月刊「創」ブログ

月刊「創」のブログです

 大きな山場を迎えた「小沢VS検察」問題ですが、この戦いはいったい何だったのか、そして報道のあり方をめぐって何が問われたのか。徹底討論を行う緊急シンポジウムを開催します。ふるってご参加下さい。
出演者:三井環(元大阪高検公安部長)、鈴木宗男(国会議員)、上杉隆(ジャーナリスト)、青木理(ジャーナリスト)、元木昌彦(元『週刊現代』編集長)、他
会場:文京区民センター3階A(文京シビックセンターとは別ですのでご注意下さい)
http://www.cadu-jp.org/notice/bunkyo_city-hall.htm
入場料:500円
会場定員は約250人ですが、もし座席を確実に確保したい方は、「創」のホームページhttp://www.tsukuru.co.jp/kensatsu.htmlにアクセスして予約をして下さい。

 検察が政局を左右するという異常な状況をどう考えるのか、そしてそのなかでマスコミ報道が危うさを露呈したことをどう考えるのか。その2つの大きなテーマを議論します。
 特にマスコミ報道をめぐっては、検察リークについてこれまでなされた議論を超える形で批判が相次いだのが今回の特徴です。これは恐らく新聞・テレビの世論への支配力が相対的に落ちたためで、ネットを含む多様な言論がひとつの状況を作りだした結果といえます。 
こうした議論については新聞なども無視するわけにはいかず、例えば東京新聞では特報面で何度か特集を組んだり(1月23日他)、1月31日には佐藤敦社会部長による〈「リーク批判」に答えて〉という異例の見解が掲載されました。その中で佐藤部長はこう書いています。〈「検察リーク」の批判は、自民党政権時代の疑獄事件の際にも、同党側から上がっていました。今回の特徴は、かつて「政治とカネ」について厳しい論陣を張ってきた識者、ジャーナリストたちからも同様の批判が聞かれることです〉
 この「検察リーク」批判は『週刊朝日』など幾つかの週刊誌やネットで大きな声になっており、それに新聞が紙面を使って反論するという形で論争になりつつあります。新聞・テレビの報道をめぐってこんなふうに批判を含めた議論ができるというのは、市民のメディアリテラシーを鍛えるという点では非常によい機会で、これを機にもっと大きな議論がなされる必要があります。
 2月26日のシンポジウムには新聞労連や日本ジャーナリスト会議などにも呼び掛けて、ジャーナリズムに関わってきた人たちも巻き込んで議論を行いたいと思っています。ぜひ参加してください。

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 約1年半にわたって服役していた元大阪高検公安部長の三井環さんが18日朝、静岡刑務所を満期出所した。ちょうど小沢一郎と検察の対決が激化している真っ最中とあって、幾つかのマスコミが取材に駆け付け、三井さんも最近の検察の動きについて早速コメント。その音声コメントが宮崎学さんらがその夜に開催した集会で紹介されたために、その後も三井さんのもとには週刊誌などの取材依頼が来ているようだ。
 刑務所から実家の神戸に戻った三井さんは、意気軒昂で、最近の検察の姿勢も含めて、検察批判は積極的に行っていきたいと言っている(写真は出所後、自宅に戻るまでの三井さん)。
 三井さんは、2002年4月、検察の裏金問題を現役の検察幹部として内部告発しようとして、テレビ収録予定のその朝に、口封じのために逮捕された。いわば別件逮捕だが、起訴され、最高裁まで争った末に敗訴。2008年に1年8カ月の実刑が確定し、服役した。検察側にとっては三井さんを社会的に葬りたかったのだろうが、三井さんは収監時にも、これからも検察批判の闘いを続けることを宣言し、月刊『創』に「闘いはこれからだ」という獄中連載を続けてきた。
 当初は大阪拘置所に収監されたのだが、持病である糖尿病の治療が十分に受けられず、一時は体調が悪化。「生命の危険すら予感した」局面もあった。『創』の手記で三井さんは「万が一のことがあっても、閉ざされた塀の中で何が起こったかは外部にはわからない」と書き、「恐怖にさいなまれた」と述懐していた。
 その後、静岡刑務所に移り、2009年には仮釈放の動きもあったのだが、結局だめになった。三井さんはこれを検察サイドの横やりが入ったためだとして、獄中から裁判に訴える動きをするなど、検察との闘いを続けてきた。そうして結局、18日に満期出所したものだ。
 体重も減り、アルコールも飲まず健康な生活をしていたため、出所時にも健康状態には全く問題はないとかで、検察との闘いは今後も続くことになる。

 12月28日朝一番に水戸拘置支所にて土浦無差別殺傷事件の金川被告と面会した。18日に死刑判決が出て弁護人が即日控訴したが、金川被告はその28日に取り下げた。私との面会の後、取り下げると言っていたが、もう私も止める気になれなかった。

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 以前、奈良女児殺害事件小林薫死刑囚も同様の状況になったが、彼の場合は迷っていたので、「迷うくらいなら死に急ぐことはない」と、控訴取り下げに私は反対した。しかし、金川被告の場合は、「死刑になりたい」という意志が強固で、何を言っても無駄という感じだ。「きょう取り下げることを親には言ったのか」と訊くと、「言ってない」との答え。もう死ぬことを決めてしまってからは、この世への執着は何もなくなってしまったようだ。

 死刑判決への感想を聞いた。「間違っていると思えた個所はあったか」と訊くと、「全部です」との答え。「じゃあ、どこがどう違うのか指摘してはどうか。君が死んでも記録は残るのだから、異議申し立てはしておいた方がいい」と言ったら、そんなことをする気はないとの返事だった。
 不思議なのは、「自殺したいと思ったが死にきれないので殺人を犯して死刑になろうと考えた」という彼の思い込みについてだが、普通に考えれば無差別殺人を犯す方が自殺よりずっとエネルギーがいるはずだ。何せ昨年3月に荒川沖駅で無差別殺傷を行った時は、ほとんど周囲も本人もパニック状況で、7人めに刺して殺害した被害者のことを金川被告は覚えていないというほどだ。自分で睡眠薬を飲んだ方がずっと楽に死ねるのに、どうして大量殺人による死刑などというとんでもないことを考えたのか。そこがよくわからない。自殺は個人的死だが、死刑は制度による死だから、後者の方がずっとめんどうなのに決まっている。

 金川被告はまだ26歳で短慮というべき点も目立つ。死刑についても逮捕されて簡単に処刑されると思っていたようで、「こんなに大変なものとは思っていなかった」と言う。「死刑になりたいので殺人を犯す」という不条理な動機は、この場合、死刑は本当に極刑といえるのかという奇妙な疑問を提起してしまったのだが、裁判所はただ前例にならって死刑判決をくだしただけ。疑問には何も応えてはいないのだ。
 この事件には、金川被告の家庭的社会的環境、コミュニケーション不全ともいうべき環境が彼の人格形成にどんなふうに影響したかなど、考えるべき課題はたくさんあるのだが、本人も、もう死んでしまうのだからどうでもいいと言っている。このままだと1月5日に死刑確定。恐らく執行は早いだろう。こういう決着でいいのかという思いは尽きない。
 
 なお、金川被告とこの間、やりとりした手紙は、1月7日発売の『創』2月号で公開する。(篠田)

 12月18日、水戸地裁で金川真大被告(26)に死刑判決がくだされた。昨年3月、死刑になりたいという理由で、JR荒川沖駅で無差別殺人を行った事件だ。判決公判を傍聴し、毎日新聞の依頼を受けて寄稿した。19日付朝刊に掲載された記事は紙面の都合で少し短くなっている。元の原稿をアップしよう。 (篠田博之)

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 判決公判を傍聴した後、被害者遺族の話を聞いた。家族を理不尽に殺害され、しかも金川真大被告からは一言の謝罪の言葉もない。遺族にとってはやりきれない思いだろう。
 一週間前、金川被告に面会した。私は宮崎勤死刑囚とは十年以上もつきあったし、凶悪事件で犯人とされた人たちと多数接触してきた。流布されたイメージと彼らの素顔にずれを感じることは多いのだが、金川被告の場合はそのギャップの大きさに驚いた。話してみると、ごく普通の青年。事件のことを知らなければ「好青年」との印象さえ持っただろう。
 自我が目覚める高校生の時に、生きることの意味を考え、生きていても無駄だと思うようになった。その年代には珍しいことではない。しかし彼の場合は、無差別殺人で死刑になって死のうと考えた。一般の人間には到底理解できない飛躍した論理だ。
 早く死刑にしてほしい。法廷で被告がそう主張する光景を、私は以前、奈良女児殺害事件の小林薫死刑囚の裁判で目にした。彼とは約一年にわたって接したが、殺意の認定を含め、裁判で語られている事件経過は事実とかなり異なるのだが、自分はもう死にたいと思っているから、争うことはいっさいしないと言っていた。そし望み通り死刑判決が出ると自ら控訴を取り下げ、刑を確定させた。裁判は茶番だ、とも言っていた。
 その彼の話を聞きながら、私は、自ら死ぬことを望んでいる人間に死刑判決をくだすことが本当に彼を処罰することになるのかという疑問に終始とらわれた。今回も、死刑判決がくだされる法廷でほとんど表情を変えない金川被告の横顔を見ながら、これで彼を裁いたことになるのか、と強い疑問を感じた。
 死を覚悟して小学校で無差別殺傷を行った宅間守死刑囚の場合も、早く死刑を執行せよと、確定後も訴え続けた。宅間・小林両死刑囚の場合は、社会から疎外され追いこまれていく何十年かの人生の中で、生きていても仕方ないという絶望に捉われた。しかし、金川被告の場合は、追いつめられるだけの人生も経験しないまま、死にたいという妄想に捉われて凄惨な凶行に走った。
 家族とも社会ともコミュニケーションの回路を絶たれていたことが、彼を妄想から現実に帰らせる契機を奪っていたような気がする。何か少しだけきっかけがあれば、金川被告はごく普通の人生を送っていたのではないか。本人と話してみてそんな印象を抱いた。
 到底理解できない動機で、自らが死ぬつもりで無差別殺傷を行う。そんな事件がこのところ目につく。死にたいと思って殺人を行う人間に死刑判決をくだすことが処罰になるのか。そもそも、人を裁くとはどういうことなのか。今回の金川被告の事件は、まさにそういう問題をつきつけたような気がする。

 『創』の年末進行でムッチャ忙しいのだが、これだけはやらねばと思って時間をさいたのが、篠山紀信さんの写真集への警察の取り締まりに対する日本ペンクラブの抗議声明だ。私は日本ペンクラブ言論表現委員会の副委員長で、委員長の山田健太さんと協力して声明文案をまとめ、15日に理事会で決議。その日のうちに阿刀田高会長名で発表された声明文は、日本ペンクラブのホームページに公開されている。(篠田博之)
http://www.japanpen.or.jp/statement/2008-2009/post_210.html

 篠山さんの自宅や事務所などにいきなり家宅捜索がかけられたのは11月10日だった。まさに「寝耳に水」の乱暴な捜査で、その後、関係者への取り調べはいまだに続いていると伝えられる。問題となった写真集「20XX TOKYO」は1月に刊行されたもので、撮影は昨年夏。もう1年以上も前に行われた撮影について、公然わいせつという容疑がかけられたのだ。出版社には捜査がかかっていないから作品の中身でなく、あくまでも撮影方法を問題にしたものだ。公共の場でヌード撮影を行ったのが問題だというわけだ。
 警察はだいぶ前から内偵を行っていたようで、撮影場所のひとつ青山霊園に夏前に協力要請を行うなどしていた。有名写真家を取り締まることで一罰百戒を狙ったのは明らかだ。いきなり家宅捜索というショック療法をとったのもそのためだろう。 この取り締まりにはいろいろな問題がある。表現されたものでなく、その撮影方法を問題にしたわけで、写真でなくペンの場合でいうと、取材の仕方を問題にして介入したということだ。これが前例となって拡大運用されると、相当いろいろな形で言論表現活動に介入ができてしまう。

 写真や映像表現に関わる人にとっては大変問題の多い取り締まりだ。捜査が継続中なため篠山さん本人は今のところマスコミの取材に応じていないから、大きな報道がなされていないのだが、もっと議論されてよい問題だ。最近はジャーナリズムがこういう問題にあまり敏感でなくなったのが残念というほかない。ちょうど先頃、マンションにチラシを配布したとして逮捕された事件での最高裁判決が出て、有罪が確定してしまったが、こんなふうに表現や意見表明の自由がじわじわと狭められている現実に、もう少しみんなが声をあげてもよいと思う。

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 先週は『創』の校了で忙しくてトピをあげ損ねたため、少し遅くなったが書いておこう。
 写真は『フライデー』12月4日号だが、市橋達也容疑者の両親が11月10日夜に行った会見の写真がご覧のように顔一面モザイクだ。
普段、容疑者の関係者の写真を無断で隠し撮りすることもある同誌が、ここまでやること自体、異様な感じさえ受ける。
 実は、この市橋容疑者逮捕の夜の両親の会見映像、当日テレビで一斉に流されたので覚えている人も多いと思うが、同じ映像が今は使えない。
通信社の配信サービスからもこの写真は排除されている。

 なぜかといえば、容易に想像できると思うが、この会見の直後から両親のもとにバッシングの嵐が吹き荒れ、母親が「恐ろしくて外にも出られなくなった。正直、これから生きていけるかどうかわからない」(夕刊紙へのコメント)という状態になってしまったようなのだ。
 実際、両親は翌日の11日にも会見を行ったのだが、顔は映さないだけでなく、音声さえ変えるという状況だった。
『フライデー』も前週の11月27日号には両親の会見の写真をモザイクなしで掲載していた。
 そして記事で「逮捕後の『親バカ』」「この親にしてこの息子あり」などと罵倒していた。

 恐らく10日に会見に応じた時にも、両親は覚悟をもって臨んだはずだ。顔を出して、言うべきことははっきり言う。
そういう意思が感じられた会見だった。それが1日で一変したというのは、世間から加えられた風圧がいかに大きかったかということだ。
 その両親の会見についての賛否の声を特集したのは『女性セブン』12月3日号だ。見出しは「あなたはどう思う? 市橋容疑者 医師両親会見への疑問」。
 賛否はっきり意見が分かれた中で、賛意を表明したのは香山リカさんだ。
 「医師という職業からも、親の立場からも、説明責任を果たさなければという気持ちが強かったのでは。カメラの前で加害者側が話すことは相当の覚悟と決意を必要とします。あえて会見したことは評価すべきです」
 
 しかし「会見への疑問」という見出しからもわかる通り、この記事でも大半のコメントは反対意見だ。例えば、神戸連続殺傷事件の被害者家族のひとりはこうコメントしている。「謝ってはおられるんですが、なにか息子を突き放していて、本当に"申し訳ない"という思いが届いてこない」
 教育評論家の尾木直樹さんもこうだ。
「視聴者は加害者の親に"つらいだろうな"という姿を期待しています。今回の会見は、見ているほうがつらくなる感じはなかった。これだけ世間を騒がせて国際問題にまでなっているのに、そこにある種の"軽さ"を感じました」「市橋容疑者の両親は理路整然としていたけれど、感情が見えなかった。いっていることは正しいのだろうけれど、官僚的、事務的な印象で心を打たなかった。多くの人はそこに違和感を感じたのでしょう。子育てや教育では、泣き崩れてしまうような、親のまっすぐな姿勢も必要なんです」
 
 11日の両親の会見が顔を映さずに行われたこともネットでは新たな議論になっているようだ。
会見内容に賛否があること自体は悪いことではない。しかし、当事者が「恐ろしくて外にも出られなくなった」とまでおびえる事態には考え込まざるを得ない。
 思い出すのはイラク人質事件の時の人質家族へのバッシングだ。
 市橋容疑者の両親のコメントが「事務的な印象」を受けたのは、たぶん彼らが基本的に息子と自分たちは別の人格だというスタンスで語っていたからだろう。
 でも日本社会はいまだにそれを許さないということなのだろう。容疑者憎しのあまり、親に対しても罵倒する。親が涙ながらに土下座して謝らないと許さない。
 そういう空気が日本社会では支配的だということなのだろうか。
                 

 ホラー漫画の第一人者・楳図かずおさんが、住民と裁判にまで至った吉祥寺の新しい家について、自分の思想をたっぷりと語った『創』12月号の特集「楳図かずお、『家』を語る」。
作家の辛酸なめ子さんが話題の楳図邸を訪ねるという趣向だ。冒頭の3ページを公開するが、この楳図さんの「グワシ!」ポーズが見事というほかない。最近は漫画は描いてないのだが、様々なパフォーマンスで今も大人気。小学館発売のかつての作品も順調に売れている。
さて、その楳図さんを追いかけたドキュメンタリー映画が、23日から下北沢で公開中だ。楳図さんやスタッフが踊りまくる映像など、ある意味シュールな趣で、興味ある人にはたまらない映画だ。詳細はこちらをご覧いただきたい。http://gwashi.com/
 年内は上映している予定で、毎週イベントも開催中。会場でも「創」の楳図特集号を販売する予定だ。

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 天皇即位20年式典やオバマ大統領訪日などが続いた先週は、東京でも街角に警官が立つなど特別警戒体制が敷かれた。昔なら「過剰警備では?」などとマスコミに書かれたこうした光景も、今は皆が慣れてしまったのか、ほとんど論議の対象にもならない。
でも水面下では公安警察は、やはりいろいろな動きをしていたらしい。

 10月27日、映画「天皇伝説」で知られる渡辺文樹監督が突然逮捕された、との知らせが夫人から届いた。渡辺監督と「天皇伝説」をめぐっては昨年、各地で右翼との激突が繰り返され、監督自身、公安にマークされて半年間に二度も逮捕された。その騒動の最中、『創』主催で渡辺監督と鈴木邦男さんとの公開討論会を行ったところ、そこに右翼が押し掛け、あわや流血という事態になったことも、『創』本誌やブログでお伝えしてきた。

 http://www.tsukuru.co.jp/tsukuru_blog/2008/11/1030-1.html

 その渡辺監督は、夫人の出産があってしばらく福島の地元へ引きこもっていたのだが、久々に届いた知らせが、何と本人の逮捕だった。

 容疑は、昨年、映画「天皇伝説」のポスターを金沢市内で許可なく電柱などに貼ったというもので「いしかわ景観条例」違反というものだった。しかし、その電柱にポスターを貼ったというのはもう1年も前の話だ。これまでも渡辺監督逮捕の容疑はほとんど微罪による別件で、本当の狙いは本人の身柄拘束や家宅捜索による情報取得にあった。

 で、今回言われているのが、前述した天皇式典とオバマ来日をめぐる治安対策だ。公安がマークしていた人物たちを、この際、拘束するなどしてガサ入れを行い、行動を把握しようとしたのではないか、というのだ。実際、渡辺監督の場合も、住所録などを押収しようとしたらしいが、何度も逮捕されている監督からすればそんなものを周囲に置いておくはずもなく、警察はポスターなどを押収していったという。

 昨年5月の逮捕の時は勾留延長で3カ月近く拘束されたのだが、今回は幸い29日に任意の捜査に切り替えられ勾留を解かれた。

 知らない人もいるかと思うので書いておくが、渡辺監督は別に党派と関わりのあるような思想的な人ではなく、アナーキーな表現者だ。こういう無頼派タイプの表現者というのは昔は大勢いたというか、表現者なら反権威反権力は当たり前、という時代もあったのだが、最近の風潮は全く違う。天皇即位20年式典も、ミュージシャンがサングラスをはずし、かしこまって奉祝の歌を披露するという、「何だかなあ」という光景がテレビで映された。

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 ここに掲載する写真は、渡辺監督が逮捕された10月27日、家宅捜索を行っている警察官を、夫人が隠し撮りしたものだ。こういう事件もいまや大手マスコミでは報道もされない。いやそれどころかむしろ、勾留された石川県では、地元紙が警察の意にそった報道を行っていたと、監督は憤慨している。

 逮捕などにめげることなく、釈放された監督は今、次の新作上映の準備にかかっているという。

「婚カツ」詐欺事件をめぐる新聞と週刊誌の報道.jpg

 「新聞・TVが報じない~」というのは週刊誌のキャッチフレーズだ。速報性ではかなわないから内容で差別化を図らないといけない。その意味では、今話題の「婚カツ詐欺」事件は、新聞・テレビと週刊誌の違いを際立たせた事例だ。

 新聞・テレビは容疑者女性を匿名で報道しているが、週刊誌は実名・顔写真を大々的に掲げている。もともとこの事件は読売新聞の10月27日付朝刊一面記事で火がついた。9月25日に結婚詐欺容疑で逮捕されていた34歳女性に、新たに殺人の疑いが浮上したという報道だった。

 殺人容疑が浮上したことで事件は大きくクローズアップされることになったのだが、逮捕されたのは詐欺容疑だからという判断で、新聞は匿名報道となった。それに対して週刊誌は実名はもちろん、女性の写真をグラビアで大々的に取り上げた。
新聞と週刊誌の基準の違いを象徴的に示したのは『週刊文春』11月12日号の広告だ。その号が発売された11月5日に新聞に掲載された同誌の広告を見て驚いた人も多かったのではないだろうか。特集の見出しが「○○○○34歳の『正体』」とあり、この○○4文字が白抜きになっていたのだ。

 これまでも週刊誌の見出しで新聞の基準からそのまま掲載できない場合は、見出しの一部が黒や白に塗りつぶされてきたのだが、今回はトップ記事で大きな見出しだったためにやたら異様で目立った。それを予測して見出しにわざと実名を入れたのではないか、とうがった見方をしてしまうほどだ。
新聞における出版広告は、原稿を作るのは出版社だが、掲載にあたっては新聞の基準が適用される。その結果、異様な広告が掲載されることになるのだ。

 週刊誌のなかでも興味深いのは新聞系週刊誌の対応が分かれたことだ。現在のところ『サンデー毎日』と『アエラ』は匿名だが『週刊朝日』は実名。ところが『サンデー毎日』11月22日号では同誌元編集長の牧太郎氏がコラムで「実名にすべきではないのか?」と問題提起し、こう書いている。

 「日本人が今、最も関心を寄せている女性であり、その顔写真は誰でも見たい。そんなに読者のニーズがハッキリしているのに......テレビ、新聞は及び腰だ」。

 匿名報道を「及び腰」と評する牧さんの見方への賛否はおくとして、この一文は匿名報道を続ける『サンデー毎日』をも批判したもので、元編集長と現編集長の対立が誌面に反映されたものといえる。
この事件に関心が集まっているのは、まず背景にあるのが「婚カツ」という流行のテーマであるためだろう。詐欺を働いたのは女性側で、男の側が次々と騙されたというのも新しい。そして何といっても世俗的な関心を呼んだのは、この女性が、スリムな美人顔ではなかったことだ。

 『週刊文春』11月12日のコラムで作家の林真理子さんが「最近この事件ぐらい私の心に突き刺さったものはない」と書いている。あの女性にどうして男たちが次々と騙されたのか「驚きを通り越して怒りがわく」という。
前述したように週刊誌が大々的に女性の顔をグラビアに掲げているのは、この世俗的関心を受けたものだ。『週刊新潮』11月12日号の見出しは何と「誰も『美人結婚詐欺師』と書けなかった『毒婦』のグロテスク人生」だった。容疑者女性の容姿がこんなふうに話題のネタにされることも恐らく今後、議論の対象となるだろう。

 『サンデー毎日』11月22日号によると、婚カツに励む独身男性は、地味な女性であろうと家庭的で料理が得意という「癒し」系に弱いのだそうだ。記事の中に紹介されている作家の佐木隆三さんのコメントの中見出しが「不美人でも、34歳が尽くしてくれたら私も...」というこれまた身も蓋もないあけすけなものだった。
『アエラ』11月16日号の「婚活」特集によると、「婚カツ」ブームを受けてネットの結婚紹介サイトは活況を呈しているとTVドラマのタイトルにもなった「婚カツ」ブームは、いわばメディアが作り上げたものだ。そのブームに今回の事件は冷水を浴びせたわけだが、ブームの火付け役ともいうべき『アエラ』は事件を受けてさらに大きな「婚活」特集を組んでいる。
この事件、いろいろな意味を含めて、メディアのありようをも照射していると思う。

 10月7日の発売2日前に光市母子事件被告の弁護人らが出版差し止めの仮処分を広島地裁に申し立て、新聞・テレビが大きく報道したこの騒動。この間の経緯を整理し、何が争点なのかまとめておこう。

 ちなみにこの本、『○○君を殺して何になる』(○○は実名)という書名なのだが、少年法によっていまだに匿名報道がなされている被告の実名をタイトルに入れた異例のケースだ。つまり新聞・テレビがこの事件を報じる際に、肝心の書名が表記できないというわけだ。

 ただ、『週刊新潮』などは被告がこんなふうに少年法によって保護されている状況に異を唱え、これまでも被告を実名で報じてきた。少年法は違反しても罰則がないため、事実上それは黙認されてきたのだが、今回は書名に実名が使われていることもあり、改めて大きな議論になった。

 最初に書いておきたいが、今回この本を上梓した著者の増田美智子さんは、上述の『週刊新潮』のようなスタンスでなく、これまで流布されていた被告のイメージが実像と異なるため、実像を世間に知らしめたいという意図で、実名と顔写真掲載に踏み切ったという主張だ。書名からもわかるように、被告の死刑判決に反対する立場から実名報道を行ったものだ。

 増田さんは本の中で光市事件に興味を持ったきっかけが『創』の綿井健陽さんのルポだったことを書いているし、本を出版したインシデンツ代表の寺澤有さんは親しい知人。一方の安田好弘弁護士らの弁護団とも『創』は関わりを持っているから、対立している双方が知り合いだ。

 出版差し止めの仮処分はまもなく何らかの結論が出るだろうが、既に本は発売され、騒動によって予想外に売れて増刷を重ねているから、仮処分の意味はあまりなく、被告側は既に本訴に踏み切っている。

 最大の争点はもちろん少年法と実名報道の問題だ。でも現実は少しややこしい。

 実は騒ぎが起こる直前の4日に著者と弁護士が話しあいを行っているのだが、この時点での争点は手続き問題。実名を出すことに「了解を得ていた」という著者側とそれを否定する弁護士側、事前に原稿を見せる約束だったという弁護側と「そんな約束はしていない」という著者側、という対立だ。この応酬の背後には、ノンフィクションにおける書き手の取材対象との距離のとり方、という結構難しいテーマをはらんでいるのだが、この話しあいが結局つかなかったわけだ。

 そして3番目の争点が、この本の中で書かれている光市弁護団批判をめぐってだ。弁護団の「原則取材拒否」という方針や、差し戻し審での弁護方針に対しての批判なのだが、著者側と弁護団の関係は既に出版前からこじれていたわけだ。

 奇妙なことに、出版差し止めが大きく報道されたせいで、本は予想を超えて売れている。本の内容というよりも、実名報道をめぐる騒動で売れるというのは、著者にとっても喜んでいいのか微妙だろう。本の内容に関していえば、確かに被告が知人に宛てたあの問題の手紙についての、これまで知られていなかった話もあるし、私もこの本で初めて知った事実もあり、その点は興味深く読めた。ただ佐野眞一さんや藤井誠二さんらが批判的なコメントを出しているのは、恐らくノンフィクションとしての作品性に関わる部分なのだろう。

 書店の対応も割れている。発売直後に弁護側が大手書店に、この本が少年法違反だという文書を発したこともあり、紀伊国屋などは当初販売しないという方針をとった。ネット書店も書名と書影を掲載したところとしないところにはっきりと別れている。

 私個人としては書名に実名を掲げた点など同意しかねる点はあるし、被取材者との関係の作り方もやや異論ありなのだが、上述したように興味深い内容も多かった。これから法廷で論戦も始まるから、この際、徹底的に論議を尽くすべきだと思う。ちなみに7日発売の『創』12月号ではこの問題についての特集を組んでおり、著者の増田さんや寺澤さんを始め、何人かの論者の見解を掲載している。また安田弁護士の対マスコミのスタンスについては、今出ている『創』11月号に、死刑問題をめぐる青木理さんとの対談が掲載されており、その中で自ら語っている。