沿革 -月刊「創」と創出版の歩み-

1971年10月

#『創』創刊。当時の発行元は綜合評論社。教育、宗教などあらゆる社会問題を扱う文字通りの総合雑誌だった。

1978年

1978年から表紙のアートディレクターが鬼澤邦氏に。この頃、『創』は冤罪事件を頻繁に取り上げていた。



1980年6月号

#ここから掲載された韓国・元KCIA部長のスクープ手記はNHKニュースで取り上げられるなど反響を呼んだ。4回にわたる連載期間中、韓国大使館による頻繁な接触も。発売前にゲラを入手して牽制してくることもあった。



1981年8月号

「音羽VS一ツ橋 巨大出版社の研究」の特集が出版界で大きな話題に。以後、「平凡出版VS集英社」などメディア界の特集を続け、『創』はメディア批評誌に転換していく。この年、前年に入社した篠田が編集長に就任した。



1982年6月

いわゆる商法改正で広告集稿が困難になることから綜合評論社が会社解散を決定。編集者3人が創出版を設立。11月号より発行を続ける。『出版界の仕掛人』など単行本も3冊刊行。



1983年より

# 『マスコミ就職読本』刊行。単なる就職本でなく、マスコミ採用の実態をえぐったもので、最初は書名に『マスコミ就職毒本』という案もあった。



1986年12月号

#1986年12月号よりロス疑惑事件被告・三浦和義氏の長期連載開始。84年以来のロス疑惑報道を検証したもので、後に三浦被告がメディア訴訟を展開していく背景となった。



1988年2月号

昭和天皇のいわゆるXデーマニュアルを掲載。当時天皇は闘病中で、死後を想定するのは不敬だとして右翼団体が街宣車8台で押しかけた。篠田編集長が右翼約40人に1時間にわたって取り囲まれる。



1991年9月

イトマン事件絡みで編集部が家宅捜索を受ける。当時の代表が創出版と別に経営していた不動産会社が事件に関わっていたためだった。『創』が事件に関わっていたかのような報道もなされ抗議。共同通信、毎日新聞など主なマスコミが後に謝罪訂正報道。逮捕された代表とは決別。



1992年3月

 

#石ノ森章太郎(故人)氏を代表として「コミック表現の自由を守る会」発足。91年から全国に吹き荒れた「有害」コミック規制運動については、『創』も誌面でキャンペーンを展開。篠田編集長の呼び掛けでマンガ家やマンガ編集者らが立ち上がったのが「守る会」だった。里中満智子、さいとうたかを、石坂啓、山本直樹氏ら錚々たるマンガ家と、講談社、小学館、集英社など大手からエロ漫画系出版社まで、マンガに関わる出版・表現者が大同団結。篠田編集長は事務局長に就任。以後、同会は規制反対運動を展開、5月にはマンガ雑誌37誌に意見広告掲載。テレビやシンポジウムなどで「表現と規制」について議論を行った。これらの経緯は『創』に掲載され、後に『誌外戦』という単行本にまとめられた。



1993年秋

筒井康隆氏の断筆宣言を機に差別表現についての議論が高まる。『創』も12月号で大特集を組んだ。



1994年

#夏から秋にかけて筒井康隆氏と日本てんかん協会が往復書簡による話しあいを始めるのだが、これを仲介したのが『創』編集部だった。筒井氏とてんかん協会は11月「合意」に達し、記者会見で経緯を公表。またその直前の10月25日、日本ペンクラブ主催の「『差別表現』に関するシンポジウム」では、井上ひさし、本多勝一氏らとともに篠田編集長がパネラーを務めた。

1995年

#この間の差別表現をめぐる論争を収録した『筒井康隆「断筆」めぐる大論争』を刊行。



1996年

TBSのオウムビデオ問題がメディア界を揺るがす大議論に。『創』も6月号で大特集を組んだ。



1996年10月

『創』創刊25周年を記念してパーティーや連続トークを実施。パーティーには、筑紫哲也、本多勝一、江川紹子、猪瀬直樹氏らがかけつけた。同時期開催されたデザイナー鬼沢邦氏の「表紙絵展」会場では、宮台真司、香山リカ氏らのトークも。その模様は12月号に収録された。

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1996年

#12月号で二子山部屋のおかみさんこと花田憲子さんのこの間のバッシング報道に対する心情を吐露した手記が反響を呼ぶ。



1997年

#ペルーの日本大使館公邸人質事件で共同通信社、テレビ朝日系の突入取材が議論に。『創』は当事者である原田カメラマンや人見記者の手記を掲載。また6月13日、新聞協会や雑誌協会が構成するマスコミ倫理懇談会のシンポジウムで篠田編集長が司会を務める。パネラーは共同通信、テレビ朝日、産経新聞、TBSの報道責任者



1997年

#2月号でオウム真理教・麻原前教祖の三女アーチャリーの独占インタビュー掲載。上九一色村を出て福島県に移り住んでから彼女の住む邸内にマスコミが入ったのはこれが初めて。三女が料理をしたりカラオケを熱唱するなどの日常風景を撮影したスクープ写真もグラビアに掲載。大きな反響を呼ぶ。



1997年

#7月号から連続幼女殺害事件被告・宮崎勤被告との往復書簡が連載される。逮捕後、宮崎被告の法廷以外での発言が紹介されるのはこれが初めてで、新聞、テレビでスクープとして報道される。



1998年

#4月号で、息子の覚醒剤事件で仕事を降板した女優・三田佳子さんのインタビューを掲載。大きな話題になり、その週放送されたワイドショーの話題で第5位にランキング。『創』4月号はあっという間に完売となる。



1998年

7月号『創』で「帝京大『レイプ事件』の真相」を特集。1月に「集団レイプ」容疑で逮捕された学生たちや被害者女性など、それまでマスコミに一切登場していなかった当事者が誌上告白。マスコミ報道の誤りや問題点が浮き彫りに。この問題は以後BRCで議論に。 



1998年

#8月号から2回にわたって上祐史浩被告の獄中書簡を掲載。逮捕後初めての手記発表とあって賛否両論、話題を呼んだ。テレビのワイドショーが大々的に報道。



1998年

8月号でロス疑惑事件で無罪判決となった三浦和義さんが座談会に登場。メディア訴訟を手がけてきた三浦さんはマスコミ取材を一切拒否しており、この座談会での発言が自らメディアに登場した唯一の機会となった。



1998年

11月号に和歌山カレー事件の林夫妻のロングインタビューを掲載。8月下旬以降のマスコミの取材の実態を実名で暴露し、反響を呼んだ。9月以降、10月4日の逮捕まで夫妻に最も肉薄したのが『創』だった。



1998年

#12月、宮崎勤被告の初の単行本『夢のなか』出版。賛否含めて話題になった。



1999年

8月号『創』で、前年12月に起きたインターネット毒物宅配事件のドクター・キリコの母親のインタビュー掲載。編集長が、事件関係者の美智子さんらと札幌を訪れ、母親から事件や息子の自殺の詳細、マスコミの取材ぶりを聞いた。警察に押収されていたドクター・キリコのパソコンを事件以来初めて動かしてみた。
  また、この号から各地で激化するオウム教団と住民の対立を連続追及。各地の現場を回ってルポを行う。



1999年

#12月号『創』に、元オウム松本知子被告の「教団に謝罪を勧告する手紙」を掲載。新聞・テレビで一斉に報道され大きな反響を巻きおこす。12月に教団が正式謝罪に至るきっかけのひとつにも。



1999年

#12月発売の『創』2000年1・2月号で、12月21日に控訴審が始まる宮崎勤被告が手記を発表。新聞・テレビで報道される。
  またこの号には、東芝ホームページ事件で東芝を告発した当事者(福岡の会社員)が初めて手記を発表した。ドクター・キリコ事件と東芝HP事件という、99年を象徴する2つのインターネット事件の当事者が、いずれも『創』に登場したことになった。



2000年

#6月号『創』にオウム松本被告三女アーチャリーの独占インタビュー掲載。1月に起きた茨城県旭村での長男連れ去り事件の真相や教団との関係を詳述。新聞・テレビで報道される。



2001年〜2006年6月まで

マスコミに報道された『創』や創出版の書籍については、こちらで詳しく紹介しています。


これ以降は月刊『創』ブログにて更新。