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無差別殺傷事件の連鎖をどうやって断ち切るか~マツダ事件被告と接して

「殺すのは誰でもよかった」
 無差別に通りがかりの人を殺傷し、逮捕後そう供述する、そんな事件が目につく。典型は2008年の秋葉原事件だが、昨年6月に広島市のマツダ工場で起きた事件もそうだ。発売中の『創』12月号に手記を掲載したマツダ事件・引寺利明被告とこの3カ月間手紙をやりとりしながら、両事件の共通性に思いをはせることが多い。

 引寺被告自身、秋葉原事件を参考にしたと語っているくらいだから共通性が多いのは当然だが、彼が語っている犯行の態様でなく、一番共通しているのは、その個人的な動機と犯行の凄惨さとのあまりにも大きな乖離だ。まさに「短絡」なのである。工場に乗り込んで無差別に人をはねたというマツダ事件は、結果的に死者が一人だったため、秋葉原事件ほど大きなニュースにならなかったのだが、手記で引寺被告が書いているように、本当はもっと多くの人を殺傷するつもりだった。死者の数で報道の大きさを分けているのはマスコミの単純思考によるもので、マツダ事件と秋葉原事件の共通性については、もっと目が向けられてよいと思う。

 引寺被告も派遣社員として様々な職場を転々とし、自ら「しょせんワシは負け組じゃ」と口にしていた。生活保護を受給していた時期もある。事件の2カ月前に期間工としてマツダで働いていた時に、他の従業員に不快な思いをさせられ、それを恨んで犯行に及んだというのは、秋葉原事件の加藤被告が事件直前に、自分の作業服を隠されたと誤解した「つなぎ」事件とよく似ている。加藤被告の場合は、それはきっかけに過ぎず、本当の動機は、ネットで嫌がらせを受けたことへの報復だったというわけだが、いずれにせよ、その個人的動機と、無差別大量殺人という事件の重大性とが、常識では結び付かない。

 恐らく、その背景には、社会の閉塞状況によって個人が追い詰められ、ちょっとして契機や動機で爆発してしまうという、社会的な構造があるのだと思う。だから、この社会には、加藤被告や引寺被告の予備軍がもっとたくさん控えていると言ってよい。少しさかのぼれば、小学校に乱入して子どもらを無差別殺害した池田小事件の宅間守死刑囚がいた。事件を調べていくと、その背後に横たわる共通性を感じざるを得ない。

 今の社会の閉塞状況の中である種の憎悪や恨み(ルサンチマン)をためこんだ人がどういうプロセスで大量殺戮といった暴発に至ってしまうのか、どういう資質やどういう条件が重なるとそういう犯罪が起こるのか。本当は、そんなふうに背後に存在する社会的問題について掘り下げていくのがジャーナリズムの役割なのだが、どうもその機能が著しく低下しているように思う。秋葉原事件についても事件直後の大報道に比べ、その後裁判などで明らかになった事柄についての考察は中島岳志北大教授の著書『秋葉原事件』など、数えるほどしかない。

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 引寺被告については二度の精神鑑定を終えて、現在公判前整理手続きの進行中。年明けにも裁判が始まると言われている。接触しているとわかるが、本人に精神障害の気配は全く認められない。ちょっと気になったのは、細かいことに固執するところが、宮崎勤死刑囚(既に執行)に似た印象を受けたことだ。例えばここで公開するのは彼の自筆の手紙だが、これは自分の手記について彼が指示を出したものだ。彼の手記は、音引きが多いのだが、その音引きについて、ひとつひとつ指示をしているのだ。音引きの右の数字がそれで、例えば「どーしよーーかのーーー」という文の場合、「しよーー」の音引きは2つ、「かのーーー」の音引きは3つにせよというわけだ。こちらがなぜ2つであちらがなぜ3つなのか、という理由はわからない。ただ、こんなふうに細かくこだわるというのは、宮崎死刑囚と12年間深く関わるなかで、しばしば感じたことだった。これはたぶん、何か意味があるのだと思う。

 引寺被告とはしばらくつきあうことになりそうだ。なぜ大量殺戮という短絡が起こるのか、考えてみたいと思う。

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