ドキュメンタリー志望、でも結局は報道に

H君/朝日新聞、NHK内定

 小学校3年生のとき、家に置かれていたユージン・スミスの『水俣』という写真集を手に取った。その名の通り水俣病に関する写真集であり、小学生の私には強烈な一冊で、いまでもしっかりと記憶に刻まれている。偶然といえば偶然の出来事だったけれども、いま思えばこの経験が私を「ジャーナリスト」という仕事へ導いてくれたのかもしれない。
 ただし、私がほんとうにジャーナリストを目指すようになったのは、大学に入ってからのことだ。入学直後に「国際問題を伝え、学び、援助する」ことを目標とした学生団体を友人とふたりで立ち上げて代表を務め、その活動に没頭していたことが主な理由である。団体の活動は、国際問題を抱える様々な国々を訪れ、そこに暮らすに人々話を聞き、写真や文章をまとめて発信するという、まさにジャーナリストのようなもの。こんな仕事ができたらいいな、と考えて「世界中を駆け回り、動画や写真を使って国際問題を発信するフリー・ジャーナリストになりたい」という夢を持つようになったのである。
 フリーに憧れつつも、3年生を迎えた途端に様々な不安が頭をよぎるようになった。私はいてもたってもいられなくなり、お手伝いをしていたフリーの方へ人生相談をした。
 そこで「きちんとしたところに入って、やりたいことがやれないならやめればいい。でも、大きいところなら、やりたいことも、フリーでできないことも、たくさんできるはずだ」というお言葉をいただいた私は、「マスコミ就職」を目指すことを決心。
 就職活動の軸は「フリーランスのように、自分がやりたいことが自由にできる企業」とした。NHKが第一志望、朝日新聞社は第二希望と決めて就職活動をスタートした。

 スタートはインターンシップへの参加

 就職活動のはじまりは、8月末に参加した共同通信社と北海道新聞社のインターンシップだ(テレビはすべて落選)。インターンシップを通じて仕事のイメージを掴んだ私は、マスコミが自分の思っていた以上に自主性の問われる仕事だということ、自由な仕事だということに気付く。そうして「こんなにいろんなことが自由に、自分の力でできる場所ならば、絶対に入ってやる」という気持ちが、確固たるものへと変わっていった。しかし9月に自分の団体のインド行きが、10月には引退イベントが控えていたため就職活動は一時休戦。もちろん、その間も新聞やテレビで日々のニュースは毎日チェックしていたし、ドキュメンタリー番組は週に3〜4本、必ず見るように心がけていた。この習慣は就職活動最後まできちんと続けた。
 無事団体の引継ぎも終え、11月からは就職活動を本格化。インターンシップを通じて知り合った友人と「勉強会」をはじめるようになった。勉強会では週に一度、渋谷のカフェに集まって、その場でお題を決め、1時間で800字の作文を書いてお互いに講評した。同じ目的を共有する、いわば「戦友」とのコミュニケーションは、モチベーションを大きく向上させた。
 12月には朝日新聞のインターンシップに参加。それと時を同じくして、日本テレビの本選考がうまい具合に進んでいた。はじめてのES、はじめての一次面接、はじめての筆記試験……。すべての状況に毎回緊張しつつも「人に迫ったドキュメンタリーを作りたい」と言い続け、ついに第5次選考、通称「合宿選考」に参加することになる。
「合宿選考」とは、50人ほどの試験通過者が2泊3日汐留のホテルに缶詰になり、個人でひとつ、グループでひとつ、短い番組を作るという選考だ。なんだか高校時代の修学旅行みたいな雰囲気の選考で、楽しみながら映像制作に励んだ。結果発表は年明けと言われ、モヤモヤした気持ちを抱えながら紅白歌合戦を眺めることに。
 1月。最初の一週間は大好きなスノーボードをして気を紛らわしていたが、その後日テレの結果が届いた。惨敗だった。合計5日間年末に拘束されたにも関わらず最終面接に進むことは出来なかったという事実は、精神的にかなりキツイものがあった。その落ち込みが尾を引いたせいでキー局はテレ東、テレ朝しかESが間に合わず、しかも二社とも一次面接で敗退。この時は2月のはじめで、自分の中の不安な気持ちが膨らんだ。
「もしかしたら映像は自分に合っていないのかもしれないな」と感じるようになるが、やはり芯はNHKを貫く。「民放に受からないならNHKに受かるはず」と自分に言い聞かせ、ひたすら前を向くようにしたのだ。やる気を失わないよう、先述の勉強会をこの頃から週二回開催に増やした。互いに面接練習をしたり、テーマを決めてグループディスカッションの練習をしたりと本番に備え始めた。

 2月末に1週間、カンボジアに

 2月の末に1週間カンボジアに行くという暴挙に出てしまったがために、2月は地獄のような日々だった。セミナー、OB訪問、ESラッシュ、企業訪問……。そんな中でも多くのOBの方々と交流することができたのは、とてもいい経験だったと思っている。なにより仕事に対して具体的なビジョンを聞くことは、自分のモチベーションを高めることにつながる。またいろいろな方と交流していく中で、「NHKより朝日新聞の方が、“人”が自分に合っているかも」と感じるようになった。今考えれば、この時期はひとつの転機だったのかもしれない。
 日本を出国する前に提出しなくてはいけなかったNHKと朝日新聞のESは出来る限りじっくりと、何度も書き直し、OBの方や先輩にアドバイスを頂いた。暇な時間は、出来る限り時事問題の勉強に充てた。移動時間や寝る前には、リクナビが無料で配布しているアプリ「時事トレ」をやり込んだ。
 3月。カンボジアで1週間すべてを忘れて帰国、また怒涛の就職戦線へ復帰を果たそうと思った矢先、東日本大震災が起きた。
 就職活動の予定は一気になくなり、エントリーシートも延期が相次いだ。テレビや新聞、インターネットから次々と流れる凄惨な状況に気が滅入り、一週間ほど寝込む。しかし気がつけば「魔の日曜日」まであと2週間。今やらなければいつやるんだ、という意気込みで最後のスパートを掛けることに。集英社、講談社の筆記試験を通過したことで自信も復活し、うまい具合に再起動することができた。ちなみに講談社の試験では30分で1000文字の作文を書かなくてはならず焦ったものの、勉強会が功を奏し、なんとか書き終えることができた。
 毎日くまなく新聞をチェックし、テレビでは常にニュースを見て、細かい情報も見落とさないように気を使った。特に社説と「天声人語」はどんなに忙しくても目を通した。参考書はすべて二回読み直し、いままで勉強会で書いた作文も見直し、自分の文章のダメなところを洗い出した。万全の体制を整えていた。
 さあ、そうやってあっという間にやってきたのが4月3日、第一日曜日。マスコミ就職者にとっての、「魔の日曜日」である。
 午前中のNHK、午後の朝日新聞、この日のために作文と時事問題を勉強してきたのだ、というプレッシャーに苛まれる。ところが、テストがはじまってみれば両者とも予想以上にスラスラと解くことができ、なんともあっけなく終わってしまった。
 今思えば、事前の勉強の甲斐が発揮されていたのだろう。「日々のニュースをチェックしておけば時事は大丈夫」という人もいるが、それに加えてきちんと勉強するべきだと私は感じている。余裕をぶっこいて落ちるくらいなら、丁寧にみっちり勉強したほうがいい。作文もまったく緊張することなくスムーズに書くことができ、なんとかそこそこの形になったのは、何度も勉強会で練習をしていたからなのだ。

 NHKの2次面接でドキュメンタリー論

 翌々日の5日にはNHKの面接が。筆記試験とのセットだったものの、手応えバッチリで通過した。筆記がうまく行ったこと、さらに面接の前日に頭の中でイメージトレーニングを常に行っていたからか、まったく質問に詰まることもなかった。想定され得る質問や先輩から聞いた質問はすべてリストにして、自分自身が面接官になり、頭の中でセルフ面接を何度も繰り返していた。ちなみにオススメのイメトレ場所は「お風呂」と「ベッド」だ。
 朝日新聞は震災の影響で、選考フローが例年よりひとつ減った状態で、8日に1次面接。本来ならここで行われるはずだった「模擬取材」は実施されず、1時間のグループディスカッションをしたあとに20分面接をする、という形式だった。
 グループディスカッションでは多くは語りすぎないけれども、言うことはハッキリと言うこと、そして常にメモを取り続けていることに専念。私は自己紹介が始まった瞬間から書きだしたのだが、正直なところ、私以外の全員がはじめはメモを取っていなかったことには驚いた。記者はメモを取ることが大切な仕事なのに……。
 面接では「新聞の罪ってどんなものがあると思う」「その罪はどうしたらいいと思う」という質問に少し詰まりつつも、なんとか突破した。常に笑顔で、大きい声で話すこと。そしてハキハキと、頭の回転が速いように話すこと。基本中の基本は絶対に大切なのだ。
 北海道新聞の筆記試験などを受けつつ12日、 NHK(2次面接)。当初は13日に講談社(1次面接)と朝日新聞(2次面接)がトリプルブッキングし、最終的に朝日新聞、講談社はずらしてくれなかったので講談社をキャンセル。NHKはズラしてくれたため、なんとか無事にNHKと朝日新聞を受けられることになった。
 NHKの2次面接は30分間だ。2・5次面接とセットと言われ、基本的には落ちる人がほとんどいないと聞いていたので肩の力を抜きながら面接へ。「どういうドキュメンタリーを撮りたいか」や「いま地元でドキュメンタリー作るなら何を作る」という一見難しい質問も飛んできたが、先輩から事前に聞いていた質問だったのでクリア。面接の最後にはドキュメンタリーについてのアドバイスを頂くことができた。しかしうまく行ったように見えるこの面接の時、一時期感じていた「映像は合わないのかもしれない」という違和感が膨らむ。自分の頭でドキュメンタリー番組を考えたときに、パッと頭の中に映像が浮かんで来なかったからだ。「人が合わない」という根本的な問題も付随して、NHKの志望度はここで下がり、朝日新聞が第一志望に変わった。
 さて、この日にはひとつ失敗をしている。NHKの面接にあまりにも力を集中しすぎていて、NHKの後に向かった一般企業の面接で必要だったESを持っていくのを忘れてしまったのだ。今だからまだよかったと言えるものの、ひとつの可能性を潰すというトンデモナイことをしてしまったことには違いない。スケジュールの管理はほんとうにしっかりとやらないと、普段手帳なしで暮らせる人でも危険な状態になる。
 翌日13日の朝日新聞の二次試験は正直あまり記憶にない。「おぼっちゃんなの」「君は英語できるの」という変わった質問をされたので、正直に、真っ直ぐとした態度で答えることを意識していた。無事通過することができた。

 落ち込んでいたところへ内々定の電話が…

 そして18日、ついに朝日新聞社の最終面接である。健康診断で採血をされて精根尽きた状態の最終面接の待合室。「平成元年の五円玉」を拾い、これは何かしらの縁があると自信を持って面接会場に。しかしいきなり、その雰囲気に圧倒された。面接会場はいままでの倍以上の広さ、面接官は遠い上に8人もいる。一つひとつの質問が鋭く、たとえば「尊敬するジャーナリストは」という質問でフリーランスを答えたがために、「朝日ではいないの」と突っ込まれ、「松本仁一さん」と答えると「もう朝日じゃないよね」という圧迫。その他の質問は「友達は多いか」「本は読むか」「どこに取材に行きたいか」などの簡単なものばかりだったのに、ひとつの質問で躓いたゆえにタジタジのまま、面接を終えることになった。その日の夜に連絡は来ず、これはもうダメじゃないかと落ち込み、翌日のNHK2・5次面接へ備えることもできなかった。
 翌日はほんとうにとことん落ち込んでいた。朝刊チェックもろくにせず、NHKへ向かう。グループディスカッションでは、「クローズアップ現代」のワンシーンを見た上で「その問題をどう思うか」「ディレクターとして番組をどう考えるか」というテーマでディスカッション。朝日新聞のときと同じように、至極落ち着いて参加した。しかしその後の面接では、まさかの「今日の朝刊」を聞かれ、読んでいないことを後悔。これではNHKもダメだったな、と落ち込みながら家路に着く。
 しかし、その夜マクドナルドでひとりポテトをつまんでいると、朝日新聞社から内々定の電話が。落ち込みは一転、最高の気分へと変わる。この時点で私はNHKがどうであれ、朝日新聞社へ入ることを心で決めていた。
 23日にはNHK最終面接。「震災でどんなドキュメンタリーを作りたいか」「NHKでやりたいこと」などを聞かれる。朝日新聞からの内定という心の余裕からか、終始リラックスしたムードで和やかに面接を終え、それと同時に就職活動を終えることになる。正直なところ最終面接の手応えは完璧だった。最後にして、最高の面接をすることができたと思う。その理由はやはり先述のイメトレの積み重ね、質問に対する自分の考え方のブラッシュアップを繰り返した成果であろう。翌々日、NHKからも無事内々定の電話を頂き、私の就職活動は正式に終了した。
 私は最初、NHKのディレクターとしてドキュメンタリー制作に関わっていきたいという一心で、就職活動に専念していた。しかし就職活動の終盤、面接の途中に第一志望が記者へと転換。「ぶれやすい」とか「流されやすい」ということではなく、自分のこの先40年の人生がかかっている選択なのだ。どちらが自分に合っているのかという問題は、就職活動の中で常に意識しなければいけないことだと思う。ESを書いたりセミナーに行ったりするだけで、どっちが絶対にイイとはなかなか言い切れない。言わば面接もOB訪問である。面接中にもその会社にどんな人がいるのかをしっかり見極めながら、「自分にこの会社は合っているのかな、入ったらどう貢献できるのかな」を常に自問するといいと思う。

 これはゴールでなくスタートだ

 就職活動に対する恐怖心を抱えたとき、「就職活動は人生の四半期決算だ」と、先輩に励まされたことがある。四半期決算、つまり、いままでの人生すべてをまとめ、それをこれからの人生に備えてぶつけていく作業だ、ということ。それを聞いた私は、変に硬く構えすぎず常にリラックスして素の自分を出していくことをいつも心のなかで意識していた。
 もう一つ常に意識していたことは、自分のビジョンをしっかりと持ち続けること。頭の中でいつも「自分は何をしたいんだろう」「なんでなんだろう」という自問自答を繰り返す。そうすると自己分析をノートにまとめ、面接対策をわざわざする時間を省くことができるのだ。余った時間は勉強に充てれば、かなり有効な時間利用になる。記者やディレクターの仕事は、常に考える仕事である。就職活動中からその癖を付けておくことも、きっと大切な事なんだろう。
「ジャーナリストになりたい」という単純な夢を叶えるため、ひたすら突き進んできた就職活動。しかしこれは決してゴールじゃなく、あくまでスタートに過ぎない。就職活動の先にはもっともっと長い道が続いていて、しかも何があるか何もわからない、本番はそこからなのだ。「スタートに立つためのアップ期間」。そう思いながら就職活動に臨めば、長い道のりも息切れせずに、夢への一歩を着実に踏みしめることができるはずだ。


出発点はスポーツ記者になりたいという思い

Fさん/全国紙、通信社内定:
1年間の韓国留学を終えた大学4年の1月に、就職活動を始めた。しかし、なかなか気持ちを切り替えられず、しばらくは久々に会う友人たちと遊んでばかりいた。

新聞か出版か放送か思い悩んだ末に…

Kさん/放送局内定:
1年間の韓国留学を終えた大学4年の1月に、就職活動を始めた。しかし、なかなか気持ちを切り替えられず、しばらくは久々に会う友人たちと遊んでばかりいた。


多浪・既卒就活の末、出版社の編集者に

S君/出版社内定:
浪人時代も長く、いわゆる「マーチ」に届かない私大出身の私は、全国から秀才が集い、かつ高倍率であるメディアの仕事に就くことが果たして可能なのか、という不安があった。

一貫して広告志望だった私の就職活動

Yさん/広告会社内定:
「人のための課題解決がしたい」ただの綺麗ごとかもしれない。でも、これが広告業界を目指した私の心からの本音だった。私は小学生のころ、人と話すことが苦手で内気な自分にコンプレックスを抱いていた。