50連敗に涙した後、奇跡の第一志望内定へ

Kさん/ブロック紙、地方紙内定


小学校の卒業アルバムに「新聞記者になりたい」

 2勝50敗。私の就活の戦績だ。
 文章を書く仕事がしたい。そう漠然と意識するようになったのは、小学生の頃だった。かけっこはビリ、歌えば音痴、絵は下手。何をやってもダメな私が唯一褒められたのが、作文を書くことだった。記者への憧れを抱き、卒業アルバムに「新聞記者になりたい」と書いた。ただ、マスコミ就職は難関。心のどこかで「どうせいつか夢なんて諦めて普通に就職するだろう」と考えていた。
 大学3年の夏。周囲は何社もインターンに参加していたが、私は何もしなかった。だがゼミの先輩で2人、新聞社への内定が決まっている人たちが居た。先輩の話を聞くうちに「私も目指したい」と意識が変わった。新聞社への受験を決めたのは、秋だった。新聞社のイベントに参加したり、冬は5日間の新聞社インターンに参加したりした。
 自宅で購読している新聞が子供の頃から大好きだった。よく投書もしており販売店の方とも仲が良かったため、どうしてもその新聞社に入社したかった。好きで好きでたまらないという理由で第一志望に据えたが、その信念は最後までぶれなかった。2月に行われたマス読とこの新聞社との共催イベント「新聞記者と語る会」に参加したことで、モチベーションは上がり、より意志も固まった。
 12月25日。クリスマスの朝から私の就活は始まった。テレビ朝日の筆記試験。時事問題もさほど難しくなく、通過。4次試験まで進んだが落ちてしまった。だが「そんなに対策とかしてないのにいいところまで進んだし、案外楽勝じゃん!」と調子に乗っていた。1月から本格的にキー局の面接が始まった。日本テレビは6次面接まで進んだ。気楽な気分で臨み、落ちた。この不採用でようやく「就活は甘くない、準備が必要だ」と気付いた。
 3月1日。マイナビやリクナビのサイトのカウントダウンを見つめ、0時になった瞬間にエントリーボタンを押し続けた。「自分が就活生であることを実感できそうだからとりあえずやってみよう」と、よく分からないままに説明会や面談の予約をする。だがあとになって気付いたが、マスコミ志望ならこのイベントはほぼ必要なかった。何百人も採る大企業を受けるなら説明会の枠やら何やらで必死になるべきなのだろが、マスコミはあまり関係がない。説明会がいっぱいになってしまっても「どうしても参加したくて…」と電話すれば、参加させてもらえることも多かった。
 新聞社志望だったものの、テレビ局の他、民間企業の説明会も何社も回った。3月は1日で5社の説明会をはしごすることも。  3月26日、朝日新聞の筆記試験。新聞社の筆記は初めて。やはり難しい。何とか通過したが、最終落ち。
 4月に入るとES提出ラッシュが始まり、説明会が続く傍ら、本選考も増え始めた。22日は、北海道テレビ放送の3次面接と最終面接のため、北海道へ。初めての遠方での採用試験。小旅行気分で向かい、結果は散々だった。浮かれすぎていた。翌日に動物園のトラを眺めながら「トラは就活しなくていいんだから、羨ましいな」などとぼんやりしていた。

5月6月と内定なしで落ち込み続けた

 5月になっても、なかなか内定はもらえない。知り合いはインターンからの選考ルートでマスコミへの内定を決めている人も多かった。焦ってはいけないと思いつつ、周囲と自分を比べて落ち込んだ。インターンにほぼ参加しなかったことを後悔した。だが、恐れていた事態が。5月中旬にノロウイルスになった。気分転換に友達と居酒屋に行ったときに菌を貰ってしまったらしい。熱と腹痛にうなされながら、面接の日程をずらしてもらうようにひたすら電話を掛け続けた。幸いどの会社も親切に対応してくださったが、「これで印象が悪くなったかな」と、ベッドで数日間ぼんやりしていた。体調管理の大切さを痛感した。
 5月後半は一般企業の面接と、新聞社の筆記試験ラッシュだった。20日に日本経済新聞、21日に共同通信、24日に毎日新聞、27日に西日本新聞などなど。一喜一憂している暇などなかった。28日は広島テレビの2次面接を受けに広島まで行ったが、カープのことしか話せずに落ちた。ことに私は地方のテレビ局を受けに行っては落ちることが多く、「交通費とホテル代がもったいない」と考えてしまうことがよりストレスにつながった。
 6月になった。相変わらず、内定はない。この月はとにかく苦しくて、毎日泣いていた。「私はこんなにも世の中に必要とされない人間なのか」と落ち込み続けた。支えてくれている家族や周囲の人に申し訳なかった。だが、周囲の友達からは内定の報告が次々と入る。必死に笑顔を作って「おめでとう!」と言ったが、人に会うのがとにかく嫌だった。ゼミはほとんどサボった。気分転換もうまく出来ず、精神的にも身体的にもボロボロだった。
 6月上旬。ある新聞社の最終面接で、面接官が首を傾げながら言った。「君さ、新聞記者に向いてないんじゃない? 出版とか編集の方が良いと思うよ」。頭を殴られた思いがした。それからは、何をしていてもあの言葉が頭をちらつく。何がダメでそう思わせてしまったのかは分からないままだった。
 4日は、西日本新聞1次面接と北海道新聞筆記試験。面接と筆記試験が同日に何社かあることが、6月は多かった。5日NHK1次面接、7日毎日新聞1次面接、8日西日本新聞2次面接と、志望度の高かった会社で立て続けに落ちた。情緒不安定で訳の分からないことを口走り、面接官に苦笑いされて落ちることが多かった。
 この頃、時間のあるときはいつも大学ノートを開き、自分の思いの丈をぶつけ続けるのが唯一のストレス解消だった。時に愚痴り、時に慰め、時に励ます言葉を。自分のために綴り続けた。だが、これが意外と良かった。自分の考えが整理され、おかしな話だが自分の考えていることが分かった。自分がいかに自分のことを知らないかが分かり、自己分析としての役割を果たした。その他、気になった小説の箇所を書き出したり新聞記事を貼り付けたり、どこに行くにもこのノートを持って行って、不安になったときはパラパラ読み返した。自分のお守りのような存在になった。

「ごめん。50敗目」と母に報告した

 6月10日、信濃毎日新聞の筆記試験。漢字で書かせる問題が多くとにかく難しかったが「私は出来てないけど周りも出来てないでしょ」と楽観的に捉えた結果、通過。11日、中日新聞の筆記試験。筆記試験の中で1番難しかった。作文は、他社では予定稿を何本か用意して当てはめることが多かった。しかし、中日の『意外』というテーマに当てはまる予定稿がなかった。だが作文は一番注力して練習していたので、焦りはなかった。臨機応変に対応し、その結果、一番納得のいくものが書けた。英語ができなかったが何とか通過。
 18日は北海道新聞の1次・2次面接。だが17日に地方紙の面接で遠方に行き、深夜バスで18日早朝に帰京したため、疲労と睡眠不足のピークだった。どんなにお金がなくても、翌日に面接があるときはその日のうちに新幹線で帰ろうと堅く誓った。手応えは悪かったが、何とか通過した。
 24日、北海道新聞の最終試験。就活で北海道に来たのは2回目。論文要約、面接、クレペリン検査、グルディスを1日で行う。落ちた。50連敗目。帰りに食べた味噌ラーメンの味を思い出しながら、肩を落とした。母に「ごめん。50敗目」と伝えた。
 落ちた報告をするのは慣れっこだったが、さすがに申し訳なかった。だが母は「50敗したって本命で1勝すれば良いんだから。プロ野球のペナントレースよりカンタンじゃない!」と励ましてくれた。どんなにダメでも第一志望に受かれば良いんだ。腐りかけていた気持ちを、何とか立て直した。信じて応援してくれている家族のためにも、もう少し頑張ろう。
 6月30日。地方紙の最終面接を受けに行った。その日の夕方に内定を頂いた。就活を始めて半年。50社落ちて、初めて得た内定だった。親に「卒延や就浪は絶対にダメ」と言われていたため、絶対に落ちるわけにいかなかった。とにかくほっとした。

人事の方が必死に消しゴムで…

 7月上旬に第一志望の新聞社の最終面接。「やるだけのことはやった」という気持ちで本社ビルの門をくぐった。ただ予想外の出来事が起こった。面接前に実施された適性検査のやり方を、派手に間違えた。人事の方が「面接後にやり直せます」と笑顔で言ってくれたにも関わらず、説明を聞き逃して迷惑を掛けたことで激しく動揺した。この新聞社に入りたくて努力してきたのに、何て私はバカなんだ…と涙が溢れてきた。あぁ、人事の方が私の適性検査シートを必死に消しゴムで消してくれている…。
 面接に向けて気持ちを切り替えようとしたが、冷静になろうとすればするほど、心臓のバクバクがおさまらない。もうダメだ、落ち着けない、切り替えられない!! そのまま面接の順番が来て、ふらつきながらドアをノックした。
 面接のことはほとんど覚えていない。「志望動機は?」と聞かれたものの答えに詰まり、泣いてしまった。想定していた質問も多かったのに、うまく答えられなかった。面接官の方は優しかったが、動揺はおさまらなかった。涙を流し続けながらも努めて笑顔で振る舞おうとし、引き攣って泣き笑いをしているうちに面接が終了してしまった。言いたいことが何も言えなかった。
 終了後。駅に向かう道を歩きながら、声を上げて大泣きした。ここに入りたくて入りたくて入りたくて、そのために51社受けて就活し続けてきたのに、最後の最後で頑張りきれなかった。自分が不甲斐なくて情けなかった。肝心の所で頑張れなかった自分を責めた。雨の中、傘を差すのも忘れて泣きじゃくった。私は絶望の中にいた。
 丸2日間は落ち込んだが、いつまでもめそめそ泣いていても仕方がない。やれることをやろう。秋採用に向けて再び準備を始めた。新聞のスクラップ、時事問題や一般教養の勉強、ESの練り直し、面接での想定問答作り…。「これだけやったんだから大丈夫」という自信を持って秋採用に臨めるように、真摯に取り組んだ。

内定連絡に母と抱き合って涙を流した

 最終面接から1週間後のお昼。勉強の合間に家でドラマを観ていると、ケータイに知らない番号からの着信が。恐る恐る出ると、第一志望の新聞社からの内定連絡。何を言われたかよく覚えていない。今度は声を出せないまま涙を流し、母と抱き合った。
◆就活対策
・時事問題:新聞記事の見出しを写し、記事の概要をまとめ、自分だけの「必勝まとめ集」を作った。
・一般常識:本や新聞を読んで知識を蓄え、知らない言葉や気になったことをメモした。
・漢字:『マスコミ漢字』を使用。移動などの空き時間に勉強した。数年前に先輩にもらったものだったが漢字の出題傾向は毎年さほど変わらないので、十分使えた。
・SPI:厚めのテキストを購入したが、重くて持ち歩くこともせず、ほぼ開かずに終わった。薄めのものを購入すれば良かったと後悔した。おかげでSPIは最後まで苦手なままだった。
・業界研究:スクラップはノートに貼るのが面倒だったので「政治」「経済」「国際」などジャンル分けしてファイルに入れるだけにした。各新聞社のデータベースも積極的に活用した。ブロック紙、地方紙については国会図書館で半年〜1年分ほど読んで研究した。
・作文:最も力を入れた。2月から、800字の作文を週に4〜5本書き続けた。知り合いの記者の方に見てもらったり、同じマスコミ志望者で添削し合ったり。家族にも読んでもらい、誰が読んでも分かる作文を目指した。新聞社志望だったが三題噺にも取り組み、臨機応変さと文章力を鍛えた。
・面接:数をこなしていくなかで練習するしかない。私は第一志望の最終面接までに、60回以上面接を受けた。1回毎に質問内容、反省点、課題を書き出して、次に繋げられるようにした。面接毎に「今回は◯◯を意識しよう」と目標を持って臨んだ。

手帳に書いた「人は人、自分は自分」

 周囲と自分を比べて落ち込むことが何度もあり、手帳の全ページに「人は人、自分は自分」と書き殴った。特に、共にマスコミ就職を目指した仲間たちは、国立や早慶上智ばかり。「私なんか…」という言葉を、何度も飲み込んだ。
 月並みな言葉しか言えず申し訳ないし、私がこれからマスコミ就職を目指す学生だったら「うまくいったからそんなこと言えるんでしょ」と顔をしかめてしまうと思うが、それでも言いたい。自分の好きな方向、目指したい目標、叶えたい夢があるなら。自分に嘘をつかずに泥臭く努力すれば、何とかうまくいくと思う。
 辛くて苦しくて劣等感にまみれながらも、自分と向き合うことで見えてくるものもある。私なんかダメかもしれないと悩んでいる人は、とりあえず挑戦してみて欲しい。何十社落ちても、一番行きたい会社から内定が貰えれば良いのだから。


試験を受けていて「ここで働きたい」という気持ちが…

Tさん/キー局、出版社内定:
文章を読んでほっとする。映像を見て涙する。人の無事を願ってニュースに聞き入る。そうやって自分の感情を揺さぶられて生きてきた。

やりたい事と適性は別…だから面白い

Sさん/全国紙、キー局内定:
小学生の時からずっと、小説の編集者になりたいと思っていた。書く才能はなかったが、なんとか本に関わる仕事に就きたいと思っていたし、「この人にこんな作品を書いてほしい」と考えることが多かったからだ。


「広告業界に行きたい!」と声を大にして言い続けた

Yさん/放送局内定:
中学生の頃、「マズい、もう一杯!」という青汁のCMに出会った。「人の本音や世の中の本質を見抜き創られたものは、多くの人の心を揺さぶるのだ」と強く感じ、

ただただ記者になりたかった

M君/全国紙、出版社内定:
中学1年生の時、「クライマーズ・ハイ」という映画に出会った。1985年の日航ジャンボ機墜落事故とそこにある事実を、地元新聞社の記者が追っていく作品である。


「記者になりたい」との夢を叶えるまで

Y君/放送局、出版社内定:
記者になりたい」。幼い頃から抱いていた夢だ。自分が生まれ育った町は、衆議院選挙の激戦区で、与野党問わず多くの大物政治家が駅前で応援演説を行っていた。

50連敗に涙した後、奇跡の第一志望内定へ

Kさん/ブロック紙、地方紙内定:
2勝50敗。私の就活の戦績だ。
文章を書く仕事がしたい。そう漠然と意識するようになったのは、小学生の頃だった。