孤独な面接で勝ち取った
技術職内定

I君/東海大 放送局技術職内定


1月から就職活動スタート

 高校の頃から、葉書職人・FAX職人と呼ばれるような、ラジオ人間だった私は、そのうち「自分で、番組作りにかかわりたい」と思い、放送業界を目指した。
 1月後半、大学の期末試験が終わるか終わらないかといううちに、テレビ朝日の書類の提出で、就職活動の幕が開いた。
 2月10日、フジテレビヘ面接の日時予約に行く。帰りのバスを待っていたら、隣にいた女の子達が「面接のときの服は、これでいいかなあ」と、話しているのが聞こえ、こいつらには負けないと、心に誓う。
 2月18日。テレビ朝日で、最初の面接。受験しているときは、それほど感じなかったが、振り返れば、控室に同窓の友人がいたことすら気がつかないほど緊張していたようで、面接が終わった途端、その糸が切れたのか、その後、高熱を出して3日間寝込む。グループ面接なのに、面接官が、持ち時間の大半を、私に費やしてくれ、これは脈ありと思うが、結果×。マスコミの壁の厚さを早速知る。
 2月22日。テレビ東京で筆記試験。熱は下がったが、英語が全く駄目で、当然不合格。
 2月23日。フジテレビの面接。面接前のエントリーシート記入が、時間不足で埋められず、面接も緊張して、まともに話せずで、諦めていたら、同夜、電話が鳴り、驚愕する。
 2月24日。フジテレピ筆記試験。英語の分を一般常識と、論文で挽回。一般常識の問題の面白さに、試験を受けながら、ほほ笑んでしまった。
 2月25日。瀬戸内海放送の筆記試験を東京で受ける。簡単な一般常識で、難なく通過。
 3月2日。フジテレビ2次面接。そろそろ面接にも慣れてきた。無事通過。
 3月3日。フジテレビ3次面接と健康診断。私は面接が先だったが、健康診断が先だった人は、血を抜かれた後に面接ということで、辛かったようだ。面接も「咋日の新聞の一面は?」や「テレ朝のダイオキシン報道をどう思うか」という具合に、通り一遍のものではなく、終了後、どっと疲れが出たが、苦労の甲斐あり通過。
 3月7日。朝日放送(ABC)面接。ラジオがやりたいと言ったら、深く聞かれ、テレビとごちゃまぜにした答えをしてしまう。ラジオとテレビは似て非なるものと認識。

フジ実習で技術志望を再確認

 3月8日。フジテレビでスタジオ見学会。この日は選考と全く関係なく、講演を聞いた後、スタジオで番組制作実習をする。あまりの楽しさに、一瞬だが試験を忘れ、また「もし、フジと緑がなくても、絶対どこかで、再びこの機械を操作するんだ」と、心に誓った。
 3月9日。フジテレビ最終面接。同窓の友人も、この面接に残っていたため、面接前に「恐らく、採用はどちらか一人だけど、恨みっこなし」と、声をかける。役員から「エントリーシートが書きかけで終わっているけど、この先は何を書こうと思ったの」と聞かれ、半月前に書いたことなど、既に忘れかけていたので焦る。しかし、自分の力は全て出し切れたと思い、人事の人に「悔いはありません」と言い残して、お台場を去る。この日、ABCも結果待ちだった。どちらも電話は鳴らなかったが、不思議と悔しさはなかった。
 3月11日。気を取り直して日本テレビ面接。本当は12日だった試験を、頼み込んでずらしてもらった。好きな番組は?「ミュージックステーションです」と答えたのに、無事通過。
 3月12日。午前にニッポン放送グループ面接。ABCの教訓を生かし、かなり自信をもって臨めた。午後、CBCの筆記及び面接。筆記はSPIで難なくこなすも、面接で質問にうまく答えられない。結果×。
 3月14日。日本テレビ筆記試験。課題の英語も含め、完璧と言い切れる出来なのに、結果×。ここの筆記は、性格検査で落とすとか、余りよい話を聞かない。プライドの高い日テレだけに、面接の日程変更が響いたか、と自分を納得させる。
 3月15日。瀬戸内海放送1次面接。地方局ということで、土地に縁があるのかを聞かれ、友人が住んでいて、ビデオを送ってもらって番組を見たことがあると答えたら、その番組についての感想を求められた。
 3月18日、ニッポン放送からの封筒が届く。2次試験の案内だと思っていたのが、結果は×。後で、面接で70人から、一気に6人に絞ったと聞き、呆然。一瞬、放送業界を諦めようかとも思うが、この後しばらく試験がなかったので、気持ちをリフレッシュし、再起を図った。
 4月3日。今日になって、瀬戸内海放送から2次面接に来てほしいと連絡がある。その面接は7日。しかも場所は高松。連絡ミスで、通知が遅くなったと詫びられたが、こっちも考えてしまった。7日は東京で文化放送の筆記試験と重なっていた。文化放送の志望順位は高かったので、日程変更をお願いするも、却下され、泣く泣く文化放送を辞退する。その代わり「あのとき文化放送にしておけば」とは言うまいと、心に決めた。
 同日、DirecTVの会社説明会。余り興味はなかったが、出席だけでもと参加する。終了後、アンケートに記入させられる。
 4月6日。DirecTVより電話があり、履歴書を是非提出してほしい、という趣旨の話。説明会で多少の興味は湧いたので、快諾した。どうやら、説明会のときの書類を見て、脈がありそうな人に、電話をかけていたらしい。
 4月7日。瀬戸内海放送2次面接。面接の後、SPIと来訪者カードを書かされ、志望動機、やってみたいこと等を記入する。
 4月10日。DirecTVに履歴書を持参し面談。面接と違い、殆ど面接官から質問はなく、逆に私が質問をする形式で、少し戸惑う。面談は基本的に全員通過とのことで、○。
 4月15日。瀬戸内海放送3次面接。一緒に待機していた受験者の話を聞くと、技術職は既に私だけに絞られているらしく、そのことが逆にプレッシャーになるが、無事通過。
 4月16日。中京テレピで筆記及び面接。筆記で企画書を書けと言われ、あえなく玉砕。
 4月17日。関西テレビ筆記試験。雑学とでもいうべき、広範な問題が出題されるが、自称雑学王の本領発揮で、無事通過。
 4月19日。DirecTV1次面接。質問は通り一遍なのだが、雰囲気が今まで受験してきた放送局と違い、違和感を覚える。でも通過。
 4月23日。DirecTVでSPI。既に実戦慣れしており、無事通過。
 4月24日。関西テレビ1次面接。面接官を前にして久々に緊張したが、終わってみれば他局の試験の話までネタにするほどの余裕で、無事通過。
 4月28日。DirecTV最終面接。事前の話では、最終の前にもう一度と聞いていたのに、なぜか最終だった。面接官の質問に、不愉快なものが幾つかあった。私の体質に合わず、納得の不合格。

たった一人の最終面接にプレツシャー

 4月29日。瀬戸内海放送最終面接。2次面接時に書いた来訪者カードと、最初に出した履歴書の希望職種が異なっているのを指摘されるが、しっかり説明し、納得してもらえたと思う。しかし、副社長から、その職種をどう思っているかと質問が飛び、私の答えに納得していただけず、延々突っ込まれる。さらに、技術職は私しか残っていない。つまり、落ちたときは、他人との比較ではなく、私自身を否定されることになるという、大変なプレッシャーの中、20分の予定の面接が45分も続き、心底疲れた。
 5月7日。瀬戸内海放送意思確認。私が東京出身で、本当に高松に来てくれるのか、という趣旨の確認。もちろん0Kする。
 5月8日。関西テレビ2次面接。フジの最終で一緒の思いをした知人と再会し、いろいろ情報交換をする。面接は、志望動機すら聞かれず、雑談のような内容で笑いながら突破。
 5月10日。瀬戸内海放送から、待ちに待った電話がある。安心するとともに、気持ちを引き締め直す。
 5月14日。関西テレピ。午前に筆記試験。専門知識を見る中にも、アイディアを試している問題があり、大阪らしさを感じる。午後の面接では、その解答のユニークさに注目してくれ、またもや笑いながら面接をこなす。同夜、大阪の夜を友人と楽しんでいると、電話があり、再ぴ大阪に来ることを求められる。
 5月15日。東海ラジオ筆記試験。前夜、羽目を外した影響で、試験中も眠気が襲ってくる。しかも、かなりの分量の論文であったが、幸いテーマが楽勝だったので、何とかこなす。
 5月18日。関西テレビ最終面接。なんと、ここでも技術職は既に私だけに絞られており、瀬戸内海放送の最終と同じ重圧に潰されそうになる。「何でフジは最終で落ちたと思う?」というキツい質間も何とか答え、面接室を後にする。
 控室で数分待たされた後「内定です」と告げられたが、余りに唐突で、冗談かと思い「本当ですか?」と聞き返してしまった。
 同夜、瀬戸内海放送に、断りを告げ、翌日届いた東海ラジオ2次試験の案内も辞退し、5月20日、関西テレビで健康診断の後、誓約書に判をつき、就職活動を終えた。

 試験突破は、他人との比較でなく、自分との闘いだと、内定までを振り返り、強く感じました。弱気な気持ちは絶対に禁物です。何社か受験して、結果が思わしくなくても、そこで諦めないでください。その失敗を次の面接に生かすことが大切です。試験を楽しむくらいの余裕をもち、自分に自信をもって挑んでください。就職試験に定石や絶対はありません。しかし、もしあなたが、自分の「個性」を把握して、他の人に負けない「何か」をもっているなら、自ずと結果はついてくるはずです。
 みなさんの健闘をお祈りします。


出発点はスポーツ記者になりたいという思い

Fさん/全国紙、通信社内定:
1年間の韓国留学を終えた大学4年の1月に、就職活動を始めた。しかし、なかなか気持ちを切り替えられず、しばらくは久々に会う友人たちと遊んでばかりいた。

新聞か出版か放送か思い悩んだ末に…

Kさん/放送局内定:
1年間の韓国留学を終えた大学4年の1月に、就職活動を始めた。しかし、なかなか気持ちを切り替えられず、しばらくは久々に会う友人たちと遊んでばかりいた。


多浪・既卒就活の末、出版社の編集者に

S君/出版社内定:
浪人時代も長く、いわゆる「マーチ」に届かない私大出身の私は、全国から秀才が集い、かつ高倍率であるメディアの仕事に就くことが果たして可能なのか、という不安があった。

一貫して広告志望だった私の就職活動

Yさん/広告会社内定:
「人のための課題解決がしたい」ただの綺麗ごとかもしれない。でも、これが広告業界を目指した私の心からの本音だった。私は小学生のころ、人と話すことが苦手で内気な自分にコンプレックスを抱いていた。