません)、私はその事に全く気付かなかったのです。もし気付けていれば、自分がサリン生成に関わっていなかったことにも気付けたかもしれません。

しかし、全ては後の祭りでした。「どうすることもできない」と私はあきらめてしまっていました。

 

 逮捕されて約2年後の昨年の5月、私の裁判(都庁小包爆弾事件)が始まりました。この裁判の一審では、私が教団内でどのような活動をしていたのかが詳細に審理されました。つまり私がサリン生成に関与していないということが明らかにされたのです。

そして同年6月30日、私は懲役5年の有罪判決を受けました。起訴時の罪名は爆発物取締罰則違反ほう助と殺人未遂ほう助でしたが、爆発物を製造し使用することについては認識が認められず、ほう助罪は成立しないとされ、殺人未遂ほう助のみが認定されました。私はこれを不服として即日控訴しました。

 この一審の有罪判決直後に、私はある報道を知ることになり、自分が今だに地下鉄サリン事件の犯人であると世間から認識されていることに気付きました。私は狐につままれたように感じました。私は地下鉄サリン事件では起訴されていません。加えて、サリン生成には関与していないことが裁判で明らかになったばかりです。傍聴席にはマスコミの専用席が設けられており、その席が割り当てられた司法記者クラブの人達は、私の裁判を通しで傍聴しているはずです。であるのにかかわらず、なぜ私が地下鉄サリン事件に関わったかのような報道が、その裁判の直後に流れるのでしょう。

 裁判で有罪判決が下されたことのショックに加え、私はただただ失望を感じることしかできませんでした。

 

 控訴審の準備を進めていた昨年の終わり頃、私は創出版・篠田編集長の『生涯編集者』という本を拘置所内から購入しました。その中に「ロス疑惑」で有名になった故・三浦和義さんの記事が載っていました。なんと彼はマスコミ相手に約500件もの裁判を起こし、そのほとんどに勝訴したというのです。初めてこれを読んだ時、「ふ~ん、すごいね」とは思いましたが、他人事でした。自分にこんなことができるとは想像できなかったのです。

 ちょうどその頃、私は両親との関係に悩んでいました。両親は定期的に面会に来てくれていましたが、私には両親が自分をコントロールしようとしているようにしか感じられず、面会の度に強い恐怖を感じていたのです。

「いったい何がこんなに恐怖なのだろう?」

 この状態から抜け出したくて、私は幼少期の体験まで思い起こして、必死にその原因を探ろうとしました。そしてやっと、無意識的にある思考パターンに陥っていることに気付いたのです。そのパターンとは、「話してもどうせわかってもらえない」「わかってもらえなくて傷付くだけ」、だから「最初から話さない」、もしくは「一度話してだめだったらすぐにあきらめてしまう」というものでした。

 そのことに気付いた時、私は初めて、傷つくことを恐れずに自分の思っている事を相手に伝えようと思いました。そう決意して面会したところ、それまでは全く伝わらなかったこちらの意思がすんなりと相手に伝わったのです。それは劇的な変化で、いったい何が起きたのかと呆然としてしまったほどです。

 この時、伝わらなくて困っていたのは「週刊誌は読まないから差し入れないでほしい」という些細な内容でした(私の記事が載っていたわけではないのですが、読みたくなかったのです)。「入れないで」と言っているのに、「外の情報がわかった方がいいから」と親が差し入れをやめてくれなかったのです。しかし、私がそれをうまく断れないのは、「断ると相手に悪いから」という相手を思いやる気持ちから来るのではなく、「自分が傷付きたくない」という理由でしかなかったことに気付いたとたん、状況が一変したのでした。これ以降、親に対して「伝わらない」と感じることがどんどん少なくなっていきました。

 この体験を機に、私の中で世界の見え方が徐々に変化していきました。この世の現実というのは、心が作り出しているのではないかと思うようになったのです。親との関係で言えば、「親にわかってもらえない」という現実が先にあるのではなく、「傷付きたくない」「どうせわかってもらえない」という否定的な想念が先にあり、その想念が心に壁を作り、その壁が言葉を遮断し、言葉を発しているのにもかかわらず「伝わらない」という現実を生み出していたのではないかと思ったのです。

 そこで初めて、私にも三浦和義さんと同じことができるのではないかという思いが湧いてきたのです。三浦さんの著書『弁護士いらず』(太田出版/現在絶版)には、「きちんと話せばきっと理解してくれる、という思いがあった」など肯定的な言葉が何度も出てきます。

「私と正反対の考えで生きている人だったんだなあ。きっとこの信念こそが高い勝訴率を生み出した原因に違いない。私はずっと『どうせわかってもらえない』と思いこんでいた。その思いこみが、犯人とされることに甘んじる結果につながっていたのではないか。このままでは誰も真実を報道してくれない。だったら自分から声を上げよう。必ずわかってもらえると信じた上で、きちんと説明すれば、きっと今の現実を変えることができる。その過程で傷付くことがあったとしても、それでもかまわない」

私は次第にそう思うようになったのです。

 私はそれまで、マスコミに対する極度の不信感から、徹底的に自分の報道から目を背けてきました。弁護士の先生との会話で自然に入ってきてしまうものはありましたが、特に週刊誌や新聞など紙媒体のものは、逃走中も含めてほとんど目にしていないのです。

 私は初めてこれらと真正面から向き合う決意をしました。今までの自分の報道に全て目を通そうと考えたのです。そしてもし間違った報道があったならば、きちんと抗議をし、それでも間違いを認めてもらえないならば、法廷という公の場で第三者にきちんと判断をしてもらおう。そう思ったのです。

 果たして裁判官が公正な判断をしてくれるだろうかという不安はありましたが、「最初から100%の結果が出なくてもいい。最初は10%か20%ぐらいしか伝わらなかったとしても、あきらめなければきっと伝わる。それに、何も行動を起こさなければ0%だけど、10%でも20%でも伝われば意味がある」と思ったのです。それは、自分の刑事裁判の体験から生じた思いでもありました。判決は「有罪」でしたが、裁判を傍聴していた(面識のない)方から、「本当に知らなかったんだなと思った」「(私の)証言に説得力があった」等のお手紙を頂いていたのです。

「裁判官には伝わらなかったけど、一部の人達には確実に伝わったんだ」

この体験は、「どうせわかってもらえない」と感じたことについては、最初から話さない癖のある私にとって、大きな成功体験になったのです。

 私はまず最初に週刊誌の記事を集め始めました。案の定、事実無根の記事ばかりでした。想定していたとはいえ、あまりにもひどい内容に意気消沈しましたが、気を取り直し、その中でも特にひどかった『週刊新潮』『週刊文春』『週刊実話』の三誌に内容証明郵便を送りました。

 いち早く回答が返ってきたのは『週刊新潮』でした。その回答書の内容は抗議した記事の内容以上にひどいものでした。私はサリン生成に関わったと断定する記事を載せられたことと、最高で無期懲役もあり得るなどという量刑予想を載せられたことについて主に抗議をしたのですが、『週刊新潮』は、「サリン製造に関わった」と表現することには何ら問題がないと主張し、その根拠として、「(私が)土谷正実実さん率いる第二厚生省に移った事」と「第二厚生省の拠点である『クシティガルバ棟』でサリンが製造された事」を挙げてきました。そして、サリンがクシティガルバ棟で製造された事は、過去のいくつかのオウム裁判で事実として認定されていると主張してきたのです。

 しかし、私の手元にある関係者の裁判記録では、クシティガルバ棟でサリンが生成されたのは、「93年(平成5年)12月~94年(平成6年)2月」です。これより後にクシティガルバ棟でサリンが生成されたという記録は一切ありません(95年3月に教団内でサリンが生成されたことがあったようですが、クシティガルバ棟とは別の施設でのことです)。一方、『週刊新潮』は記事の中で、「94年半ば、オウムが省庁制を定めた頃、『達成部』(私が所属していた部署名)は自然消滅。菊地は土谷正実率いる第二厚生省に移り、サリンの製造に関わるようになる」と、私が第二厚生省に移ったのは「94年半ば」だと明記しているのです。さらに回答書の中で「クシティガルバ棟は部外信者の立ち入りが禁じられた上」と書いています。サリンが作られた時期である「9312月~94年2月」に「達成部」に所属していた私が、いったいどのようにして、部外信者の立ち入りが禁じられていた「クシティガルバ棟」で、サリン生成に関与することができたのでしょうか?

 

『週刊新潮』は、私が第二厚生省に移った時期については調べることができたのに、「クシティガルバ棟」でサリンが作られた時期については調べることができなかったのでしょうか? 私の手元の裁判記録では、「クシティガルバ棟」でサリンが生成されたことと、その「時期」については、セットで記録されています。『週刊新潮』がその「時期」について、裁判記録を調べはしたけれども見落としてしまったのか、それとも見たけれども見なかったことにしているのか、もしくはそもそも裁判記録など調べていなかったのかはわかりません。そのいずれであったとしても、きちんと裏付けを取らずに「(私が)サリン製造に関わった」ことを記事にしたのは明らかです。

 さらに『週刊新潮』は、「小誌は貴殿が、サリン製造の認識を持って、この作業に従事していたものと確信しております」と私を犯人であると確信していると述べた上、私がこのような抗議文を送り付けてくるのは「一連のオウム事件への反省がないことの証左」だとして、私を激しく非難してきたのです。

 私はこれを読んでおかしいと思いました。もし私が実際にサリン生成に従事していてこのような抗議を行ったのなら、確かに「反省していない」と言われても仕方ありませんが、この件については完全な冤罪なのです。自分のやっていないことについて「やっていません」という権利すら、私にはないと『週刊新潮』は言うのでしょうか? 私はどんなに長くても、あとたった数年で外の社会に放り出されます。地下鉄サリン事件の犯人だというレッテルを貼られた上、社会でそれを否定することすら許されないとしたら、私はどのように生きていけばよいのでしょうか。私は『週刊新潮』に「お前には生きる権利がない」と言われているように感じました。

この回答書を呼んで深く傷ついた私は、声を上げて泣き出してしまいました。拘置所の職員さんが心配して声をかけてくれましたが、それに対して返事もできなかったのです。

 以前の私なら「やっぱりわかってもらえない」と、ここであきらめてしまっていたでしょう。しかし、私は「あきらめない」と固く心に決めていました。こちらが冤罪であることを主張しても、相手側がきちんとした事実確認を行わないままに私を犯人だと決めつけ続けるのであれば、訴訟を起こすしかありません。

 しかし、私はここで壁にぶち当たってしまいました。私は三浦さんにならって、マスコミ相手の民事訴訟を弁護士をつけずに本人訴訟という形で行おうとしていました。それが突然、あまりにも無謀なことのように思えてきたのです。抗議文を出しただけで、これだけ激しく攻撃されるのです。新潮社を訴えたとして、はたしてたった一人で最後まで闘えるのだろうか? と不安になったのです。

 仮に弁護士に代理人を頼むとしたら、刑事裁判でお世話になっている先生に頼むのがベストです。他の先生に頼む場合、私がサリンの生成に関与していないことを一から説明しなくてはいけないからです。しかし、刑事裁判だけでも大変なのに民事までお願いしてよいのだろうか? 私はそう感じていて、「民事訴訟を起こすかもしれません」とは伝えていたものの、内容証明を出したことや、ひどい回答書が届いたことまでは説明していませんでした。

「どうしてもあきらめたくない」という思いのもと、法律関係の本をひっくり返しながら、自ら訴状等書き上げてみましたが、どうしていいものか悩んでいるうちに数週間が経ちました。

そして、今年の5月1日のことです。弁護人の先生が飛んできました。

「菊地さんが内容証明を出したことが『週刊新潮』の記事になっているんですが......」

『週刊新潮』は、私が抗議文を出したことを、本誌の記事上でも批判してきたのです。その記事には、「届かぬ被害者の言葉」という見出しのもとに、「被害者の重い言葉を踏みにじる」などと書かれていました。私としてはそんなつもりは全くありません。事実を事実として正しく報道してもらいたかっただけなのです。私はこの記事にも大変落ちこみましたが、結果としてこれがきっかけとなり、刑事裁判でお世話になっている先生に民事訴訟の代理人となって頂ける運びとなりました。

こうして私は新潮社を訴えることになったのです。

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8月26日、午後1時からの「安保法案に反対する学者の会」の会見に足を運んだ。上野千鶴子さんが発言の中で言っていたが、この運動には100以上の大学の教員や学生が関わっており、もはや学者の会というより、大学人の運動と言ってよい。大学がこんなふうに社会的運動の前面に登場したのは、70年安保前後の大学闘争以来ではないだろうか。国旗国歌の掲楊が国から要請されるなど、大学の自治や自立を脅かす動きが強まっていることへの危機感もあいまってそうなっているのだろう。

この日、全国から集まった200人を超える「学者の会」のメンバーは、夕方、日弁連との合同会見を行ったのだが、この会見をめぐって幾つかの波紋が広がっている。私はそちらの会見には行けなかったのだが、後で参加者から話を聞いて、あー行けば良かったと後悔した。でもその会見の模様は全編動画公開されており、「学者の会」のホームページからアクセスできる。

http://anti-security-related-bill.jp/

 会見の発言はそれぞれ考えさせる内容だが、特に拍手が大きかったのが上智大学・中野晃一教授の発言だ。私も日本ペンクラブ言論表現委員会副委員長を務めていることもあってこの1年ほど院内集会などで発言する機会が何度かあったが、中野教授は学者の立場から、そういう集会ではいつも発言して来た人物だ。

その中野教授が今回の会見で強調したのは、こうして全法曹界が声をあげ、全学会も集まった、では全報道はどこにいるのか、報道の自由が危機に瀕しているこの時に「報道はどこにいるのか」という内容だった。発言が終わった後、会見に臨んだ人たちの間でしばし拍手が鳴りやまなかった。

 今、安保法案をめぐって多くの国民が反対の声を挙げているなかで、改めて問われているのがジャーナリズムのあり方だ。この会見もそうだが、メディアがそれを伝えなければ、そこでの発言は多くの人に伝わらない。実際、新聞・テレビでこの会見内容を全く報道しなかったメディアもある。そもそも私が足を運んだ昼の会見も、取材に訪れていたのは特定のメディアだけだ。

 

戦前戦中と日本のマスメディアは戦争に協力し、戦意高揚の報道を続けた。それに対する痛烈な反省から出発したのが戦後のジャーナリズムのはずだったのだが、いまやメディア界は様変わりしてしまった。市民の知る権利を代行し権力を監視するのがジャーナリズムの役割という認識さえ、稀薄になりつつある。

その意味では、中野教授の発言は、ジャーナリズム界への大きな問題提起なのだが、この会見で波紋を投げたのはそれだけではなかった。質疑応答に移って、3つのメディアが質問に立ったのだが、その最後が産経新聞だった。そしてその記者が、安保法案のような賛否が分かれる問題について日弁連が反対という特定の立場をとるのはどうなのか、という質問をしたのである。会場に失笑と、ヤジが飛んだ。

それまでの発言で、日弁連としては安保法案が立憲主義そのものを否定するものであり、廃案を求めざるをえないと説明してきたのに、「今までの話を聞いてたのか?」と突っ込みが入るような質問だった。学者の会として檀上でそれを聞いていた知人は、そこまで空気の読めない質問を敢えて行う勇気に感心した、と皮肉まじりに語っていた。

産経記者が先の中野教授の発言を聞いたうえで確信犯的に最後にその質問をしたのかどうか定かではないのだが、メディア界の現状をあまりにも象徴的に示した光景だったと言える。その最後の質問に至るまでネットに動画が公開されているから、ジャーナリズム関係者はぜひそれを見て、考えてほしい。

 

ちょうど発売中の月刊『創』9・10月合併号で「安倍政権のメディア支配」について特集を組んでいるが、安倍政権がこの間、批判勢力としてのメディアを抑えこもうとしてきたのは確かだ。NHKの会長に政権寄りの人物を送りこんだり、朝日新聞やテレビ朝日に揺さぶりをかけるなど、戦略的にそれを行っている。先頃「マスコミを懲らしめる」という自民党の一部議員の発言が非難されたが、あれはあまりに下品で露骨だったから退けられたが、政権の意向とそう大きく違っているわけではない。

『創』の特集で金平茂紀さんが、メディアが政権から介入を受けているという言い方は間違いではないけれど、実はメディアの側に政権にすり寄っている人たちがいるのではないかと述べ、それを「自発的隷従」と言っている。言う間でもなく金平さんのような、組織に身を置くジャーナリストが、こういう発言をするのはある種の覚悟なしにはできないのだが、今のメディア界はある種の覚悟なしには発言もできないような状況になりつつある。

その意味でもジャーナリズム界は今、戦後最大の岐路に立たされていると言える。中野教授の「報道はどこにいる」という指摘は、言論・報道に携わる者が深刻に受け止めなければならないのではないだろうか。

http://www.tsukuru.co.jp/gekkan/index.html

 

8月26日、午後1時からの「安保法案に反対する学者の会」の会見に足を運んだ。上野千鶴子さんが発言の中で言っていたが、この運動には100以上の大学の教員や学生が関わっており、もはや学者の会というより、大学人の運動と言ってよい。大学がこんなふうに社会的運動の前面に登場したのは、70年安保前後の大学闘争以来ではないだろうか。国旗国歌の掲楊が国から要請されるなど、大学の自治や自立を脅かす動きが強まっていることへの危機感もあいまってそうなっているのだろう。

この日、全国から集まった200人を超える「学者の会」のメンバーは、夕方、日弁連との合同会見を行ったのだが、この会見をめぐって幾つかの波紋が広がっている。私はそちらの会見には行けなかったのだが、後で参加者から話を聞いて、あー行けば良かったと後悔した。でもその会見の模様は全編動画公開されており、「学者の会」のホームページからアクセスできる。

http://anti-security-related-bill.jp/

 

会見の発言はそれぞれ考えさせる内容だが、特に拍手が大きかったのが上智大学・中野晃一教授の発言だ。私も日本ペンクラブ言論表現委員会副委員長を務めていることもあってこの1年ほど院内集会などで発言する機会が何度かあったが、中野教授は学者の立場から、そういう集会ではいつも発言して来た人物だ。

その中野教授が今回の会見で強調したのは、こうして全法曹界が声をあげ、全学会も集まった、では全報道はどこにいるのか、報道の自由が危機に瀕しているこの時に「報道はどこにいるのか」という内容だった。発言が終わった後、会見に臨んだ人たちの間でしばし拍手が鳴りやまなかった。

 今、安保法案をめぐって多くの国民が反対の声を挙げているなかで、改めて問われているのがジャーナリズムのあり方だ。この会見もそうだが、メディアがそれを伝えなければ、そこでの発言は多くの人に伝わらない。実際、新聞・テレビでこの会見内容を全く報道しなかったメディアもある。そもそも私が足を運んだ昼の会見も、取材に訪れていたのは特定のメディアだけだ。

 戦前戦中と日本のマスメディアは戦争に協力し、戦意高揚の報道を続けた。それに対する痛烈な反省から出発したのが戦後のジャーナリズムのはずだったのだが、いまやメディア界は様変わりしてしまった。市民の知る権利を代行し権力を監視するのがジャーナリズムの役割という認識さえ、稀薄になりつつある。

その意味では、中野教授の発言は、ジャーナリズム界への大きな問題提起なのだが、この会見で波紋を投げたのはそれだけではなかった。質疑応答に移って、3つのメディアが質問に立ったのだが、その最後が産経新聞だった。そしてその記者が、安保法案のような賛否が分かれる問題について日弁連が反対という特定の立場をとるのはどうなのか、という質問をしたのである。会場に失笑と、ヤジが飛んだ。

それまでの発言で、日弁連としては安保法案が立憲主義そのものを否定するものであり、廃案を求めざるをえないと説明してきたのに、「今までの話を聞いてたのか?」と突っ込みが入るような質問だった。学者の会として檀上でそれを聞いていた知人は、そこまで空気の読めない質問を敢えて行う勇気に感心した、と皮肉まじりに語っていた。

産経記者が先の中野教授の発言を聞いたうえで確信犯的に最後にその質問をしたのかどうか定かではないのだが、メディア界の現状をあまりにも象徴的に示した光景だったと言える。その最後の質問に至るまでネットに動画が公開されているから、ジャーナリズム関係者はぜひそれを見て、考えてほしい。

 ちょうど発売中の月刊『創』9・10月合併号で「安倍政権のメディア支配」について特集を組んでいるが、安倍政権がこの間、批判勢力としてのメディアを抑えこもうとしてきたのは確かだ。NHKの会長に政権寄りの人物を送りこんだり、朝日新聞やテレビ朝日に揺さぶりをかけるなど、戦略的にそれを行っている。先頃「マスコミを懲らしめる」という自民党の一部議員の発言が非難されたが、あれはあまりに下品で露骨だったから退けられたが、政権の意向とそう大きく違っているわけではない。

『創』の特集で金平茂紀さんが、メディアが政権から介入を受けているという言い方は間違いではないけれど、実はメディアの側に政権にすり寄っている人たちがいるのではないかと述べ、それを「自発的隷従」と言っている。言う間でもなく金平さんのような、組織に身を置くジャーナリストが、こういう発言をするのはある種の覚悟なしにはできないのだが、今のメディア界はある種の覚悟なしには発言もできないような状況になりつつある。

その意味でもジャーナリズム界は今、戦後最大の岐路に立たされていると言える。中野教授の「報道はどこにいる」という指摘は、言論・報道に携わる者が深刻に受け止めなければならないのではないだろうか。

http://www.tsukuru.co.jp/gekkan/index.html

田代まさしさんの「盗撮」騒動に関して書いた私のブログ記事が7月のヤフーニュース個人ブログの月間MVAを受賞した。読んで下さった皆さんに感謝したい。

http://bylines.news.yahoo.co.jp/yahooroupeiroedit/20150826-00048846/

  で、それに関してあの騒動がどうなったのか、少し報告しておこう。というのも、前の記事を書いた時点ではもう少し事態が早いペースで進展すると思って、続報の予告もしておいたのだが、その後7月28日に書類送検が行われたものの、いまだに決着がつかないままになっているからだ。

続報予告を行いながら書き込みをしなかったのは申し訳ないと思うが、これには事情があって、実はあの後、田代さん本人とは何度かやりとりを行った。前回、7月15日に書き込みを行ってすぐに田代さんから「またまた心配とご迷惑おかけしています。 申し訳ございません」で始まるメールが届き、あの騒動について説明を受けた。

当初、私はそれを公開しようと考えた。周辺の関係者が本人の意向を間接的に伝えてもそれがどの程度正確かわからない。微妙なニュアンスも含めて、本人の言葉をそのまま示すのが一番正確だと考えたからだ。

ところが、本人にそう言ったところ、弁護士さんにも発言は止められているし、まだ公開はやめてほしいと言われた。確かにネットで公開すると、それがそのままコピーされ拡散するから影響は甚大だ。そう思って公開をやめた。

  前回書いた内容を補足するために、概略の説明だけ行っておくと、盗撮騒動のもととなった事件が起きたのは7月6日、二子玉川駅のホームでのことだった。田代さんが盗撮を行っているという通報を行った人がいて、警察官が駆け付け、田代さんが事情を聞かれた。盗撮した相手とされた女性は気づかないまま現場を離れているし、警察は田代さんの携帯電話を押収して画像を調べたが、盗撮画像は発見されなかった。

だからこの事件は盗撮があったかどうか事実関係を争うことになるとなかなか微妙なのだ。ただマスコミが一斉に田代さんが容疑を認めたと報道したのは、警察が田代さんの事情説明からそう判断したためのようだ。本人は、盗撮はしていないがそう思われてもしかたない行動をとったことは認めた、という。

具体的に田代さんがホームでどんな行動をとったかなど、詳細が明らかになるのは少なくとも一件落着してからだ。いずれ検察の判断で、不起訴や起訴猶予、あるいは略式起訴など、何らかの処分が決まるのだが、その前にあれこれ主張して「反省していない」と思われ検察の態度が硬化するのを弁護士は警戒しているのだろう。事件自体は単純だし、本人への事情聴取以外、特別な捜査が行われるわけでもないから、そう時間がかかるわけはないのだが、あれだけ大きな騒動になってしまったために、当局も落としどころをどうするか考えているのではないだろうか。

 今回の騒動は、田代さんのめんどうを見ている日本ダルクにとっても悩ましい問題だったろうし、サポートを続けて来たふたりの妹さんにとっても辛いことだったろうと思う。田代さんは以前の薬物事件で服役中に奥さんに離婚を求められて応じ、その後は妹さんたちがサポートを続けてきた。田代さんは複雑な家庭環境に育っており、妹さんたちとは年齢も離れている。芸能界で順風満帆だった時代には、田代さんが父親代わりとなって妹たちのめんどうを見てきた。そういう経緯があったから、この何年か何度か事件が起こったが妹さんたちの兄に対する気持ちは変わっていない。

今回の騒動で、私も幾つかのメディアから取材を受けて、これまでの田代さんとの10年以上にわたるつきあいや前の事件の経過を話したりしたが、何しろ薬物事件だけでも何回か繰り返されているだけに話がややこしい。

そこで今回、これまで『創』や、田代さんが弊社から出版した著書『審判』に書かれてきた内容をわかりやすく整理して、ホームページに上げることにした。コンテンツそのものは販売中の本と重なる詳しい部分は有料にしたが、全体の流れの部分は無料公開だ。

http://tsukuru-tashiro.tumblr.com/

 今回の「盗撮」騒動については、一件落着した時点で田代さんがもう少し詳しい説明をオープンにしてくれるはずだから、もう少しお待ちいただきたい。またこれを機に薬物依存や、田代さんのめんどうを見ている日本ダルクについても多くの人に関心を持ってほしい。私は田代さん以外にも、三田佳子さんの次男とも長いつきあいを保っているし、現在も服役中の元オリンピック体操選手・岡崎聡子さんとも日本ダルクは今年30周年を迎え、1016日には日比谷公会堂で大きな集会を予定している。日本における薬物依存への取り組みは、この日本ダルクの活動を抜きには語れない。

http://www.darc-dmc.info/30th%20event.htm

 日本ダルクの活動や、今回の「盗撮」騒動については、近々改めて報告を行うことにしよう。

 

1998年に夏祭り会場のカレーに毒物のヒ素が盛られて多くの死者を出した和歌山カレー事件で死刑判決を受け、再審請求中の林眞須美さんから手紙と電報が届いた。電報といっても正確には電子郵便(レタックス)だ。私から送った郵便物が届いたというお礼状なのだが、それをわざわざ電子郵便で送って来たのは、彼女が郵便物を受け取ったという喜びを示すものかもしれない。私から送った郵便物というのも、彼女から依頼された書類のコピーと時候の挨拶だけなのだが、この手紙のやりとり自体が、実は意味を持っている。

それは彼女が確定死刑囚だからだ。通常、確定死刑囚は、家族と弁護士以外、面会も手紙のやりとりも制限されており、彼女の場合は、知人とのやりとりは不許可にされている。それを不服として彼女は何度も法務省を相手に裁判を起こしているのだが、今回、彼女は自分なりに考えて外部との手紙のやりとりが可能かどうか確かめたように思える。今回、同様の手紙は何人もの人に送られているが、中に彼女が関わっている裁判の資料が同封されており、それをコピーして返送してもらえないか、というメッセージが書かれている。私はその通りに返送したところ、無事それが届いたというお礼が電子郵便で来た、というわけだ。

一般の人には、それがどの程度の意味を持つのかわかりにくいかもしれないが、彼女を始め多くの確定死刑囚にとって大きな問題は、未決の間はやりとりできた外部との手紙や面会が、刑の確定後、事実上禁止されてしまうことだ。つまり、死刑が確定した人は、外界との接触を断たれてしまう。眞須美さんにとって、それはかなりの精神的苦痛と言える状況だ。ちなみに私が12年間も接触していた連続幼女殺害事件の宮﨑勤死刑囚(既に執行)の場合も、接見禁止の措置は大きな問題で、私との接見交通権を確保するためにいろいろな努力を重ねたものだ。

法的には死刑が確定した日から半年以内に刑が執行されることになっており、確定死刑囚は執行を待つ立場だから、確定した時点で外部との接触を断ってしまう、というのが日本の法務当局の考えらしい。だから、その死刑囚たちがどういう日々を送っているかは、以前はほとんどタブーとして外部に知られることがなかった。

確定死刑囚の場合、刑の執行は当日まで本人には知らされず、その朝、刑務官が迎えに来た時に初めて本人が自分の死期を認識する。このやり方については賛否の議論が以前からなされている。目がさめた瞬間に、今朝はもしかしたら執行ではないかと毎日怯えながら朝を迎えるという生活が、精神的に耐えられないという人もいる。 

眞須美さんは2009年4月21日に最高裁で上告が棄却され、死刑が確定するのだが、私が最後に接見したのは5月1日だった。最高裁判決が出ても手続き上、一定期間は接見が可能なのだ。面会室で彼女は何度も「篠田さん、助けて下さい」と訴え、こう述懐した。「朝、連れ出されることがわかって、えっこんなに早いの?と口にしたところでうなされて目をさます。そんな夢をしょっちゅう見るんです」

私はこれまで何人もの死刑囚とつきあってきたが、死刑判決をどう受け止めるかは人それぞれだ。今も無実を訴えている眞須美さんは死刑への恐怖を口にすることが多かった。同じ大阪拘置所で死刑が執行される時は、朝からいつもと様子が違うので、あっ、きょうは死刑が執行されるのではないかと思っていると、ヘリコプターが上空を旋回している音が聞こえて、それが確信に変わる。そういう話を第2審の頃から手紙に書いて来ていた。

 

彼女は逮捕後、事件については黙秘を貫いたためか7年間も接見禁止という異常な処遇を受け、それが解除されたのは2審の判決が出される2005年のことだった。私は事件のあった1998年から、林夫妻の自宅をマスコミが24時間包囲して張り込むという集団的過熱取材を『創』で批判していった関係で、何度も自宅を訪れるなどしてきたが、逮捕前日に電話で話したのを最後に、7年間、接触ができなかった。その後、再会を果たしてからは頻繁に手紙や接見を繰り返し、『創』に彼女の手記を頻繁に掲載。それらの手紙は昨年、『和歌山カレー事件 獄中からの手紙』という書籍にして創出版から刊行している。

死刑が確定してからは前述したような事情で接見は一度もできていないのだが、彼女の家族を介するなどして手紙は何度かもらい、それも『創』に掲載して来た。

接見禁止に対する彼女の当局への異議申し立ては何度もなされており、私も今年になって、拘置所長に彼女の著書出版に関して必要だからという理由で特別接見許可願を出したりした。実は、宮崎死刑囚の時は、ちょうど彼の2番目の著書『夢のなか、いまも』を死刑確定直後に出版したため、その業務上打ち合わせが必要だからと東京拘置所長に認められ、私は死刑が確定した後も何度か接見ができていた。しかし、大阪拘置所は眞須美さんとの接見については、頑なに家族・弁護士以外の接見を認めようとしていない。

今回、彼女から届いた、裁判資料をコピーするためにという依頼の手紙は、そういうケースなら手紙のやりとりが許可されるのでは、という彼女の思いからなされたものだろう。結果的に手紙のやりとりは成立した。ただその手紙にはもちろん、許可された用件以外のことを書き記した場合は、不許可になるか墨塗りされる。自由な手紙のやりとりとは異なるのだが、でも手紙のやりとりができたことだけでも眞須美さんにとっては大きな出来事だったのかもしれない。

権利が制限されることに対して、それを受け入れるのでなく、異議申し立てしようという眞須美さんの姿勢は、彼女の気の強い性格に負うところはもちろんあるが、慕っていた三浦和義さんの影響も大きいように思う。いわゆる「ロス疑惑」事件で無罪を勝ち得た三浦さんは、2005年から眞須美さんを支援し、2008年に不慮の死を遂げるまで彼女に大きな影響を与えた。

三浦さんといえば、拘置所や刑務所で、多くのメディア訴訟を提起し、獄中の処遇改善のために闘ったことで知られている。特に宮城刑務所に収監されていた時には、何度も刑務所側に訴えて、それまで冬に置かれていなかった暖房を入れさせたり、読みたい本を一度に3冊までしか所持できなかった規則を変えさせて6冊まで許可されるようにしたりと、様々な要求を勝ち取った。本の所持冊数が変更された時など、それがアナウンスされた瞬間には三浦さんの周囲の舎房から「わあっ」という歓声が沸き起こったという。

 

死刑確定から年月も経ており、世間的には、和歌山カレー事件は眞須美さんの犯行ということで決着したと思っている人も多いだろう。しかし実際には、眞須美さんは一貫して無実を訴えて再審請求を続けている。弁護団も安田好弘弁護士を中心とする強力な顔ぶれだし、毎年、事件のあった7月には大きな集会が大阪で開催されるというように、この種のケースとしては強固な支援グループも存在している(それを立ち上げたのは三浦和義さんで、彼の死後は鈴木邦男さんが代表を受け継いでいる)。

何よりも眞須美さんを力づけたのは、1審死刑判決に大きな影響を与えたヒ素鑑定、当時は最新鋭とされたスプリング8という装置を使って出された鑑定結果が、今になって揺らいでいることだ。足利事件のDNA鑑定もそうだったが、裁判当時は最新の科学的データとされ、判決にも影響を与えたものが、その後のさらなる科学の進歩によって、意外とずさんだったことが判明していくという流れだ。それら再審をめぐる論点については、前述した『和歌山カレー事件 獄中からの手紙』をご覧いただきたい。

最近は、夫の健治さんも体調がすぐれず面会にも行けていないから、眞須美さんは家族と弁護士以外接見禁止という状況の中で、死刑の恐怖と闘いながら、必死に外部への発信方法を考え、支援を呼びかけているわけだ。

近年は死刑判決も死刑執行も増え、再審請求をしているからといって執行回避にはならないとも言われている。そんなかで続けられている眞須美さんの孤独な闘いの経過については、可能な限り、今後も伝えていきたいと思う。

 毎年8月15日は学生たちと靖国神社に足を運ぶ。今年も炎天下の靖国神社を訪れた。

参拝に行くのでなく、参拝客及びそれを報じるマスコミの取材について見るためだ。

8月15日に靖国神社には全国から参拝客が訪れ、世界中からメディアが取材に訪れる。何年か前には韓国の放送局の取材クルーが日本人の参拝客に取り囲まれるといった事件も起きた。

もう10年くらい定点観測的にウォッチングしているが、今年はやはり参拝客が多かった。以前は軍服を着たり右翼団体が旭日旗を林立させて行進するといった光景ばかりが目立ったが、今年は一般の人が多い。増えている一般の人たちがどういう思いで参拝しているかは気になるところだが、今年の夏は多くの人が戦争あるいは日本の戦後について関心を高めているという、その現われなのだろう。

 

 毎年一緒に行っているのはマスコミ志望の学生たちだが、こんなふうに敗戦の日に大勢の人が靖国神社を訪れている光景が珍しく見えたようだ。学生たちには、現場で戦争の経験者や遺族らしい人を見つけて話を聞くように指示している。戦争体験者の話を直接聞く経験など今の20代にはほとんどないと思う。彼らの両親の世代までは、肉親に戦争体験者がいるのは当たり前だった。今年は「戦後70年」ということでテレビや新聞も大きな特集を組んだが、安保法案をめぐる今の日本の動きは、70年という歳月のもたらした戦争体験の風化を抜きには語れないだろう。

 日本の戦後は、戦争に対する反省から出発しているのだが、戦後70年を経て、いつまでも反省や謝罪ばかり続けていてはだめだという人たちが大きな声をあげるようになった。

 審議中の安保法案が成立すると自衛隊の海外派兵が可能になるわけだが、こういう戦後日本の基本的枠組みの変更は、戦争体験者がもっとたくさん生存していた時代には上程すらできなかっただろう。安倍政権による安保法案推進という動きが現実化している今年の8月15日は、だから昨年までとは違う意味を持っている。「戦争」について語るにも、単なる回顧ではありえなくなった。

 

『サンデー毎日』8月23日号の「一億人の戦後70年」という特集のなかでノンフィクション作家の保坂正康さんがこう語っている。

 「僕は75歳になり、がんを二つも患ったし、一期(いちご)とはこんなものだろうと達観しかけていた。でも安倍政権が本性を現すにつれ、何としてでも生き延びて、この政権を倒さなければいけないと思い始めました。そうでなければ、昭和史を検証してきた意味がない」

 多くの日本人にとって、日本が再び「戦争のできる国」をめざすのかどうかという選択を迫られる時期がこんなに早く訪れるとは思わなかったのではないだろうか。それは与党が3分の2以上の議席を確保してしまうという状況が生まれたことによって現実化してしまったのだが、法案にどういう態度をとるにせよある種の覚悟を求められる事態となった。前述した保坂さんの言葉は、作家の半藤一利さんとジャーナリストの青木理さんとの鼎談で発せられたものだが、その鼎談での半藤さんの発言にもある種の覚悟がにじみでている。特に戦争を実際に体験した言論人にとっては、いま日本で進行している現実は、単なる議論や論評の対象としてではすまない重たいものだろう。

 安保法案の問題は、憲法の問題とつながっている。今の流れがさらに進んでいけば、言論表現や報道規制が強まるのは明らかで、今はまだ安保法案に対してたくさんの反対の声が表明されているが、へたをすると次はそういう声をあげる自由もなくなっていくかもしれない。そういう戦後初めての大きな岐路に、いま私たちは立たされているわけだ。

 

 こういう状況を見るにつけ思い出すのは2010年6月9日の光景だ。当時、日本のイルカ漁を非難したアカデミー賞受賞映画「ザ・コーヴ」が右翼団体の妨害で次々と上映中止になっていた。日本や日本人が欧米の映画で偏見を持って表現されることは以前からあったのだが、近年、そういう映画は日本では上映自体ができないことが多い。ただ、日本を批判しているから上映するのは「反日的」だなどと映画館に街宣攻撃をかけて中止させてしまうというやり方はおかしいだろうと、『創』では映画「靖国」についても「ザ・コーヴ」についても、上映中止反対のキャンペーンを張り、その年6月9日に中野で自主上映と討論のシンポジウムを開催した。

 企画した時点では、その時までに幾つかの映画館で上映が始まっているはずだったのだが、右派グループなどの激しい街宣抗議を受けて次々と映画館が上映中止に至り、その『創』主催の自主上映が初めての大きな規模での公開上映となってしまった。不測の事態もあり得ると、当日は、警察も大挙して会場前に警備につめかけ、会場周辺にパトカーが何台も見られるという緊迫した状況下で上映を行ったのだった。

 その上映会のサプライズは、ドキュメント映画の主役であるイルカ保護の運動家・リチャード・オバリーさんが、上映後のシンポジウムの冒頭、突然登壇するというものだった。事前に告知すると混乱は必至なので、文字通りサプライズで、映画が終わった直後に映画に出ていた人物が舞台に現れるという演出だったのだが、そのオバリーさんは登壇するや、観客席に向かってパネルを掲げたのだった。私は当日の司会進行だったので、彼が何かパネルと手に持っているのは知っていたのだが、説明を聞いて驚いた。

 そこには日本国憲法21条、つまり「表現の自由」条項が書かれていたのだった。日本にはこういう憲法条項があるはずじゃないか、というのが彼の主張だったが、私は隣でそれを聞いていていたたまれない気持ちになった。外国人にそんなふうに憲法の教えを説かれるというのは、日本人としてものすごく恥ずかしいことだと思えたからだ。

 

 その時、思い出したのは、憲法にある別の文言、それらの自由と権利を我々は「不断の努力によって保持しなければならない」という表現だった。全世界で公開されている映画を日本だけが公開できないという事態は、まさに「表現の自由」が不断の努力によって保持されてこなかったから起こったことだった。そういう日本人として大事なことを、今まであなたたちはやってこなかったじゃないか、外国人にそう言われた気がした。

 ちなみに付記しておけば、その集会には一般客として映画を非難していた右翼の人たちも会場に入っていた。なかにはロビーで上映中止を訴えるビラをまく人もいたが、上映会の主催者として我々は、暴力に訴えない限り、開催趣旨と反対の言論も表明する自由は認めようという告知を行った。その右翼のビラは予想以上にさばけたといって、その人は途中の休憩の時に近くのコンビニに増し刷りに行くなど、主催者側からすれば「おいおい」と言いたくなる状況で、しかも終了後の打ち上げにも右翼が参加し、シンポジウムのパネラーだった鈴木邦男さんを含め、飲み屋で議論が交わされたのだった。

 

 最近の安保法案をめぐる状況を見るにつけ、またこの何年か、安倍政権を批判したり、憲法を守ろうという趣旨の集会が会場使用中止などの事態に至ったりする動きを見るにつけ、その集会で感じたこと、つまり私たちは憲法で保障された権利を不断の努力によって守ろうとしてきたのか、ということに忸怩たる思いを禁じ得ない。表現の自由も、基本的人権も、その努力なしにはいつか危うくされてしまいかねないという畏れがあったからこそ、憲法作成者は「不断の努力」を条文に書き込んだのだろうが、私たちはその起草者の思いに応えてきたのだろうか。そんなことを改めて思わざるをえない。

 そんなことを、8月15日をめぐる動きを見ながら考えた。TBSなど幾つかの戦争に関する番組には、力のこもった良い作品があったし、籾井会長経由で安倍政権の侵食を受けているNHKでもNHKスペシャルなどこの何か月か放送された番組には、戦争について問い直す良い番組も少なくなかった。たぶん報道や表現の現場にいる人たちも、今、ある種の覚悟を迫られる状況に至りつつあることを感じているのだろう。

 このままでは議席数に物を言わせて安保法案が成立してしまう怖れがある。ただ、あきらめるにはまだ早い。これまで『創』でコミック表現をめぐる規制の動きなどを度々取り上げてきて実感しているのだが、都議会での最終局面で都庁にたくさんの人が集まり反対の声をあげたり、共謀罪新設法案の審議の時も国会にたくさんの市民が集まって声をあげたのだが、そういう現場にいると、議席数がどうのという理屈を超えた熱気を感じざるをえないし、それは必ず事態の進展に何らかの影響を及ぼす。議席数からいくと通ってしまうと最初から言われながら実際には継続審議や廃案になったケースもこれまでにはある。その意味では、日本の民主主義はまだ死滅してはいない。

 実際、この間の安保法案をめぐる様々な動き、大学で次々と反対の声があがったり、高校生まで街頭に立つというのは、この何年かの日本の政治状況では考えられないことだった。創価学会会員が安保法案に公然と反対の声をあげはじめたことだって、想定外の大きな動きだろう。今の安倍政権を見ていると、格差はものすごい勢いで拡大しているし、原発再稼働やら武器輸出やらと、本当に日本人の誇りはどこへ行ってしまったのかと、暗澹たる気持ちにならざるをえないのだが(しかもそれを日本人の誇りを取り戻すといったロジックで推進しているから安倍政権は度し難いのだが)、状況はかなり深刻でもあきらめるのは早いと思う。

 今年は8月15日の靖国神社に足を運んでいろいろな思いが胸を去来した。9月へ向けてこれからが正念場だ。

 

 最後に、前述した、学生たちと現場を見に行くというのは、毎年8月に『創』で開催している夏季実践講座というもので、この後、20日にイスラム寺院を訪れてイスラム教の人たちと議論をするし、25日には新大久保のコリアンタウンを訪れ在日コリアンと話をする。いま日本社会の問題を象徴する現場を訪ねて議論し、それを記事に書くという試みだ。学生はもちろん社会人も今からでも参加可能なので、関心ある人はぜひ一緒に考え議論してほしい。詳細は下記をご覧いただきたい。(篠田博之)

http://www.tsukuru.co.jp/masudoku/kouza/kakijissen.html]