月刊「創」ブログ
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テストs
朝から新聞社やテレビ局からの取材が殺到し、幾つかのメディアにはコメントしたが、親しくつきあってきた小林薫死刑囚への刑執行は衝撃だった。しかも同時に金川死刑囚も執行というのにも驚いた。この2つの事件は、死刑制度とは何なのかについて大きな問題提起をしたケースだし、金川死刑囚の場合は死刑になるために殺人を犯したということだから、死刑が凶悪犯罪の抑止どころか逆に犯罪の背中を押した事例だ。本人はただ死にたくてやったというだけだが、そういう人間を死刑にすることが「裁いた」ことになるのかどうか、真剣に考えるべき事件だと思う。
私は2人の死刑囚とも会っており、特に小林死刑囚とは一時期、毎月のように会い、手紙のやりとりをしたし、控訴取り下げなどについて相談も受けた。2人とも共通するのは、マスコミに流布されたイメージと生身の本人の印象が異なることで、特に金川死刑囚は、会ってみた印象は本当に「好青年」だった。自我が確立する時期に自殺を考えることは誰でもあるが、それをそのまま無差別殺傷で死刑になるという短絡した発想で実行してしまったのが金川死刑囚だった。既に判決時点で彼の「死にたい」という意志は強固で、誰もが執行は早いだろうと思っていたと思う。
もうひとつ2人に共通しているのは家庭環境が複雑なことで、金川死刑囚の場合は、現代の「家庭崩壊」の象徴のような状況だった。小林死刑囚も、小さい頃に母親を亡くし、父親には暴力を振るわれて社会的に疎外されていった人物だが、母親のことをいつも思い、法廷でも母親の話になると涙を浮かべるという心情を持っていた。一方で、法廷中がすすり泣いた被害者の証言の時には全く涙も見せない非情な態度で、私はそれにも驚いたが、生涯通して家族にも社会にも否定され続けた小林死刑囚の境遇が、彼のそういう人格に影を落としていたことは確かだ。
金川死刑囚は、たぶんそのまま成長していれば人格的に変わっていったのは確かだし、小林死刑囚も仮に違った環境に生まれていればああいう事件を起こすことはなかったと思う。その意味で、2人ともその犯罪を通じて考えるべき多くの問題を投げかけていたのだが、裁判ではほとんどそれに応えられないままだった。特に小林死刑囚は、本当は検察の筋書きは事実と全く違うのだが、死刑になりたいので争わず受け入れるとして、法廷で真相を語ることを拒否していた。ただ真実は残したいので「創」に手記を書きたいと、裁判では全く主張しなかった事件の細部を手記に書いていった。いずれが真実なのか、本当はそれを争い裁くのが法廷なのだが、実際の裁判ではほとんどその解明はされないまま、被告の望み通りに死刑判決が出された。こんなことでよいのか、と私は裁判を傍聴しながら、大きな疑問を感じざるをえなかった。
「裁判は茶番だ」と2人の死刑囚は言っていた。特に小林死刑囚は確定後も「裁判は茶番だ」と言い続けて死んでいった。犯罪を犯した人間を処刑してそれで事件が裁かれたとする単純な社会通念に、この2つの事件は大きな疑問をつきつけている。本当にこれでよいのか。2人の死刑執行を機に、我々は考えてみなければいけないと思う。
小林薫死刑囚については拙著『ドキュメント死刑囚』『生涯編集者』に書いたし、金川死刑囚の手記は『創』に2回にわたって掲載した。本日、『生涯編集者』の関連部分と、金川死刑囚について書いた『創』の記事を、ネットに公開したいと思う。この機会にぜひ多くの人に、死刑について考え議論してほしいと思うからだ。(月刊『創』編集長・篠田博之)
『生涯編集者』(篠田博之著)
「第11章 奈良女児殺害・小林薫死刑囚の手記」より
この章で取り上げる奈良女児殺害事件・小林薫死刑囚のことは、私の前著『ドキュメント死刑囚』(ちくま新書)で詳しく書いている。重複を避けるため、この章は割愛しようかとも思ったが、死刑の問題と別に、書いておきたいことがあるので敢えて取り上げることにした。
詳しくは別の機会に譲るが簡単な報告だけはしておこう。
2月1日(金)夜、都内で「週刊朝日」連載中止事件についてのシンポジウムが開催され、佐野眞一さんが、2つのノンフィクション賞の選考委員を辞任した。100人くらいの規模のシンポだったが、まだ公に募集をする前から口コミで参加希望者が殺到し、結局あまり募集告知もしないまま定員に達してしまったため、開催を知らなかった人も多いと思う。当日参加した共同通信その他の記者により、選考委員辞任の一報だけは多くの新聞に掲載された。シンポのコーディネイターを務めたのは『創』編集長・篠田だが、この問題はなるべくオープンな場で、佐野さん自身も含めて議論すべきと以前から呼びかけていた。
議論は「週刊朝日」の昨年の対応や、部落差別という難しいテーマをノンフィクションでどう扱うかといった話まで、高山文彦さんらをまじえて行われた。詳しい議論の中身は月刊『創』4月号に掲載予定だが、そのシンポの冒頭の佐野さんの発言だけ、ここで紹介しておこう。選考委員辞任は、その議論の冒頭、佐野さん自身によって表明されたものだ。
《この度の週刊朝日問題では、多くの方々に多大な迷惑をかけてしまいました。出自に触れる事が差別意識と直結する事は絶対あってはならないことです。それが分かっていながら、「ハシシタ」というタイトルが、橋下徹氏の出自と人格を安易に結びつける印象を与えてしまいました。加えて『週刊ポスト』の昨年末号に書いたように「化城の人」、これは創価学会論ですね。この無断引用問題も私に降りかかっております。二つの問題とも、自分の原稿チェックの杜撰さゆえです。自分の原稿チェックもできない人間に、他人の原稿のチェックが出来るはずはありません。
よって私は今日今日を持って、早稲田大学記念石橋湛山賞、開高健ノンフィクション賞の選考委員を辞退いたします。》
なお、佐野さん及び『週刊朝日』と部落解放同盟による確認糾弾会は1月22日に第1回が始まったばかりだ。この内容については、発売中の『創』3月号に掲載してあるのでご覧いただきたい。『週刊朝日』問題はもう過去の話と思っている人も多いのだが、本格的な議論はまだこれからだ。
『週刊朝日』新年号(1月4・11日合併号)の巻頭ページに朝日新聞出版の新社長の挨拶が載っている。佐野眞一さんの連載中止事件について改めて謝罪し、新たなスタートを切ったというメッセージだ。この問題については、部落解放同盟の抗議に対する話し合いが続いているのだが、朝日新聞出版としては、新年を機に騒動は決着という形にしたいという意向なのだろう。
この社長メッセージに、あれ?と思った人もいるかもしれない。事件後、社長と編集長が交代し、同様のメッセージが誌面に載ったのが、ついこの間のことだからだ。実は、突然の社長辞任と編集長更迭を受けて先に行われたのは中継ぎの人事だった。その後、最近になって社長と編集長が新たに決まったのだ。『アエラ』最新号にも、巻末に社長と編集長の新任の挨拶が載っている。編集長と発行人の分離を含むチェック体制強化の組織変更を行い、朝日新聞出版の新体制が始動したのだ。
『週刊朝日』のこの事件は、2012年の雑誌ジャーナリズム最大の問題だったと言ってよい。一連の経過と朝日新聞出版が出した一連の総括文書についての検証は、月刊『創』12月号と1月号に詳しく書いた。いろいろな人から反響をいただき、朝日新聞や毎日新聞の「論壇時評」でも紹介していただいた。朝日新聞出版ないし朝日新聞社に対して批判的なこの論考が、朝日新聞紙面で紹介されたことは意味あることだったと思う。
そこでも詳しく書いたのだが、謝罪から連載中止に至る一連の決定が、執筆者である佐野さんに相談なしに進められていったことや、検証文書を読むと、今回の過ちが「編集現場の暴走」というふうに総括されていることなど、疑問は数限りない。
そしてここで改めて指摘しておきたいのは、『週刊文春』『週刊新潮』『週刊現代』『週刊ポスト』など主要週刊誌が、この事件を全く誌面で取り上げなかったことだ。『週刊現代』と『週刊ポスト』は、佐野さんと親しい媒体だから取り上げにくかったのだろう。
特に『週刊ポスト』は、佐野さんの連載「化城の人」で抗議を受けていた最中で、それどころではなかったはずだ。この件について佐野さんは、『週刊ポスト』新春合併号で謝罪文を掲載している。自分がいつのまにか「ノンフィクションに取り組む初心を忘れて」しまっていた、という、重たい反省だ。「無断引用問題」(いわゆる「盗作疑惑」)についても率直に謝罪している。また、自分がいつのまにかノンフィクションの取材において、現場に出なくなっていたことにも反省の弁を述べている。「化城の人」は、現場取材を行ったのは『ネットと愛国』の著者・安田浩一さんだ。今や著名ライターである安田さんをデータマンとして使い、しかも誌面にもその名前を明示しないというのは、『週刊ポスト』がいかに佐野さんを大御所として扱っているかを示しているのだが、佐野さんはそういうポジションに胡坐をかいていたと謝罪しているのだ。
さて『週刊ポスト』『週刊現代』がそういう事情で『週刊朝日』事件を取り上げられなかったとして、問題は『週刊新潮』と『週刊文春』だ。この両誌は、昨年、橋下大阪市長の出自報道の
先鞭をつけた雑誌であり、今回も報道するのが当然なのだが、ある事情があった。実は昨年、両誌とも部落解放同盟から抗議を受け、編集長名で謝罪文を出していたのだ。ただその謝罪文は、誌面で明らかにされず、解放同盟の機関紙には載ったのだが、業界でもほとんど知られていなかった。
そのことがあったので両誌は『週刊朝日』事件についてどういうスタンスをとるべきか決まらず沈黙を守ったのだろう。そもそも昨年の両誌の謝罪の経緯が明らかにされていれば、『週刊朝日』が今回、あの自爆的ともいうべき差別的な出自報道に突き進むこともなかったと思う。検証報告にあるように、むしろ『週刊朝日』の当時のデスクは、他誌が橋下市長の出自について次々と報道したのを見て、それに引っ張られたと語っている。
昨年来の一連の経緯を見ると、差別表現をめぐっていつも議論自体が封印され、タブー化されてきたという言論界・メディア界の問題が浮き彫りになってくる。『週刊朝日』自身も謝罪だけは何度もしているのだが、例えば橋下市長の父親の出自を書いたのがなぜ、どんなふうに問題なのか、といった部落差別や差別表現についての踏み込んだ論評はいまだになされていない。そもそも問題となった佐野さんの連載記事も騒ぎになって完売したために、読んでいない人も多く、何が問題だったのかいまだにわからないという声が多い。ただ『週刊朝日』が失態を犯し、社長交代という深刻な事態に至ったという、そのイメージだけが独り歩きしているのだ。
この事件は『週刊朝日』の敗北というだけでなく、「言論の敗北」なのかもしれない。そんな気がするのだ。
10月6日発売の月刊『創』11月号で、作家の柳美里さんが14ページにわたって、この9月に韓国で開催された国際ペン大会の内情を痛烈に告発しています。柳さんはそもそもこの大会にメインスピーカーとして招待され、「表現の自由」と題するスピーチを行ったのですが、主催者側との間に「不愉快な出来事が立て続けに起きました」。
そのダメ押しとなったのは、最終日に、ペン大会に参加した世界中の作家らが慶州の「観光」に案内されたところ、それが何と原発施設の見学だったことでした。どうやらペン大会開催にあたって、原発企業が協賛となったようで、ペンクラブ韓国支部のおぜん立てで原発PR観光が行われたようです。柳さんはそれについてこう書いています。
〈「観光」と称して、世界114カ国から参加した文学者たちをバスに乗せて原発施設に連れて行く神経を疑ったのはわたしだけではなく、ドイツとフランスのペンクラブは抗議を行ったそうです。〉
日本で昨年、福島第一原発事故が起き、柳さんを始め、文学者の間でも原発が大きな問題になっているこの時期に、隣国でこういう無神経なことが行われていたのには驚きを禁じ得ません。しかも、多くの作家やジャーナリストが参加したこの国際大会について、今回、柳さんが告発を行うまでほとんどこれが話題になっていないことも驚きです。
原発「観光」は約3時間行われ、文学者たちはヘルメットに防護マスクという異様な格好で各施設を見学したようです。「写真撮影禁止」だったのですが、柳さんはちゃんと写真を撮影し、『創』誌上に公表しています。
『創』での柳さんの連載は、毎月4ページだったのですが、今回の告発については、柳さんがどうしても書かずにはいられないとして急遽14ページの長文の手記を執筆。校了前日にそれが送られてきたのですが、編集部の判断で、予定していた他の原稿をペンディングして一挙掲載に踏み切ったものです。
この春からは南相馬災害FM(現「南相馬ひばりFM」)にボランティアで毎週出演するなど、福島に通い、原発事故の問題に関心を寄せてきた柳さんには、絶句せざるをえない体験だったようです。
なお柳美里さんは、先頃刊行した対談集『沈黙より軽い言葉を発するなかれ』(創出版刊)で、多くの表現者と原発問題をめぐって対談を行っています。
柳美里さんのサイン本が話題になっています。
メッセージを込めた、それ自体が作品と言えるようなサインです。(画像は柳美里さんのツイッターよりhttps://twitter.com/yu_miri_0622/status/243300069812613120)
下記書店にてサイン本を販売していますので、お買い求め下さい。
特に東京堂書店は30冊もサイン本を置いています。
東京堂書店神田神保町店
紀伊國屋新宿本店
紀伊國屋新宿南店
ジュンク堂池袋店
リブロ吉祥寺店
たらば書房(鎌倉)
島森書店(鎌倉)
書店からのご希望があれば、サイン本販売は他の書店にも拡大していく予定です。
サイン本のほかに、柳美里さん直筆の色紙やPOPも、上記書店に限らず、多くの書店にて陳列しています。
サイン本については、読者からの希望も多いため、創出版でもご注文を受けて直送の態勢をとっています。ご希望の方は、創出版のショッピングカートから申し込むか、電話・ファックスなどでご連絡下さい。カード決済、代引きなど、様々な決済方法が可能です。
醜悪な政治的駆け引きの末に消費増税関連法が10日に成立した。この問題については全国紙が全て政府支持に回り、翼賛体制が確立したといえるエポックメイクな出来事かもしれない。一時はリベラルな紙面で知られた毎日新聞も11日の社説は「増税法成立 『決める政治』を続けよう」という見出し。いったいどうしちゃったの?という感じだ。在京紙では東京新聞だけが消費増税反対なのだが、全国紙のこの状態には失望を禁じ得ない人も多いと思う。
そんななかで興味深かったのが8月11日の朝日新聞に掲載された「増税、地方紙は批判的」という記事だ。全国紙は増税支持だったが、地方紙は、北海道や中日、中国、西日本などほとんどが増税に批判的だと指摘したもの。地元読者の目線を大事にするのが地方紙の特徴であるゆえに、そうなったという解説もなされている。全国紙の体たらくに失望していた人にとっては、希望を感じさせる記事といえる。
興味深いというのは、記事内容もさることながら、社説で増税支持を打ち出している朝日新聞にこういう記事が載ることの意味合いだ。実は、同紙は8月6日にも「消費税『朝日はどっちだ』読者から声 多様な論点 伝え方模索」という大きな記事を掲載している。
朝日新聞は社説では増税支持を打ち出しているが、記事では批判的なものもあり、いったいどっちなのだという読者の声が多数寄せられているとして、それについての回答を載せたものだ。内容は、社説は論説委員室での議論を通して決められていくのだが、それは個々の記者の記事や論評を縛るものではない、というものだ。これも興味深いのは、朝日新聞が、この記事を一面全部を使って大きく掲載したことの意味合いだ。
4月初めに掲載された朝日新聞の消費増税推進の社説は本当にひどいものだったが、社の内外で、いろいろな反響があったことを、これらの記事は示しているのではないだろうか。読売新聞などは、社論が紙面全体に貫徹していると言われるが、朝日新聞は、増税推進の旗を掲げたものの、内外には異論も渦巻いている。そのことを反映しているのではないだろうか。読者から突っ込みが入って、紙面で弁明しているだけ、まだ多少の救いはあると考えられないこともない。
以前もブログに書いたが、遠い将来、消費税をどうすべきかという議論はあってよい。しかし、いまジャーナリズムがやるべきことは、その民意を無視した法案の通し方や、民主党の変節のひどさを批判することではないか。これだけ「主権在民」の理念が踏みにじられているのに、それを「決められない政治からの脱却」などと賛美するのは、政治と同じくらい新聞が堕落したことの象徴ではないだろうか。昨年の原発報道では、政治に対する不信がマスコミへの不信に直結していったのだが、最近の大手マスコミのひどさには、本当にため息が出る思いだ。 (篠田博之)