「記者になりたい」との夢を叶えるまで

Y君/放送局、出版社内定


12月から選考のテレ朝、友人が内定し複雑な思い

「記者になりたい」。幼い頃から抱いていた夢だ。自分が生まれ育った町は、衆議院選挙の激戦区で、与野党問わず多くの大物政治家が駅前で応援演説を行っていた。野次馬精神が強かったためか、よく観に行っていた。たった一人の人間が多くの聴衆を惹きつける姿に感動を覚えた。同時に、この感動を「多くの人に伝えたい。」そのように思ったのが、記者になりたいと思った原点ではなかろうか。
 夢を抱いていたものの、「記者になりたい」と言い出すことは出来なかった。恥ずかしがり屋な性格だったためか、それとも、自分の中でどこか憧れの存在で終わってしまっていたのかもしれない。記者を目指す友人は、マスコミに強いゼミに入ったり、学内で行われていたセミナーに参加したりしていた。そのような友人をうらやましく思うと同時に、何も行動を起こしていない自分がもどかしかった。ともかく、私の学生生活は夢の実現からは程遠いものであった。
 気がつけば、3年生の6月になり夏のインターンシップ出願の時期となった。可能性を広げたいという思いから、金融・ITなど多くの企業のインターンシップに参加した。ある程度の充実感はあったものの、心の底から「この会社・業界に行きたい」とは思えなかった。
 そんな中、フジテレビのインターンシップの書類通過の連絡が来た。憧れのテレビ局だ。面接に進めるというだけで胸が高まった。自分なりに準備を行い、面接に臨んだものの、通過はならなかった。そのとき、これまでの企業の選考で味わうことのなかった「悔しさ」を感じた。その感情は、自分が「マスコミに行きたい、記者になりたい。」という強い思いの裏返しであると確信した。一度しかない人生、後悔のない職業選択をしたい。以降、マスコミを中心に受験することを決意した。
 12月になるとインターンシップと並行して、キー局の本選考が始まった。テレビ朝日の筆記試験は12月25日に行われた。街中がクリスマス気分で浮かれる中、友人と2人で受験会場に向かったことを覚えている。手応えはなかったものの、数日後に私も友人も面接の連絡が来た。  テレビ朝日をはじめ、キー局の1次面接は、5分程度で終わってしまうため、短い時間で自分をアピールすることが大切だ。にもかかわらず、面接官に自分の思いをうまく伝えることは出来なかった。結果はもちろん、通過ならず。ただ、本選考一発目の面接は周りもこんなものだろうと思い、特に気にすることはなかった。
 しかし、筆記試験を一緒に受けた友人が「内定」した。おめでとうと伝えたが、正直、悔しかった。一番身近な存在が夢を叶えた。同じように対策をしていたのになぜ。やはり自分には無理な世界だったのか。自分を責めてしまった。しかし、そこでクヨクヨして、夢を諦めてしまっては、一生後悔すると思った。その日以来、友人と同じ舞台で働くために、自分を奮い立たせた。

1月に入ってからもキー局の選考に連続敗退

 ただ、その後もキー局の選考は散々な結果だった。TBSは1次面接落ち、日本テレビはES落ち。フジテレビに至っては、書類を提出できなかった。完全に自信を失ったが、先輩やOBの方々から、励ましやアドバイスを受けて、ESの書き方や面接対策を行った結果、2月のインターンシップでは読売新聞、朝日新聞、毎日新聞の3社に参加できることになった。キー局には縁がなかったけれど、全国紙には縁があるかもしれない。3社のインターンシップに全力で取り組むことを決意。各社のインターンシップでは、模擬取材や作文講座など、記者としての素質が問われるプログラムが行われる。記者志望の学生は絶対にトライすべきインターンだ。レベルの高い学生に刺激を受けると同時に、自身の力不足を実感し、3社のインターンを終えた。
 2月28日には、福岡にある放送局のインターンに参加した。地方局ではどのようなことが行われているのか、本選考で地方局に出願するか、自分自身で体験したかったからだ。記者になるために、地方での就職も視野に入れるべきか。これは、多くのマスコミ志望の学生が悩むところではなかろうか。私は、インターンシップを通して、「東京で記者として働きたい」という思いを強くした。帰りの飛行機の中、翌日3月1日から始まる就職戦線に向けて、思いをノートに記し、東京に戻った。
 3月からは説明会に参加する日々となった。学内で行われる説明会だけでなく、企業が個別に行う説明会に参加した。マスコミを中心に50社以上の説明会に参加した。その結果、靴はすり減り、手にはマメが出来ていた。並行して、ES締切が続く。日中は説明会を梯子し、夜はESを書き上げるという生活が続いた。
 さらに、4月になると筆記試験のピークを迎え、面接も始まった。朝日新聞は、筆記試験対策をしっかり行ったおかげで、面接に進むことが出来たが、1次面接であっけなく散った。練習のつもりで受けた、他業界の面接も通らなくなり、完全にスランプに陥った。
 それに追い打ちをかけるような出来事が続く。多くの友人から、インターン内定の知らせが届く。自身も参加していた読売新聞・毎日新聞で、早期選考に呼ばれ、そのまま内定していた。私には、内定どころか、早期選考の連絡さえ届かなかった。インターン中は張り切っていたものの、そのやる気は空回りしていたようだ。テレビ朝日に友人が内定した時以上に、悔しかった。

大学指導員の厳しい言葉にその晩は眠れなかった

 よく就活指南書などに、「他人は他人、自分は自分」など書かれているが、その時の自分にはそのように割り切ることは出来なかった。自分ではどうしていいかわからなかったので、大学のキャリアセンターに、自分の状況を相談しに行った。優しい言葉をかけてもらって、やる気になればいいな。そんな気持ちで向かったが、早々に打ち砕かれた。
「このままだと君は全滅する。何年も指導してるからよくわかる」
 強面の指導員の方に言われた。「じっくり『企業研究』をしなさい」。続けてそのように言われ、面談は打ち切られてしまった。その日の夜は、言葉の意味をずっと考えるあまり眠れなかった。
 とりあえず、翌朝から自分なりに企業研究をしてみた。ノート2ページくらいに企業情報や事業内容、志望する理由などをまとめてみた。効果があるのかはわからなかったが、指導員の方の言う通りにしないと本当に全部落ちてしまうのではないか、そんな不安からか、面接を受ける企業には必ず書くことにした。
 そのノートを指導員の方に見せに行った。すると、「このまま続ければきっと良いことがあるよ」と言われた。キャリアセンターに行く前の私は、筆記試験・説明会・ES・面接とやるべきことが多すぎて、消化不良を起こしていたのだと思う。そんな中で、ノートに書きだすことにより、整理することが出来た。
「企業研究ノート」を作成して以来、面接の通過率が上がった。指導員の方が言った「良いこと」なのかはわからないが、5月の中旬には、インターンルートで帝国データバンクから早期内定を頂いた。調査員という職種で、業務内容は記者に近く魅力に感じていた企業だ。早い段階から、様々な業界のインターンシップに参加していた恩恵を受けることが出来た。
 入社してもよいと思っていたため、内定を頂いた後は、強気の受験をした。ESを30社以上提出していたが、「東京で記者をすることが出来る5社」に絞って就活を進めることにした。受験企業を減らしたため、1つの企業に対する企業研究に時間を割くことが出来、自信をもって面接に臨んだ。NHKと日経新聞は選考が進んでいたものの、途中で落ちてしまった。最終的には、志望度が高かった出版社と地元のテレビ局から内定を頂いた。

順風満帆ではなかったが取り組んで良かったことは

 ここまで書いてきたように、私の就職活動は順風満帆なものではなかった。ただ、上手くいかなかったとき、しっかりと自分と向き合った結果、複数社から内定を頂けたのではないかと思う。私自身が取り組んで良かったこと・後悔していることをここに記したい。
●良かったこと
・時事問題に対して自分の考えを言えるようにしたこと。
 面接では、「安倍政権についてどう思うか」「前川元事務次官についてどう思うか」など、「あなたはどのように考えるか」といった類の質問が多くあった。そのような質問に答えられたのは、日頃から時事問題に積極的に取り組んでいた結果であったと思った。
・辛い時に頼る友人・先輩がいたこと。
 私の体験記を読めばわかる通り、上手くいかない時が多く、自分では解決できないことも多かった。そんな時、傷を舐めあう同期の存在は心強かった。また、先輩から効果的なアドバイスをもらえたことも大きかった。
・マスコミに限らず、多くの企業の説明会・インターンに参加したこと。
「記者になりたい」と頭でっかちになっていたが、他業界の早期内定をもらえマスコミ就活に専念できた。マスコミ以外の業界を見た上でマスコミに行きたいとあらためて思えた。マスコミ以外に時間を割くことは怖いことではあるが、無駄なことはなかった。就活を終えた今、そのように感じる。
●後悔していること
・テストセンター対策が遅くなってしまったこと
 先輩からは、「何とかなるよ」と言われていたテストセンターであるが、私は何とかならなかった(笑)。多くの一般企業で課されるが、マスコミも例外ではない。ESや説明会の合間を縫って対策を行うことになってしまった。この時期はやることがたくさんあるので、時間があるうちに対策することを薦めたい。
・グループディスカッションの経験が不足していたこと
 数をこなすことなく本選考に突入してしまったため、苦手意識を持っていた。積極性と協調性の程よい塩梅がわからず、多くの企業のグループディスカッションで落とされてしまった。対策講座などが早期から行われているので、活用すべきであったと反省している。

[No rain, no rainbow!]
 ハワイのことわざである。雨が降らなければ、その先にある綺麗な虹も観ることはできない。就活中は、ESが書き進められず、焦ってしまったり、志望する企業には落とされ、自分を否定された気持ちになる。しかし、そのような時期があったとしても、その先には夢に見た光景が待っているかもしれない。自分が描いた夢を忘れずに、頑張ってほしい。


試験を受けていて「ここで働きたい」という気持ちが…

Tさん/キー局、出版社内定:
文章を読んでほっとする。映像を見て涙する。人の無事を願ってニュースに聞き入る。そうやって自分の感情を揺さぶられて生きてきた。

やりたい事と適性は別…だから面白い

Sさん/全国紙、キー局内定:
小学生の時からずっと、小説の編集者になりたいと思っていた。書く才能はなかったが、なんとか本に関わる仕事に就きたいと思っていたし、「この人にこんな作品を書いてほしい」と考えることが多かったからだ。


「広告業界に行きたい!」と声を大にして言い続けた

Yさん/放送局内定:
中学生の頃、「マズい、もう一杯!」という青汁のCMに出会った。「人の本音や世の中の本質を見抜き創られたものは、多くの人の心を揺さぶるのだ」と強く感じ、

ただただ記者になりたかった

M君/全国紙、出版社内定:
中学1年生の時、「クライマーズ・ハイ」という映画に出会った。1985年の日航ジャンボ機墜落事故とそこにある事実を、地元新聞社の記者が追っていく作品である。


「記者になりたい」との夢を叶えるまで

Y君/放送局、出版社内定:
記者になりたい」。幼い頃から抱いていた夢だ。自分が生まれ育った町は、衆議院選挙の激戦区で、与野党問わず多くの大物政治家が駅前で応援演説を行っていた。

50連敗に涙した後、奇跡の第一志望内定へ

Kさん/ブロック紙、地方紙内定:
2勝50敗。私の就活の戦績だ。
文章を書く仕事がしたい。そう漠然と意識するようになったのは、小学生の頃だった。