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創出版: 2015年7月アーカイブ

7月10日に突然降って湧いたように始まった田代まさしさんの盗撮報道だが、疑問も多いし、なかにはひどいものも少なくない。私も幾つか取材を受けたが、当初は全貌が判明するまではコメントはしないでおこうと考えていた。事実関係を確認もしないで憶測で物を言うのは事態を混乱させるだけだと思ったからだ。しかし、ネットなどに出回っている情報があまりにひどいので、敢えて少しだけ書いておこうという気になった。

  例えば昨日アップされた日刊SPA!の記事など、今回の事件の背景に薬物があるかのような印象を与えるもので、3月に取材した時、「手は震えて目はキョロキョロとせわしなく、貧乏ゆすりも止まらない」と指摘した後で「いわゆる薬物の禁断症状ですが」って、つまり田代さんが薬物もやっているのではないかと誤解させるような内容だ。1回インタビューした時の印象だけで、それを断定するのはどう考えてもまずいだろう。

 私はもうつきあいが長いから言うのだが、田代さんは何もなくても緊張してしまう人で、目がキョロキョロしたり貧乏ゆすりくらいは珍しいことではない。実際、今年の3月18日の会見の時だって、自分でこう言っていた。「僕はもともと緊張しいなんで、震えたり、滑舌悪かったりするのは、僕の中ではしょうがないことなのかなと思っています」

  確かに初対面の人が緊張している田代さんを見ると誤解してしまうのかもしれない。典型だったのが2008年7月16日の出所会見。これはいまでも映像が出回っているけれど、田代さんはろれつが回らず、会見の途中で記者から「そのろれつが回ってないのは薬物のせいですか」などと質問が出たりした。

 しかし、この時も、私は司会をしただけでなく、その会場にタクシーで田代さんを連れて行ったからよく知っているのだが、薬物とは全く関係がない。田代さんはその何日も前から病院に検査入院していて、その日も点滴を受けた後に病院から直行していた。そういう状況で薬物をやっているわけはないだろう。でも田代さんは緊張していたようだし、見ているほうはどうしても「薬物依存の田代まさし」のイメージがあるものだから、すぐに薬物と結び付けて考えてしまうのだ。

 

 さて、今回の盗撮騒動だが、私は田代さんの妹さんや、ブログを管理している北村さん、それにダルクの近藤代表などに話を聞いているが、結論的に言うと、田代さんは現状で盗撮の容疑を認めていないし、証拠もあがっていないということのようだ。どうして遠回しの言い方になるかというと、田代さんは騒動後、家にも帰らない状態が続いており、本人ないし弁護士から詳しい説明がきけていない。妹さんたちもメールのやりとりしかしていない状況のようだ。私もメールを送ったが返信がない。というか田代さんの携帯そのものが最近まで押収されていたようだ。もちろん盗撮画像が残っていないか確認するためだが、今のところ証拠となるような画像は検出されないとして携帯は返却されている。ただ当然、警察は、騒ぎになった時点で田代さんが消去したことを念頭に置いてさらなるデータ解析を行っている可能性はあるだろう。

 

 田代さんの説明は、実はホームで財布だか小銭だかを落とし、拾おうと思ってかがみこんだところ、たまたまホームにいた目撃者が、マーシーであることに気づき、女性のスカートを盗撮していると思って通報したということらしい。では、なぜそれなのに、玉川署で事情を聞かれた田代さんが容疑を認めたというマスコミ報道になってしまったのか。第一の疑問はそこだろう。特に一般紙は必ず報道に当たって警察側の確認をとっているはずで、少なくとも警察が、最初の事情聴取で本人も容疑を認めたという認識を持っていることは確かだろう。

 ちなみに詳しく読むと、朝日も読売も毎日も「田代さんは容疑を認めているという」という伝聞調になっているが、スポーツ報知は「盗撮を認めている」、スポニチは「田代氏が盗撮を認めた」と断定している。報道のニュアンスはまちまちだ。またネットでも指摘されている通り、田代さんは逮捕されたわけでもないから、報道に「田代さん」とか「田代氏」と敬称がついている。

 警察が最初の事情聴取で本人も認めたという認識を持っていることについては、推測だが、マスコミに公表はしないし、認めたほうが簡単にすみますよといったことを田代さんは言われたのではないだろうか。事件があったのは6日だが、報道が始まったのは10日。その間に4日もたっている。実際に警察が発表したわけではないようで、一説には、現場で通報を行った人物がマスコミに情報提供したのではないかとも言われている。

  ちょっと気になるのは、田代さんの2000年9月の最初の盗撮事件との類似点だ。当時の経緯について、田代さんは著書『審判』(創出版)の中でこう書いている。

《最初のつまづきは2000年9月24日のことだった。駅で女性のスカートの中を盗撮していたというのだった。今でも勘違いする人が多いのだが、あの時は俺は逮捕されたわけじゃなくて、任意同行を求められ、厳重注意で帰されたのだ。》

《警官が駆けつけた時は盗撮されたという女性も既にいなかったし、近くの交番で事情を訊かれた時に、俺だということを警官もわかったので、穏便にすまそうということになったのだった。でもそれが週刊誌に漏れたらしく、『女性セブン』が報道して大騒ぎになったのだった。今でも俺は不信感を抱いていて、あれは警察の誰かがリークしたのではないかと思う。

 そして、その騒ぎを見てか、警察が「もう一回調べ直させてくれ」と言ってきた。それでもう一回調べ直した最終的な結論が、都迷惑防止条例違反で5万円以下の罰金というものだった。略式で終わったのだが、俺は謹慎処分になった。》

 最初は簡単にすむはずだったのが、マスコミ報道によって大騒動になっていったというわけだ。今回も同じ展開で、事件の前に田代さんは法務省のイベントで講演したりしていたから、法務省の顔に泥を塗った、などという言い方までされる始末になっている。

 

 さて、現在まで田代さん本人も弁護士も取材を受けずにコメントも出していないのは、今は警察検察がどんな判断をするのか見守ったほうがよいし、不起訴に持って行くことに全力を費やすべきだという弁護士の判断からなのだろう。無罪主張をすることを警察サイドは「反省していない」とみなす怖れがあるというのは、痴漢冤罪などでよく指摘されていることだ。

 ただ私は、さすがにこれだけ大きく報道され、しかも「本人も認めている」と報じられているのだから、本当はどうなのか、発言できる範囲で、基本的な事実については公表したほうがよいのではないかと思う。そう思って、ダルクの近藤代表にもメールと電話で進言した。

 最終的には弁護士の判断になるのだろうが、何も言わずに沈黙という戦術は、これほどマスコミ先行の騒動の場合は、限界があるのではないかと思う。仮に不起訴となって無罪放免とされても、この間の大報道で流布されたイメージは今後、影響を及ぼす怖れがあるからだ。

 

 田代さん本人は精神的にかなり落ち込んでいるらしい。それはそうだろう。事実がどうかということと別に、ダルクにも迷惑をかけたし、打撃は小さくない。もともと前回の逮捕事件の後に、これは相当深刻な事態だと認識して、田代さんをダルクにつないだのは私だった。だから今回の騒動は、私としてもとても残念だ。

 最初に書いたように、まだ断片的な事柄しかわかっていない状況で、私も普通ならこの段階でこんなふうに書いたり発言したりはしない。しかし、この間の報道やネットでの論調には強い疑問を感じたし、それを尾ひれをつけて拡散していくことに対しては、とりあえず何かせねばいけないという気持ちになった。だからこの一文を書いた。そう遠くない時期に真相は明らかになっていくと思う。それについては改めて、訂正修正を兼ねて書いていくことにしよう。

「極度のマスコミ不信だったのです」

17年間の逃亡生活の末に2012年6月に逮捕された菊地直子・元オウム信者は、東京拘置所の女性収容者専用の2階の面会室で、初めて接見した時にそう語った。拘置所での生活はそれほど不便もないと淡々と語る彼女だが、日々のニュースは一応把握しているとはいえ、いまだにマスコミ報道には不信感が強く、積極的に見ようという気になれないという。自分の事件についての報道も、逮捕されてしばらくは見てもいなかったという。

 それが、自分も報道に真正面から向き合わねばいけないと思うようになったのは、拘置所で『創』を読み、昨年末、拙著『生涯編集者』や、そこで紹介されていた故・三浦和義さんの本などを読んだのがきっかけだったという。その後、自分について書かれた週刊誌の記事などを全て読むことを決意し、この春から、誤った報道に対しては抗議をしていくことを決めたのだという。

 彼女の話では、それらの報道には相当の間違いがあったという。例えば彼女がオウム真理教に入信するきっかけが、陸上選手として練習中にケガをしてヨガ道場に通い始めたことだったというマスコミの通説も、事実とは違うのだという。逮捕直後に週刊誌が書きたてたいわゆる「菊地ノート」についての報道も、警察について書いた記述が、何と平田信・元信者のことだとされていたり、想像していたとはいえ、あまりにひどい内容に意気消沈したそうだ。

 そうやってマスコミに向き合うように姿勢を改めた彼女と、私が手紙をやりとりするようになったのは、今年5月のことだった。以降、手紙のやりとりと接見を続け、この7月7日に発売された『創』8月号に彼女の初めての手記が載ることになった。いっさいマスコミの取材を拒否してきた彼女が、初めて自分の訴えを社会に発信したものだった。

 

 その中で彼女は、自分が指名手配され、マスコミで「走る爆弾娘」と言われるようになったことを自分でどう受け止めていたのか、次のように書いている。

《私に地下鉄サリン事件の殺人・殺人未遂容疑で逮捕状が出たのは平成7年(1995年)5月16日のことです。地下鉄サリン事件が起きたのは、同年の20日のことです。事件が起きた直後、教団への強制捜査がせまった為に私が林泰男さんと逃走を始めたとか、八王子市内のマンションで潜伏していたなどの報道が一部でされていますが、それは正しくありません。逮捕状が出る直前まで、私は強制捜査の行われている山梨県上九一色村のオウム真理教の施設内で普通に生活をしていました。こんな事件を教団が起こすはずがないと思っていた私は、この騒動も直に収まると考えていて、まさかその後自分に逮捕状が出るなど夢にも思っていなかったのです(逃走生活が始まってからも、しばらくの間、私は地下鉄サリン事件は教団が起こしたものではないと信じていました)。

 林泰男さん達との逃走が始まったのは、逮捕状が出た直後の5月18日のことです。逮捕状が出る直前に中川智正さんに東京都内に呼び出されていた私は、5月17日に都心の某マンションに行くように中川さんから指示をされました(中川さんはその指示を出した直後に逮捕されてしまいました)。マンションに一晩泊まった次の日に林さんがやってきました。お互い相手の顔と名前は知っていましたが、話をしたことはありません。

「じゃあ、行こうか」

と林さんに声をかけられ

「どこに行くのかな?」

と思いながら、彼と一緒にマンションを出たのが、17年にわたる逃走の始まりとなりました。》

《逃走が始まったばかりの頃は、突然身に覚えのないことで全国指名手配になるという、あまりにも非日常すぎる状況に、現実が現実として感じられず、まるで映画の世界の中に迷い込んでしまったかのように感じた記憶が残っています。

 しばらくして、TVで私が「走る爆弾娘」と呼ばれるようになりました。自分が地下鉄サリン事件で指名手配になった時もそうでしたが、全くの寝耳に水の出来事です。上九一色村にいた時に、中川さんに頼まれて八王子のマンションに薬品を運んだことがあったのですが、それが爆弾の原材料として使われたらしいということにこの時初めて気が付きました。》

 

彼女は現在、東京高裁で係争中だが、争点になっているのは、都庁小包み爆弾事件に関して、教団にいた時に指示されて運んだ薬品が爆弾に使われたということについて、彼女がそれをどの程度認識していたのかということだ。逃走中にマスコミが報道していた地下鉄サリン事件への関与というのは審理の対象にもなっていない。

 さる7月3日に行われた東京高裁での被告人質問でも、彼女が運んだ薬品をめぐって当時の教団内での状況が事細かに質問された。ちなみに1審での公判の時は多くの傍聴希望者が押しかけた法廷も、現在は抽選倍率が2倍に達していない。『創』編集部からは私を含めて計4人が抽選の列に並んだが、全員当選してしまった。

 201112月に平田信・元信者が出頭してから逃走中の信者らが次々と逮捕され、オウムについての報道が一時期再び大きくなったが、菊地直子被告を始め、彼ら多くがマスコミの取材には基本的に応じていない。特に菊地被告については、「走る爆弾娘」という呼称を始め、マスコミが大きく報道してきたため相当有名になっているのだが、逃走の経緯を含め、ほとんど真相は明らかになっていない。裁判でもそれらは審理の対象になっていないため、今後も彼女自身が語らない限り明らかにならないままだろう。マスコミがどんな誤ったことを報じていようが、関わりあいになること自体忌まわしい、というのが彼女の心情だった。

しかしそんな彼女も、例えば一般の人から届いた手紙を見ると、まるで死刑にもなりかねないくらいの重罪を犯した印象を持たれていることに愕然とすることがあるという。自分の生き方やプライバシーを自分から進んでマスコミに公開する必要はないが、誤った報道が独り歩きしていることに対しては、自ら発信して改めていったほうがよいのではないか。私は彼女にそう勧めているところだ。

1審の東京地裁で彼女にくだされたのは懲役5年の判決だが、彼女は即日控訴し、今も係争中だ。

7月6日の栗田出版販売「民事再生手続き」債権者説明会に行ってきた。まず驚いたのは債権者の数の多さ。1千人は超えていたと思う。1社1人に限定された債権者はほとんどが出版社だから、主な出版社が一堂に会したということなのだろう。倒産とはいっても民事再生手続きに入るということで栗田出版販売がなくなるわけではないのだが、手続きを始めた6月26日以前の取引の支払は全面停止となった。売れた本の出版社への支払いを全面停止したわけだから、打撃を受けた出版社も多いに違いない。私が経営している創出版の場合も、6月末入金予定のお金が26日に突然、支払停止と通告されて「え?」という感じだった。 

 今の出版界がどんなに大変かは、業界の人間なら誰もが肌身に感じて理解しているから、栗田出版販売に対しても同情の見方と、「再生がんばれ」という声が多いと思う。私もそういう心情だが、ただそうは言っても、取引額の大きかった出版社には相当な痛手だろう。弊社についていうと、ちょうど「マスコミ就職読本」委託精算の時期で通常の月より金額の多い入金予定だったので、せめてもう1カ月後にしてほしかった、などとも思った(笑)。

 栗田出版販売は社長以下、役員も出席し、何度もお詫びし、頭を下げていた。確かに同社の場合は、仕入れの仕方など改善すべき点はあったのだろうが、戦後一貫して右肩上がりだった出版界では、いささかアバウトで牧歌的なやり方でもやっていけた時代が続いた。どんな経済不況に直面しても出版の売り上げは一貫して伸びていたという日本の出版をめぐる良き時代が終わりを告げてしまったということだろう。

 

この何年か、出版市場は予想を超えるペースで縮小している。特に雑誌市場はこの10年余で市場が約半分になるというものすごい状況だ。一部の雑誌を除いてはコミック誌も含めて大半の雑誌が赤字で、それを書籍化の利益げでカバーしているのが実情だ。ただ雑誌連載を書籍化してヒットが出るというのはほとんど小説やコミックで、ノンフィクションやジャーナリズム系はなかなかそうはいかない。

そういう状況を象徴するのが、この6月の講談社のノンフィクション誌『G2』の休刊だ。講談社が『月刊現代』を休刊させた2008年、このままではノンフィクションがジャンルごと死滅すると危機感が広がり、講談社はその後継誌として『G2』を創刊したのだが、それも赤字に耐えられず、ついに休刊となったわけだ。印象的だったのは、6月19日に開かれた大宅壮一ノンフィクション賞受賞式で、今回受賞した安田浩一さんが挨拶の中で、受賞作を掲載した『G2』が今月で休刊という話を披露したことだ。大宅賞を受賞した作品を載せていた雑誌が、その受賞式の時期に休刊というのは、ノンフィクション界の厳しい現状を象徴する出来事だ。

それに輪をかけて、その『G2』休刊の話題を新聞が当初取り上げず、話題にもならなかったことに、私などは余計寂しい気持ちになったものだが、さすがにここへきて全国紙が相次いで『G2』休刊とノンフィクションの危機について次々と記事を掲載している。ノンフィクションは、金と労力がかかるのにそれほど売れないという典型的なジャンルで、苦境に立たされた大手出版社が20082009年に次々と月刊総合誌を休刊させた。その結果、作品の発表媒体がなくなったために、ノンフィクションを書いてきたライターが生活できなくなって、廃業が相次いでいる。

私も大きな事件の裁判傍聴などに足を運ぶ機会があるが、昔は佐木隆三さんや吉岡忍さんらノンフィクションに携わるライターとよく現場で顔を合わせた。狭山事件など大きな冤罪事件などでは何人ものライターが競うようにして取材にかかっていたものだ。ところが最近は、大きな事件の裁判傍聴や現場に行っても、事件を何年も追い続けているライターの姿をほとんど見かけない。ひとつの事件を何年もコツコツと追いかけるといった仕事をやっていては、確実に生活が破綻し廃業に追い込まれるからだ。

こういう状況が続けば、事件を記録し、後世に残すというノンフィクションの機能そのものが停止してしまう。だから『G2』という雑誌の休刊は、雑誌1誌の問題にとどまらず、講談社がノンフィクションというジャンルへの関わりを今後どう考えようとしているのか、という問題を提起している。雑誌休刊は、同社の取り組みが後退しているのではないか、という印象を与えたという意味で残念なことだ。

ちなみに私が月刊『創』を出し続けているのは、『月刊現代』休刊の時の議論などに関わり、次々と大手出版社が総合誌を廃刊していくのに対して、その流れに同調したくないと思ったからだ。『G2』も赤字で大変だったろうとは思うが、講談社全体の儲けを考えれば続けられないことはなかったはずだ。例えばテレビ局の場合も、金のかかる割に視聴率の稼げない報道番組を、バラエティ番組の稼ぐ利益で補うという構造になっているはずだ。

雑誌をやめてしまうと、長期的に書き手を始めノンフィクションの土壌を作り上げていくという営為がストップしてしまうことになる。そのあたりを講談社の上層部はいったいどう考えているのか。次に社長に会う機会があったら、ぜひ訊いてみたいと思っている。

 神戸連続児童殺傷事件の元少年Aの手記『絶歌』(太田出版)への反発は予想以上に広がり、いまだに収まっていない。アマゾンの読者レビューを見ると「金になればいいのか?太田出版」などと、著者や出版社への非難があふれている。被害者遺族の悲しみが癒えていないのに、殺人を行った当人が罰せられることもなく、のうのうと社会復帰しているように見えることへの反発、さらにその本が初版10万をほぼ売り切って5万部の増刷という「商売として儲かった」事実も、多くの人の怒りをさらに加速した。

 これまで殺人を犯した者が本を著すというのは、私の編集した宮埼勤死刑囚(既に執行)の『夢のなか』『夢のなか、いまも』もそうだし、秋葉原事件・加藤智大死刑囚も何冊も本を出している。今回、最初に元少年Aが出版を持ちかけた幻冬舎からは、市橋達也受刑者の『逮捕されるまで』も刊行されている。

 それらに比して今回の本への反発が大きいのは、たぶん元少年Aが明確な処罰を受けずに社会復帰していることが大きいのだと思う。似た例としては、パリ人肉事件の佐川一政氏のケースがある。彼もオランダ人の女子留学生をパリで殺害し、その肉を食べるという衝撃的な事件を犯しながら、フランスでの精神鑑定で精神障害を認定され、罪に問われることなく日本に送還され、その後社会復帰した。

 奇しくも今回の『絶歌』を非難した『週刊新潮』6月25日号の見出しは「気を付けろ!元『少年A』が歩いている!」だった。言うまでもなく、かつて佐川氏を扱った記事のタイトル「気を付けろ!佐川君が歩いている!」をもじったものだ。殺人を犯した者が罪に問われることなく、自分たちと同じ市民社会に復帰していることを指弾したタイトルだ。今回は、そのタイトルの脇に「遺族感情を逆なでして手記の印税1500万円!」と書かれている。記事の突っ込み具合では同日発売の『週刊文春』に負けているが、『週刊新潮』のこういう市民感情を煽りたてる編集感覚はなかなか巧妙だ。

 

 それは理屈を超えた市民感情で、少年法の精神というものを理屈では理解しているつもりでも、いざ具体的な実例に直面すると釈然としないという多くの市民の感じる気持ちだろう。逆に言えば、我々は、少年法に則った犯罪者の社会復帰というのがどういうものか、特にこの事件のような重大事件の場合について具体的にどのように進行していくのか、今回のように実例に接する経験がこれまでなかったといえる。今回はその初めての体験かもしれない。

 被害者遺族が怒って発売中止を訴えるのも、当事者としては当然だと思う。また地元の神戸市などがそれなりに気を配るのもやむをえないと思う。ただ、明石市など行政が書店に販売自粛を匂わせる要請を送ったりするのは、行き過ぎだと思う。出版を非難することと、その出版を行政などの力で封印することとは別のことであることを認識しないと、「出版の自由」を根底から危うくするとんでもないことになりかねない。幾つかの書店チェーンが販売自粛を決めたことや、地元図書館が閉架などの閲覧制限でなく、本を置くことそのものを拒否したことなども、きちんと議論し検証しないといけないと思う。

 

 そういう出版や販売・閲覧をめぐる今回の問題については、私は共同通信記事のコメントや東京新聞の記事に書いたし、7月7日発売の『創』8月号にも詳述したので、本稿では、もう少し『絶歌』の内容に踏み込んでみたい。

 というのも、『絶歌』の構成自体が、元少年に医療少年院でいったいどういう治療がなされたかほとんど書いていないし、それゆえ彼自身が自分の犯した罪についてどう向き合い克服したのか、あまり書かれていないからだ。恐らくそのことも、今回の本が大きな社会的反発を招いた一因だと思う。

 例えば元少年Aは、自分の犯した2つの殺人については直接的な記述をすっぽり省いている。彼なりの遺族への配慮なのだろうが、一方で、自分がその殺人行為に突き進んでいく過程での猫殺しやナメクジ解剖については詳細に記述している。特に猫殺しについての描写は、人によっては読むに堪えない部分だろう。それを割愛してしまっては、自分がなぜあの犯罪に突っ走ったか何も説明しないことになってしまうという判断なのだろうが、気になるのは、そうは言ってもその描写が事細かで、書いている者の痛みが感じられないことだ。一見すると、その行為を肯定的に描いているようにも見える。

 

 犯罪を犯した者が、自分の犯行の描写をどう行うかというのは、その人間が自分の罪をどう捉えているか判断する材料になる。例えば私が編集者として11年間つきあった宮埼勤死刑囚は、言動全体は社会常識から大きくはずれたものだったが、犯行現場について語る際には、「もうひとりの自分」や「ネズミ人間」といった存在が登場し、その「もうひとりの自分」が犯行を犯すのを自分は眺めていたという描写になる。彼の場合はある種の精神疾患にかかっていた可能性が高いから、それを考慮する必要はあるが、どう見ても、犯行現場の描写に「もうひとりの自分」を登場させるのは、自分を主語にして犯行の描写ができないことの現れだろう。「うしろめたい」という気持ちからの現実逃避である。

 逆に、かつて『創』に掲載した奈良女児殺害事件の小林薫死刑囚(既に執行)の手記については、犯行後に女児の遺体を損壊していく様子を克明に描いていたので、編集者としてそのまま掲載すべきか頭を抱えたものだ(それについては拙著『ドキュメント死刑囚』参照)。小林死刑囚が自分の犯した罪を反省しているのかしていないのかは裁判でも論点になった。

 ちなみに前述した佐川一政氏も『霧の中』という本を出版しているが、殺害した女性の人肉を食べた後、主人公は「うまいぞ!」と叫ぶ。物理的な意味でうまいというよりも女性を殺害し食べるという行為が異性を支配・所有したことになるという意味合いだろうが、この描写も恐らく読んだ人は「この人は反省していないのでは」という印象を持ったと思われる。

そうしたことを踏まえて『絶歌』を読むと、児童殺害の記述はないのだが、猫殺しや、児童の遺体をめぐっての描写など、この元少年Aは自分の犯罪をどう克服し得たのか、疑問を感じた読者もいたのではないだろうか。実はこのことは、この『絶歌』という本の本質に関わることだ。あちこちにふんだんに「お詫び」らしい言葉がちりばめられているのだが、この本は全体として元少年Aの「自己肯定」の本という印象を受けるのだ。

 例えば多くの論者が批判している、元少年が「なぜ人を殺してはいけないのか?」に答えを出す記述だ。元少年はこう書いている。「どうしていけないのかは、わかりません。でも絶対に、絶対にしないでください。もしやったら、あなたが想像しているよりもずっと、あなた自身が苦しむことになるから」

 殺人を犯すと自分も苦しむのだ、というのは、第三者が言う分にはひとつの答えではあるかもしれない。しかし、殺害した本人がそう言ってしまうと、読んだ多くの人は当然反発するだろう。それを言う前に、まず殺された人間や遺族の痛みや思いになぜ想像力が及ばないのだ、というわけだ。この記述に関する部分は、この本を理解するポイントだ。

 そして本の中で、この本の執筆に至る動機についても元少年Aは書いているが、自分を突き動かしているのが「生きたい」という思い、「生」への執着だと吐露している。

 これもなかなか重要なポイントで、犯行後、少年院に収容された当初「このまま静かに死なせてほしい」ともっぱら語っていたという元少年に、「生きよう」という気持ちを起させた、そのことは恐らく治療の成果なのだと思う。幼少期に自己肯定を得られなかった元少年が犯罪を犯した後、治療を受けて自己肯定感を持ち、「生きたい」と思うようになった。それ自体は、まさに少年法の精神に則った治療の成果なのだろう。もしかすると今のように社会に復帰してその中で生きたいともがくこと自体も、元少年にとっての長い治療のプロセスなのかもしれない。

 ただ、元少年が自己肯定を語れば語るほど、市民感覚からすれば「いや、そのことと自分なりに罪を償うこととはどういう関係になるのか」という疑問が生じるだろう。少年法は恐らく更生を成し遂げることによって本当の償いを行うという精神なのだろうが、『絶歌』を読む限りでは、元少年が「生きたい」という希望を持つことと、罪を償うという一見相反する2つの事柄についてどう整理できているのかが曖昧なのだ。読んだ多くの人が反発を感じるのはそのためだろうと思う。

 ある意味では、元少年はまだ自分が解決すべきテーマと格闘しつつある過程なのかもしれない。元少年が社会に出た後、どういう人がどんなふうにサポートしていったかという社会復帰後の事実経過を書いている第2部は、今までこういう記録がほとんどなかったという意味で貴重な素材だと思う。

 その意味でも、気持ちはわかるが、この本は置かないと決めた図書館にはその措置が正しいのかもう一度考えてほしい。そしてまた、出版の是非論争だけでなく、犯罪を犯した人間にとって「罪を償う」とはどういうことなのか、この元少年に対してどんな治療が行われ、その成果をどう考えればよいのか、多くの人が改めて議論してほしいと思う。同時に、元少年には、自分の著書がなぜこれほど大きな社会的反発を招いたのか、改めて考えてほしいと思う。

 元少年が14歳であの凶悪な犯罪に突き進んだ経過をどう捉えるべきなのか、当時の少年はわかりやすく言えばある種の病気だったのか、もしそうだとすればそれはどうやって克服されようとしているのか。そういう疑問は『絶歌』を読んだだけでは解決できない。

 

 例えばこの本を読んで個人的に驚いたのは、元少年を犯行に駆り立てていく契機になった慕っていた祖母の死、という問題だ。草薙厚子さんの『少年A 矯正2500日全記録』にはそのことが割と詳しく書かれていたが、例えば『文藝春秋』5月号がすっぱ抜いた「少年A家裁審判『決定(判決)』全文」では、本当に簡単にしか触れられていない。

『絶歌』では、その祖母の死がかなり重要なきっかけとして描かれているし、元少年Aが出版社に持ち込んだという幼少期の写真は、その祖母に少年が抱かれているものだ。これとそっくりだと私が驚いたのは、宮埼勤死刑囚がやはり最初の犯行に至る3カ月前に、慕っていた祖父の死に直面していたことだ。彼は幼少期の自分への回帰をしばしば語り、その幼少期の表情豊かな写真を、ぜひ載せてほしいと私に希望したのだが(『夢の中、いまも』に掲載)、文中の自筆のイラストでは祖父に手を引かれて歩く自分の姿を描いている。

 そしてさらに昨年7月、佐世保市で同級生を殺害し解体した女子高生の場合も、事件の何カ月か前に母親の死に直面している。親しかった人の死が契機になっていることや、殺害後被害者の遺体を解体している点など、これらの事件のあまりの共通性を考えると、それが大きな意味を持っていると考えざるをえない。佐世保事件も元少年Aの事件も、少年法の壁によって詳細な犯行に至る情報が開示されなかったのだが、その元少年が自ら社会に向けて語り始めたというのは、私は記録としては貴重だと思う。遺族の感情はもちろん理解しなければならないし、本を出版して大金を手に入れた元少年Aを許せないという市民感情も理解できる。しかし衝撃的だったあの神戸の事件を解明するためには、元少年Aに語ってもらうことも、意味のないことではないのではないか、と思うのだ。

 なお佐世保同級生殺害事件と宮埼勤事件における類似性については、以前、このブログに書いた。参照いただきたい。

「佐世保女子高生殺害事件の遺体解剖と父親自殺は、あの事件とそっくりだ」(201410月7日)

[ http://bylines.news.yahoo.co.jp/shinodahiroyuki/20141007-00039772/]