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篠田博之の「週刊誌を読む」

創刊50年の曲がり角 存在意義を問い直す機会

この連載コラムも掲載し始めてもう十数年になると思う。週刊誌は、かつて大手出版社を支える屋台骨だったが、この何年か様々な難しい局面に直面している。そして今年二〇〇九年は、週刊誌にとって大きな節目の年になるかもしれない。
 『週刊現代』や『女性自身』が新年特別号で創刊五十周年をうたい、『週刊文春』が記念イベントを始めていることでわかるように、昨年から今年にかけて多くの週刊誌が五十周年を迎えている。

 戦後、出版社系週刊誌の草分けとなった『週刊新潮』の創刊は一九五六年だが、その成功を見た大手出版社が次々と週刊誌を創刊。空前の週刊誌創刊ラッシュとなったのが五八~五九年だった。
 前述した週刊誌のほかに『少年マガジン』『少年サンデー』というマンガ週刊誌も五九年に創刊されている。出版社系週刊誌の基本的枠組みが確立した時期といってよい。
 そして皮肉なことに、それから五十年の記念すべき今年、週刊誌は大きな曲がり角を迎えている。部数減はとどまるところを知らず、多くの週刊誌が採算割れの危機に直面しつつあるのだ。
 とりあえず経費節減といった対応で各誌とも生き残りを図っているが、直面している事態が構造的問題に根ざした深刻なものであることは多くの関係者が認識しているはずだ。

 例えば、週刊誌は世相を反映して、大きな事件の続いた年は全体として売れ行きが伸びるというのが定説だった。ちょうど昨年は、秋葉原事件や元厚生次官殺害事件など大事件が続き、現状でも健闘していると言われる『週刊文春』『週刊新潮』は総特集を組んだのだが、当事者に聞くと、これが予想外に売れ行きにつながっていないという。
 週刊誌の読まれ方が明らかに違ってきている。かつての方程式が通じなくなっているというのだ。インターネットの日常生活への浸透を含め、人々の情報への接し方に大きな変化が現れていることの、それは反映だろう。

 総合週刊誌はどこに存在意義を見出すべきなのか。創刊五十周年はそれを改めて問い直す機会にもなるかもしれない。
悩める一年になりそうだ。

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