ただただ記者になりたかった

M君/全国紙、出版社内定


記者・報道への熱い思い

 中学1年生の時、「クライマーズ・ハイ」という映画に出会った。1985年の日航ジャンボ機墜落事故とそこにある事実を、地元新聞社の記者が追っていく作品である。もともと、アメリカ同時多発テロをきっかけにニュースへの関心は強く、文章を書くことも好きであった。しかし、純粋に外を駆け回り、他人事に強い当事者意識を持つ「記者」の生き様に、大きな憧れを抱いたことを覚えている。
 大学3年の夏、フジテレビの1dayインターンシップに参加し、私のマスコミ就活が始まった。エントリーの締切日は部活動の合宿中であったが、宿舎で寝転がりながらスマホに文章を即興で打ち込み、応募した。それで通過したのだからということで、私はそれとなく自信を抱いてインターンに参加した。しかし、午後に行われた報道・情報両局長との模擬面接では、参加した学生の鋭い質問とテレビへの熱量に圧倒された。
 ここで感じた危機感から、テレビ就活を終えるまで毎晩欠かさず夜のニュースを全局ハシゴし、そのトップニュースの傾向や番組の課題点をスマホのメモアプリに書き出し続けることができた。また、「体育会は就活余裕っしょ」と高をくくる部活の同期と違い、この時期にマスコミ就活を意識した友人が何人もできた。時間と環境が許す限り、こういった機会にはトライしてほしい。
 その後、テレビ朝日こそ面接で敗退したものの、日本テレビ、TBSのインターンには順調に参加し、日本テレビからは上級インターンシップにも呼ばれた。
 日本テレビ上級インターンが終わった12月中旬、なんとESを通過したテレビ朝日から年内に筆記試験を行うという連絡が来た。筆記試験は早くて1月と思い、年末年始から勉強を始めようと考えていたのは、きっと私だけではなかったであろう。あらゆるスキマ時間を活用し、『マス読』をはじめとするマスコミ就活本に書いてある過去問から予想問題集を作り、急ピッチで勉強した。そして12月24日にテレビ朝日の筆記試験を受験した。手堅く通過して、1月5日には、テレビ朝日の1次面接を受けた。幾つかのインターンを経験してきた自信があったので、ある程度堂々と受け答え出来たつもりであった。

自信を砕かれたテレビ局本選考

 記者にこだわりはあったが、就職浪人は家庭で禁じられていたため、倍率を考えれば一般企業をないがしろにするわけにはいかなかった。この時期に1週間で4つのインターン・本選考を受け、大学の期末試験勉強と選考対策の両立に慣れてきた頃、テレビ朝日の1次結果が出た。なんと、インターン選考に続いての敗退。ショックを受けながら、周囲に平静を装うのはなかなか辛いものであった。
 当初はキー局に内定し、8月のフジテレビインターンから始まった就活を、2月末に終えるビジョンを考えていた。まず、1月20日に、読売新聞社のインターン選考面接を受け、1月23日に通過連絡。1月29日にはTBSと日本テレビの1次面接をハシゴした。この期間、大学の期末試験と一般企業の冬インターン選考が並行して行われていた。そのため、日付を分散させるというよりは、ある1日に2〜3つの選考をあえて集中させ、メリハリをつけることをお勧めしたい。
  読売新聞社のインターン通過が自信に繋がってか、TBS・日本テレビ共に1次面接を通過し、2月4日にTBSの2次面接、2月5日に日本テレビの筆記試験を受けた。そして、TBSから2月7日に通過連絡が来て、2月9日に筆記試験を行う旨を伝えられた。しかし、私は2月9日から11日まで読売新聞のインターンに参加する予定であった。
 当時、私の第1志望群は日本テレビ・TBS・読売新聞の3社。実は、読売新聞からは直前にテストセンターの受験案内が届いていて、これがただの職業体験会という意味にとどまらないことは分かっていた。結局、インターンより本選考と腹を決め、前日の朝イチに部活をこっそり抜け出して、辞退の電話を読売新聞にかけた。なお、後日読売新聞の方にOB訪問をした際、僕は人事部に「TBSで辞退した子」と認識されていることをほのめかされた。インターンだろうと説明会だろうと、辞退は辞退というワケだ。

敗退の連絡に膝から崩れ落ちた

 2月9日に受けたTBSの筆記の出来は最悪だった。特に、作文ではだらだらと小さな字で長い文を書いてしまった自覚があり、家に帰ってすぐ布団に入って、起きた時には即日結果発表の時間を過ぎていた。さすがに焦ってページを開くと、なんと通過。2月11日にはTBSの3次面接を受けたが、これは好感触で無事に通過。2月14日にはTBSのグループディスカッションの後、日本テレビの2次面接を受けた。TBSは14日にグループディスカッション、15日に4次面接を行い、2つを総合的に判断するという段取り。この時、既に私の心には「たぶんTBSに内定するな」という慢心が生まれていた。そして2月17日、築地市場駅の朝日新聞社東京本社でOB訪問をし、その後に控える説明会に備え、隣のビルのコンビニに入った時、TBSから電話が来た。
「今回は残念ながら……」
 レジの前で、膝から崩れ落ちたのをよく覚えている。目の前が真っ暗になった。
 一方、日本テレビの2次は通過。面接官の方が学生の話を引き出すタイプで本当に助かった。しかし、次の1dayグループワーク選考は、翌日18日。このショックを引きずってしまっては、必ず落ちる。心のスタミナを振り絞り、なんとか1日乗り切った。
 体育会の私にとって、春リーグ戦を控えるこの時期は、チームにとって船出の時であったが、ここまで読んで分かる通り、私と周囲との練習量の差は歴然となっていた。「就活頑張ってるね」と冷ややかな目を向けられる辛さに耐え、なるべく部室やグラウンドに足を向け、地道な自主練でその差を取り戻そうとした。
 日本テレビのグループワーク選考は通過した。そして2月25日、3次面接を受けたが、この時には部活と就活による心身の疲労が限界まできていた。面接後に見送りをして下さった社員さんに、「次ここに帰ってこられるかどうか……」などと弱音を吐くほどで、即日なされた結果発表にて、敗退。スケジュール上、フジテレビの選考に参加できなかったため、私のキー局本選考はここで終了した。その日の夜こそ、一旦就活が落ち着くと安堵もしたが、翌日に冷静になって、夢に敗れた悔しさと費やした時間への虚しさで、涙が止まらなかった。

就活の予想外の長期戦化

 結局、私は前年の8月から就活を始めたにもかかわらず、3月1日の「プレエントリーラッシュ」に巻き込まれた。今見返すと、3月は関西準キー局選考に加え、おびただしい数の業界・企業の説明会が重なり、部活動の春合宿でも、合宿地から一度選考のために帰京し、また戻って午後は練習ということすらあった。
 3月3日、朝日放送の1次面接、3月4日、関西テレビの1次面接を受け、通過した朝日放送の筆記試験を3月12日に受験した。私が受験したテレビ局の筆記試験では、最も難しいテストで、結果は敗退。何より、毎日最低2つは説明会等の就活を抱えていて、一般企業のES締切も迫っている中で、マスコミ就活へのウェイトが少なくなっていったことに間違いはなかった。
 3月26日、下がったモチベーションを奮い起こし、合宿中に夜3時まで粘って書き上げたESが通過し、朝日新聞社の筆記試験を受験した。作文に手応えがあったため、結果は通過。ちょうどこのころ、私は周囲から「いいところまでは行く『惜しい』タイプかもね」という目で見られるようになっていた。そのため、4月2日の朝日新聞1次面接、4日の2次面接がとんとん拍子で通過しても、何の高揚感もなかった。「また落ちるだろうな」と薄々感じていたのだ。
 なので、4月7日の朝日新聞最終面接は、最終とは思えないほどフラットな気持ちで臨んだ。しかし、人生で経験したことのない部屋のピリつき、記者という仕事を目指す自分の資質を問う質問に、ようやくスイッチが入った。とはいえ、相手は全国紙編集部のトップ。鋭い質問に対し、就活全体を通して初めて長い沈黙を二度三度も作ってしまい、手応えはなかった。
 4月10日、朝から一般企業の面接と経済出版社の筆記試験をハシゴし、夜にまた別の企業の説明会を聞いていた時、ケータイが鳴った。朝日新聞から内々定の通知だった。今思えば、テレビの選考では力が入りすぎていた。面接官の質問の意図に沿わずとも、強引に用意してきた回答をスラスラと喋るのではなく、追い込まれた時にどんな姿を見せて、どのようにその場をくぐり抜けるのかが、本当に面接官が見たかった姿だったのかもしれない。評価されたのは、自然体な私であったのだろうか。

結果が出ない恐怖に勝つ

 私は最終的に、経済出版社の記者職の内定を受諾した。内定受諾先の決め手は、常に東京で仕事ができて、内定者の少なさから主戦力に確実になれることであった。また、夜討ち朝駆けもほぼないとのこと。就活には様々な判断基準がある。この会社における記者職は、私が当初志したものとは少し異なった性格を持つ職業だ。ぜひ、OB訪問などを通して、自分の「生き方」を考えながら最終進路を決めて欲しい。
 正直、マスコミ就活は成功者の方が少ないはず。しかし、結果が出ないことへの恐怖に負けてしまうと、きっと全ての対策が中途半端で終わってしまうだろう。なぜなら、心のどこかで、「たぶん落ちるだろうな」と思ってしまうためだ。私は「記者になりたい」ではなく、「記者になる」という気持ちで就活に臨んだ。そのため、何度くじけても立ち上がることができた。努力した者に必ずしも結果が付いてくるわけではないが、努力した者しか結果を出すことはできない。やれること全てをやり尽くし、胸を張って「夢」を掴んで下さい。


試験を受けていて「ここで働きたい」という気持ちが…

Tさん/キー局、出版社内定:
文章を読んでほっとする。映像を見て涙する。人の無事を願ってニュースに聞き入る。そうやって自分の感情を揺さぶられて生きてきた。

やりたい事と適性は別…だから面白い

Sさん/全国紙、キー局内定:
小学生の時からずっと、小説の編集者になりたいと思っていた。書く才能はなかったが、なんとか本に関わる仕事に就きたいと思っていたし、「この人にこんな作品を書いてほしい」と考えることが多かったからだ。


「広告業界に行きたい!」と声を大にして言い続けた

Yさん/放送局内定:
中学生の頃、「マズい、もう一杯!」という青汁のCMに出会った。「人の本音や世の中の本質を見抜き創られたものは、多くの人の心を揺さぶるのだ」と強く感じ、

ただただ記者になりたかった

M君/全国紙、出版社内定:
中学1年生の時、「クライマーズ・ハイ」という映画に出会った。1985年の日航ジャンボ機墜落事故とそこにある事実を、地元新聞社の記者が追っていく作品である。


「記者になりたい」との夢を叶えるまで

Y君/放送局、出版社内定:
記者になりたい」。幼い頃から抱いていた夢だ。自分が生まれ育った町は、衆議院選挙の激戦区で、与野党問わず多くの大物政治家が駅前で応援演説を行っていた。

50連敗に涙した後、奇跡の第一志望内定へ

Kさん/ブロック紙、地方紙内定:
2勝50敗。私の就活の戦績だ。
文章を書く仕事がしたい。そう漠然と意識するようになったのは、小学生の頃だった。