好奇心を満たす職業「記者」への第一歩

S君/NHK内定


「ワ、ワ、ワタクシは……」声がうわずっているのが自分でも分かる。初めての面接試験。10月、日本テレビのアナウンサー試験だった。いつまでたっても心を落ち着かせることができないまま汐留の面接会場を後にする。
 大好きな深夜のスポーツコーナーでよく見るアナウンサーに正面から質問され、震えが止まらない。人前で話すことは得意だと思っていたし、自信があった。だが、就職活動の面接においては「自分自身」について話すことが求められる。面接官に見られている、判断されているという感覚。それまで自分自身について短時間で相手に伝える機会などほぼなかった。「悔しい……」。ここから私の就職活動が始まった。

 EXILEの前で思いっきり歌った

 中学2年生の時に見た「9・11」の衝撃。生中継で報じるテレビ画面にくぎ付けになった。世界でとんでもないことが起こっている。中学生の頃から社会の授業が大好きだった。歴史や政治経済の授業で自分の知らない世界に対する「もっと知りたい!」という興味が高まった。今も続くイラク戦争に関する報道を見るたびに、「戦争が起きているんだ」と思う。生まれる前に起こっていたベトナム戦争。沢田教一「安全への逃避」などのジャーナリズムが世論を盛り上げ、当時のベトナム戦争の終結を早めたともいわれている。ジャーナリズムの力で世の中は良い方向に変えることができる。「過去の教訓を生かし、現在・未来へつなげる」ということは字面では簡単なことだが、人類も社会もそう賢くはない。この現状にもどかしさを感じる。日々の記憶を全力で伝える、視点を伝えるジャーナリストになりたい!という思いが自分の中に湧きあがった。目の前の物事に「これは何なんだ?」と疑い、探求するプロであるジャーナリストという職業が、自然と自分のやりたい仕事になっていった。
 消防車のサイレンの音が聞こえれば「火事だっ!」と、その先の現場に向かう。著名人の講演や授業には「この人が世の中を引っ張る魅力はなんだろう?」と参加する。近くで面白そうな出来事があれば直行する。就職活動真っ只中の2月には中学時代から好きだったEXILEが新メンバーオーディションを行っていると知り応募し、実際にEXILEの前で思いっきり歌ってきた。止まぬ好奇心を満たす職業で真っ先に浮かんだ「記者」の仕事。野次馬の代表とも呼ばれる記者になって、世界中の様々な相手、世界に飛び込んでいきたいと強く思った。

 「場数」を踏むことと「仲間」をつくること

 私が第一志望の内定を得、無事に就職活動を終えることができたのは二つの点によるところが大きい。一つは「場数」、そしてもう一つが「仲間」だ。
 キー局のアナウンサー試験に全てエントリーし、面接まで経験することができた。年内に10以上のESを提出し、集団面接・個人面接を受ける。「落ちる」という感覚に耐え、実践で改善することによって経験を積むことができたのは自信になった。
 本屋に行けば多くの大学生がいわゆる「就職活動マニュアル本」を立ち読みしている。私はそのような本に頼るまいと心に決めていたが、多くの仲間が読んでいる以上、どのような内容かは知っておくべきだと思い、数多ある書店のマニュアル本にほぼ目を通した。頼るのではなく知るのである。マニュアル本とは全く別だが、石田衣良『シューカツ!』や漫画『銀のアンカー』も読んだ。これらはいまだ経験したことのない、これから直面する仕事選びの全体像をイメージするのに役立った。実戦とイメージトレーニングの場数を踏むことによって次第に面接への不安はなくなっていった。
 就職戦線は情報管理がカギになる。山のようにある企業情報と締切、それを全て自分一人で管理するのは無理に等しい。説明会や選考から帰ってきては、仲間たちと連絡を取り合い、情報共有することが日課になる。自分と異なる様々な道を目指す同輩たちの話は視野を広げる、良いきっかけになった。ES締切日のオンパレードで毎晩郵便局へ通う日々。時には企業本社管轄地の郵便局まで早朝に遠出することもあった。深夜や早朝の郵便局でギリギリまでESを必死に書くスーツ姿の学生を見ると、「みんな同じ大変な思いをしているんだ」と思わずエールを送りたくなった。
 マスコミ志望者は自分の周りに一人しかいなかったのと、マスコミ試験に付き物の論文試験対策のために、新たな環境に飛び込む。2月〜3月にかけて「マスコミ就職読本実践講座」に参加する。文章は誰かに見てもらわないとうまくならない。制限時間内に書くことと、添削指導で客観的に自分の文章を見ることができた。これまで出逢った誰よりもマスコミに対する思い入れが強い、同じ道を目指すライバルたちから大きな刺激を受けた。

 TBS最終落ちで2日間何も手につかず

 2月から民放の面接が本格化する。テレビ局受験では面接が進むほど各局の行く先々で毎回見覚えのある顔がどこかにあり、友達になっていく。TBSの筆記試験後、会場で知り合った友人8名と昼食を食べに行くことに。自分と同じくテレビ局を受験し続ける仲間と情報を共有する。同じような境遇の仲間たちの話は面白かった。それぞれが強烈な個性を放つ。自分も気後れをしないようにと気を引き締める。面接会場で出逢った全国の仲間たちと再び出逢うのが楽しみだった。「また会おう!」本心でお互いの健闘を祈った。後々、連絡をとってみると、そこで昼食を共にした仲間たちは全員テレビ局に内定をもらっていることを知る。
『筑紫哲也のNEWS23』が大好きだった。報道のTBS。記者志望の私の本命の一つだった。TBSの試験は1カ月続き、最終面接を前に自分の中でほぼ「内定をもらえるだろう」とその気になっていた。
 しかし、そう甘くはない。最終面接のフロアの扉を開けると、異様な空気が場を支配する。それまでの幾多の面接とは全く違う雰囲気を放つ面接官。完全に飲まれてしまった。なにくそ精神で立ち向かったが、内定には届かなかった。
 2月からの民放の面接や説明会といった怒涛のようなスケジュールをこなしているうちにあっという間に3月の中頃を過ぎている。正直、1カ月間のTBS選考からまたスタート地点に戻ると考えると、なかなか立ち直れなかった。2日間何も手につかない状態が続いたが、そうもしていられない。

 講談社の筆記落ちで筆記試験対策不足を痛感

 私の焦る気持ちを落ち着かせたのはゼロからの振り出しではないことに気付いたことだった。他の仲間もいよいよ本番化する4月を前にマスコミと一般企業を合わせてすでに30回近い面接を経験していた。面接当初にあった、自分を良く見せようという気負いはなくなっていた。使い慣れない言葉は使わないし、無理に相手の機嫌を取るようなこともしない。自信が確実に自分を変えていた。
 3月の講談社、ダイヤモンド社の筆記試験で立て続けに落ち、筆記試験対策が足りないことに気付く。「こんなはずでは……」。面接に行けなければ話は始まらない。ニュースは毎日、夜のテレビで見る習慣があったので時事問題について不安はなかったが、比重の高い一般教養については明らかな勉強不足だった。各社が採用人数を削減するのに加えて、時事通信社が採用を見送り、記者志望者にとっては厳しい年となった。気を引き締めなくてはならない。4月まで図書館に缶詰め状態で徹底的に勉強する追い込みが続いた。
 4月を迎えると息つく暇もない日々が続く。他業種で興味のあった金融や総合商社の筆記試験や面接の予定が一日に3〜4件入る。移動時間は地図を片手にスーツ姿で常に走り、電車の中で休む。4月4日が記者志望者にとっての山場。午前中はNHKの筆記、そして午後は読売新聞社の筆記だった。前日の4月3日は日本経済新聞社の筆記試験で東京ビックサイトまで行き、帰ってくるのは夜遅くだった。頭も体も疲労困憊で4月に入って直前勉強する時間はなかった。
 いよいよ面接のステップへと進む。本命である記者職のあるテレビ局や新聞社では自分自身について、やりたいことについて素直に伝えることができた。記者への想いが自然とれてきていることに気がついた。そのような面接ではまず落ちることはない。4月中旬、他社の選考も佳境に入る。最大手総合商社の最終面接のステップに進むことができ、大きな自信になった。

 NHK面接会場で高校の先輩に出会う

「就職活動には縁や運がつきもの」とは聞いていたが、本当にあるとは。NHKの2次面接会場でちょうど1年前の高校の同窓会で出逢ったアナウンサーの先輩に出逢う。喜びのあまり思わず声を掛け、後日連絡をしてみると、快く就職活動についての相談に乗ってくれた。自分の目指す職場で活躍する先輩の言葉は大変心強く、就職活動へのモチベーションがさらに高まった。NHKの1・2次面接は現場の記者が一対一でじっくり話を聞いてくれる。そして、現場の経験談も語ってくれた。面接官の生き生きと話す表情と所作を見て、「こんなストーリーが語れる社会人になりたい」と思うほど楽しく面接が過ぎていった。
 NHKの最終面接。ふかふかとしたじゅうたんの長テーブルの先に座る面接官はテレビ画面でよくみる顔があった。その時、10月の初め日本テレビでやった初めての面接の光景が思い浮かぶ。当時落ちた経験から、「テレビ局の職場とは普段画面で見る人と一緒に仕事をし、自分も出る可能性のある職場なんだ」ということを学んだ。今回は自分の高鳴る気持ちを落ち着かせることができる。面接で話せる内容はそれほど多くない。肝心なのは振る舞いや相手に向ける姿勢。これは一朝一夕の付け焼刃ではどうすることもできない。普段の自分の過ごし方や思いが現れる。本気で記者になりたい!という思いを全身でぶつけるだけだった。
 4月19日、携帯電話から手が離せない。他社の面接中も常にNHKからの電話を待つ頭でいっぱいだった。「ピロピロピー!」鳴った。不思議と冷静に電話をとることができた。内定をもらった嬉しさよりも、これからの記者としての自分の一歩が始まった瞬間に、メラメラと熱い闘志が湧いてくる。静かにそして確実に、ガッツポーズをした。面接数は就職活動を通して63回を数えていた。

 就活にマナーはあるがルールはない

 最後に、自分の就職活動は色々な人に支えられていた。大学の仲間、ゼミの仲間、面接会場で出逢った仲間(彼らとは今後もどこかできっと逢うであろう)。人生の大先輩であるゼミの教授や寮の寮長さん副寮長さん。愚痴をこぼし合い、いつでも気軽に話せる寮の同輩、夜中まで相談に乗ってくれた先輩、応援してくれた彼女。激励メールをくれ、経験を教えてくれた兄、いつも状況を気にかけてくれ、栄養をつける食料を送ってくれた両親……多くの支えがあって、この長い就職活動を乗り切ることができた。素直に感謝したい。
 正直言って今の就職活動をめぐる環境は極めていびつだと思う。オセロの白石が一斉に黒石に変わるように、3年生の途中からスーツ姿に染まっていくキャンパス。学生の本分である授業になかなか行けない状況。次々と送られてくる無機的で冷たいメール……。「一体何なんだこれは?」と疑問に思うことも多々あった。多くの人がそう思っていながらも受け入れざるを得ないのが現状だ。社会に大きな変化が起こらない限り、この状況は今後も続くだろう。他にも将来への選択肢はたくさんあるだろうが、就職活動を選択した以上、この現実とまっすぐ向き合う必要がある。
 就職活動にマナーはあるが、ルールはない。周りに染まらず、自分らしく突き進んでいくべきだと思う。私は、そのようなおかしな姿を仲間や先輩との話で「笑い飛ばしてやる」くらいの気持ちで日々を過ごすようにしていた。同じ境遇の人間は近くにいくらでもいるはずだ。
 好きな映画の一つ、映画『ビューティフル・マインド』に、「人生に確かなことなんてない。それだけが確かなことなんだ」というフレーズがある。全くその通りだと思う。就職活動は将来への第一歩に過ぎない。これからが勝負。
 将来何が起こるかなんて分からないけど、とにかく自分を信じて突き進むしかない。その先に何を見据えるかが重要だ。自分のくだした判断には自信と責任を持てるような強い心があれば、この先どんな山も乗り越えていけると信じている。


出発点はスポーツ記者になりたいという思い

Fさん/全国紙、通信社内定:
1年間の韓国留学を終えた大学4年の1月に、就職活動を始めた。しかし、なかなか気持ちを切り替えられず、しばらくは久々に会う友人たちと遊んでばかりいた。

新聞か出版か放送か思い悩んだ末に…

Kさん/放送局内定:
1年間の韓国留学を終えた大学4年の1月に、就職活動を始めた。しかし、なかなか気持ちを切り替えられず、しばらくは久々に会う友人たちと遊んでばかりいた。


多浪・既卒就活の末、出版社の編集者に

S君/出版社内定:
浪人時代も長く、いわゆる「マーチ」に届かない私大出身の私は、全国から秀才が集い、かつ高倍率であるメディアの仕事に就くことが果たして可能なのか、という不安があった。

一貫して広告志望だった私の就職活動

Yさん/広告会社内定:
「人のための課題解決がしたい」ただの綺麗ごとかもしれない。でも、これが広告業界を目指した私の心からの本音だった。私は小学生のころ、人と話すことが苦手で内気な自分にコンプレックスを抱いていた。