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創出版: 2009年12月アーカイブ

 12月28日朝一番に水戸拘置支所にて土浦無差別殺傷事件の金川被告と面会した。18日に死刑判決が出て弁護人が即日控訴したが、金川被告はその28日に取り下げた。私との面会の後、取り下げると言っていたが、もう私も止める気になれなかった。
RIMG0029.jpg 以前、奈良女児殺害事件小林薫死刑囚も同様の状況になったが、彼の場合は迷っていたので、「迷うくらいなら死に急ぐことはない」と、控訴取り下げに私は反対した。しかし、金川被告の場合は、「死刑になりたい」という意志が強固で、何を言っても無駄という感じだ。「きょう取り下げることを親には言ったのか」と訊くと、「言ってない」との答え。もう死ぬことを決めてしまってからは、この世への執着は何もなくなってしまったようだ。

 死刑判決への感想を聞いた。「間違っていると思えた個所はあったか」と訊くと、「全部です」との答え。「じゃあ、どこがどう違うのか指摘してはどうか。君が死んでも記録は残るのだから、異議申し立てはしておいた方がいい」と言ったら、そんなことをする気はないとの返事だった。
 不思議なのは、「自殺したいと思ったが死にきれないので殺人を犯して死刑になろうと考えた」という彼の思い込みについてだが、普通に考えれば無差別殺人を犯す方が自殺よりずっとエネルギーがいるはずだ。何せ昨年3月に荒川沖駅で無差別殺傷を行った時は、ほとんど周囲も本人もパニック状況で、7人めに刺して殺害した被害者のことを金川被告は覚えていないというほどだ。自分で睡眠薬を飲んだ方がずっと楽に死ねるのに、どうして大量殺人による死刑などというとんでもないことを考えたのか。そこがよくわからない。自殺は個人的死だが、死刑は制度による死だから、後者の方がずっとめんどうなのに決まっている。

 金川被告はまだ26歳で短慮というべき点も目立つ。死刑についても逮捕されて簡単に処刑されると思っていたようで、「こんなに大変なものとは思っていなかった」と言う。「死刑になりたいので殺人を犯す」という不条理な動機は、この場合、死刑は本当に極刑といえるのかという奇妙な疑問を提起してしまったのだが、裁判所はただ前例にならって死刑判決をくだしただけ。疑問には何も応えてはいないのだ。
 この事件には、金川被告の家庭的社会的環境、コミュニケーション不全ともいうべき環境が彼の人格形成にどんなふうに影響したかなど、考えるべき課題はたくさんあるのだが、本人も、もう死んでしまうのだからどうでもいいと言っている。このままだと1月5日に死刑確定。恐らく執行は早いだろう。こういう決着でいいのかという思いは尽きない。
 
 なお、金川被告とこの間、やりとりした手紙は、1月7日発売の『創』2月号で公開する。(篠田)

 12月18日、水戸地裁で金川真大被告(26)に死刑判決がくだされた。昨年3月、死刑になりたいという理由で、JR荒川沖駅で無差別殺人を行った事件だ。判決公判を傍聴し、毎日新聞の依頼を受けて寄稿した。19日付朝刊に掲載された記事は紙面の都合で少し短くなっている。元の原稿をアップしよう。 (篠田博之)

水戸地裁.JPG 判決公判を傍聴した後、被害者遺族の話を聞いた。家族を理不尽に殺害され、しかも金川真大被告からは一言の謝罪の言葉もない。遺族にとってはやりきれない思いだろう。
 一週間前、金川被告に面会した。私は宮崎勤死刑囚とは十年以上もつきあったし、凶悪事件で犯人とされた人たちと多数接触してきた。流布されたイメージと彼らの素顔にずれを感じることは多いのだが、金川被告の場合はそのギャップの大きさに驚いた。話してみると、ごく普通の青年。事件のことを知らなければ「好青年」との印象さえ持っただろう。
 自我が目覚める高校生の時に、生きることの意味を考え、生きていても無駄だと思うようになった。その年代には珍しいことではない。しかし彼の場合は、無差別殺人で死刑になって死のうと考えた。一般の人間には到底理解できない飛躍した論理だ。
 早く死刑にしてほしい。法廷で被告がそう主張する光景を、私は以前、奈良女児殺害事件の小林薫死刑囚の裁判で目にした。彼とは約一年にわたって接したが、殺意の認定を含め、裁判で語られている事件経過は事実とかなり異なるのだが、自分はもう死にたいと思っているから、争うことはいっさいしないと言っていた。そし望み通り死刑判決が出ると自ら控訴を取り下げ、刑を確定させた。裁判は茶番だ、とも言っていた。
 その彼の話を聞きながら、私は、自ら死ぬことを望んでいる人間に死刑判決をくだすことが本当に彼を処罰することになるのかという疑問に終始とらわれた。今回も、死刑判決がくだされる法廷でほとんど表情を変えない金川被告の横顔を見ながら、これで彼を裁いたことになるのか、と強い疑問を感じた。
 死を覚悟して小学校で無差別殺傷を行った宅間守死刑囚の場合も、早く死刑を執行せよと、確定後も訴え続けた。宅間・小林両死刑囚の場合は、社会から疎外され追いこまれていく何十年かの人生の中で、生きていても仕方ないという絶望に捉われた。しかし、金川被告の場合は、追いつめられるだけの人生も経験しないまま、死にたいという妄想に捉われて凄惨な凶行に走った。
 家族とも社会ともコミュニケーションの回路を絶たれていたことが、彼を妄想から現実に帰らせる契機を奪っていたような気がする。何か少しだけきっかけがあれば、金川被告はごく普通の人生を送っていたのではないか。本人と話してみてそんな印象を抱いた。
 到底理解できない動機で、自らが死ぬつもりで無差別殺傷を行う。そんな事件がこのところ目につく。死にたいと思って殺人を行う人間に死刑判決をくだすことが処罰になるのか。そもそも、人を裁くとはどういうことなのか。今回の金川被告の事件は、まさにそういう問題をつきつけたような気がする。

 『創』の年末進行でムッチャ忙しいのだが、これだけはやらねばと思って時間をさいたのが、篠山紀信さんの写真集への警察の取り締まりに対する日本ペンクラブの抗議声明だ。私は日本ペンクラブ言論表現委員会の副委員長で、委員長の山田健太さんと協力して声明文案をまとめ、15日に理事会で決議。その日のうちに阿刀田高会長名で発表された声明文は、日本ペンクラブのホームページに公開されている。(篠田博之)
http://www.japanpen.or.jp/statement/2008-2009/post_210.html

 篠山さんの自宅や事務所などにいきなり家宅捜索がかけられたのは11月10日だった。まさに「寝耳に水」の乱暴な捜査で、その後、関係者への取り調べはいまだに続いていると伝えられる。問題となった写真集「20XX TOKYO」は1月に刊行されたもので、撮影は昨年夏。もう1年以上も前に行われた撮影について、公然わいせつという容疑がかけられたのだ。出版社には捜査がかかっていないから作品の中身でなく、あくまでも撮影方法を問題にしたものだ。公共の場でヌード撮影を行ったのが問題だというわけだ。
 警察はだいぶ前から内偵を行っていたようで、撮影場所のひとつ青山霊園に夏前に協力要請を行うなどしていた。有名写真家を取り締まることで一罰百戒を狙ったのは明らかだ。いきなり家宅捜索というショック療法をとったのもそのためだろう。 この取り締まりにはいろいろな問題がある。表現されたものでなく、その撮影方法を問題にしたわけで、写真でなくペンの場合でいうと、取材の仕方を問題にして介入したということだ。これが前例となって拡大運用されると、相当いろいろな形で言論表現活動に介入ができてしまう。

 写真や映像表現に関わる人にとっては大変問題の多い取り締まりだ。捜査が継続中なため篠山さん本人は今のところマスコミの取材に応じていないから、大きな報道がなされていないのだが、もっと議論されてよい問題だ。最近はジャーナリズムがこういう問題にあまり敏感でなくなったのが残念というほかない。ちょうど先頃、マンションにチラシを配布したとして逮捕された事件での最高裁判決が出て、有罪が確定してしまったが、こんなふうに表現や意見表明の自由がじわじわと狭められている現実に、もう少しみんなが声をあげてもよいと思う。

ichi.jpg 先週は『創』の校了で忙しくてトピをあげ損ねたため、少し遅くなったが書いておこう。
 写真は『フライデー』12月4日号だが、市橋達也容疑者の両親が11月10日夜に行った会見の写真がご覧のように顔一面モザイクだ。
普段、容疑者の関係者の写真を無断で隠し撮りすることもある同誌が、ここまでやること自体、異様な感じさえ受ける。
 実は、この市橋容疑者逮捕の夜の両親の会見映像、当日テレビで一斉に流されたので覚えている人も多いと思うが、同じ映像が今は使えない。
通信社の配信サービスからもこの写真は排除されている。

 なぜかといえば、容易に想像できると思うが、この会見の直後から両親のもとにバッシングの嵐が吹き荒れ、母親が「恐ろしくて外にも出られなくなった。正直、これから生きていけるかどうかわからない」(夕刊紙へのコメント)という状態になってしまったようなのだ。
 実際、両親は翌日の11日にも会見を行ったのだが、顔は映さないだけでなく、音声さえ変えるという状況だった。
『フライデー』も前週の11月27日号には両親の会見の写真をモザイクなしで掲載していた。
 そして記事で「逮捕後の『親バカ』」「この親にしてこの息子あり」などと罵倒していた。

 恐らく10日に会見に応じた時にも、両親は覚悟をもって臨んだはずだ。顔を出して、言うべきことははっきり言う。
そういう意思が感じられた会見だった。それが1日で一変したというのは、世間から加えられた風圧がいかに大きかったかということだ。
 その両親の会見についての賛否の声を特集したのは『女性セブン』12月3日号だ。見出しは「あなたはどう思う? 市橋容疑者 医師両親会見への疑問」。
 賛否はっきり意見が分かれた中で、賛意を表明したのは香山リカさんだ。
 「医師という職業からも、親の立場からも、説明責任を果たさなければという気持ちが強かったのでは。カメラの前で加害者側が話すことは相当の覚悟と決意を必要とします。あえて会見したことは評価すべきです」
 
 しかし「会見への疑問」という見出しからもわかる通り、この記事でも大半のコメントは反対意見だ。例えば、神戸連続殺傷事件の被害者家族のひとりはこうコメントしている。「謝ってはおられるんですが、なにか息子を突き放していて、本当に"申し訳ない"という思いが届いてこない」
 教育評論家の尾木直樹さんもこうだ。
「視聴者は加害者の親に"つらいだろうな"という姿を期待しています。今回の会見は、見ているほうがつらくなる感じはなかった。これだけ世間を騒がせて国際問題にまでなっているのに、そこにある種の"軽さ"を感じました」「市橋容疑者の両親は理路整然としていたけれど、感情が見えなかった。いっていることは正しいのだろうけれど、官僚的、事務的な印象で心を打たなかった。多くの人はそこに違和感を感じたのでしょう。子育てや教育では、泣き崩れてしまうような、親のまっすぐな姿勢も必要なんです」
 
 11日の両親の会見が顔を映さずに行われたこともネットでは新たな議論になっているようだ。
会見内容に賛否があること自体は悪いことではない。しかし、当事者が「恐ろしくて外にも出られなくなった」とまでおびえる事態には考え込まざるを得ない。
 思い出すのはイラク人質事件の時の人質家族へのバッシングだ。
 市橋容疑者の両親のコメントが「事務的な印象」を受けたのは、たぶん彼らが基本的に息子と自分たちは別の人格だというスタンスで語っていたからだろう。
 でも日本社会はいまだにそれを許さないということなのだろう。容疑者憎しのあまり、親に対しても罵倒する。親が涙ながらに土下座して謝らないと許さない。
 そういう空気が日本社会では支配的だということなのだろうか。