広告業界をめざして「東京と福岡」往復の就活

Mさん/広告会社内定


 私が広告業界を目指したのは、出身地である地元・九州を元気にしたいという理由からだった。以前、私の地元が全国レベルで有名になり、空前のブームを巻き起こし、観光客が増え地元の知名度もぐっと高まっていった。しかし、それは一時的なものにすぎなかった。この一連の流れを経験した私は、「いつか絶対、地元を元気にしたい」と子供ながらに思うようになった。
 就活を始めるに当たって、もう一度自分自身と向き合った時、やはりこの思いが自分の中に大きく残っているということに気が付いた。同時に、自分が考えたアイデアや言葉が形になって、世の中に広まっていくことの面白さに魅了され、「広告の力で地域を元気に」という自分の中の大きな柱が定まった。

就活本格化に伴い、OBOG訪問

 広告業界では特にOBOG訪問が大事だと言われている。それはおそらく、広告業界は選考内容をあまり公開しておらず、情報が少なく対策が難しいためOBOGから情報を獲得する必要があることや、広告業界の先輩にエントリーシートを見てもらえるからだと思う。また、何より働いている方の話を直接聞くことでより理解が深まり、モチベーションも高まる。
 私自身、10社近くの広告代理店の社員の方に会い(たくさんの会社に行けばいいという訳ではない)、お話を伺った。志望度の高い会社の社員の方には、他の社員の方にどんどん繋いでもらい、違う部署の方のお話を聞いたり、年次の若い女性社員の方とお話したりと、積極的に会いに行った。
 このOBOG訪問を通して、「広告の力で具体的にどう地域を元気にすることができるか」ということをより具体的な形まで落とし込むことができた。広告業界や会社への理解や、選考の対策も大切だが、社会人に慣れておくことも同じくらい重要だと思う。
 採用試験の第一関門であるエントリーシート(ES)。私は広告業界一本で就職活動を行っていたため、他業界との明確な違いは分からないが、広告業界のESは、「○○について自由な発想で書いて下さい」というものが多かった。変わった質問も多かったが、どんな形であれ、志望動機と自己PRは必ず聞かれた。しかも志望動機の欄が一番上にあるものが多かったような気がする。なので、志望動機の第一文目は、そのESをきちんと読んでもらえるかどうかを決めるとても大事な部分だと思う。
 私は、東京の広告会社と地元九州の広告会社、どちらも受けた。「地域の魅力を発信したい。地元を元気にしたい」という思いは強かったが、果たして東京の広告会社に提出するESに「九州の地元を元気にしたい」という志望動機を書いていいものか、と悩んだ。広告業界で働く社員の方や大学のキャリアセンターに相談しに行った。そして「九州を、地元を元気にしたい」という内容を書き、提出した。見事そのESは通過し、面接でも「面白い」と興味を持ってもらえた。
 広告会社の使命は人に伝えること、そしてそれを心に残してもらうことである。よって、ESも伝え方が大事である。私は、広告業界で成し遂げたい夢を簡潔に、そしてインパクトのある言葉で一文目に持ってくることを心がけていた。たくさんのESに目を通す人事の方に、きちんと読んでもらうためだ。どんなに内容が良くてもありきたりな文章だと、読む人を楽しませることはできない。
 私は読書や作文が好きだったこともあり、文章で人事を楽しませてやる!という意気込みで書いていた。また、ネットに溢れているESのフォーマットや過去の受験者のESは読まないようにした。フォーマットに従いきちんと書くことが求められる業界ももちろんあると思うが、広告業界を受けるなら、ありふれた「その他大勢」のESではなく、なるべく自分の言葉で伝えることを意識した方がよい。
 私は、ある広告代理店の社員の方に、「自分にしか話せないことを伝える」というアドバイスを頂いた。私はその後選考を受けていく上で、この時頂いたアドバイスを一番意識していた。志望動機でも自己PRでも、「○○な子」と覚えてもらい、多くの受験者の中に埋もれてしまわないように自分のキャラを大切にすることは、広告業界の採用試験で勝ち残るコツの一つと言えるだろう。

福岡と東京を往復しながらの就活

 九州に帰るか、東京に残るか。この悩みは就活の最後まで続いた。私は東京と福岡を往復しながら就活をすることにした。
 会社選びの軸は、大きすぎない規模感で若手のうちから仕事を任せてもらえるか、そして、地域PRに携わることができるかどうかの二つ。東京では外資系からハウス系まで広告代理店約10社を受験。福岡では電通九州、大広九州といった大手広告代理店、西広や西鉄エージェンシーといった、より地域密着型の広告代理店を受けた。
 最終面接、もしくはその手前まで残った各社の選考内容は次のとおりだ。
▼I&S BBDO 書類→筆記試験(会社オリジナル)→1次面接(集団)→2次面接(集団)→最終面接(集団)
▼小田急エージェンシー 書類→1次面接(集団)→筆記試験(会社オリジナルと聞いていたが、おそらくCUBIC+小論文)→グループディスカッション(このグループで会社をつくるならどんな会社にするか)→2次面接→最終面接
▼電通九州 書類→1次面接(個人)→2次面接(個人)→3次面接+プレゼン→最終面接
▼大広九州 書類→1次面接(集団)→筆記試験(自社CMについての小論文)+グループディスカッション(広告代理店として提案する福岡の若者の選挙投票率を上げるためのアイデア)→最終面接+SPI
▼西広 書類→ウェブテスト→1次面接(集団)→2次面接(個人)→最終面接
▼西鉄エージェンシー 書類→グループディスカッション(牛乳の売り上げを伸ばすためのアイデア)→1次面接(集団)→最終面接

東京就活編――面接で合否を分けたもの

 まず、国内の大手企業をクライアントに持ち、海外にも国内にも広いネットワークがある外資系の老舗広告代理店、I&S BBDO。選考のスピードはゆっくりで、全ての面接が集団で行われたことが印象的だった。最初の筆記試験は時間勝負、という感じで解き終わらず、正直全く自信はなかった。
 なんとか面接に進むことができ、むかえた1次面接。集団といっても私の回は2人。一緒に受ける就活生は名門大学出身、留学経験あり、しかも部活動をみっちりやってきたという強者。学歴じゃない、経験の差ではない、比べてはいけないと分かってはいても、どうしても面接官からの質問量の違いに焦りを抑えきれなかった。必死に食らいつくも、空回りしている気がした。しかし結果は合格。きちんと見てくれていたのだな、と感じた。
 その後の2次面接、最終面接は一緒に受ける就活生を「敵」ではなく、「味方」にし、挑んだ。集団面接を受ける際は、控え室などでできるだけコミュニケーションを取っておいた方がよい。極度の緊張を抑えられ、面接も楽しくなるはずだ。
 次に、小田急電鉄のハウスエージェンシーである小田急エージェンシー。選考時に、社員の方と触れ合う機会をたくさん設けて下さったのが印象的だった。1次面接は集団面接。控え室で若手社員の方や面接を受けるメンバーとお話でき、和やかな雰囲気で面接を受けることができた。
 1次面接では少し変わった質問があったが、おそらく合否を分けたのは、自分の性格や長所を踏まえて返答できていたかどうか、自分のことをきちんと理解しているか、だと思う。やはり、自己分析はおろそかにしてはいけない。次に筆記試験。会社オリジナルと聞いていたが、内容はおそらくCUBIC。他社で受けたウェブテストがCUBICで対策していたため、簡単に感じた。小論文は、広告媒体の変化に関するグラフについて自分の考えを書くというものだった。
 次に、グループディスカッション。『マスコミ就職読本』によると、どうやらここで大きく絞られるとのこと。緊張しながら臨んだが、「このメンバーで会社をつくるならどんな会社をつくるか」というテーマのもと、チームのメンバーと協力してみっちりと頭を使った。そして何とかグループディスカッションも合格。
 しかし、なんとここで福岡の会社と面接が被ってしまった。小田急エージェンシーも魅力的で、受けたい気持ちはやまやまだったが、その時は福岡の会社の方が志望度が高かったため、断念。辞退した。

福岡就活編――両親の期待を裏切って

 7月上旬に第一志望の新聞社の最終面接。「やるだけのことはやった」という気持ちで本社ビルの門をくぐった。ただ予想外の出来事が起こった。面接前に実施された適性検査のやり方を、派手に間違えた。人事の方が「面接後にやり直せます」と笑顔で言ってくれたにも関わらず、説明を聞き逃して迷惑を掛けたことで激しく動揺した。この新聞社に入りたくて努力してきたのに、何て私はバカなんだ…と涙が溢れてきた。あぁ、人事の方が私の適性検査シートを必死に消しゴムで消してくれている…。
 面接に向けて気持ちを切り替えようとしたが、冷静になろうとすればするほど、心臓のバクバクがおさまらない。もうダメだ、落ち着けない、切り替えられない!! そのまま面接の順番が来て、ふらつきながらドアをノックした。
 面接のことはほとんど覚えていない。「志望動機は?」と聞かれたものの答えに詰まり、泣いてしまった。想定していた質問も多かったのに、うまく答えられなかった。面接官の方は優しかったが、動揺はおさまらなかった。涙を流し続けながらも努めて笑顔で振る舞おうとし、引き攣って泣き笑いをしているうちに面接が終了してしまった。言いたいことが何も言えなかった。
 終了後。駅に向かう道を歩きながら、声を上げて大泣きした。ここに入りたくて入りたくて入りたくて、そのために51社受けて就活し続けてきたのに、最後の最後で頑張りきれなかった。自分が不甲斐なくて情けなかった。肝心の所で頑張れなかった自分を責めた。雨の中、傘を差すのも忘れて泣きじゃくった。私は絶望の中にいた。
 丸2日間は落ち込んだが、いつまでもめそめそ泣いていても仕方がない。やれることをやろう。秋採用に向けて再び準備を始めた。新聞のスクラップ、時事問題や一般教養の勉強、ESの練り直し、面接での想定問答作り…。「これだけやったんだから大丈夫」という自信を持って秋採用に臨めるように、真摯に取り組んだ。

内定連絡に母と抱き合って涙を流した

 グループディスカッションやプレゼンのテーマは、福岡の名産品や、九州・福岡が抱えている問題に関することだった。地方の広告代理店を目指す方はその地域の名産品や行っているPR、問題点なども勉強しておくべきだ(地元でない地方を希望する方は特に)。
 福岡では、会社の規模から採用人数が多くて10名弱、他はほとんどが2名。かなり厳しい戦いだった。
 とはいえ、最終面接を受けた大広九州、西広、西鉄エージェンシーと、3社すべてに落ちた時は、「私にはこの仕事は向いていないのかもしれない」と思った。両親も福岡就職を希望しており、落ちた時にまず感じたのは期待を裏切ってしまったという両親への申し訳なさだった。
 私は結局、東京の広告代理店に就職することを決めた。決め手は、選考を受けていくうちに感じた社員の方の人柄の良さ、会社の雰囲気とのマッチング、そして私の成し遂げたいことを応援してくれる環境である。内々定を頂いた後も社員の方と会う機会を頂き、改めて今の会社と縁があってよかったと心の底から思えた。
 九州での就活は失敗に終わったが、後悔はない。これは自分自身の人生だ。福岡の企業の秋採用を勧めてくる両親にも、自分の考えややりたいことをきちんと話し、納得してもらえた。自分が今できる、一番いい選択をしたと思っている。
 私の「地元を元気にしたい」という夢は変わらない。東京でたくさんの経験を積み、力をつけてからいつか地元や九州をもっと元気にする仕事を仕掛けられたら、と思っている。


試験を受けていて「ここで働きたい」という気持ちが…

Tさん/キー局、出版社内定:
文章を読んでほっとする。映像を見て涙する。人の無事を願ってニュースに聞き入る。そうやって自分の感情を揺さぶられて生きてきた。

やりたい事と適性は別…だから面白い

Sさん/全国紙、キー局内定:
小学生の時からずっと、小説の編集者になりたいと思っていた。書く才能はなかったが、なんとか本に関わる仕事に就きたいと思っていたし、「この人にこんな作品を書いてほしい」と考えることが多かったからだ。


「広告業界に行きたい!」と声を大にして言い続けた

Yさん/放送局内定:
中学生の頃、「マズい、もう一杯!」という青汁のCMに出会った。「人の本音や世の中の本質を見抜き創られたものは、多くの人の心を揺さぶるのだ」と強く感じ、

ただただ記者になりたかった

M君/全国紙、出版社内定:
中学1年生の時、「クライマーズ・ハイ」という映画に出会った。1985年の日航ジャンボ機墜落事故とそこにある事実を、地元新聞社の記者が追っていく作品である。


「記者になりたい」との夢を叶えるまで

Y君/放送局、出版社内定:
記者になりたい」。幼い頃から抱いていた夢だ。自分が生まれ育った町は、衆議院選挙の激戦区で、与野党問わず多くの大物政治家が駅前で応援演説を行っていた。

50連敗に涙した後、奇跡の第一志望内定へ

Kさん/ブロック紙、地方紙内定:
2勝50敗。私の就活の戦績だ。
文章を書く仕事がしたい。そう漠然と意識するようになったのは、小学生の頃だった。