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元オウム信者・菊地直子さんが唯一書いた獄中手記を公開します

 1127日に出された元オウム信者・菊地直子さんの逆転無罪判決には驚いた人が多かったと思う。1審の裁判員裁判の懲役5年という有罪判決を、2審でプロの裁判官がひっくり返したわけで、裁判のあり方をめぐる議論も起きている。そこでここでそれについて書くとともに、菊地直子さんが『創』8月号に書いた手記を公開しよう。 

『創』編集長の私のところへも判決について取材が入り、TBSの1130日放送の「白熱ライブ・ビビット」の取材には応じた。そこで『創』の手記を引用したいという申し出があったので、公に刊行されたものなので出典を明記して引用はどうぞ、と応じた。ただ考えてみると、たぶんテレビなどの引用は一部を抽出してなされるので、彼女の真意が伝わらないと困るなと思い、このブログで彼女の手記全文を公開しようと思い至った。この手記を読むと、彼女の訴えていたことがよくわかるからだ。

 手記の中でも書いているが、彼女はマスコミに対して相当強い不信感を抱いており、たぶん今後もマスコミのインタビューなどに応じることはないと思う。その意味では『創』に書いたこの手記が、彼女が直接社会に訴えた最初で最後の機会になるかもしれない。

  その手記の前に今回の高裁判決について私見を少し書いておきたい。これはいろいろな意味で大きな問題提起であり、まずは裁判官のプロの法律家としての見識に敬意を表したいと思う。かつて「ロス疑惑」事件の三浦和義さん(故人)への無罪判決が出た時のことを彷彿とさせる。つまり、社会的イメージにとらわれず、法律に則って裁くという意志が感じられるのだ。

 実は私も5月に最初に菊地さんに接見した時、彼女が控訴したのは1審の懲役5年という量刑が重すぎるという意図かと思ってそう率直に尋ねたのだが、彼女からはいやそうでなく無罪を争っているのですよ、と言われた。その後私も裁判を傍聴して審理の中身を理解するようになったのだが、特別指名手配され17年間も逃亡していた彼女への世間のイメージには「無罪」という言葉はありえなかったと思う。1審の裁判員たちもそうだったと思われる。

 ただそれは恐らく社会の側のある種の先入観なのだと思う。裁判員裁判は、裁判に市民感覚を取り入れるという趣旨で私もその趣旨には賛同するが、同時にそれはある種の社会的イメージも入り込むことになる。菊地さんが接見の時に、いまだに自分に対して何か死刑相当の凶悪犯というイメージで捉えている人が多くて驚いてしまうと言っていた。彼女の特別指名手配の容疑はサリン製造に関与した殺人及び殺人未遂で、17年間、マスコミはずっとそう報道し続けてきた。彼女は今年に入ってようやくそういうマスコミ報道をただそうと、週刊誌に抗議文を送ったりしていたのだが、実はサリン事件関連では彼女は起訴もされていない。だから捜査側も相当ずさんなのだが、オウムに関連したこととなるとそういうずさんさも許容されるという社会的風潮があった。

 今回、改めて菊地直子さんの裁判についての論評を検索してみたら、菊地さんの捜査のひどさをほかならぬ江川紹子さんが指摘していた。江川さんは高裁の無罪判決を評価している。オウムをずっと追い続けてきた江川さんゆえに、その論評にはすごく説得力がある。]今回の高裁判決の評価をめぐる議論はこれからなされると思うが、これは同時に、裁判員裁判による市民感覚を反映させた法廷と、プロの法律家による法解釈と、それぞれどこにメリットデメリットがあるかという大事な問題を提起しているのかもしれない。判決の報道のしかた自体、メディアごとの評価が見出しの立て方その他に反映されている。

 たぶん世間の大方の受け止め方は、無罪なのだったらなぜ17年間も逃亡していたのか、という疑問だろう。ただ、私も彼女の手記を掲載し、何度か接見して話しているうちに理解できたのだが、実は順序があべこべなのだ。彼女の手記にある通り、もともとサリン事件に直接関与するような幹部でも何でもなかったのに、突然、1995年5月16日にサリン事件の殺人・殺人未遂容疑で逮捕状が出されたことから話は始まる。幹部の林泰男死刑囚らが逃亡を決めた時に、同じ逮捕状が出ていたので彼女も一緒に逃亡した。彼女にしてみれば身に覚えがないのにそうなってしまったわけだ。

 じゃあ、どうして17年間も出頭しなかったの?という疑問は当然湧くだろう。彼女も思い悩んでいたらしい。私も接見の時に、弁護士さんにでも相談すれば絶対に出頭した方がよいと言われたと思う、と彼女に訊いてみたが、彼女の返事はこうだった。そんな相談をする相手はいなかった、と。確かに殺人容疑で指名手配されたら、怖くて誰かに相談することなどできなかったかもしれない。そのへんの心境も彼女は手記に書き込んでいる。

 今回の判決で、彼女は再び教団に戻るのかなどとネットに書いている人もいるが、これも手記にある通り、彼女は逃亡を続けたことで教団からも除名処分になっている。もう帰る場所がなくなったまま、17年間、漂流を続けたのだ。 

 彼女がマスコミ不信に陥っていると前述したが、彼女に聞いてわかったのは、これまでのマスコミ報道が相当間違っていることだ。例えばこれは極めて重要な点なのだが、彼女がオウム教団に入ったきっかけは、陸上競技で脚を痛めてヨガ道場に通い始めたということで、これはもう定説になっているのだが、接見の時に彼女は、それは全く違うんです、と言っていた。その定説自体がいったいどういう根拠に基づいているのか、今となってはわからないが、マスコミはいまだにそう報じている。そのほかにも週刊誌が大々的に報じているいわゆる菊地ノートの解釈についても、彼女は、あそこが違う、これが違うと指摘していた。考えてみればマスコミが相当量報じている菊地直子伝説は、伝聞や推定による部分がかなりあるらしいのだ。

 しかし、彼女はそういうものにいちいち、自分のプライバシーをさらしてまで応える気はないようだ。逃亡中の生活についても、お世話になった人に迷惑がかかるのでいっさい話す気はないと言っていた。

 ついでに言っておけば、彼女が逮捕された時に同居していた男性についても、今回の判決後、マスコミが一斉に取材をかけたようで、彼の娘にまで取材が来るような事態に当事者たちがみな怒っているという。菊地直子さんの逮捕を機に別れた男性にまで集中的に取材をかけるというのは、批判されている「集団的過熱取材(メディアスクラム)」そのものだ。新聞・テレビは一過性だから3日もすれば収まるが、これから週刊誌がそれに続く可能性があるので、それについても当事者たちが迷惑だと怒っていることをお伝えしたい。私は『創』の菊地手記掲載後、その男性から連絡をもらいいろいろ話す機会も得たが、いまだに取材が殺到していると聞いて気の毒になった。

 以上、現状での感想を記したが、実は私自身、ここまですごい判決が出るとは予想しておらず、菊地さんとはしばらく連絡をとっていなかった。判決が出て落ち着いたらまた接見しようと思っていたのだが、接見どころか一気に釈放までなされてしまった。この急展開にはただ驚くばかりだ。

 では、『創』8月号に掲載された菊地直子さんの手記を掲載しよう。今から読み返すと、なかなか重要な示唆をたくさん含んだ内容といえる。この手記は『週刊新潮』への提訴を決めたという話で終わっているのだが、その後接見した時に確認したら、手続きに時間がかかって提訴はまだしていないとのこと。そうするうちに今回の高裁判決になったわけだ。(以上文責・篠田博之)

 

「走る爆弾娘」と呼ばれた非日常すぎる状況

 「過去のオウム裁判の記録を見ても、菊地さんの名前がほとんど出てこない。菊地さんはサリンの生成には関与していないのではないか」

 接見室で国選の弁護人の先生からそう言われたのは、私が平成24年6月3日に逮捕されてから、それほど経っていないある日のことでした。

「えっ、そうなんですか?」

私は全国指名手配されて逃げているうちに、自分が地下鉄サリン事件で使われたサリンの生成に、なんらかの形で関与してしまったのだろうと思いこんでしまっていました。しかし、よくよく思い出してみると、指名手配になった当時は「なんで私が?」「幹部と言われている人達とたまたま一緒にいたからかなあ?」などと思っていたのです。

 後になってから、「あの作業がサリンと関係していたのだろうか?」と考えてみましたが、私と一緒にその作業をしていた人は、地下鉄サリン事件では逮捕されていません。「薬事法違反」で起訴されているだけでした。「それでは何が?」と考えても他に思いつきませんでした。結局、何がサリンと関係していたのかがはっきりしないまま、私は17年も逃げ続けてしまったのです。

先生に「サリンの生成には関与していないのではないか」と言われて、ようやく気付いたのです。「ああ、私はサリンの生成には関わってなかったんだ。何がサリンと関係していたのかがわからなくて当たり前だったんだ」と。

 私に地下鉄サリン事件の殺人・殺人未遂容疑で逮捕状が出たのは平成7年(1995年)5月16日のことです。地下鉄サリン事件が起きたのは、同年の3月20日のことです。事件が起きた直後、教団への強制捜査がせまった為に私が林泰男さんと逃走を始めたとか、八王子市内のマンションで潜伏していたなどの報道が一部でされていますが、それは正しくありません。逮捕状が出る直前まで、私は強制捜査の行われている山梨県上九一色村のオウム真理教の施設内で普通に生活をしていました。こんな事件を教団が起こすはずがないと思っていた私は、この騒動も直に収まると考えていて、まさかその後自分に逮捕状が出るなど夢にも思っていなかったのです(逃走生活が始まってからも、しばらくの間、私は地下鉄サリン事件は教団が起こしたものではないと信じていました)。

 林泰男さん達との逃走が始まったのは、逮捕状が出た直後の5月18日のことです。逮捕状が出る直前に中川智正さんに東京都内に呼び出されていた私は、5月17日に都心の某マンションに行くように中川さんから指示をされました(中川さんはその指示を出した直後に逮捕されてしまいました)。マンションに一晩泊まった次の日に林さんがやってきました。お互い相手の顔と名前は知っていましたが、話をしたことはありません。

「じゃあ、行こうか」

と林さんに声をかけられ、

「どこに行くのかな?」

と思いながら、彼と一緒にマンションを出たのが、17年にわたる逃走の始まりとなりました。

  逃走が始まったばかりの頃は、突然身に覚えのないことで全国指名手配になるという、あまりにも非日常すぎる状況に、現実が現実として感じられず、まるで映画の世界の中に迷い込んでしまったかのように感じた記憶が残っています。

しばらくして、TVで私が「走る爆弾娘」と呼ばれるようになりました。自分が地下鉄サリン事件で指名手配になった時もそうでしたが、全くの寝耳に水の出来事です。上九一色村にいた時に、中川さんに頼まれて八王子のマンションに薬品を運んだことがあったのですが、それが爆弾の原材料として使われたらしいということにこの時初めて気が付きました。

「大変なことになった。じゃあ、やっぱりサリンの生成にも関わったのだろうか?」。そうは思っても、出頭する勇気は出ませんでした。「きっと『知らなかった』と言っても信じてもらえない。私は地下鉄サリン事件の犯人として裁かれてしまうんだ」。そう思いこんでしまったのです。

 私は高校卒業後、18歳の時にオウム真理教に出家しました。両親との関係はとても悪く、実家には絶対に戻りたくないと思っていました。一方、指名手配されて1カ月ぐらい後のことだったと思いますが、教団の「出頭するように」という呼びかけに応じなかった為、上祐史浩さんに除名処分にされてしまいました。私には帰る場所が無くなってしまったのです。これは、私がその後17年逃げ続けてしまった一つの要因にもなりました。

 

 紆余曲折の17年の末、私はとうとう逮捕されてしまいました。警察につかまれば暴力をふるわれてでも嘘の自白をさせられると思っていた私は、取調官の応対が思いの外、紳士的に感じられました。

「なんだ。こちらの言い分もちゃんと聞いてくれるんだ」

 私の供述の都合のよい部分だけがマスコミに流されていることを知らなかった私は、不覚にもそう思ってしまいました。

しかし、その思いは突然裏切られることになりました。

「地下鉄サリン事件について、まだ何も話していないじゃないか! まだ話していない事があるだろう!」

それまで穏やかだった取調官の態度が豹変し、私は怒声を浴びせられたのです。私を睨みつけるその目はまるで氷のようでした。

その瞬間、私の頭の中でいろんな思いが交錯しました。「地下鉄サリン事件についてと言われても、心当たりのありそうなものについてはもう話したのに。他に何を話せと言うのだろう?」「初日に『知らなかった』と話した時は信じてくれているように見えたのに」「『知らなかった』のだから、何が地下鉄サリン事件と関係があるかなんてわからないのに」「やっぱり信じてもらえないんだ」「17年間、『どうせわかってもらえない』と思っていたのは正しかった」「少しでも『わかってもらえるかも』と期待した私が馬鹿だった」......。

私は取調官に心を開きかけていたことを後悔しました。そしてこう言ったのです。

「『何も話していない』と言うのなら、もう本当に何も話しません」

 そして二度と言葉を発することはありませんでした。

 

 結局、私は地下鉄サリン事件では処分保留となり、起訴される事はありませんでした。続いて逮捕されたVX殺人事件でも処分保留になりました(この事件については、自分に逮捕状が出ていることすら知りませんでした)。そして、最後に逮捕された都庁小包爆弾事件で起訴されたのです。

 起訴されて、湾岸署の留置所から東京拘置所に移った後、私は弁護人の先生が言っていた事が正しかったと知ることになりました。関係者の膨大な供述調書と裁判調書が差し入れられたからです。どのぐらい膨大な量かというと、ファイルにとじて30センチぐらいに平積みしたものが7山です。しかも、これは表と裏にそれぞれ調書4ページ分を縮小コピーしているので、実際には8倍の量です。つまり全部積み上げると、16・8mもの分量ということになります。このうち私の事に触れられているのはほんの一部なのですが、関係者の全ての調書を検察に開示請求したところ、このような量になってしまったのです。これらの調書から、私がサリン生成に関わっていないのは明らかでした。

また、厚生省(当時の教団の部署名)のメンバーのうち3人(私を含めると4人)が、地下鉄サリン事件で逮捕された後に釈放されていたこともわかりました。恐らく警察は事件の早期解決を図って、証拠が揃っていない人物にまで逮捕状を出したのでしょう。この3人はすぐに逮捕された為、私のように指名手配になることもなく、釈放されたことも大きく報道されていなかったので(もしくは全く報道されなかったのかもしれません)、私はその事に全く気付かなかったのです。もし気付けていれば、自分がサリン生成に関わっていなかったことにも気付けたかもしれません。

しかし、全ては後の祭りでした。「どうすることもできない」と私はあきらめてしまっていました。

 

 逮捕されて約2年後の昨年の5月、私の裁判(都庁小包爆弾事件)が始まりました。この裁判の一審では、私が教団内でどのような活動をしていたのかが詳細に審理されました。つまり私がサリン生成に関与していないということが明らかにされたのです。

そして同年6月30日、私は懲役5年の有罪判決を受けました。起訴時の罪名は爆発物取締罰則違反ほう助と殺人未遂ほう助でしたが、爆発物を製造し使用することについては認識が認められず、ほう助罪は成立しないとされ、殺人未遂ほう助のみが認定されました。私はこれを不服として即日控訴しました。

 この一審の有罪判決直後に、私はある報道を知ることになり、自分が今だに地下鉄サリン事件の犯人であると世間から認識されていることに気付きました。私は狐につままれたように感じました。私は地下鉄サリン事件では起訴されていません。加えて、サリン生成には関与していないことが裁判で明らかになったばかりです。傍聴席にはマスコミの専用席が設けられており、その席が割り当てられた司法記者クラブの人達は、私の裁判を通しで傍聴しているはずです。であるのにかかわらず、なぜ私が地下鉄サリン事件に関わったかのような報道が、その裁判の直後に流れるのでしょう。

 裁判で有罪判決が下されたことのショックに加え、私はただただ失望を感じることしかできませんでした。

 

 控訴審の準備を進めていた昨年の終わり頃、私は創出版・篠田編集長の『生涯編集者』という本を拘置所内から購入しました。その中に「ロス疑惑」で有名になった故・三浦和義さんの記事が載っていました。なんと彼はマスコミ相手に約500件もの裁判を起こし、そのほとんどに勝訴したというのです。初めてこれを読んだ時、「ふ~ん、すごいね」とは思いましたが、他人事でした。自分にこんなことができるとは想像できなかったのです。

 ちょうどその頃、私は両親との関係に悩んでいました。両親は定期的に面会に来てくれていましたが、私には両親が自分をコントロールしようとしているようにしか感じられず、面会の度に強い恐怖を感じていたのです。

「いったい何がこんなに恐怖なのだろう?」

 この状態から抜け出したくて、私は幼少期の体験まで思い起こして、必死にその原因を探ろうとしました。そしてやっと、無意識的にある思考パターンに陥っていることに気付いたのです。そのパターンとは、「話してもどうせわかってもらえない」「わかってもらえなくて傷付くだけ」、だから「最初から話さない」、もしくは「一度話してだめだったらすぐにあきらめてしまう」というものでした。

 そのことに気付いた時、私は初めて、傷つくことを恐れずに自分の思っている事を相手に伝えようと思いました。そう決意して面会したところ、それまでは全く伝わらなかったこちらの意思がすんなりと相手に伝わったのです。それは劇的な変化で、いったい何が起きたのかと呆然としてしまったほどです。

 この時、伝わらなくて困っていたのは「週刊誌は読まないから差し入れないでほしい」という些細な内容でした(私の記事が載っていたわけではないのですが、読みたくなかったのです)。「入れないで」と言っているのに、「外の情報がわかった方がいいから」と親が差し入れをやめてくれなかったのです。しかし、私がそれをうまく断れないのは、「断ると相手に悪いから」という相手を思いやる気持ちから来るのではなく、「自分が傷付きたくない」という理由でしかなかったことに気付いたとたん、状況が一変したのでした。これ以降、親に対して「伝わらない」と感じることがどんどん少なくなっていきました。

 この体験を機に、私の中で世界の見え方が徐々に変化していきました。この世の現実というのは、心が作り出しているのではないかと思うようになったのです。親との関係で言えば、「親にわかってもらえない」という現実が先にあるのではなく、「傷付きたくない」「どうせわかってもらえない」という否定的な想念が先にあり、その想念が心に壁を作り、その壁が言葉を遮断し、言葉を発しているのにもかかわらず「伝わらない」という現実を生み出していたのではないかと思ったのです。

 そこで初めて、私にも三浦和義さんと同じことができるのではないかという思いが湧いてきたのです。三浦さんの著書『弁護士いらず』(太田出版/現在絶版)には、「きちんと話せばきっと理解してくれる、という思いがあった」など肯定的な言葉が何度も出てきます。

「私と正反対の考えで生きている人だったんだなあ。きっとこの信念こそが高い勝訴率を生み出した原因に違いない。私はずっと『どうせわかってもらえない』と思いこんでいた。その思いこみが、犯人とされることに甘んじる結果につながっていたのではないか。このままでは誰も真実を報道してくれない。だったら自分から声を上げよう。必ずわかってもらえると信じた上で、きちんと説明すれば、きっと今の現実を変えることができる。その過程で傷付くことがあったとしても、それでもかまわない」

私は次第にそう思うようになったのです。

 私はそれまで、マスコミに対する極度の不信感から、徹底的に自分の報道から目を背けてきました。弁護士の先生との会話で自然に入ってきてしまうものはありましたが、特に週刊誌や新聞など紙媒体のものは、逃走中も含めてほとんど目にしていないのです。

 私は初めてこれらと真正面から向き合う決意をしました。今までの自分の報道に全て目を通そうと考えたのです。そしてもし間違った報道があったならば、きちんと抗議をし、それでも間違いを認めてもらえないならば、法廷という公の場で第三者にきちんと判断をしてもらおう。そう思ったのです。

 果たして裁判官が公正な判断をしてくれるだろうかという不安はありましたが、「最初から100%の結果が出なくてもいい。最初は10%か20%ぐらいしか伝わらなかったとしても、あきらめなければきっと伝わる。それに、何も行動を起こさなければ0%だけど、10%でも20%でも伝われば意味がある」と思ったのです。それは、自分の刑事裁判の体験から生じた思いでもありました。判決は「有罪」でしたが、裁判を傍聴していた(面識のない)方から、「本当に知らなかったんだなと思った」「(私の)証言に説得力があった」等のお手紙を頂いていたのです。

「裁判官には伝わらなかったけど、一部の人達には確実に伝わったんだ」

この体験は、「どうせわかってもらえない」と感じたことについては、最初から話さない癖のある私にとって、大きな成功体験になったのです。

 私はまず最初に週刊誌の記事を集め始めました。案の定、事実無根の記事ばかりでした。想定していたとはいえ、あまりにもひどい内容に意気消沈しましたが、気を取り直し、その中でも特にひどかった『週刊新潮』『週刊文春』『週刊実話』の三誌に内容証明郵便を送りました。

 いち早く回答が返ってきたのは『週刊新潮』でした。その回答書の内容は抗議した記事の内容以上にひどいものでした。私はサリン生成に関わったと断定する記事を載せられたことと、最高で無期懲役もあり得るなどという量刑予想を載せられたことについて主に抗議をしたのですが、『週刊新潮』は、「サリン製造に関わった」と表現することには何ら問題がないと主張し、その根拠として、「(私が)土谷正実実さん率いる第二厚生省に移った事」と「第二厚生省の拠点である『クシティガルバ棟』でサリンが製造された事」を挙げてきました。そして、サリンがクシティガルバ棟で製造された事は、過去のいくつかのオウム裁判で事実として認定されていると主張してきたのです。

 しかし、私の手元にある関係者の裁判記録では、クシティガルバ棟でサリンが生成されたのは、「93年(平成5年)12月~94年(平成6年)2月」です。これより後にクシティガルバ棟でサリンが生成されたという記録は一切ありません(95年3月に教団内でサリンが生成されたことがあったようですが、クシティガルバ棟とは別の施設でのことです)。一方、『週刊新潮』は記事の中で、「94年半ば、オウムが省庁制を定めた頃、『達成部』(私が所属していた部署名)は自然消滅。菊地は土谷正実率いる第二厚生省に移り、サリンの製造に関わるようになる」と、私が第二厚生省に移ったのは「94年半ば」だと明記しているのです。さらに回答書の中で「クシティガルバ棟は部外信者の立ち入りが禁じられた上」と書いています。サリンが作られた時期である「9312月~94年2月」に「達成部」に所属していた私が、いったいどのようにして、部外信者の立ち入りが禁じられていた「クシティガルバ棟」で、サリン生成に関与することができたのでしょうか?

 

『週刊新潮』は、私が第二厚生省に移った時期については調べることができたのに、「クシティガルバ棟」でサリンが作られた時期については調べることができなかったのでしょうか? 私の手元の裁判記録では、「クシティガルバ棟」でサリンが生成されたことと、その「時期」については、セットで記録されています。『週刊新潮』がその「時期」について、裁判記録を調べはしたけれども見落としてしまったのか、それとも見たけれども見なかったことにしているのか、もしくはそもそも裁判記録など調べていなかったのかはわかりません。そのいずれであったとしても、きちんと裏付けを取らずに「(私が)サリン製造に関わった」ことを記事にしたのは明らかです。

 さらに『週刊新潮』は、「小誌は貴殿が、サリン製造の認識を持って、この作業に従事していたものと確信しております」と私を犯人であると確信していると述べた上、私がこのような抗議文を送り付けてくるのは「一連のオウム事件への反省がないことの証左」だとして、私を激しく非難してきたのです。

 私はこれを読んでおかしいと思いました。もし私が実際にサリン生成に従事していてこのような抗議を行ったのなら、確かに「反省していない」と言われても仕方ありませんが、この件については完全な冤罪なのです。自分のやっていないことについて「やっていません」という権利すら、私にはないと『週刊新潮』は言うのでしょうか? 私はどんなに長くても、あとたった数年で外の社会に放り出されます。地下鉄サリン事件の犯人だというレッテルを貼られた上、社会でそれを否定することすら許されないとしたら、私はどのように生きていけばよいのでしょうか。私は『週刊新潮』に「お前には生きる権利がない」と言われているように感じました。

この回答書を呼んで深く傷ついた私は、声を上げて泣き出してしまいました。拘置所の職員さんが心配して声をかけてくれましたが、それに対して返事もできなかったのです。

 以前の私なら「やっぱりわかってもらえない」と、ここであきらめてしまっていたでしょう。しかし、私は「あきらめない」と固く心に決めていました。こちらが冤罪であることを主張しても、相手側がきちんとした事実確認を行わないままに私を犯人だと決めつけ続けるのであれば、訴訟を起こすしかありません。

 しかし、私はここで壁にぶち当たってしまいました。私は三浦さんにならって、マスコミ相手の民事訴訟を弁護士をつけずに本人訴訟という形で行おうとしていました。それが突然、あまりにも無謀なことのように思えてきたのです。抗議文を出しただけで、これだけ激しく攻撃されるのです。新潮社を訴えたとして、はたしてたった一人で最後まで闘えるのだろうか? と不安になったのです。

 仮に弁護士に代理人を頼むとしたら、刑事裁判でお世話になっている先生に頼むのがベストです。他の先生に頼む場合、私がサリンの生成に関与していないことを一から説明しなくてはいけないからです。しかし、刑事裁判だけでも大変なのに民事までお願いしてよいのだろうか? 私はそう感じていて、「民事訴訟を起こすかもしれません」とは伝えていたものの、内容証明を出したことや、ひどい回答書が届いたことまでは説明していませんでした。

「どうしてもあきらめたくない」という思いのもと、法律関係の本をひっくり返しながら、自ら訴状等書き上げてみましたが、どうしていいものか悩んでいるうちに数週間が経ちました。

そして、今年の5月1日のことです。弁護人の先生が飛んできました。

「菊地さんが内容証明を出したことが『週刊新潮』の記事になっているんですが......」

『週刊新潮』は、私が抗議文を出したことを、本誌の記事上でも批判してきたのです。その記事には、「届かぬ被害者の言葉」という見出しのもとに、「被害者の重い言葉を踏みにじる」などと書かれていました。私としてはそんなつもりは全くありません。事実を事実として正しく報道してもらいたかっただけなのです。私はこの記事にも大変落ちこみましたが、結果としてこれがきっかけとなり、刑事裁判でお世話になっている先生に民事訴訟の代理人となって頂ける運びとなりました。

こうして私は新潮社を訴えることになったのです。

 

新刊のご紹介

同調圧力メディア 森達也著

同調圧力メディア
メディアが三流なら社会と政治も三流なのだ
森達也著
ISBN 978-4-904795-46-0
2017年4月19日発行
定価 1500円+税
四六判
288頁

あの映画「FAKE」を世に問うた監督の極私的メディア論!「忖度(そんたく)」が横行する日本社会の元凶は、同調圧力を強いるマスメディアが元凶なのではないか!『創』連載をまとめた森達也さんのメディア論の真髄!

〔内容紹介〕
《「みんなが右に向かって歩いているのに、どうしてあなたは左に行こうとするのだ」――同調圧力。法や明文化されたルールではない。自主規制だ。全体で動くことを強要される。あるいは自ら強要されることを求めてしまう。特に日本人はこの傾向が強い。だから放送禁止歌のような意味不明なシステムが実体化して、原発安全神話のような虚構が何十年も存続する。「ちょっと待って」とか「やっぱりこれは変だ」などの声を、もう少し多くの人が発していたならば、こんな状況にはなっていなかったはずだ。》(本書より)




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