がんばって良かった!広告会社内定

Hさん/ 博報堂内定

直感的にマスコミをと思った

 楽しいことがしたい→マスコミを第一志望にする。

 楽しいことはマスコミを介してやってくる。  テレビ、広告、CM、本……。テレビを見るのも、CMを見るのも、本を読むのも、電車の吊り広告を見るのも好きだった。他の人よりマスコミからの情報を意識的にであれ、無意識的であれ享受していたのだと思う。

 言葉に表すことがうまくできないが(これは就職活動でも苦労した)、直感的に、これだと思えたのがマスコミとも言える。

 しかし、12月ごろになって、就職活動が本格化したころになにを思ったか、マスコミの倍率のすごさ……つまりは、ヤバさをリアルに感じるようになり、マスコミ以外も視野に入れ始める。有名な企業へのとりあえずのエントリーを始める(これは完全に無駄だった)。 最初のマスコミへの決意が揺らぐ。もし、受からなかったら、と考え出す。怖い。

 もちろん行きたくないところを受けにいっても最終辺りで落ちる。本気かどうかを聞かれると正直に自分の気持ちを話してしまっていたので、当たり前かと思うが……。

 今から考えれば、無駄で遠回りな時間を過ごしているそんな中、地元のテレビ局の試験が始まった。

  不慣れな面接に最初はびくびく

3月27日 東海テレビ 筆記試験
4月2日 東海テレビ 1次面接
4月6日 中部日本放送 1次面接
「なんでテレビに行きたいの?」
「大学時代にがんばったことは?」

 面接質問集そのままのことを聞かれた。緊張しやすい私はびくびくしていたし、質問にうまく答えられた自信もあまりない。しかし、自分のことをわかってもらおうと、普段通り振る舞ったし、できる限り(外から見ればぎこちなかっただろう)笑顔を作った。

 どんどん面白いように通過していく。あれ、これマスコミだよね?って何度も思った。とてもうれしかったし、自信もある程度ついた。たとえ学歴だけ見られていても、学歴だって過去の自分の努力だ。

 4月3日 博報堂1次面接。最初、自分とは相性が良くない会社なのかな、と考えていた。最初の面接から感触がよくなかったので、落ちたと思った(笑)。厳しい表情で面接官に途中で「はい、もういいよ」と話を遮られたので……。私の想いが届いているのかとても不安で不安で仕方なかった。一人ひとりを大切にする博報堂らしく、私個人をきちんと見てくださっていたことが後々わかった。

 4月6日電通1次面接。マスコミということで以前電通、博報堂のOB訪問をしていた。特に電通のOBの先輩は就職活動のいろはから、電通の最近の動向などを教えてもらい、とてもお世話になった。加えて、知識も幅広く、身なりなどすべてにおいて完璧な気がした。あらゆることに手を抜かず、努力している姿がとてもカッコ良く、こんな大人になりたい、と強く思った。

 さらに心が震えたのが電通の面接会場や形式だった。1次面接会場には、緊張している学生たちへの温かいメッセージが飾られていた。そして、面接官に会社が用意してくれた世界にひとつしかない私の名刺を渡し、面接を始めるという形式。こんなにわくわくした面接は初めてだった。電通は完全に私の心をつかんで放さなかった。

  電通敗退で心が真っ暗に

4月10日 東海テレビ 2次面接
4月13日 中部日本放送 2次面接
 テレビ局では、面接が進んでいくと、「他局でなくなぜうち?」を詳しく聞かれた。申し訳ないが、何度考えても、私にとって正直どこも一緒で、どこにも好きな番組があった。地元に地域が制限されてしまうこと、テレビという媒体からしか伝えることができないことから、どんどん魅力が薄れていく。子どもからおじいさん、おばあさんまで、テレビからラジオ、本まで…いや、それ以上の可能性がある広告に対して想いがどんどん濃くなっていった。このあたりから第一志望が広告業界になる。本当に遅い(笑)

4月14日 電通 2次面接。そんな素敵な電通ともお別れの時。あっけなく敗退。すっっごく悔しかった。
 原因はわかっていた。雰囲気良く面接を進めることができたのだが、私が最も伝えたかったことをまったく伝えられなかった。私が何を考え、何に一生懸命取り組んできたのか。ありのままの私でなく、見栄を張った私がそこにいた……。
 あんなに素敵な人たちの仲間になれなかった。私のために一生懸命時間を割いてくださったOBの先輩の仕事での後輩になれなかった。心全体が真っ暗になった。虚無感がすごくて、ただその場でしばらく呼吸をしていた。

4月15日 博報堂 2次試験。1次面接で少し苦手意識が付いたが、このときにはしっかり気持ちを切り替えていたので、1次面接のことは気にしないようにした。GD(グループディスカッション)もそこまで自信はなかったが、自分らしさを大切にした。仕切ることが多かったが、他にも仕切りたがる人がいたので、無理に仕切ることはしなかった。その代わり、うまく進行できるように意見をまとめたり、補足したりしながらサポートに回った。

 GDの前に社員との座談会の場が設けられた。心から自分のことを伝えようとしてくれると、実感した。さらに会社説明会やパンフレット、OB訪問にてお会いした社員の方がみな、自分の個性を本当に大切にして、活かしている姿を拝見した。博報堂に入ったら、ありのままの自分で心から楽しい仕事ができる!と強く感じた。

  博報堂2次試験通過連絡の不安

 みん就(みんなの就職活動日記)では、もう通過連絡きた!とか何日以上空いたらお祈りだ、とか色々情報が飛び交っていて。私は不安すぎて、20分ごとくらいにそれを覗いていた。誰でもいいから何か情報ちょうだい!と。きちんと考えれば、虚言も多々あったはずなのに。そのときは何にでもすがる思いだった。

 そして、みん就で「これ以降に連絡きたら落ちている」というくらいに博報堂からメールが来た。
「選考結果のお知らせです」
 はいはいはい。どうせ落ちましたよ、どうせ。と腐った気持ちでそのメールを開かなかった。
 泣いた。オフだったので1日中泣いた。自分の頑張りは、この思いは届かなかったのだと。泣けるCMや2chを見ながらとてつもなく泣いた。ティッシュ2箱消費した。

 まあ、記念として、どういう風に私にお祈りを捧げてくれたのか見ておこう(やぐされ)と、思って新卒採用サイトに接続したら、なんと。
「次は最終面接です。お電話をお持ちください」
 本当に飛び跳ねて喜んだ。下の階の人ごめんなさいというくらい。

4月21日 東海テレビ 最終面接
4月23日 中部日本放送 最終面接
2次試験のときからテレビ局よりも広告への強い気持ちを大切にしたいと考えた。可能な限り情報収集して、どちらも真剣な思いで臨んだ。聞かれたことは今まで通りシンプルなものだった。

4月25日 博報堂 最終面接。
何故ここがいいのか?を執拗に聞かれる。自分の想いを自分らしく伝えることだけを考えた。そして、面接官は敵ではない、味方でもない。だから、無理にこわばる必要もない、だからといって安心しすぎてはいけない。そんな気持ちだった。
最終面接では、博報堂本体と博報堂MPの志望割合を聞かれて、「うーん、そうですね…(ある程度の間)」になったし、その後「6対3です!」と自信満々に割合も間違えた。雰囲気もよく進み、大笑いしていただけた。本当に恥ずかしかったが。何が大切か、なぜよい方向に転べたか、を振り返ると、「自分はこういう人間です、そしてこういうことをやりたいと考えています」を伝え続けようとしていたからかな、と。

5月2日 博報堂 健康診断再検査の連絡。 この瞬間、他の内定を辞退することを決意した。


  最終の健康診断でひっかかった

 ここから先は私くらいしか体験していないと思うが、最終面接前に健康診断を受けた。それに引っかかったと博報堂の人事から連絡が来る。GW前日の夕方だったので、病院もやっておらず、そしてその後も些細な事情で、しばらく検査を受けられなかった。結果を提出したのが5月半ば。そして代理店Aからも少し検査結果の吟味のため時間がほしいと言われて、1週間ほど。その間ずーーーっと心と胃腸が重かった。
 これだけ延ばして、再検査も受けたのだから受かってる、よし、忘れよう。と気持ちを切り替えてしばらくしたころ、電話が。宅配便のお兄さんだと思って出たら、人事の方だった。ひえーと内心なりながらも、「内定おめでとう!!!」のお言葉をいただけて、またもや飛び跳ねまくった。

 振り返ってみると、本当に就職活動を通してはらはらどきどきした。とてもいい経験になって、社会のことも少しは知れた。身体を大切にすることも必要だと学んだ。
◎自分はどういったことを頑張ることができた/できているのか、を伝えるには?
◎自分は将来、何がしたいのかを、自分の頑張りを踏まえて伝えるには?
上記2つは常に考え続けた。
別に考えてきたことをそのままべらべら喋る必要はない(考えておかないといけないけど 笑)。

 面接で言い間違えると焦るし、他の学生がすごいことを、すらすら〜っと自信ありげに話すのを聞くと、自分は…ってなる。でも、その時点で私は、"この自分"で所謂勝負に出ているわけで。面接官もそんな"私"を知りたいと絶対に思ってくださっている。
不安になるだけ損。
心の奥底から……「がんばって、本当に本当によかった!!!!!!」


出発点はスポーツ記者になりたいという思い

Fさん/全国紙、通信社内定:
1年間の韓国留学を終えた大学4年の1月に、就職活動を始めた。しかし、なかなか気持ちを切り替えられず、しばらくは久々に会う友人たちと遊んでばかりいた。

新聞か出版か放送か思い悩んだ末に…

Kさん/放送局内定:
1年間の韓国留学を終えた大学4年の1月に、就職活動を始めた。しかし、なかなか気持ちを切り替えられず、しばらくは久々に会う友人たちと遊んでばかりいた。


多浪・既卒就活の末、出版社の編集者に

S君/出版社内定:
浪人時代も長く、いわゆる「マーチ」に届かない私大出身の私は、全国から秀才が集い、かつ高倍率であるメディアの仕事に就くことが果たして可能なのか、という不安があった。

一貫して広告志望だった私の就職活動

Yさん/広告会社内定:
「人のための課題解決がしたい」ただの綺麗ごとかもしれない。でも、これが広告業界を目指した私の心からの本音だった。私は小学生のころ、人と話すことが苦手で内気な自分にコンプレックスを抱いていた。