アナウンサー就活から最終的にテレビの報道へ

Rさん/キー局、全国紙内定


「文章を書くのがうまいね」
 小学校や中学校の教師からよくほめられた。漠然と、自分は文章を書く仕事をするんだろうなと思っていた。忙しく動き回っていることが好きだったし、物より経験にお金を使いたい自分の人一倍強い好奇心と探究心は、マスコミ業界に向いていると思っていた。
 大学に入ってからは、大学に設置されているマスコミ系のゼミや、放送研究会や新聞部などには入らず、マスコミ就活とは無縁の学生生活を送った。就職活動のためにと大学2年生の冬からベンチャー企業で始めた長期インターンでは、ウェブ広告の記事を書いた。学生時代に文章を書いていた経験が、少しでも有利になればと考えていた。
 大学3年生の5月。いくら人気が落ちて来ているとはいえ、マスコミ就職は限られた人のための狭き門だ。「面接は場数」という助言は聞いていたため、サマーインターン参加のための選考の面接が早く始まる大手ベンチャー企業、大手不動産、メガバンクなどの説明会や選考会に参加した。対策は練ったが、業界や仕事に興味があるわけではなく、選考の結果はほとんど失敗。インターンシップへの参加権を勝ち取っていく周囲の学生を見て、自分の不甲斐なさに打ちのめされた。二度の就活低迷期のうち、一度目の低迷期だった。

アナセミナーから始まったマスコミ就活

 7月、準キー局の少人数説明会が系列の東京キー局にて行われることをホームページで知り、応募して参加した。学生25人ほど、人事を含めた社員が7〜10人ほどいる小規模の説明会で、学生5人対社員1人の座談会も長時間設けられていた。その間、東京キー局の人事部の方が巡回しており、常にチェックされているなと感じていた。常に笑顔で、感じの良い相槌を受け、積極的に質問をすることを心がけた。
 すると、翌日キー局人事部の方から電話があった。「準キー局の方から、アナウンサーのインターンの選考受けないかって連絡が来てるんだけど、どうかな?」。その後、もう締切を過ぎているインターンシップの選考会に呼ばれた。選考の結果はインターンには行けなかったが、同じく人事部の方のお声掛けで、本来であれば選考を突破しないと入れないキー局のアナウンススクールの特待クラスに飛び入りで入所することになった。
 私の中で、アナウンサーの選択肢は、初めはなかったが、アナウンススクールで人脈もでき、スクールや知人のツテでメディアへの出演もするようになり、本格的に考え始めた。新聞社、もしくはテレビ局で報道関係の仕事に就きたいと思っていたので、地方局ならアナウンサーも取材したり番組を作れたりすると聞き、それをさらに自分の言葉で伝えられるならと、アナウンサーの仕事も魅力に思えた。
 しかし、アナウンサーになることを本気で目指している子は、大学1年生の頃からスクールに通い、ミスコンテストやメディアに多数出演している。魅力的でアナウンス技術や雰囲気の明るさが磨き上げられた彼女たちに、新参者の私が爪痕を残せるわけもなく、8月ごろから実施された準キー局、地方局のインターンシップの選考にはほとんど落ちた。
 アナウンサー試験には、カメラテストや自己PR30秒など、特殊な面接がある。アナウンサー選考は、総合職の選考の2カ月ほど前倒しで行われるので、初秋から本試験が始まる。特殊な面接対策や発声練習に加え、ES用の写真や動画の撮影に追われた。

二度目の低迷、「記者」に切り替えた秋〜冬

 10月。アナウンス就活は、キー局・準キー局含めて数社選考を進んだが、どれも途中で敗退した。様々なイベントには参加しているので就活をしている感覚はあるが、周りよりやや早く3年生の春から始めた就職活動で、採用に直結するインターンシップや本採用にはまるで手応えがない。
 12月になると、民放キー局のアナウンス試験はほとんど終わる。ここで内定を得ていない学生は、このあと始まる準キー局(大阪)→基幹局(名古屋、北海道、福岡、仙台)→地方局と順に始まる各社の選考を受けていくことになる。アナウンス試験には、交通費や衣服代、化粧品代、撮影などにかかる費用など、かなりお金がかかる。
 この頃には民放の本採用の選考もはじまっていた。民放では希望する職種が選べ、私は「報道(記者)」を志望していた。なぜ記者になりたいのか、なぜ報道に関わりたいのか。何度も自問し考えるうちに、自分は世の中で起こる事象の最前線に立ち、人々が知るべきことを伝えたいのだと確信した。
 インターンや就活イベントを通し、アナウンサーは地方局では取材に行くこともあると聞いたが、それでもスタジオから発信することが主な仕事だ。きれいな格好でお茶の間に原稿を読んで届けるより、私は泥臭く現場で社会問題を発掘して人々を救いたい。12月、アナウンススクールを退所し、記者職に専念することを、ここでようやく心に決めた。
 ここまでで、莫大な時間やお金、労力をアナウンス試験にかけた。そのため、この決断はかなりの挫折感を伴った。しかし、アナウンス就活を通してテレビ局に足を運ぶ機会も多くあったし、現場も何度か見られた。何より、試験では大勢の社員や大御所アナウンサーの方々が務める面接官とカメラの前で、食リポの無茶振りに答えたり、ハキハキ明るい笑顔で話さなければならない。この経験で、「面接は明るく答えてナンボ」。度胸と、感じの良さと、明るさが身についたと思う。
 民放各局の面接は、アナウンス就活で行き慣れたテレビ局本社で行われ、リラックスした状態で受験することができた。志望動機は新聞社で話していた社会福祉に関する問題を提起した。
 面接官は民放の華やかな世界を見てきた社員の方々だと思い、意識して明るくつとめ、面接の場を盛り上げられるよう意識した。2社受験し、それぞれ5次面接ほどまでは進んだが、最終面接近くで「なぜうち?」という質問を角度を変えて繰り返され、自分の言葉で返答しきることができず、そこで落ちた。

新聞記者をめざして内定を得た

 8月ごろから、各大手新聞社で行われた説明会や社内見学会、「ES講座」など就活生向けのイベントが開催される。私は、アナウンス試験の傍らでほとんど全てに行ける限り参加した。SNSでマスコミ就活関連のイベントを配信してくれるアカウントをいくつもフォローし情報収集したり、インターンシップのHPでは告知されない小さなイベントも見落とさないように関連サイトや大学生協の就活生向けチラシなどをよく見ていた。
 イベントは1日から3日間ほどかけて行われる。「新聞記者の使命」などを聴講し、悲惨な事件や事故、弱い立場の人に本気で向き合う記者の方の姿に心を打たれた。だいたい終わった後に内定者や現役記者の方と話せる時間が設けられているので、事前に何個も質問をストックしておき、時間いっぱい会話した。世の中に真剣に向き合っている記者の方や内定者の方と話していると、自分の世界が広がっていき、純粋に楽しかった。私はマスコミ関連のゼミやサークルに所属していなかったので、就活を経験した一つ上の先輩との繋がりがない。こうした座談会が縁で出会った内定者の方々には、就活の終わりまでES添削や面接対策で大変お世話になった。
 新聞社では、9月ごろからいろいろなタイトルの1dayインターンシップが開催される。参加者のうち何人かに選抜されて、次のインターンシップのお知らせがきて、参加し、また呼ばれ…を繰り返して行くことになる。インターンシップ中に模擬面接という名目で学生1人:記者3人で面接し、その結果で次回のインターンシップに呼ばれるか決まることもあった。作文も評価の対象だ。作文がうまく書けた日には、面接官の反応も良かった。「字がきれいですね。大切なことですよ」とほめられたこともあった。当たり前だが限られた時間の中でできる限り丁寧に書くことをお勧めする。
 私はインターンシップで毎日新聞社と読売新聞社の2社にご縁があり、幾度も会社に足を運んだ。読売新聞社は年末にあった街頭インタビューを含む実践型のインターンシップで思うような結果を出せず、その後の面接に呼ばれなかった。
 毎日新聞社は、年末に「偉い人たちとお話をしてもらいたい」と呼ばれ、私1人:6人で面接をした。うまく答えられた自信はなかったが、かなり緊張感のある空気の中で、打ちのめされずに明るくハキハキ答えることだけは出来たと思う。その後、2月ごろ人事の方から「3月に来社してほしい」と電話を受けた。3月、人事部長と人事の方との面談をし、意思確認をされた。毎日新聞社は夏に宿泊型のインターンシップを行うが、私はこれに面接で落ちていた。このお2人との面接にうまく答えられなかった。7月の面接から約半年後、コツコツ書いたESや通ったインターンシップでの姿勢が評価されたのだと、感無量だった。
 私はいろんな業界や職種を右往左往見てきたので、「記者職に絞ったのは正しかったのか?」など、心に決めたとはいえ、やはりわだかまりがあった。しかし記者職で内定をいただいたことで、自分には適性があり認められたのだと実感し、ようやく大きな自信に繋がった。部屋を出た後、頂いた名刺を握り、これまでの長かった道のりを思い涙が溢れた。

選考中のテレビ局は受験を続けた

 実際、内々定を頂いたことは就職活動において大きなアドバンテージになった。ただ、その時点で既に本採用に進んでいたA社(内定先)とフジテレビは受験を続けた。
 職種別採用をしており記者として一生働けるA社(内定先)は最も魅力的であった。新聞記者も本気で志していたが、テレビの視聴者と新聞の購読者の壁は大きい。就職活動を通し、より多くの人々に社会問題を知ってもらうことが、問題解決への糸口になると考えていた私は、内定先を第一志望としていた。
 内定先は年内にあった3daysのインターンに参加した。その後、インターン生を対象にしたイベントや面談や懇親会が何度かあり、合計10回前後会社に足を運んだ。「部長面接」や「役員面接」ではなく、「少し偉い人と面談」や「役員と語る会」という名目である。その名の通り、5〜15分の他社の面接とは違い、30分から長い時は2時間半ほど社員の方と話し合った。学校生活や、今までの人生の価値観、さかのぼって小学生時代まで話したこともある。
 内定先の面談では時事問題など試験的なことは聞かれず、「なぜ記者になりたいのか」と、何より人間性を見られていると強く感じた。何十年も人に取材することを生業としてきたプロの方相手に、1時間を超える面談で偽ってお話しするのは無理に等しく、本心をありのままに答えた。わからないことを聞かれ、困ることも一部あったが、「わかりません。勉強不足で申し訳ございません」と素直に伝えていた。内々定後、インターンシップからお世話になった人事の方に、「素直に答えていたこと、本当に記者になりたいことが分かること、地の明るさ」が評価につながったと教えていただいた。
 就職活動を終えて、各会社のカラーは採用活動にありありと現れることを知った。理不尽さや学生への対応の粗雑さ、社内の女性社員への対応を見て、「この会社は私にとっては違うな」と思い、本採用を受験しなかった会社もある。そうした会社では、自分も妙に取り繕うような返答をしてしまったりと、うまく噛み合わなかった。
 内定をいただいた2社は、私が最も自然体でいられる会社であった。本当に行きたい、一緒に働きたいと心から思っていたからこそ、思いを素直に伝えることができたのだと思う。
 会社が私たち学生を見るように、私たち学生も企業を見るべきであると思う。じっくり考え、「自分も会社を選ぶ」という意識を忘れずに、かつ謙虚に明るくつとめてほしい。就活生という枠にとらわれてかたくなりすぎず、どの会社でどんな自分として働きたいかをよく考え続けることが大切だ。そして、自分が一番自然体でいられる会社を選んでほしい。


「冒険家になりたい!」そんな夢から出版社へ

Mさん/出版社内定:
「冒険家になりたい!」
 そんな子供のような夢から、私のマスコミ就活は始まった。

「歴史の最前線に立ちたい」その思いで記者をめざした

Y君/全国紙、キー局内定:
「歴史の最前線に立ちたい」
 東日本大震災、平和安全法制制定、北朝鮮によるミサイルの発射…。


アナウンサー就活から最終的にテレビの報道へ

Rさん/キー局、全国紙内定:
「文章を書くのがうまいね」
 小学校や中学校の教師からよくほめられた。

「なぜ記者になりたいか?」自分を見つめ直した就活

Tさん/全国紙・NHK・ブロック紙内定:
 幼稚園の頃、私は両親に「作家になりたい」と言っていた。高校時代は、



地方紙受験で始まった就活はキー局内定で幕

H君/キー局内定:
 私の就職活動の開始時期は1月と遅く、さらに、留学経験もなければ、大学でメディアについて学んでいたわけでもない。

「本を作る人になりたい」その思いから出版社へ

D君/出版社内定:
本が好きというだけでは志望動機にならない
 本を作る人になりたい、という思いは、


面白いことをしたいと広告を志望した

Y君/広告会社内定:
インターンのお題が独特で徹夜するほど熱中した
 お笑いが好き。旅行が好き。政治学が好き。目立ちたがり屋で