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気になる新潮の「不敬」/言論の許容度、自ら狭める?

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 『週刊新潮』12月7日号が大々的にぶち上げた「陛下のガンも笑いのネタにした皇室中傷芝居」には驚いた。十一月十九日の『週刊金曜日』主催の集会で披露されたパフォーマンスについて書いたものだが、私もこの集会には聴衆として参加していた。 

 芸人・石倉直樹さんの演じる「さる高貴な人々」は皇室をパロディふうにしたパフォーマンスで、初めて見る人はギョッとするかもしれないが、ライブの世界では有名だ。皇族をおとしめるだけなら芸にはならないが、実際はあったかみも感じられる独特の芸である。ただ皇室タブーの残る日本では、テレビではとても放送できないものだ。 『週刊新潮』はこれを「美智子皇后や君が代を貶める『不敬で下劣』なイベントに観客は凍りついた」と表現しているのだが、会場の少なくとも大部分の客は凍りついてなどいなかった(同誌の記者は本当に会場に来ていたのだろうか)。ただ皇室は崇高なものと考える人にとっては反発を感じるものだったかもしれない。だからあの芸を下劣だと批判するのは自由だ。しかし言論機関である雑誌がこれを「不敬」だと言って断罪するのはどうなのだろうか。

 『週刊新潮』の記事はどうも、この集会主催者へのテロをあおっているような書き方で、それが気になってしまう。実際『週刊金曜日』編集部は『週刊新潮』の記事が出た後、警察と協力して警戒体制をとっているという。加藤紘一代議士実家放火事件に続いて言論テロが起こるようなことはあってほしくない。

 それにしても日本ではこの数年、言論や表現に対する許容度が狭まって、うっかりものも言えない雰囲気になっているような気がする。「不敬」とか「非国民」とかいう言葉が冗談でなく本気で使われるようになった。 集会では永六輔さんが君が代を「星条旗よ永遠なれ」のメロディで歌うというパフォーマンスも披露した。これも『週刊新潮』は「不敬」と言わんばかりの書き方なのだが、実際は、国歌とは何であるのか、君が代とはどういう歌なのかについての、永さんなりの洞察と哲学が語られた中でのパフォーマンスだった。その肝心の説明を省略してパフォーマンスだけ取り上げては、永さんに失礼だろう。 

 今回は、本当は最近の『週刊文春』と『週刊朝日』の応酬なども取り上げるつもりだったが、紙幅が尽きた。

(月刊『創』編集長・篠田博之)

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