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篠田博之の「週刊誌を読む」

八百長疑惑断罪に「?」 報道の公共性へ配慮欠く

 このところ週刊誌が名誉毀損裁判で敗訴したというニュースがやたらに目につく。特に『週刊新潮』と『週刊現代』だ。
 2001年の『週刊ポスト』への清原元巨人軍選手の裁判の判決以降、賠償金が高額化し、1000万円台の支払いを命じられることが珍しくなくなった。その流れの中でも、敢えてイケイケ路線をとっていたのが『週刊新潮』と『週刊現代』だ(正確に言えば、後者は「前編集長時代の」と言うべきだが)。
 それに対する高額賠償判決という逆風は、週刊誌ジャーナリズムが今、いかに難しい局面に立たされているかを象徴したものといえよう。その事態の持つ意味についての考察はひとまず措くとして、私が気になるのは、その逆風があまりに急激で、大事なことが見落とされているかに見えることだ。

 最近で言えば、3月5日に出された『週刊現代』に対する1540万円の損害賠償判決だ。大相撲八百長疑惑報道に対して、北の湖前理事長が起こした訴訟に対するものだ。
 メディア訴訟では、挙証責任は報道側に求められるから、立証が不十分だとメディアが敗訴する。この裁判も『週刊現代』側が、情報源を法廷で敢えて明かすなど必死に防戦したものの、十分な取材に基づく報道とは認められなかったものだ。
 しかし、個々の記述についての真偽は別にして、一連の『週刊現代』の角界追及キャンペーンを読めば、八百長疑惑そのものが根も葉もない虚偽だと考えるのも無理がある。報道目的に公共性・公益性があったことも明らかだろう。
 個人への覗き見的なプライバシー暴きと、公共性の高い疑惑追及をきちんと区別せずに断罪するようなあり方には疑問を感じざるをえない。これでは政治家など権力の疑惑追及もできなくなってしまう恐れがある。権威権力を批判したものか単なる弱いものいじめかというのは、報道の是非を論じる際決定的に重要なことなのに、そこへの配慮が足りなすぎる気がするのだ。

 来る3月26日には朝青龍ら力士が『週刊現代』を訴えた裁判の判決も出される。正しい判断と、きちんとした議論がなされることを望みたい。

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