全国行脚で勝ち得たアナウンサーの内定

M君/地方局内定


 先日、10年前に封をしたタイムカプセルを開けた。その中の手紙には「アナウンサーになっていますか?」という言葉。ついに、幼いころからの夢だった職業に就くことができるのだと、しみじみと嬉しくなった。
 この10年間、常に「アナウンサーになりたい」と思い続けてきた訳ではなかったが、いざ就職活動が始まるにあたって、「自分は何をして生きていきたいのか」と考えたときに、やはり ?アナウンサーだ!? と決意したのが大学2年の冬だった。何か具体的に動き始めようと、3年生になった4月から地元のアナウンススクールに通い始めた。人前に出ることは好きだけれど、もともと喋りがうまい方ではない。関西に住んでいるということもあり、共通語のイントネーションに慣れるのにも時間がかかった。泥臭く、泥臭く、就職活動を続けてきた。しかし、そんな私でも、地方局とは言えアナウンサーとして内定を頂くことができたのだ。自分のような、才能に恵まれたわけでもない、地方在住の平凡な大学生が内定を勝ち取るまでの軌跡をお伝えすることで、同じ道を目指している方々に、勇気を与えることができればと願いながら、筆を執ることにする。

 アナウンサーの就活は夏のセミナーからスタート

 アナウンサーの就職活動は、キー局が主催する夏のセミナーからスタートする。8月〜9月にかけて、フジテレビ、TBS、日本テレビのセミナーに参加した。参加者は驚くべき経歴や面白い特技を持つ人たちばかりで、刺激を受けたし、仲のいい同志ができたこともモチベーションにつながった。
 4社中3社のセミナーに合格した私は、「俺、割といけるんじゃね?」と、少しいい気になっていた。しかし、その幻想は簡単に打ち砕かれる。年々前倒しとなっているアナ試験は、早くも9月19日、テレビ朝日の1次面接から始まった。前半はいい流れにもっていけたものの、最後に「テレビ朝日のイメージって?」と聞かれて、上っ面の印象しか話すことができなかった。予想通り、結果は不合格。企業研究の大事さを痛感するとともに、「たった1分半のためにわざわざ関西から何しに行ってんやろ……」と虚しくなった。その後も、TBS、フジテレビと1次面接で次々に惨敗。日本テレビに至っては、書類落ち。アガってしまい、平常心で面接に臨めていない自分が不甲斐なかった。伸びかけていた鼻はあっけなくもへし折られたのだった。
 その後、地元有利!と意気込んでいた讀賣テレビも、1次面接で敗退。今年は毎日放送、関西テレビではアナ採用がなく(朝日放送は、遅れて翌年3月から募集が始まった)、あっという間に関西準キー局までのアナ試験が終わってしまった。なんだかショックだった。
 そして迎えた、名古屋テレビ(アナ)でついに1次面接を突破。この頃になると、本番の面接を何度か経験した上で、模擬面接練習を何度も繰り返してきた成果が出てきたのか、緊張しつつも、落ち着いて面接に臨めるようになってきていた。そして何より、自分の話すエピソードに自信が持てるようになったのが大きかった。というのも、面接でどんな話を振られても対応できるようにと、大学の講義や、アルバイト、ESの作成、面接の合間をぬって出来るだけ色々な経験をしようと心がけていたからである。面白そうな本を積極的に読んだり、学園祭の模擬店で本気でけようと友人と連日徹夜で作戦を練ったり、かねてから関心を持っていた労働者問題を肌で感じようと大阪・あいりん地区に就労体験に行ったり、スポーツ実況の力を感じた競艇を生で観戦したり……。その甲斐あって、名古屋テレビの面接でも「最近読んだ本について教えて下さい」という質問に、しっかりと答えることができた。集団面接で、他の人のおもしろエピソードを聞き、笑うぐらいの余裕も出てきた。
 しかし、一気に状況が打開されるものではない。一つ進めば、また一つ壁にぶち当たるのが、凡人の運命である。2次試験ではニュース原稿読みを何本もやったりと、少し実践的な色合いが濃くなってきた。そして、私がやらかしてしまったのが「時事用語説明」。面接官の方が言ういくつかの時事用語を、自分なりにそれぞれ30秒以内で説明するというもの。アドリブが効かない私は、一気に浮き足立ってしまう。普段なら余裕で説明できるような「デフレ」という用語にも「あ〜、うーっ……え〜っと………経済が……不景気になること」と、ちんぷんかんぷんな答え。本気で「アナウンサーを目指すのなんかやめるべきだ」と思った。もちろん不通過。試験後、面接官の方に「間違っててもいいから、しっかり喋り続けてほしかった」と言われた。ダメダメな2009年が幕を閉じた。

 東北放送で初めてのカメラテストを経験

 年明け1月から、キー局・準キー局の総合職のエントリー締切に加えて、いくつかの地方ローカル局のES締切が迫ってくる。大学の試験期間とも重なり、私は愚かにも多くの単位を犠牲にしてしまった。そして2月はESの締切がピークになってくると同時に、各局の面接が次々に入ってくる。東京→大阪→熊本→仙台といった大移動もざら。沢山の面接をこなし、度胸がかなりついてきたこともあって、1次面接や2次面接は楽にパスできるようになってきていた。そしてついに、2月26日の東北放送で初めてのカメラテストを経験する。
 アナウンサー試験で天王山となるのが、このカメラテストである。実際に局のスタジオで、カメラに映されながら、原稿読みやフリートーク、実況などをする。このときの緊張感たるや相当なもの。脅すわけではないが、「何が出てくるかわからない、お化け屋敷のようなもの」と評する人がいるほどである。しかし、快感を覚えるのも確か。アナウンサーを目指している人ならきっと、テンション、上がります(笑)。
 東北放送のカメラテストでは、原稿を3つ読んだ後、いくつか質問を受けた。進行役の方が、無線を使って誰かと会話をしている。多分別室でこの映像を見ている人がいるのだろう。どんな方々が、何人ぐらい、どういう思いで自分の姿を見ているのか……想像すると空恐ろしい。そして次に出てきたものは、なんと“丼ばち” !
「30秒考える時間を差し上げますから、これを使って1分間フリートークをしてください」。もうどうにでもなれと思い、がむしゃらに喋った。残念ながら結果は×。しかし、ここでの経験は大きかった。試験後、伊達政宗像を見に青葉城へ行き、奮発して牛タンを食べ、節約のために仙台から関西まで夜行バスで帰った。こんな思い出ができるのも、全国を飛び回るアナ受験ならではだろう。
 3月の平日は、ほぼ毎日、面接や筆記試験があった。トントン拍子で進んだのが、テレビ熊本と、北海道文化放送。テレ熊では、お祭り会場や大学構内の架空リポートを求められ、広い面接室の中に一人立ち上がり、恥を捨てて「は〜い! 今私は○○にいま〜す!」なんて言っちゃったりしながら、やりきった。北海道文化放送のカメラテストでは、野球実況や昔話の朗読が課されたが、楽しんでやることができた。特に、朗読は好きなこともあって、「会心の出来や!」と思った。そう、大切なのは楽しむということなのだと思う。怖々試験に臨むと、不安が確実に声や表情に出てしまう。それよりは、ちょっとくらい失敗してもいいから、折角の機会を楽しもうというスタンスの方がよっぽどいい。これから試験に臨む人には、是非頭の片隅に置いておいてほしい。
 そしてついに、初めての最終面接を迎える。それも3月24日テレビ熊本、25日北海道文化放送という強行スケジュールだった。ようやくんだチャンス。根拠はないが、最低でもどちらかは決まるだろうと思っていた。しかし、結局、どちらも残念な結果に終わってしまう。これはさすがにこたえた。2社の結果待ちの間に受けた、3月29日の九州朝日放送のカメラテストも、集中出来ず、敗退。ほぼ持ち駒を失った状態で、私は3月を終えてしまった。絶望的だった。

 鳴らなかったNHKからの電話

 また、一から始めなければならない。そのやるせなさが私の上にのしかかる。みかけた夢が、やはり縁遠いもののように思えた。4月に入り、NHKの試験が始まった。アナウンサーは1次面接から原稿読みや、時事人名説明があった。しかし、沢山の面接やカメラテストを経験した自分は、もう焦らない。筆記試験も、勉強した甲斐あって予想以上に出来た。作文も納得のいくものが書け、1次試験は合格。東京のNHK放送センターで行われた2次面接も、自信を持って話すことができ、通過。手応えを感じていた。
 そしていわゆる2・5次試験。アナウンサーはカメラテストである。受験者は50人前後に絞られていた。もしかしたら……という淡すぎる期待。当日は、 ?ハイビジョン対応? のメイクまでしてもらえて、かなりテンションが上がった(笑)。アナウンサーたるもの、男性だって化粧をするのである! 大きなスタジオに案内され、重い扉を開くと、スポットライトが自分にカッとあたり、すでにカメラは自分を捉えていた。「失礼します! こんにちは!」大きな声であいさつし、歩を進める。「これが勝負だ」と感じずにはいられなかった。
 現役のアナウンサーの方が司会進行をして下さり、カメラテストスタート。しばらく一問一答をしたのち、フリートークへ。お題は「自分をNHKの番組に喩えると?」というものだった。全く予想していなかったテーマに、心がざわつく。しかしもう、やるしかないのだ。カメラに向かって、笑顔で話をする。ところが1分という要求された時間に対して短く終わりすぎてしまった。〈やってしまった……〉という思いがわいてきた。それからというもの、なんとか挽回しよう挽回しようという思いに支配されてしまい、原稿読みもカミカミだった。終わったか……。面接で行った先々では、観光をしたり、おいしいものを食べたりと、楽しみまくるタイプの私だったが、このときばかりは何もしたくなかった。気だるさとともに、新幹線で帰った。
 翌日。待ち続けるが、やはり鳴らない電話。約束の時間から、1時間、2時間……と、あっという間に時は過ぎていく。自分でも信じられないくらい、とめどなく泣き続けた。涙が止まらないことで、「あ、俺、こんなに悔しがってるんやなぁ……」と理解できた。もうアナウンサーの募集も数える程になってきていた。
 そして4月下旬、内定先企業の試験が始まった。「アナデューサー」という言葉があるが、地方局ではアナウンサーと言えど、アナウンス業務ばかりならず、自ら取材に行ったり、番組を作ったりと、様々な仕事が求められてくる。アナウンサーかつプロデューサーの役割を果たすということである。そういうこともあり、面接では放送局の様々な企画案を問われた。日頃から、番組企画やイベント企画を温めてきた自分としては「来た!」とばかりに一生懸命説明した。カメラテストも、そこそこ納得の出来。1次試験通過。
 そして5月10日。最終面接にパスし、ついに念願の内定を勝ち取ることが出来た。

 全国各地を飛び回るアナウンサーの就活

 さて、私の内定までの道程を読んでどう思われただろうか? もちろんここでご紹介できたのはすべての活動の何分の一かでしかないが、こんなダメダメな私でも、努力を続けたことで、何より身の程知らずにも諦めなかったことで、内定を勝ち取ることができたということは分かって頂けたかと思う。
 就職活動では、無論苦しいことも辛いことも沢山ある。とりわけアナウンサーの活動はかなり早く始まるから、モチベーションを維持するだけでも大変なことだ。全国各地を飛び回るとなると、お金もかかるし、アルバイトも頑張らなくてはならない……。しかし、今振り返ってみると、就職活動中は本当に濃密な毎日だった。先に述べたように、どんなことにも積極的に取り組むように努めたことは、エピソード作りのためという打算は少なからずあったが、生活を充実させることに繋がった。そして何より、就職活動を通じて、沢山の友人ができた。
 キー局の試験のような最初の段階では、信じられないほど多くのアナウンサー志望者がいるが、地方局の試験まで辛抱強く受けていく人となるとかなり限られてくる。だからこそ、地方局の試験をいくつも受けていると、段々見知った顔ばかりになってくる。そんな本気の仲間だからこそ、一緒に飲んで、語って、大笑いして、少し泣いたりして、本気の絆が生まれる。試験前日に飲みすぎ、みんな二日酔いでグロッキーな状態で筆記試験に臨んだこともあった(笑)。この中から、来年度以降も良きライバルとして、同じ仕事をする仲間も多数出てきている。
 人間として成長する、大きな機会となった就職活動。なんだかんだ、楽しかったなぁと今になって思う。就職活動は、ただの職探しではなくて、大学生活を充実させるチャンスにもなり得る。どうか夢に向かって粘り強く取り組んでください! 応援しています!


出発点はスポーツ記者になりたいという思い

Fさん/全国紙、通信社内定:
1年間の韓国留学を終えた大学4年の1月に、就職活動を始めた。しかし、なかなか気持ちを切り替えられず、しばらくは久々に会う友人たちと遊んでばかりいた。

新聞か出版か放送か思い悩んだ末に…

Kさん/放送局内定:
1年間の韓国留学を終えた大学4年の1月に、就職活動を始めた。しかし、なかなか気持ちを切り替えられず、しばらくは久々に会う友人たちと遊んでばかりいた。


多浪・既卒就活の末、出版社の編集者に

S君/出版社内定:
浪人時代も長く、いわゆる「マーチ」に届かない私大出身の私は、全国から秀才が集い、かつ高倍率であるメディアの仕事に就くことが果たして可能なのか、という不安があった。

一貫して広告志望だった私の就職活動

Yさん/広告会社内定:
「人のための課題解決がしたい」ただの綺麗ごとかもしれない。でも、これが広告業界を目指した私の心からの本音だった。私は小学生のころ、人と話すことが苦手で内気な自分にコンプレックスを抱いていた。