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篠田博之の「週刊誌を読む」

第三者的な検証必要 週刊新潮の歴史的虚報事件

 『週刊新潮』が、朝日新聞阪神支局襲撃事件の犯人を名乗る人物の手記が虚報だったことを認めた。十六日発売の4月23日号に早川清編集長の報告が十ページにわたって掲載された。「『週刊新潮』はこうして『ニセ実行犯』に騙された」というタイトルがついている。
 今となって見れば、襲撃現場から持ち去ったという手帳も出てこないし、怪しいことだらけの手記だった。でも早川編集長によると「公表されている情報とは違う話を自信をもって証言するところに、かえって妙なリアリティを感じたりもした」とある。騙されていく人の心理とはこういうものなのだろう。

 しかし、報道する側としての責任を考えれば、ただ「騙された」といってすむ話ではないだろう。この記事も、経過報告はなされているものの、いわば「弁明」であって「検証」とはいえない。
 議論すべき最大のポイントは記事の最後の方にあるこういう記述だろう。「週刊誌の使命は、真偽がはっきりしない段階にある『事象』や『疑惑』にまで踏み込んで報道することにある」。
 公的な発表がない事柄でも、あるいは一〇〇%裏がとれない話でも踏み込んでいくのが、週刊誌ジャーナリズムの使命であるのは確かだろう。しかし、それでは今回のような虚報に陥ることを防ぐのは何によって担保されるのか。それを考えないと、この一文は単なる言い訳になってしまう。
 『週刊新潮』がこのところ名誉毀損訴訟などで敗訴するケースが多いことは以前も書いた。二月四日に東京地裁で出された元横綱貴乃花夫妻からの名誉毀損訴訟の判決では、社内に第三者的視点を持った委員会を設置することなど具体的な勧告までなされ、そうした対策を講じるのは経営者の責任だと厳しく指摘された。

 今回の事件で『週刊新潮』は第三者的な立場からの検証を行うといった意図は今のところないようだ。しかし、歴史的虚報事件と言うべき今回の問題については、もっと掘り下げた議論や検証が必要だ。週刊誌ジャーナリズムそのものの存在意義までもがこの事件では問われているような気がするからだ。

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