広告に絞った就活、無事ADK合格
S君/同志社大学 ADK・大広・ME内定

  かなり早い段階から広告業界一本に絞って就活を行ってきたS君。
  初戦では気合が空回りしたものの、その後は目標を目指してまっしぐら。
  見事、第一志望のADKを始め広告3社の内定をGETした。



広告会社3社から内定を頂く

 最終的に、ADK、大広、マッキャンエリクソン(以下ME)から内々定を頂いた。内定先は、就職活動開始当初から第一志望だったADK。広告会社は、国内上位4社と外資系2社のみ応募。ADKは絶対的な第一志望であり、電博には興味が持てなかった。自分の価値観や望む働き方を徹底的に考えた結果、ADKでなければならないという結論に達したからだ。かなり早い段階から広告業界に絞って不安がなかったかというと嘘になるが、それでもこのような結果が出せたのは、先輩や友人、OB訪問でお世話になった方々のおかげだと思っている。

 私の就職活動が動き出したのは大学3年の8月、夏休みに参加したインターンシップから始まった。元々、新聞に興味があったので、某全国紙のインターンシップに参加することにしたのだ。2週間の研修で現場の記者職を体感し、「伝える」ことの大切さや楽しさを肌で実感する。しかし、新聞だけでなくもっと幅広くコミュニケーションビジネスがしたいという思いが芽生え始め、様々な手段を用いて「伝える」ことができる広告会社に興味を持つに至った。

 それから広告業界に関する書籍や業界本、各社のホームページなどを見て、どんどん惹かれていった。その中で「良い会社だな、ここで働きたい」と感じたのがADK。正直、この時点では直感。もちろん最後まで直感を理由としていた訳ではなく、企業研究やOB訪問を重ねた結果、自分の価値観と合致している部分が多いこと、自分が会社に求めるものを多く持っていたこと、さらに尊敬する先輩社員がいたことでADKが良いと思えた。

 広告会社の選考が始まる前の12月から3月ぐらいまでは、弱点の面接を克服するために色々な会社の選考を受けた。その中でも特に役に立ったのは、人材業界の面接。私の人間性について深く掘り下げるような質問を浴びせてくる上、親身に相談に乗ってくれ、就職活動の核と言われる自己分析は急速に進んでいった。広告会社の選考が始まる頃には、何を聞かれても怖くないという段階までにもってくることができた。そこから生まれる余裕が自信を生み、表情や姿勢などの非言語的な部分にも良い影響を与えていたように思う。面接での合否の基準は、企業、面接官によって区々だが、印象による部分も大きいのは間違いない。「自己分析」という言葉は如何にも「就活」という感じで嫌いだが、本当に大切なことだと思う。


初戦の博報堂は気合が空回りし敗退

 広告会社一発目は、博報堂。舞い上がっていたため、気合が空回り、あれこれ伝えようとし過ぎた。OB訪問の際、ある社員の方がおっしゃっていた「面接もエントリーシート(以下ES)も広告と同じだ」という言葉を思い出した。あくまで第一志望はADK、切り替えて反省を次へ活かそうという姿勢だけは忘れないようにした。

 ネットなどでADKの書類通過連絡は、16日頃じゃないかという憶測が飛び交っていたので、出先から携帯でリクナビを小まめにチェック。来い来いと思っているうちはこないもの。それでも出先からの帰宅中、癖となったリクナビチェックを何気なくしてみると、本当に結果が来ていた。インターンシップでは書類で落ちたため、また書類で落ちないように様々な努力、工夫をしたので本当に嬉しかった。

 ADK1次面接(3月26日)は、日時を自分で予約。少しでも情報が欲しいと思い、2日目の12時半に。なぜ12時半かというと、博報堂の面接は13時からにして失敗したからだ。面接には運は必要だが、それを手繰り寄せるのも自分。面接の内容といえば、終始雑談。学生3名対面接官2名の集団面接。面接官は私以外の2名に「ESの字が綺麗、汚い」という話をしていたのに、私に話が振られたときにはなぜか「直筆でラブレターを書いたことがあるか」という質問に変わっていた。第一志望の面接で昔書いたラブレターについて語った。その後も「押切もえとエビちゃんどっちが好き」と聞かれたりして、志望動機も学生時代頑張ったこと、自己PRさえも聞かれなかった。

 このままでは終われないと思って焦っていると、最後に質問があればどうぞと面接官。すかさず手を挙げ、とにかくADKへの熱い想いをしっかり伝えた。博報堂の面接が活かされていると思った。が、予想外の面接だったので、結果がくるまでは不安な日々が続いた。

 ME筆記試験(3月28日)。『マス読』で昨年の内定者の数をみてみると、730名の応募からたったの6名。さらに採用実績校を見ても、同志社はなし。もはや記念受験。が、なんとか通過。

 ADK1次面接の結果が来たのは、3月30日。翌日は、電通の筆記試験だったのでSPIの勉強をしていたが、ADKの結果が気になってしまい、全く手がつけられない。やはり来い来いと思っているうちは来ないものだ。忘れた頃にパソコンを開くと通過連絡がきていた。少し遅れて大広からES通過の連絡をもらう。ADK、大広、マッキャンエリクソンの3社が着実に進みだし、3月中旬からノリノリ。広告業界に入れるだろうかという不安なんて忘れていた。


確実に面接の力がついてきたと実感

 4月9日はMEのグループワーク(以下GW)とADK2次面接。朝からMEのGW、得体の知れない課題にグループで挑む。「難解な課題を目前にした時にどのような反応を示すか」といった点を主に見ていたらしい。

その後、前回同様12時半に予約したADK2次面接へ。今回は、面接官2名に対しての個人面接。時間は約20分でESからいくつか質問をされたが、内容はほぼ雑談。このまま終わるかなと思った時に志望理由を聞かれた。確認のような感じ、ESをかなり読み込んでいるようだ。可もなく不可もなくといった感じで面接終了。

 大広1次面接(4月11日)。5人1組の集団面接、いきなり人事部長が登場。挙手制で「好きなクライアントに好きなように広告キャンペーンをプレゼンせよ」、「あなたがTVプロデューサー兼メインで番組をするならどうするか」といった質問がされた。1次面接が山場らしいので一番に手を挙げて応える。意外に反応が良く、強面の面接官の方が手を叩いて爆笑していた。その他、卒論のテーマが人事についてなのに希望職種の欄に人事がないのはなぜか聞かれた。業界研究と大学での専攻の両方をアピールできるチャンスだと思い、自分の考えを真面目に語った。確実に面接の力がついてきていると感じた。

 ME1次面接(4月13日)は、面接官3名と個人面接。いきなり自己PRと志望理由を聞かれ、緊張した。外資系と国内系広告会社の違いについて聞かれ、クリエイティブに違いがあると感じていたので理由と合わせて述べると「鋭い視点だ」とほめて頂いた。業界本やネットなどの一般論に流されることなく、自分の考えを常に昇華してきた結果が出てきていると思った。次回の英語レベルチェックの次が最終。事実上の最終進出で震えた。

 ADK筆記試験(4月18日)の科目は、国・数・時事・英。英語の配点が全体の半分で、英語が得意な私はラッキーだった。時事は、『新聞ダイジェスト』を中心に対策。結果は、21日土曜、一緒にADKを目指していた友人からのメールで知った。正直、こんなメールを送ってくるなと思った(笑)。


4月中頃、広告に絞ってまっしぐら

 4月中頃になると、内定を数社貰っていたり、既に就職活動を終えていたりする友人も多数いた。私は広告に絞り切っていたこともあり内定はなし。しかし、夢のため、やりたいことのために頑張っていたので焦りはなかった。むしろ、ポンポン進む選考に楽しみさえ感じていた。それも12月から3月ごろまでの他業界の選考で練習を重ね、一つ一つ弱点を克服してきた結果だった。色々な切り口で自分をPRしてみて、どうすれば一番伝わるかを試した。常に正直に思っていることを出してきたからこそ軸をぶらすことなく順調にやってこられた。

 大広2次面接(4月20日)は、2対1の個人面接。自己PRと志望動機を聞かれ、それについてさらに質問をされる。「大広を動詞で表せ」という変わった質問も。答えよりも会話のテンポや理由の方が重要であると思い、考え込まずに応えた。業界研究、企業研究の度合いを確認するような質問もされた。帰りのエレベーターで人事部長と乗り合わせ、帰り際に深々と頭を下げたのが功を奏したのか、無事通過。

 MEの最終面接(4月24日)とADKの3次面接(4月25日)がそれぞれ東京本社で行われた。まずMEは、役員4名対3名の集団面接。基本的な質問に加え「広告代理店の存在意義とは」「広告に影響を受けた経験は」といった広告会社らしい質問。これまでの面接では、広告については聞かれなかったので、正直嬉しかった。役員の評価が良かったらしく、当日中に連絡を頂いた。

 しかし、あくまで翌日のADKが本命。気持ちを切り替えて、挑んだ。内容は、他社受験状況や学生生活と基本的なもの。本社ビルの写真を撮って帰ろうかと思ったが、もう一度ここに帰ってくるのだと決意し、最終選考までのお預けにした。

 ところが事件は起きた。ADKを一緒に受けていた友人らには、ゴールデンウィーク前に最終への案内がきたのに私には連絡がない……。今までADKの通過連絡は一括だったので落ちたのだ(と思った)。呆然として信じられず、これが就活かと思った。自分の軸からいえばMEが第2志望だったので、MEにお世話になる旨を人事の方にメールにて伝えた。連休中は何もする気にならず、大広の選考の前後も遊びまくっていた。ADKを諦めた時だった。

 大広3次選考は、筆記試験とGWの総合評価。筆記は難なくできた。GWは、とにかく楽しもうと思った。その日のうちに最終への連絡を頂く。

 大広最終面接(5月8日)は、役員5名との個人面接。面接直前、人事部長と他社受験状況などについて話す。ADKは落ちたと思っていたので、マッキャンと大広で迷っていると伝えた。面接は、確認のような感じで終わった。


手が震え、声が裏返った

 大広の面接後、授業のために学校へ戻った。友達とランチをしている時に着信あり。マッキャンかなぁと思い何気なく出てみると、なんと……、

「アサツー ディ・ケイ人材開発局です」
「え……?? ええええ!!!!!」

 ってな感じで、最終への案内を頂いた。確実に補欠通過ではあるが、最終に残れば関係ない。手が震え、声が裏返り、興奮した。正直、人事の方が何を言っているのか分らなかったが、夢中でメモを取っていた。

 5月12日、就職活動最終日。東京へ向かう新幹線の中、いつも天気が悪くて見られなかった富士山が、はっきりととてもキレイに見えた。東銀座にそびえるADK松竹スクエア。ついにここまで来たと、思わず【る】こぶし【/】拳【び】に力が入る。面接は、役員6名対学生3名。直前に人材開発局長さんがアドバイスをくれ、冗談を言ってリラックスさせてくれた。

 広い会議室で社長を含めた役員らに大きな声で自己紹介。「自分の最大のセールスポイントを志望職種と絡めて教えてください」「紙媒体は斜陽だと言われているがどう思うか」「外資クライアント担当営業職希望とあるがなぜか」など変わった質問はなし。ふと「今、ADK最終面接か。インターン落ちてからよく這い上がってきたなぁ」と時間が止まったように感じた。

 最後に他社受験状況を聞かれ、就活開始時からずっとADKが第一志望であるとしっかり伝えた。面接後、一緒に受けた人たちと近くのカフェで少し喋り、また会おうと言って別れた。

 内定の連絡を頂いたのは、5月15日。学校のゼミ準備室でプレゼンの準備をしている時、何やら見覚えのある番号から着信があり、鼓動が早まる。ADKだ。手が震えた。人事の方は少し焦らすようにして「おめでとうございます! 内定です!!」と。内々定の電話をもらった時の興奮は、やはり大広、MEの時とは比べ物にならなかった。準備室にはゼミの友人らが多くいたので、全員とハイタッチをした。その後、OB訪問でお世話になった方々20名、仲間、両親へ報告をした。

 結局、採用活動は「一緒に働く仲間探し」であると考える。企業側は、何者かわからない、信用できない人は採用しないと思う。短い面接の場で「自分はこんな人間である」と説得力を持って語れなければならないし、企業側はあなたの話からどのような活躍ができるかを見抜こうとする。相手を納得させるためには、具体的事例を提示しながら説明する必要がある。

 また、ESを書く時も、読み手に会ってみたいと思わせるために、自分のどの部分をどのように見せるか考えなければならない。そうすると必然的に自己分析が必要となる。出発点はあくまで自分で、それを会社の価値観等に結び付けていく。結果、自分に最もフィットした会社が導き出される。これは、広告業界に限らず言えることだと思う。

 そして最後に一言。広告代理店にコネ入社が多いことは事実。しかし、私のように全くコネがない学生でも内定を取れるのもまた事実。努力すれば、入れる業界だと思う。コネ入社の内定者を僻まずに、前向きに頑張ってください。


出発点はスポーツ記者になりたいという思い

Fさん/全国紙、通信社内定:
1年間の韓国留学を終えた大学4年の1月に、就職活動を始めた。しかし、なかなか気持ちを切り替えられず、しばらくは久々に会う友人たちと遊んでばかりいた。

新聞か出版か放送か思い悩んだ末に…

Kさん/放送局内定:
1年間の韓国留学を終えた大学4年の1月に、就職活動を始めた。しかし、なかなか気持ちを切り替えられず、しばらくは久々に会う友人たちと遊んでばかりいた。


多浪・既卒就活の末、出版社の編集者に

S君/出版社内定:
浪人時代も長く、いわゆる「マーチ」に届かない私大出身の私は、全国から秀才が集い、かつ高倍率であるメディアの仕事に就くことが果たして可能なのか、という不安があった。

一貫して広告志望だった私の就職活動

Yさん/広告会社内定:
「人のための課題解決がしたい」ただの綺麗ごとかもしれない。でも、これが広告業界を目指した私の心からの本音だった。私は小学生のころ、人と話すことが苦手で内気な自分にコンプレックスを抱いていた。