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創出版: 2011年11月アーカイブ

FumikiUnderInvestigation2.jpg 11月24日の深夜、「天皇伝説」などで知られる渡辺文樹監督の奥さんから突然電話。今、渡辺監督が公安に捕まり騒動になっているというのだ。自主上映の映画のポスターを街中に自分で掲出するが軽犯罪法違反だとして警察とトラブるのは毎度のことで、抵抗すれば逮捕されるのだが、監督側も慣れているから心配無用と思っていたが、今回はポスターなどを大量押収されてしまったらしい。その押収時の現場写真と、押収品目録のコピーを監督が送ってきたので公開しよう。ポスターなどを押収のためにひもで結んでいる公安警察の姿が写っている。また公安の事情聴取を受ける監督自身の写真もある。逮捕された経験も豊富な渡辺監督だから、これくらいでめげることはないだろうが、上映を妨害しようとする公安警察の執念も相当なものだ。


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 12月1日からはいよいよ中野駅近くの油野美術館で連続上映会が始まる。右翼が大挙押し掛けた「天皇伝説」始め、監督の作品が一気に見られる機会だ。しかも、連日、監督とのトークも行われる。3日土曜17時からのトークには『創』編集長の篠田が呼ばれている。小さな会場なので、監督とも身近で話ができるという。この機会に伝説の渡辺作品を見てみてはどうだろうか。「映画を見にきた客より、右翼と公安の方が多い」と言われるほど、毎回のように右翼が押し掛けるのが、他では体験できない「渡辺映画」の持ち味だが、今回の新作「金正日」は北朝鮮のタブーに挑んだ作品なので、公安だけで右翼は全く押し掛けていないようだ。ただ、過去の作品も一緒に上映される。全部見るのは大変なので、見たい映画の時間だけ行くのがよいだろう。料金は1作品1000円だ。


念のため油野美術館の地図はこちら http://yunobi.com/access_tokyo.html


トークと上映のスケジュールはこちらだ。 http://yunobi2.blogspot.com/


なお発売中の月刊『創』12月号に渡辺監督のインタビューが掲載されているので読んでいただきたい。

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「殺すのは誰でもよかった」
 無差別に通りがかりの人を殺傷し、逮捕後そう供述する、そんな事件が目につく。典型は2008年の秋葉原事件だが、昨年6月に広島市のマツダ工場で起きた事件もそうだ。発売中の『創』12月号に手記を掲載したマツダ事件・引寺利明被告とこの3カ月間手紙をやりとりしながら、両事件の共通性に思いをはせることが多い。

 引寺被告自身、秋葉原事件を参考にしたと語っているくらいだから共通性が多いのは当然だが、彼が語っている犯行の態様でなく、一番共通しているのは、その個人的な動機と犯行の凄惨さとのあまりにも大きな乖離だ。まさに「短絡」なのである。工場に乗り込んで無差別に人をはねたというマツダ事件は、結果的に死者が一人だったため、秋葉原事件ほど大きなニュースにならなかったのだが、手記で引寺被告が書いているように、本当はもっと多くの人を殺傷するつもりだった。死者の数で報道の大きさを分けているのはマスコミの単純思考によるもので、マツダ事件と秋葉原事件の共通性については、もっと目が向けられてよいと思う。

 引寺被告も派遣社員として様々な職場を転々とし、自ら「しょせんワシは負け組じゃ」と口にしていた。生活保護を受給していた時期もある。事件の2カ月前に期間工としてマツダで働いていた時に、他の従業員に不快な思いをさせられ、それを恨んで犯行に及んだというのは、秋葉原事件の加藤被告が事件直前に、自分の作業服を隠されたと誤解した「つなぎ」事件とよく似ている。加藤被告の場合は、それはきっかけに過ぎず、本当の動機は、ネットで嫌がらせを受けたことへの報復だったというわけだが、いずれにせよ、その個人的動機と、無差別大量殺人という事件の重大性とが、常識では結び付かない。

 恐らく、その背景には、社会の閉塞状況によって個人が追い詰められ、ちょっとして契機や動機で爆発してしまうという、社会的な構造があるのだと思う。だから、この社会には、加藤被告や引寺被告の予備軍がもっとたくさん控えていると言ってよい。少しさかのぼれば、小学校に乱入して子どもらを無差別殺害した池田小事件の宅間守死刑囚がいた。事件を調べていくと、その背後に横たわる共通性を感じざるを得ない。

 今の社会の閉塞状況の中である種の憎悪や恨み(ルサンチマン)をためこんだ人がどういうプロセスで大量殺戮といった暴発に至ってしまうのか、どういう資質やどういう条件が重なるとそういう犯罪が起こるのか。本当は、そんなふうに背後に存在する社会的問題について掘り下げていくのがジャーナリズムの役割なのだが、どうもその機能が著しく低下しているように思う。秋葉原事件についても事件直後の大報道に比べ、その後裁判などで明らかになった事柄についての考察は中島岳志北大教授の著書『秋葉原事件』など、数えるほどしかない。

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 引寺被告については二度の精神鑑定を終えて、現在公判前整理手続きの進行中。年明けにも裁判が始まると言われている。接触しているとわかるが、本人に精神障害の気配は全く認められない。ちょっと気になったのは、細かいことに固執するところが、宮崎勤死刑囚(既に執行)に似た印象を受けたことだ。例えばここで公開するのは彼の自筆の手紙だが、これは自分の手記について彼が指示を出したものだ。彼の手記は、音引きが多いのだが、その音引きについて、ひとつひとつ指示をしているのだ。音引きの右の数字がそれで、例えば「どーしよーーかのーーー」という文の場合、「しよーー」の音引きは2つ、「かのーーー」の音引きは3つにせよというわけだ。こちらがなぜ2つであちらがなぜ3つなのか、という理由はわからない。ただ、こんなふうに細かくこだわるというのは、宮崎死刑囚と12年間深く関わるなかで、しばしば感じたことだった。これはたぶん、何か意味があるのだと思う。

 引寺被告とはしばらくつきあうことになりそうだ。なぜ大量殺戮という短絡が起こるのか、考えてみたいと思う。

 11月20日、再審請求が行われている東電OL事件についての集会と現地調査が行われました。集会の後、事件現場に行ってみるという現地調査には約30人ほどが参加したのですが、再審をめぐる動きが注目されているためテレビカメラも何台か同行しました。現場周辺の渋谷区円山町はラブホテル街なのですが、ぞろぞろと通りを歩く一行に、ホテルに来たカップルたちも驚いたのではないでしょうか。

 事件からもう10年以上たっているのですが、殺害現場のアパートと、逮捕されたゴビンダさんが住んでいたアパートはほぼ当時のままでした。写真で見るとわかるように、両方のアパートは隣接しており、ゴビンダさんが女性を殺害後、施錠もせずに現場を立ち去り、逮捕されるまで10日も隣のアパートで暮らしていたというのが不自然であることはすぐわかります。この事件は、1審は無罪、2審で有罪に逆転するのですが、今年に入って新たなDNA鑑定により、確定判決が大きく揺らいでいます。しかも、当時検察側が隠していた被害女性の体に付着していた唾液の血液型がゴビンダさんのものでなかったことも明らかになり、冤罪であったことが明らかになりつつあります。


 この11月25日には新証拠に対する検察側の見解が出される予定で、再審へ向けた動きは大詰めを迎えました。


 DNA鑑定という科学の発達が冤罪を明らかにしたという側面はあるものの、上記の現場の状況などを見ても確定判決への疑問は尽きないし、足利事件や布川事件同様、こんなずさんな捜査や裁判で有罪判決が出されるのかと慄然とするばかりです。事件現場を見ながら、司法のあり方に思いをはせた1日でした。


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※写真左の白いアパートがゴビンダさんが住んでいたもの、その右の茶色の木造アパートが遺体が発見された場所。下に見える一群が現地調査の一行。

 新聞・テレビが大々的に報道しているからご覧になった方も多いと思うが、11月12日、政府・東電が、3月の事故以来初めて、福島第一原発敷地内を報道陣に公開した。
http://www.news24.jp/articles/2011/11/12/07194358.html

 既に今西憲之さんら一部フリーによって報道された映像だし、今回の取材は細野豪志大臣の視察に同行という限定的なものだが、情報公開への一歩という意味では評価できないこともない。ただ、そこでフリー記者やネットメディアを排除し、取材を新聞・テレビの記者クラブメディアに限定したという点については、大きなブーイングが起きている。

 というのも、そもそも原発取材については、大手マスコミは20キロとか50キロ圏内には立ち入らないという自主規制を設け、それを突破して現場に入ったのはフリーの記者たちだった。その現場に入ろうとするフリーに対しても4月下旬以降規制がかかったため、
規制を撤廃せよという要求を前面に掲げてきたのがフリーランスだった。イラク戦争報道においては、安全確保を優先する大手マスコミはバグダッドから撤退し、フリージャーナリストが現場にとどまったのだが、そうやってリスク覚悟で入ろうとする取材陣を国家が妨害・規制するのはやめてほしいという要求だったわけだ。ところがそうした要求がある程度認められて、いざ現場入りとなったら、そこからフリーが除外されたというわけで、これ、本当に「脱力」ものである。

 5月に『創』主催のシンポジウムでこの議論が起きた時に、戦場取材で知られるフリーランスの綿井健陽さんらを中心に、敷地内取材を認めろという共同アピールを政府に提出。
http://www.news-pj.net/genpatsu/2011/pdf/0522-appeal.pdf#search='

 その後も様々な場でフリーランスから規制撤廃の要求が政府になされていた。最近の動きについて言えば、11月2日の上杉隆さんらの自由報道協会の申し入れ、11月4日の寺澤有さんらのフリーランス連絡会の申し入れなどが出されていた(下記URL参照)。
http://fpaj.jp/?p=1881
http://www.incidents.jp/news/index.php?option=com_content&view=article&id=353:2011-11-04-06-37-02&catid=1:2010-05-12-10-05-34
 それらを全て否定したかのような今回の措置に、綿井さんもブログで批判的に言及している。http://watai.blog.so-net.ne.jp/
 せっかくこの1~2年、記者クラブ制度が崩壊しつつあったのに、またしても記者クラブ優先という政府の方針には全く脱力させられる。
 既存メディアでこの問題を取り上げたのは毎日新聞11月12日付メディア欄。台宏士さんの署名によるものだが「『原発』取材 選別に批判」という、なかなかいい記事だ。今回政府は、フリーとネットメディアを排除しながら、外国プレスは代表取材で一部認めるという、微妙な判断をしたのだが、このあたりの線引きをどう考えているのか、ぜひ細野大臣に伺いたいものだ。

 

 いやあ、すさまじい。橋下徹氏の「出自」を暴露するスキャンダル報道が『週刊新潮』『週刊文春』で吹き荒れていると思ったら、11月7日発売の『週刊ポスト』『週刊現代』がそれに対抗する論陣を張り出した。特に『週刊ポスト』は「橋下徹『抹殺キャンペーン』の暗黒」と題して、一連のバッシング報道は橋下氏の改革路線に怖れをなした既得権益集団の陰謀だ、といった感じの論調だ。これもすごい論法で、場外乱闘もここまでいくとまさに混戦としかいいようがない。

『週刊新潮』『週刊文春』の橋下叩きについては、11月6日付の東京新聞特報面に以下の論稿を書いた(コラム「週刊誌を読む」)。

 大阪ダブル選挙を前に、週刊誌による橋下徹バッシングが吹き荒れている。以前からあった「ハシズム」批判とは異なる、扇情的な「出自」暴きである。

 橋下氏が同和地区で育ったことは本人も公言していたが、それにとどまらず、父親がヤクザの組員であったこと、幼少時にその父親が自殺したことなどを『週刊新潮』と『週刊文春』が競うように暴きたてているのだ。

 きっかけは月刊誌『新潮45』11月号だった。橋下氏の叔父に取材した内容をもとに書いた出自の話が大阪で反響を呼び、売り切れ店続出で異例の増刷を行ったという。『週刊新潮』がそこに飛びついたのだった。

 同誌11月3日号の見出しは「『同和』『暴力団』の渦に呑まれた独裁者『橋下知事』出生の秘密」。橋下氏の独裁的手法や上昇志向は、ヤクザの父親が自殺し、母子家庭で育つという不遇な境遇からエリートになることによって抜け出ようとした生い立ちに秘密があったという趣旨だ。

 日発売の『週刊文春』11月3日号も「橋下徹42歳書かれなかった『血脈』」と題して父親の話を書いた。
 橋下氏はこれらの報道に反発し、ツイッターに次々と感想を書きこんだ。「実父の出自も今回の週刊誌報道で初めて知った。僕は成人だから良い。しかし僕には子供がいる」「子供の友達の親も皆知ることになっているだろう。妹も初めてこの事実を知った。妹の夫、その親族も初めて知った」「メディアによる権力チェックはここまで許されるのか」
 その批判に『週刊新潮』は翌11月10日号で「独裁者になるという為政者をメディアが監視するのは当然だ」と反論し、続報を掲載。『週刊文春』は「母の独白90分『疑いを持たれる人と一緒になった私が悪い』」と母親の証言を紹介。バッシングは収まっていない。
 ヤクザの父親と不幸な生い立ちという出自暴きは、「のりピー」こと酒井法子騒動の時と同じだ。大衆の興味をかきたてることは間違いない。そして、この逆風が選挙にどう影響するかは微妙なようだ。えげつないとも言うべき週刊誌報道に反発して橋下氏にエールを送る声も目立つという。仁義なき戦いは今後、どうなるのか。
 
 紙幅の都合で書ききれなかったが、『週刊文春』の橋下叩きは面白いことに、同じ誌面に文春新書から出た橋下氏の新刊の広告が載っている。この新書は明らかに橋下出馬にあわせて出版したものだが、その広告を載せた号が橋下叩きの特集というのでは、新書の担当者は「俺の立場はどうなるの?」という思いだろう。新書と週刊誌の編集部が互いに独立しているといえば聞こえはよいが、このチグハグさが何ともおかしい。
 それにしても心配なのは、『週刊新潮』の出自暴きキャンペーンで、これまで北大の山口二郎教授や中島岳志教授らがやってきた「ハシズム」批判、つまりもっと本質的な橋下批判がかすんでしまうことだ。まさにミソもクソも一緒になってしまったのだ。
 中島さんの「ハシズム」批判については、先日大坂のシンポジウムでの発言をほぼ全文、11月7日発売の月刊『創』12月号に収録した。その前のシンポでなされた山口二郎さんや香山リカさんらの「ハシズム」批判も、近々ブックレットが発売されるらしい。『週刊新潮』の暴露は確かにインパクトの大きさだけは認めざるをえないのだが、橋下批判を矮小化してしまった感は否めない。
 場外乱闘はいいが、議論するなら本質的で真っ当な論点でやった方がいい。

 2005年に投身自殺した作家・見沢知廉さんを描いた映画「天皇ごっこ 見沢知廉・たった一人の革命」が1029日から新宿のK's cinemaで上映されています。

 http://www.ks-cinema.com/map.html

 

見沢さんは最初、ブントの戦旗派に加わりながら、途中で右翼に転向。一水会に属するのですが、そこで仲間を公安のスパイと疑い査問中に死亡させ、千葉刑務所に長期服役。その間に小説を書いて才能を認められ、出所後作家に転身しました。新潮社の三島文学賞にノミネートもされました。そして投身自殺という壮絶な最期をとげたものです。

 

その狂気と正気の間をさまようような生き方を描いたのが今回の映画ですが、基本的にはドキュメントですが、一部フィクションをまじえるという独特の作風です。これは制作にあたった大浦信行監督の手法です。で、この大浦さんが知る人ぞ知る存在。90年代に富山で昭和天皇をコラージュにした版画「遠近を抱えて」が右翼団体の猛攻撃を受けて大変な騒ぎになったのですが、その作者なのです。右翼にとっては天敵のような人なのですが、今回の映画を見れば、この大浦さんの天皇観も、右翼・左翼といった政治的なものでないでないことがわかります。今回の映画には右翼もたくさん登場しており、見沢さんの天皇観を通じて、大浦さんの考えを表現した作品です。

公式サイトhttp://www.tenno-gokko.com/

 

ドキュメンタリーとしても迫力ある映画ですし、エンタテイメント性もあります。ドキュメント映画としては異例の一般館でのロードショーとなったのもそのためです。興味のある方はぜひ足を運んではどうでしょう。休日と週末には毎回監督のトークショーも行われており、これが毎回大盛況のようです。5日(土曜日)の夜のトークショーには私・篠田がゲストを務めます。ぜひ来てください。

 

この映画については、『創』11月号で「狂気と隣り合わせの作家・見沢知廉を描いた映画」と題して、大浦監督と鈴木邦男さん、雨宮処凛さんの鼎談を掲載しましたが、それを先頃ヤフーニュースに公開しました。こちらもぜひご覧下さい。

http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20111018-00000302-tsukuru-peo