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2013年6月アーカイブ

当時逮捕された男性に接触
集団レイプ事件被害女性の告白(続)

98年に大騒動になった帝京大学ラグビー部集団レイプ事件。被害女性の告白を今回も続けよう。前号発売後、当時逮捕されたKに接触。PTSDは今なお続き、彼女の精神的苦闘は続く。(月刊『創』2012年1月号より)

はじめに(本誌・篠田博之)

 前号に続いて帝京大学ラグビー部集団レイプ事件の被害女性の日記を掲載しよう。事件自体は12年前だが、集団レイプという女性にとっては耐えられない体験が、どんなふうに当人に被害を及ぼすか考えるために意味があると思うからだ。

 前号を読んでいない人のために少しだけ説明しておくと、このA子さんは当時19歳。好意を寄せていた大学生Kに誘われて97年11月13日午前零時過ぎに待ち合わせ、カラオケボックスに行った。そこには同じラグビー部の部員が10人以上おり、既に飲み会が始まっていた。
 そのうち彼女は皆が飲んでいたのと同じフロアの別室でKとSEXを行うのだが、途中で気分が悪くなったと言ってKが去った後、別の男が入ってくる。そして複数の男たちに脅され、レイプされたというのだ。
 翌朝解放されたA子さんは、その後警察に被害届を出し、98年1月になってラグビー部員と同じカラオケボックスでバイトをしていた独協大生らを含めて計8人が逮捕された。彼らは実名・顔写真入りで連日大々的に報道され、大きな社会問題になったのだった。
 最初に逮捕された5人が勾留満期になる直前に示談が成立し、学生たちは不起訴処分となった。事件の詳細は解明されず、A子さんとすれば、その夜いったい何があったのか、Kが事前にそういう事態になることを認識していたのかわからないままだった。彼女はその後、その体験がトラウマとなって精神科医の治療を受けることになるのだが、今回、12年ぶりに事件の真相を解明し、それに立ち向かおうと決意したのだった。
 そしてここからが今回の記事内容になるのだが、Kに12年ぶりに接触を試みたのだった。以前交際していたから、彼女はKの自宅を覚えており、まず手紙を書いてみようと考えた。しかし、彼女からその相談を受けていた私としては、相手が「何をいまさら」と反発するのが予想できた。問題がこじれると、A子さんをさらに精神的に追い詰めることになるのでは、と心配した。
 だから、まず編集部からKに接触してみることにした。というのも、事件当時、本誌の取材で私はA子さんにもKにも会って話を聞いており、面識があったからだ。しかもKの印象は悪くない、まさに好青年というものだった。そこでまず、Kに会いたいという手紙を書いたのだった。
 通常ならレイプ事件の被害者と加害者が再会するなどありえないことだが、前号のA子さんの日記を読めばわかるように、彼女のKへの思いはなかなか複雑だ。Kへの不信の念と、それでも信じたいという思いとが、交錯しているのだ。
 集団レイプの現場にいなかったにもかかわらず逮捕されたことでわかるように、この事件へのKの関わりはなかなか微妙だ。本人は、酔いつぶれて寝入ってしまい、集団レイプがあったことは全く知らなかった、後で友人から聞いてびっくりしたと供述した。つまり逮捕自体が誤認だったという主張だ。それが本当ならKは冤罪の被害者ということになる。 
 しかし、なぜ彼が逮捕されたかというと、A子さんが、実はKもグルだったのではないかと疑ったからだ。警察も当初、事前共謀という線で捜査を進めていたという。ただ結局、立件は難しいということになった。恐らくA子さんの内面にそのことはひっかかっていて、真相を直接Kに質したいと考えたのだろう。
 K宛てに書いた手紙を出して数日後、彼の父親から私に電話があった。予想通り、今さら事件を蒸し返して何になるのかという反発の返事だった。印象に残ったのは「息子も大学を退学となり、十字架を背負って生きているのだ」という言葉だった。あれだけの事件になったのだから、加害者とされた側も十字架を背負わされたのは確かだろう。事件は不起訴となったが、実名・顔写真入りの大報道は、裁判所がくだすべき以上の大きな処罰を当事者たちに与えたに違いない。
 それから何日かして、Kと父親からの手紙が届いた。内容は厳しいものだが、そんなふうに返事を送ってきたこと自体、Kのせいいっぱいの誠意のあらわれであるように思えた。
《この度、お手紙を頂きまして、大変迷惑をしているのが本心です。あれから13年経過して、自分も、事件の事を背負って、苦しみ、悩み、又、忘れようとして頑張ってやってきましたが、ここに来て、なんで今更というのが本心です。事件の首謀者にまつりあげられ、まったく身に覚えがない事まで言われ苦悩したが、彼女を呼んだ事の事実は消しようもない、その責任は充分感じていますし、自分は男だからどんな事でも耐えて生きて行くつもりです。》
 手紙はこの後、示談が成立したのにどうして、という疑問が表明され、次のように書かれていた。示談は成立したものの、彼女に直接詫びるという行為がなされていないではないか、と私が書いたことへの反論だった。
《私が釈放された際、私と両親ですぐその足で、ご自宅に赴き謝罪するつもりでお電話をさしあげたところ、お母さんから、もう一切関わりたくないので来ないよう強く言われましたので、謝罪にお伺いできませんでした。だから、一切謝罪がないという彼女の見解は間違っております。》
 恐らくA子さんとしては、自分のPTSD状態から脱却するために、Kに再び会って事件と向き合いたいと考えたのだろうが、この手紙でそれは一頓挫を余儀なくされた。Kと会って何か活路が開けるという保証はないのだが、今回掲載する日記を読めばわかるように、彼女としては置かれた状況を何とかしたいという思いなのだろう。
 彼女は12月にはまた入院をする予定だという。医者が入院を勧めたのは、恐らく彼女がこのままでは自ら死を選ぶ危険があると思ったからだろう。いったい彼女はどうやってこの状況から抜け出ることができるのか。前号に続いて、その日記を掲載する。

<被害女性A子さんの闘病日記>2/2
Kに手紙を書こうかと悩む

●10月×日 夜
 見つけた。まだあった......Kの実家。
 やっと手掛かりが!と思うと同時に震えが止まらない。わかんないけど涙が止まらない。
 手紙を出すのは簡単だ。でも、多分私はKを恨む気持ちまでまだ到達していない。あの日から時が止まってしまったから。そして何よりKのご両親が心配。ご両親は何も悪くない。忘れたい事だろう......そんな時に私から連絡が来たら......。
 本当は本人と直接連絡をとりたい。彼から繋がるフラッシュバックはきっとある。けど、彼自身、彼だけは合意の上。その点について直接的な怖さはない。それに何より自分のこの目で、耳で、口で確認したい。でも、それはまた遠回りになってしまうので、ご両親には申し訳ないが手紙を送ろう。書けるかな......何て書いたらいいんだろう。
●10月×日
 昨夜の不安定な状態から、そのまま夫とメールでゴタゴタ。私がイライラをぶつけてしまったようなもの......薬で強制睡眠しようとしたが眠れない。でもEMDRの効果OR外出での疲れからか朦朧状態。イライラしている自分が嫌で気が付いたらリスカ。血を眺めてると少し落ち着くところが怖い。
 起床後、夫が休日という事で更に気力低下...。けれど今日は子供の大事な検査の日。頑張る!! しかし、出掛ける前に夫と口論になり荒れ狂う。台所で鍋や何かを投げたり......。自分を止めたく側にあったジャムか何かの瓶で足に思いっきり何度も打つ。包丁が目の前だったら足にぶっ刺していただろう。悲鳴を上げてしまう程痛い。少し動かすだけでも痛い。
 元は私の過去が原因なのに、全てを夫のせいにしてしまうかのように、
「普通に歩ける身体を返して!」
「まともに歩けないなら、こんな足いらない」等を両親のいる前でも叫ぶ。他にも色々言ったらしいが覚えていない。
●10月×日
 まだ足が痛い。でも自業自得だ。自分でもイカれてるのはわかる。
 今日、篠田さんから原稿が届く。まさかこんなに早く動いてもらえると思ってなかったので驚き。何よりもPTSDを一早く世に伝えたかった私の希望が叶った。どれだけの人の目に触れるのだろう? 原稿と共に私が書いていたものを初めて読み返す。同じことを書いている日もあるし、メモ書きのようなものだからバラバラ。自傷行為・弱音・こうして改めて見ると恥ずかしい。情けない。でも、こうやって改めて客観的に見る事は治療に繋がるかもと感じた。文章にする事は良いんだな。Kとの事も時が止まったままだけど、改めて気付く。そこから進まねば。但し、ゆっくりと。
 原稿を開いた時「誰かの目に触れる」という事で一瞬書き続ける自信をなくした。「同情をもらうために過剰に書いてしまうのではないか? その場合、あるがままの現状、過去の真実を書けるのか?」と悩んだ。でも、このノートを開くと自然と言葉が走る。真実でなければ意味がない。良かった。
●10月×日
 昨夜書いた事について考えてみた。
この機会を通じ、一度だけ読んでくださる皆様にメッセージを。
 事件の事、今はもう恨みなどありません。(勝手に偽りの記事を書いた出版社・明らかに視聴率アップ目的で尾ひれを付けまくって報道したメディアには怒りの気持ちはあります)。恨んだところで心も身体も戻ってきませんから。ただ悲しさと恐怖心・塊(傷)が残っているだけです。PTSDという事実を受け入れ、立ち上がれるまでこれだけの年数がかかりました。自分でも認めたくなかったんです。出来る限り表面では隠し通してきましたが、それも限界を迎え、見た目でも殆どの方が「おかしい」と感じるでしょう。
 今まで少しずつPTSDというものを知ってもらうために信頼している人から伝え、今ではSNSを通したり何かのご縁で知り合った方にも大まかな内容ではありますが、PTSDの恐ろしさを知っていただくようにしました。今も、今までの私の様に表に出せず、もがき苦しんでる方が沢山いらっしゃると思います。
そして震災をはじめ様々な形で沢山の傷を抱えた、これからなってしまう可能性のある方々も......。一歩を踏み出すまで、受け入れるまで、闘う間、とてもとても辛いと思います。周囲の方々も理解がとても難しいかと。この記事をご覧になって「こんな人もいたんだ」と心の隅にでも留めて頂けたらと思います。

 事件についてネットで確かめる

●10月×日
 昨夜、日記を読み返すと共にネットで事件の事が何かないかと調べた。不起訴になった今、もう殆ど情報はなかった。中には「不起訴になったのは女にも非があるからだ......(以下言葉がひどすぎて書けない)」という言葉も。最初に帰らなかった私がバカだったのか......?
 そんな中でも思いやりの言葉を書いてくれている人が沢山いた。苦しかったが周囲の反応、特にネット上という顔の見えないところでの様々な受け方を見たという事は更に今後の認識度を高めたいという気持ちに繋がった。書いて思い出す今も震えは止まらない。なんだか涙が溢れてきた。何に対する涙かは不明。ペンを握る力もなくなってきた......
 事件後やけくそになっていた時期もあった。男を手玉に取ってやる!となったり、無理にSEXもした。プライドが......克服しなきゃって気持ちもあった。これも一種の自傷行為だったのだろうと今思う。
 その時気になる人ができた。と言うかアプローチがあり、その人の親友達と会った時に一人の人に思い切って相談。事件の事を少し打ち明ける。それまで勧めてきたのが急に「付き合わないで欲しい」と。ショックだった。それ以来また隠していく。
●11月×日
 朝一度起きたのにー! 目が覚めたらカウンセリング時間過ぎてた...急いで先生に電話。嘘はつきたくないから正直に寝過してしまいました......と。それでも「眠れたって事は良い事ですよ」と先生のあの優しい表情が現われた。ごめんなさい。
 次回こそは必ず行きます。それにしても起きがけから酷い耳鳴り。頭の中、セミと鈴虫でいっぱいになっている感じ。
●11月×日
 先日篠田さんがKに手紙を書いてくださると言った。どうなったのかな......届いたのだろうか。届いたとしても返事なんてないんだろうな。でも私もきちんと文が書ける時に早急に書きたい。
 苦しい。呼吸が止まりそう......。
●11月×日(夜中)
 頭の中の事件当時のパズルのピースがドーンときた。あの日、酔った私をKが「大丈夫?」と。「大丈夫だよ」と言っても「吐いた方がいい」と女子トイレの個室に。個室に入ったら介抱でなく「好きだよ」とか、いつの間にかキスしたり抱き合ったり。そこでKが「他のあいている部屋に行こう」と女子トイレの目の前の部屋へ。部屋のドアの真横に誰かKが目か手で何か伝えてる。なんだったんだろう?
 その時はその先に待っている事など知らず。二人っきりになれる嬉しさで疑う余地もなかった。部屋に入り右の角隅、ソファーとソファーの間に二人で抱き合う。......あれ? SEXまでしていなかった!? 私が服を脱がされた直後くらいに「ちょっと待ってて、すぐ戻る」って。
 でも、その間もし誰か入ってきたら恥ずかしいから急いで服を着て......着終わったと同時くらいに、あの黒い人影......また記憶が少し繋がった。やばい......また吐き気が......耳も塞がってきた。
 もうじきあの時と同じ日がくる。毎年必ず荒れ狂う。生涯忘れられないあの日。

ついに雑誌の発売日読んだ方の感想は?

●11月×日
 ついに発売日。昨日までは緊張等でいっぱいだったが、いざとなると人って凄いもんなんだな。深呼吸してからページをめくる。内容は事前に把握していたからなのか、客観的視線になったのか......。
 この記事を読んでくれた方々はどんな感情を抱いたのだろう? 多くの方が興味・そして同情なのかもしれない。あるいは「今更」と非難される方もいらっしゃると思う。もし同情の気持ちが他の病を持つ方への関心・認識・支えと繋がりますように。私はネタでもいい。ただ、誰かが動き立ち上がらなくては何も進まない。
 この記事は、あの時の人達の目に入っただろうか? そしてどう思ったか? 「今更!」との文句でも構わない。私はココにいる。意見をください。そして貴方達の一時の「欲」で今でも情けない姿の私を見て下さい。目をそらさずに......。
●11月×日
 2週間ぶりのEMDR治療へ。外に出るという恐怖感でパニック症状は出ているが、先生に会える。また何か糸口が!という安心感が出ている。
 先ず先生に記事を渡す。「今、目を通してしまうと治療の時間がなくなってしまう」との事で後で読んで頂く事に。今日も心の安定化から。些細な事でも嬉しさ・喜びを感じた事を思い出しながらトントントンと。その都度胸の辺りが膨らんだ感じがしたり、熱くなったり、塊の部分が痛くなったり。ただ、痛くなったのは一瞬。不思議と自然に消えていった。
 膝に手をつき話をしていて、先生が「背もたれに寄り掛かってみて」と。寄り掛かった方が胸や背中は楽。だが頭がグラングランする。でもこのまま続ける事に。初めは幼少期からの出来ごとでの喜怒哀楽を表で表わす。生まれた時は100点!みたいな感じで。
 その後追っていく毎に小~中の波はあったが、あの日の所で戸惑ってしまう。
「当時は混乱状態だったので感情の度合いがわからない」そう答えると「それは皆さん一緒だから大丈夫ですよ」と。今の感覚ではドン底だったと思う。その後「今の状態は?」と。これもまたわからない。何故なら心身はドン底。でも、これで多くの方の何か役に立つかもしれない。そして私の仮面も剥き出せ前向きに進むという感情もあり、それは大きなプラス。編集長さんへの感謝の気持ち。私にしか出来ない事に自ら踏み出せた事。大きな喜びだ。先生も「素晴らしい事ですよ。そう、貴女にしか出来ない事、誰にでも出来る事ではないんです。そして、こうやって大きく記事にしてくれる事も簡単な事ではありませんでしょう」と。
 そこでまた、その喜び・感謝を感じながらトントントンと。徐々に身体に異変が起こる。

 やはり先生は素晴らしい。私が最初から心をこんなにも開ける人なんていなかったのが、先生はこじ開けもせず、私自ら開いていった。そして、きちんと適度な距離もあり先生への依存にもならない感覚。あくまでも私の本来のものを自然と引き出してくれる。
 そして今まで死んだ心は蘇らないと思っていた。が、生きている。再び蘇る事が出来るのだと。諦めたら勿体無い。私がずっと聴いていたSEAMOの「continue」の歌詞「負けたら終わりじゃなくてやめたら終わりなんだよ」って益々心に響く。こんな気持ちになれたのは久しぶり。ただ、回復にはまだ遠い。今は晴れ間が見えても明朝にはまた暗はくるだろう。時間は相当かかる。けれでも確実にまた一歩前に進んだ。この気持ちを持てただけでも凄い。

 Kからのレスポンス少し嫌な予感が...

●11月×日
 僅かな眠りの中、いつもの悪夢と少し違う夢を見た。交際当時のKと私。以前書いた公園にいる。その後、突然暗闇・崖の上。恐怖心と共に取り残された自分だけのまま目が覚める。夢の中の彼は無表情。いや表情すらわからなかったかも。
 夕方篠田さんから連絡があり、Kからレスポンスがあったと。内容はまだわからない。少し嫌な予感。
 今日も些細な事で激しく落ち込む事があった。何も出来ない私が悪い。トイレに閉じこもり、うずくまり頭を抱えながら泣き唸り、自傷行為に走り......そうになったが、また今日も何度かの葛藤の末防げた。
 正直消えたい。何の役にも立たない。
 母も精神的・体力的に相当キツいだろう。
 還暦をとうに過ぎてる身体で働き、家事育児、そして理解し難い私の事。何千回も何万回も心の中で「ごめんなさい」とつぶやく事しか出来ない。
●11月×日
 何も出来なかった。ひたすら落ち込んでしまった。色々と考えメモを残そうとしてもペンすら握れず。
 正直、遺書は用意し始めている。そう、生きる気力がなくなり、私が前を向こうとすればする程、周囲を巻き込み、相当な迷惑をかけているんだな......と。
 線路の上を歩いている時にカンカンと警報音が鳴り始め、急げない私はそのまま立ち止まる事を考え止まった。このまま死んじゃえばいいのに。でも周囲が気付き、それこそ更にまた迷惑な話。どうしたら良いのだろう? 存在している意味がわからない。
 悲しい。悲しいよ。沢山泣いた。一日中泣いていた。今も止まらない。涙は悲しみを流し、気持ちを切り替えてくれると言うけれど、一向に流れていかない。
胸が痛い。
 しかし、もうわかった。もういい。そんな自分の事で悲観的になっている余裕はない。本来の目的に向かわなければ
当面あれを受け止めるまで時間はかかると思うが......。これも治療だ。って殆ど受け売りの言葉。でも、それで自分を納得させていくしか今は出来ない
●11月×日
 EMDR3回目。不思議と朝から少し力を感じる。効果を心が感じている証だと思う。動くのは苦痛だが今日は少し違う。「助かっていく」という気持ち。先生に依存?という思いも過ったが、先生の「一緒に頑張りましょう」という言葉で「あぁ私も自分で闘ってるんだ」という気持ちに。
 最初は事件の事(先日の手紙の事)で数日間全く......暗闇に落ちてしまった事、線路での事、でも我に返れた事を話す。
 手紙の大まかな内容も言い訳のようだったが、私が求めているのはそこではない......等、悔しかった事、悲しかった事も思い出す。
 先生は先週渡した記事を読んでくださり、「こういう風に公にすると様々なバッシングも受けたりするでしょう。でも覚悟の上だったんだね」と。との言葉を聞いた時漲るものがあった。私が伝えたい事の本質を、立ち向かう覚悟を...と語った気がする。
 次に事件後の私生活の事を。その時PTSDの症状は?と。PTSDの症状は事件後、一度も消えた事がない。でもそこからくる様々な症状でメチャクチャだった。そこからまた過去に戻り、留学した時の楽しかった思い出を元に治療を開始。一番楽しかった、友人と大笑いしている写真が脳裏に浮かんだ。そこでの変化を聞かれたが頭の左半分にしか出てこない。右半分は空っぽというか停止状態。最初は静止画だった。だが、安定化を繰り返していく度に動いてくる。目をつむっていたが、自然と口元が上がった感覚。笑った!!!私、自然に笑った!
 その後、そのイメージで他の事を試みたが、楽しい思い出が消え、落ちて行ってしまった。とても残念だったが、一度でもあの状態で自然に笑えた事は、またまた大きな一歩
●11月×日
 ふと......真っ暗闇の深い地底にハシゴが降りた。登れる力がない。しかし力をつければ登れる。

(了)

 以下に掲載するのは、1998年に大きく報道された集団レイプ事件被害女性がその後どうしているのか示した記事だ。2013年公開の映画「さよなら渓谷」がレイプ事件の被害者と加害者の問題を提示していることにかんがみ、そのモデルとなったと思われる現実の事件の当事者がどうなったかを報じた「月刊『創』2011年12月号」と「12年1月号」に掲載された記事を公開することにした。映画については、大森立嗣監督インタビューと、現実の事件との関わりを記した解説とを月刊『創』2013年7月号に掲載している。〔月刊「創」編集部〕

 あの大騒動となった事件から12年...
 帝京大ラグビー部集団レイプ事件被害女性の告白
 
 1998年1月、帝京大ラグビー部の学生ら計8人が逮捕され、連日大きく報道された。集団レイプ事件として耳目を集めたこの事件の被害女性が突然、編集部を訪ねてきた。
  
はじめに(本誌・篠田博之)
 A子さんが編集部を訪ねてきたのは2011年9月初めのことだった。本人から電話があり、会いたいということだった。12年ぶりの再会だった。
 編集部を訪れた彼女は、声もか細く、今にも倒れそうな弱々しい印象だった。手首に包帯を巻いているのは、明らかにリストカットの跡であった。
 彼女は98年に大々的に報道された帝京大ラグビー部集団レイプ事件の被害女性である。当時はまだ19歳。この秋に33歳になった。当時、この被害女性に直接会って話を聞いたのは本誌だけだった。
 事件は97年11月13日未明に起きた。彼女が警察に被害届を出して捜査が動き出し、学生らが次々と逮捕されたのは98年1月20日だった。計8人の学生はいずれも実名・顔写真入りで、「レイプ犯」「鬼畜」などとセンセーショナルに報じられた。20日に逮捕されたのは帝京大ラグビー部の5人、その後24日に同大ラグビー部員のほかに独協大、上智大の学生も含め3人が逮捕された。
 当時本誌がこの事件に取り組んだのは、逮捕された学生のうち2年生だった2人の親たちが、あまりにセンセーショナルな報道に反発し、BPO(放送倫理・番組向上機構)に申し立てたり、週刊誌を提訴したのがきっかけだった。2人は先輩に命じられて暴行現場に立ち会ったもので、レイプなど行っていないというのだった。

 本誌は報道内容を検証するために、事件に関わった学生たちに個別にあたり、逮捕された学生のうち4人に話を聞けた。そして被害女性にも接触した。それらの証言は本誌98年7月号に掲載されている。1カ月近く続いた騒動だったが、当事者に直接取材した週刊誌やワイドショーはほとんどなかった。もちろん当事者たちが快く取材に応じたわけでなく、本誌も再三依頼してようやく会えたという状況だった。

 某女性週刊誌は逮捕学生の「独占告白」と大々的にうたって記事を掲載したが、当人に聞いてみるといっさい取材も受けていないとのこと。後に、この週刊誌は提訴され、裁判の過程で、同じ留置所にいた人物からの聞き書きを記事にしたものであるらしいことが判明する。

 そもそも被害女性の母親も取材は受けたことがないと言うのだが、幾つかの週刊誌には堂々とコメントが掲載されていた。伝聞情報をそんなふうに告白と銘打って載せるのは週刊誌の手法かもしれないが、当事者に直接取材していないために細かい事実関係は間違いだらけだった。

 まだ騒動の渦中だったため、本誌の取材に応じてくれた人たちも冷静というわけにはいかなかった。特に被害女性のA子さんには母親と一緒に話を聞いたのだが、事件について話しながら涙を流し、取材の途中で呼吸困難に陥った。

 その彼女が事件から12年を経て、編集部を訪ねてきたのだった。
 
 PTSD克服のために敢えて事件と向き合う
 
 実は彼女は、いまだに事件によるPTSDから抜け出せず、心に深い傷を負ったままなのだった。この間も、リストカットや自傷行為を繰り返し、突発性難聴や原因不明の高熱も続いているという。そして彼女は、何とかそこから抜け出すために、敢えて事件と向き合うことを決め、本誌編集部を訪ねてきたという。両親は、彼女がこれ以上傷つかないようにと事件についての報道は極力見せないようにしていたため、彼女は自分の証言の載った本誌もまだ読んでいなかったのだという。まず本誌のバックナンバーを入手したいというのが最初の用件だった。

 事件と向き合うことで、自分のトラウマを克服しようというのは、投薬治療では限界があると判断した精神科医の勧めでもあり、母親もそう思ったのだという。同時にA子さんは、この3月の大震災で辛い体験をし、PTSDになっている人もいるに違いないと考え、自分の経験を通してPTSDについて多くの人に知ってほしいと考えたという。

 その後、本誌は本人から何度か話を聞き、12年ぶりに彼女の実家も訪ねて母親にも話を聞いた。A子さんは、治療のために専門医にも足を運んでいた。そして、そうしたプロセスを日記に記し、自分自身を見つめようとし始めたのだった。

 今回、本誌はその貴重な記録の一部を本人了解のうえで、掲載させていただくことにした。彼女にとって12年前の事件の真相をたどる旅であり、事件のディティールに踏み込むプロセスでもあった。彼女がどんなふうに自分の置かれた状況と関わっていくのか、本誌もその過程を誌面で追うことにした。
 
 集団レイプ事件を再度振り返る
 
 恐らく本誌読者も12年前の事件については記憶が薄れていることだろう。ここで改めて事件の経緯と背景について整理しておきたい。

 事件が発生したのは97年11月13日未明のことだった。前夜の午後11時頃、帝京大ラグビー部のメンバー約10人が、八丁堀のカラオケボックスに集合した。そこはメンバーの一人であるOS君(当時4年生)がアルバイトをしており、12時を過ぎると社員は帰宅してバイトだけになるので、ほぼ貸し切りで飲み会ができると判断したのだった。バイトに来ていた独協大と上智大の学生もこうして事件に関わることになる。

 ラグビー部員たちは1階で待ち合わせた後、3階のパーティールームに移動し、飲み会を始めた。当時、練習の後に赤坂の居酒屋でバイトをしていたKH(当時3年生)は12時過ぎに東京駅で、事前に連絡していた女性2人と落ち合い、カラオケボックスに合流する。実は被害女性A子さんは彼の元交際相手で、友人の女性を連れて飲み会に来てくれないかと誘っていたのだった。A子さんはそれに応じたものだが、ただラグビー部員らが10人もそこに待っていることは現場に行くまで知らなかったという。

 KHと付き合うようになったのは、A子さんが高校生の時、友人を介して知り合ったのがきっかけだった。何度かデートを重ねたのだが、そのうちに「お気に入りの子が他にできたらしい」と友人に聞かされ、彼女は自分から電話で別れを告げた。しかし、KHに好意を抱いていたようで、後に社会人になってから再び連絡を受けて再会し、交際が復活した。深い関係になったのはその時だった。そしてその再会から何カ月か後に事件にあったのだった。果たしてKHが了解のうえでその事件が起きたのか、あるいは偶発的にそうなったのか。A子さん自身、いまだに真相はわからない。

 カラオケボックスに合流した後、アルコールが飲めないA子さんは、彼女に目をつけた他の部員に半ば強引に酒を飲まされ、酔ってしまう。KHも遅れて参加したため、ハイペースで飲まされ、かなり酔ってしまったという。

 他の連中がパーティールーム16号室で騒いでいる間に、同じフロアにある小さな別室13号室に誘われたA子さんは、そこでKHと合意のうえ性行為を行った。ところが彼は気分が悪くなって、トイレへ行くと言って出て行ったまま帰ってこない。彼女が衣服を着たところへ、その前から彼女にちょっかいを出していたSが入ってきた。そして彼が性行為を強要したという。他の男たちもやってきたので、彼女は、「KHはどこ? KHを呼んで」と助けを求めるが、応答はなかった。KHはその部屋の前の女子トイレで酔いつぶれて寝込んでしまったのだという。

 A子さんは男たちに囲まれ、威嚇された。「騒いだら下の毛に火をつけるぞ」とライターの火を目の前にかざして脅す男もいたという。A子さんは殺されるのではないかという恐怖に襲われ、抵抗するすべもなかった。彼女の話によると、陰部にカラオケマイクを入れようとした男もいたし、濡れないからと水もかけられたという。

 ただ、このあたりについては、当事者たちの話も食い違いを見せる。そもそもその部屋はうす暗かったし、途中から呼ばれてやってきた者のなかには状況を理解できない者もいたらしい。後に本誌の取材に対して「嫌がる女性を無理やり強姦するほど俺達だってバカじゃないですよ」と容疑を否定する者もいた

 A子さんは翌朝解放されるのだが、彼女は、KHもグルだったのではないかと疑った。警察もそう考えたようで、レイプ現場にいなかったにもかかわらずKHも逮捕された。ただ、警察が疑った事前共謀はどうやら立証は難しいと判断されたようだ。KHは、本誌の取材にも応じて、寝入っていた間、何が起きていたのか知らないと答えた。よくわからないのは、事件のあった13日の午後に、KHが何も知らない様子でA子さんに電話をかけてきたことだ。KHは、呼びだしたのに酔いつぶれてしまったことを謝ろうと電話したのだという。ただ、事件で憔悴していたA子さんからすれば、その電話で彼が笑っていたのが信じられなかった、という。

 彼女はその後、警察に届けた方がよいとアドバイスされ、悩んだ末に母親に事情を打ち明け、警察に被害届を出した(正式に受理されたのは11月20日付)。警察で何度か事情を聞かれ、告訴したのは12月24日だった。

 年明けの1月19日、帝京大学生5人が警察に呼ばれ、20日未明に逮捕状が執行された。前夜からマスコミの取材報道が始まり、逮捕後の朝のワイドショーはこの事件の報道一色になった。
 
 事件は当事者たちに何を残したのか 
 
 こう書いてくると、事件の経過は明白に見えるが、実はそう簡単ではない。逮捕された学生たちは警察の取り調べに対して外形的事実は認めたが、レイプと呼ぶようなことはしていないという主張だった。密室での行為だっただけに、裁判での立証は簡単ではないと思われた。

 最初に逮捕された5人が勾留満期になる2月9日、帝京大生7人と被害者との間で示談が成立した。その間、逮捕された学生の親のなかには、いきなりA子さんの自宅を訪れて土下座した人もいたという。示談成立にあたっては、逮捕学生の親たちや弁護士の強い働きかけがあったようだ。裁判になったら被害者側も再び辛い目にあう。そういう説得を受けて、A子さん側も折れることになったらしい。

 結局、逮捕された学生8人が処分保留のまま釈放、後に不起訴となった。学生たちが釈放された夜、帝京大は記者会見を行い、14日に学生たちの処分を発表。事実認定は難しいとして、迷惑をかけたことが処分の理由だった。

 今回、A子さんは、当時お世話になった刑事にも連絡をとった。彼女としては、女性警察官が精神的ケアも含めて事件後毎日のようにめんどうを見てくれたりしたのに、示談をしてしまったことについて、今でもあれでよかったのかと思うことがあるという。

 集団レイプ事件の真相はどうだったのか、不起訴となったことで、細かい事実の確定は結局行われないままとなった。
ただ、被害者であるA子さんが、深い心の傷を負ったのは確かだった。特に信頼していた交際相手の男性に騙されたのではないかという疑念は、彼女を苦しめたようで、今でもA子さんはKHに本心を聞きたいというのだった。

 前述したように本誌はA子さんにこの間、何度か話を聞いた。事件について語るたびに彼女はボロボロと涙を流した。トラウマを乗り越えようとする彼女を応援したいという思いから、本誌は今回、以下の彼女の記録を公開することにした。この記事掲載自体が、PTSDと闘う彼女の同時進行ドキュメントだ。予定調和の原稿ではないから、次号でこの続きを掲載できるのかどうかもわからない。ただ、こういう問題を社会的に提示することが編集者としての仕事だと考えた。事態がよい方向に向かうことを期待したい。

<被害女性A子さんの闘病日記>1/2

●9月×日
 今日、篠田さんに会いに行った。
 あの時以来、私の中で止まったままの思いが逆転。篠田さんからKの話が出たときは少し混乱した。
 彼等のことを聞くつもりは一切なかったので、ずっと震えが止まらず、何をどう話したかさえ忘れかけているけれど、今まで私が、この先~したかった、~したいという想いは伝えられたのかと......。
 当時の雑誌はもうないらしく、私と母へとコピーをくれた。その時はまだ見られなく目を背けるので一杯だった......。
 そして今、初めて開いた。
誰かの拘留中日記なんか関係ない。読む気にもならない。
 そして最初は(もうK以外の名前を覚えていない)その中の誰かの証言。頭の中の崩れたパズルが蘇ってくる。嘘!嘘!嘘!!!
「真実」と言いながら何故嘘をつく!?
勿論、合っている部分もあるが、私をそんな風にとらえていたの? それとも自分を守るため?? 物凄く情けなくなった......。
 次々に色んな事が書かれてあり、蘇った記憶との相違点が次々と浮上。
 私、大勢だなんて一言も聞かされてなかった。KとのSEXの後、すぐ服を着て、Kが戻ってくるの待ってた。でも笑いながら嫌だった人が入ってきた。抵抗して泣き叫んだ。Kの名前を大声で何度も叫んだ。大声で叫べば誰かが気付いてくれると思った。「Kは来ねーよ」その言葉......聞こえてきた。そこからは思い出せない......。
 気づいた時には大きくて怖い人がいた。泣いたのか抵抗したのか、私が声を上げると「うるせー女だ」「なぐるぞ」「下の毛燃やすぞ」とライターの火を目の前に......そこはハッキリ覚えてる。毎日見る悪夢。
 マイクも挿れられた。すごく痛かった。
誰が誰かわからない。沢山された。抵抗したって無駄だとあきらめた。こんな身体の人たちに抵抗したって無駄。殺されると。
 水が欲しい、と言ったら水を顔にかけられた。......もう覚えていない......。
 それから気が付いたら、さっきまで怖かった人が別人のように優しくなってた。

服を着て?エレベーターに乗ってYちゃんと、もう一人の男の人と駅で少し話して帰った。
 バイバイした後、電車に飛びこもうとした。何故生きて家に戻ったんだろう?
思い返す度、記事を見る度に「違う!」「違う!」と心が叫ぶ。
 当時の私、きっと混乱でいっぱいだったのだろう。なぜあんな目にあってもKの事を気にしていたのか......。確かにKの事、本当に好きだった。

「真実」を知って欲しい。
 今更だけど、訂正したい。
 そして記憶から消えて欲しい。
 それは無理だけど......せめて「真実」をどうか......。

●9月×日
 昨日は一睡もできず。何度も眠剤、安定剤を追加したが全く効かず......。まあ慣れているけど......。
 昨夜、母と少し話をした。今後の事、病院の事等......その中でずーっと精神科やカウンセラーを拒否(拒絶)している理由もわかった気がする。
 確かに沢山学んで、臨床を重ねられている方もおり、全員を否定という訳ではないが、皆実際に同じ事を体験してきたのだろうか?たとえ体験したり沢山の患者さんを診てきたとしても、表面でしかくくれないのではないか?と。実際自分自身も色んな病院、カウンセリング等で治療を試みたが、いつも引っ掛かっていた。要は「不信」なのであろう。
 同じ病名でも指紋のように一人一人違う。そこまで見るのは限界があるから? 心から信頼できる医師、カウンセラーに会ってみたい。

●9月×日
 一昨日も昨日も、ただただ寝込むだけ。
薬とリスカで現実逃避。入院中から始めようと購入した写経セットを始めてみたが、手が震え、集中力ももたず、結局3分の1がやっと。でも気持ちは込めた。
 昨日はKの事が頭にずっと浮かんだ。色んな事を思い出した。高校の時の付き合っていた時、練習後に急いで近所まで来てくれ、公園で誕生日プレゼントにもらった香水。Xmasには3組でPArtyをし、コンビニに行った時恥ずかしそうに差し出した小箱、指輪だった。涙が出まくるほど嬉しかったのを想い出す。こんな思い出あったんだね。
 あの頃の彼が、私が止まったままなのかも。彼がずっとつけてた香水、今でも持ってる。
 嗅ぐと眠くなる......。
 別れた日もハッキリ記憶している。
 彼に他に好きな人が出来、一緒にボーリングに行ったと彼の友人から聞き、その晩、親友の家に泊まって、そこから電話をし、別れを告げた。数秒の沈黙があったが、「いいよ......わかった......」と。
 そして翌朝阪神大震災があった。

 事件の時の事もどんどん思い出していく。部屋に初めて入った時、おどろいた。何らかの怖さもあった。だって、「先輩と飲むから女の子1~2人連れてきて」って言われたから、コンパみたく、男の人も2~3人だと思ってた。けど、Kがいるし、周りも彼女みたく思ってくれているんだろうなと思って......。ばかだ。すぐにでも帰れば良かった。電車なくても歩いてでも。
 そういえば、何でKは離れた席にいたの? 私が一番嫌だった人に口移しで梅酒を飲まされた時も、すみれSeptemberが流れてた。あの曲きくたび今でも気が狂う。
 皆、若気の至りで済ませてるの? あの時の気持ち教えてよ......。巡る記憶が破壊していく......。こわれてく。

●9月×日
 今日も朝から頭痛、吐き気、胃の痛み、耳鳴り......諸々と体調が×。でも動かなければ体力も脳も低下する。少し頑張って銀行へ。たった300メートルくらいなのにまたダウン。情けない。横になっている間に篠田さんへ記事を読んだ感想等をメールしてみた。
 もう思い出すのは無理だろうと思っていた事、どんどん蘇ってくる。また黒い影が追ってくる。突然あらわれる黒い影。やっとわかった。あの日Kが出ていってから入ってきたあの一番嫌な人だ。もう名前も顔もわからない。でも、Kの同級生で、私に口移しでお酒を飲ませた人。近付いてくる......逃げなきゃ......来ないで......。たすけて......。

●9月×日
 今日は家族の誕生日。頑張って起きて最高の誕生日に!!と思っていたもののダメ......。イライラ、フラフラ、暴言、自傷(トイレにこもって壁(石)に左肘を何十回以上も打ちつける)。おもいっきり打っても痛くない。痛くないと意味がない。ヒビが入るんじゃないかって位、強打した時、痛いハズなのに何故か嬉しかった。皆に当たったバチだ。罰だ。そうしなきゃ気が済まない。人の心を傷付けたんだから当たり前。
 最近、元々突発性難聴になった右耳が全く聞こえなくなる時がある。耳が目をつむるように突然塞がっていく。そして、その時間も間隔も日々長くなっていく。聞こえなくなっていくのかな......。きっとストレス性だろうし、今もう検査、検査は気力もお金もないから無理。左肘も動かないが、放っておいてもいつか良くなるんじゃないかなと。ともかく無駄なお金は使えない。甘えてる身で......。

●9月×日
 母がまた具合悪くなる。
 ごめんなさい......ごめんなさい......。
なにもできなくて、心配かけて、わがまま言って。悩ませて、仕事、家事、育児、私の面倒まで......。全部ずっとやってくれてる。役立たず+困らせてるから......。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。
 やっぱ私だけでも負担減れば少しは楽になるのかな。消えた方がいいのかな。
母にこれ以上負担かけたくないよ......。

●9月×日
 強い抗精神薬・睡眠薬、今まで残ってた薬箱から取り出した、処方されてる薬じゃ全く眠れない。苦しい。起きているのが苦痛で情けなくてたまらない。
 今日も夫を責めてしまった。今日夫は休日。あの出来事を思い出し、過去と重なり怖くて側に寄る事も、同じ空間、同じ家の中に居る事すら拒絶反応がでてしまう......ごめんね......先日の友人達からの言葉、皆、私のことを考え、2人の事を考え言ってくれた事。でも、まだ私にはそれを受け止められる勇気がない。
 トイレに行っただけで怖くなって動けなくなった。その度、気付くとトイレの床でふさぎ込んでたり隣の浴室の脱衣場で倒れている。なんていう迷惑......。
 今日、気になっていた事を元夫に聞いてみた。「結婚してた時、私いつも塞ぎこんでSEXレスだったでしょ? どう思ってた? しょうがないと思ってた? それとも怒ったり悲しかった?」と。そしたらすぐ返事が。「単純にしょうがないと思ってた。プライオリティを重視してたから」と。涙があふれた......ありがとう......。
 私、どうしたらいいんだろう......。
毎日が情けない。早く良くなりたい。子供達とお出掛けしたい。何より子供達に母親らしい事をして安心させてあげたい。
大好き、愛してる子供......ママまだママになれてなくてごめんね。
 ずっと敷きっぱなしの布団。血だらけのカバー......汚い......。今の私にはピッタリなのかな......汚い身体。心も汚い。

●9月×日
・酔ってトイレに向かう時、右の階段の所に顔立ちの良い人が一人「少しここで休んでいったら」と優しい声。
・あの部屋で一番怖い人に水を下半身にかけられた。ぬれてないからと......。下っぱらしき人に怖い人が「お前もくわえてもらえ」って。私が嫌がって声を出すと怒る......演技しなきゃ殺される......。

●9月×日
 最近、自分が何なんだかわからない。
何もやる気がおきないのは変わらず......一歩でも前進したいが頭も身体も後退していくのみ。
 外にも怖くて出られない。メニエールも発作再発し病院に行きたいが出られない。人のいっぱいいる所へ行くのも怖いし、病院代もかかる......。
 働けない自分が悔しい、情けない。子育ても任せっきり。ダメな母親。一体どうしたら良いのだろう......。何かやらなきゃ。少しでも皆への負担を軽くしたい。

●9月×日
 私は最悪。最低。苦しいからと......。「自分が苦しいから」と皆に負担を掛けている。少しでも光を見つけると、そこを頼りに図々しく甘えまくってしまう。この依存治さなきゃな。自制がきくようになりたい。今日も篠田さんが忙しいのわかってた上で自分の事ばかりでメールしてしまった......。焦らず......と思っていても止められない。頭の中に「生か死か」の2択ばかりになってしまう......。
 薬、飲んでも飲んでも眠れない。暗闇が怖い。人の気配が怖い。薬ほんのり効いてる、けど眠れない。

●9月×日
 母親らしい事、何も出来ておらず......。
下の子が金魚を見て、すっごく喜んだ時、「いつか早く水族館に」って母に介助してもらいながら水族館へ。子供は大喜び。良かった。水族館自体、私とーっても大好きだったはずなのに、何の気持ち、嬉しさ、楽しさが......何の感覚もない。
ただどこかの空間、人の中にポツンと......。大好きな場所さえ興味なくなっちゃったの......? 魚達を見てるの好きなのに。何で? 何の感覚も出ないって......。でも、そんな自分にはこうやって書いてみて、はじめて気付く。これは心の整理ノートになるのかな? なるといいな。このノートがいっぱいになった時、初めて最初から見てみよう。今は怖くて開けないから。どんな事書いてあるのだろう......。
 朝から食後の胃痛が激痛になった。
ぶどう一粒でも痛い。食べてない間でも痛い、また胃カメラかな......。
 そろそろ杖も用意しないと。お天気の日に傘持ってたら変だもんね。いつまでも傘を杖代わりはムリかな。
 携帯や知人伝いに「EMDR」という治療法を見た。85%の治癒率......やってみたい。

●9月×日
 今日も体調不良。心→身体が動こうとしない。怠けぐせがついてしまったのかな......情けない。
 でも、午後からA先生の所へ行く、いつも混乱してしまうから予め相談内容とかをメモしていく。いつもハッキリ、時には前向きにと厳しく言ってくる事もある先生。さすがに今日は今までで最も悪い状態だと思ったらしく、先生の個人クリニックでは治療に限度があるとB病院に紹介状を急ぎで書いてくれた。眠れない事、発作の事で薬の追加もお願いしたが、「あなたの身体、今もうボロボロだから、これ以上増やしたくない。」と。そして心因性からくる諸症状の事でも、すっごく心配をしてくれ沢山時間をさいて、ゆっくり聞いてくれた。PTSDを根本から治療......向き合って解決したいと、篠田さんの事や、EMDRを受けたい事も話した。先生もEMDRについては割と好反応であった。しかし、「その前に、先ずは身体を少しでも回復しようね。あなたは大きな事件に巻き込まれたのだから、ともかく焦らずに。B病院ならケースワーカーさんもいるし、様々な検査や治療ができる。だから安心して」って。
本当はずっと私を診てきてくれた先生から離れるのが辛かった。こんなに良い精神科医はめったにいないと思う。でも、今までこんな私をしっかりと診てきてくれた先生のためにも、新たに頑張れれば......。

●9月×日
 B病院へ。着いたら「1~1時間半待ち」と言われ、人気のない所で待機。その後指定の時間に行き、座って待っていられなかったので個部屋で横になり、薬を飲んで待つ。多分1時間以上は裕に経っていたのかな......。
 Drは男性だった......。でも、優しくしっかり話を聞いてくれる。PTSDについては、A先生が大まかに書いていてくれたので、細かく聞かれなく少し安心。ただ、驚いたのが「別の人格が表れる事は?」と聞かれた事。ここは、A先生書いてなかったと思うのに......。でも正直に答えた。今まで閉じ込められ出られなかった事も。そして「最後に自傷したのは?」とも。それも「昨日......」と素直に答えた。でも傷は浅い事、そして自殺目的でない事も話した。自分がみじめで情けなく、そのやり場がない事も。Drの判断では、やはり早急に再入院をした方が良いとの見解。でも、「閉鎖病棟は嫌だ。前回入院したC病院でなきゃ無理」との意見もすぐに出た。とりあえず脳の病気の事や入院等の費用の不安も話し、10月×日にMRI、その翌日に「母と一緒に受診を。入院の事も話をしなければならない」と。C病院に差額ベッド代の関係で入院できるまで、あと約2ヶ月。1ヶ月すごく苦しかったけど、3分の1を乗り超えてきた。あと2ヶ月......心身がもって欲しい。そしてその間に頑張って良い策を見つけられれば......。

●10月×日
 何かしようとしても......力もでない。気力も湧かない。この日記すら書けなく、悔しく情けなく薬を飲んで横になるだけ。
薬が増えたから? 禁断症状みたくなってる。それともまた頭がおかしく(更に)なり始めたのか。
 負けない! 一度決めた事、パンドラの箱を開け立ち向かうと決めた事。とことんボロボロにもなってやる。そして脱皮するんだ。そして私の役目を果たす。
 この気持ちが日々続けばいいのに......。
 片手は包帯グルグル、フラフラで転倒し脚もびっこ......。真っすぐ歩けず、いつ倒れるかもわからないから、病院のために外出した時も、晴れなのにカサをつえ代わりに歩く。院内で見られる......いやだ......みんな見ないで......。
相変わらず熱は続く。もう何年になるのだろうか......。波が激しい時はいつも37℃後半~38℃ちょい、前の平熱は35℃台だったのにね。不思議。
 私は今、何のために存在しているのだろう。この怠け心がなくなれば普通の生活を送れるようになるのか......。PTSDで怖い怖いと逃げてるだけではないのか?

●10月×日
 高熱が続く。少し動いただけで上がる。
手や足(特に手)の震えが止まらない。
ダルい......疲れる......何もしていないのに......。
 ニュースで福島の方々のことが耳に入った。あれからもうじき7ヶ月。PTSDになってる方、沢山いるだろう......。
みんなどうしてるのかな?大丈夫なのかな? 早期治療が良いと言われているが、きちんと治療を受けられているのかな......。
一人でも増えませんように......。私の経験と、これからの行動が一人でも多くの方のお役に立てられますように......。PTSDは本当に恐ろしい病気だ。

●10月×日
 久々に一人で電車に乗る。ふるえがずっと止まらない。まともに歩く事すら出来ないから、お天気なのにカサをつえ代わりに......変な人と見られてるんだろうな。
 先日、また暴れてしまったらしい。子供が一生懸命ひっついて泣き叫んでいたそう......。ごめんね、ほんとごめんね......母親らしい事、一つも出来ず、傷を付けてるだけ。布団に血の海の跡があった。リスカしたら入院させられちゃう。
 ダルい。ダルい......。起き上がるのも何をするのも怠い......。私は治るのか......。自分自身が辛いのはもういい......家族、周囲の方達の負担になっている事が一番辛い。
 今日も子供を怒鳴って追い込んでしまった。
 大丈夫かな......メンタルが心配、不安......。母も声をかけてくれたが言葉がでない、会話ができない。そのクセ、イライラして当たる。
「存在」とは何だろう。笑いたい。楽しみたい。今はまた壊れたロボットだ。
役に立たず、無駄な消費だけ。いつも「死」は考える。でも、こんな私でも大事にしてくれてる人達がいる。死ぬのなんて簡単。自分は楽だろうが悲しむ人もいる。いてくれる。恩をあだで返すような事は嫌だ。生きて、這ってでも立ち向かって治りたい。治ったら今までの分、全部を返したい。時を、取り戻したい。

●10月×日
 熱まだまだ続く。あの事件以来、調子悪くなるとすぐ高熱に。今日は37・5~37・9℃。だからフラフラになっているのかな? 色んな病院、色んな科で調べても結局は特定出来ず......何なんだろう? 免疫系も更に悪くなってきた。時々......いや......ほとんど毎日Mちゃんの闘病~死までを思い出す。私も同じ運命をたどるのかな? もしそれでもMちゃんの様に命を削ってでも誰かのために残せる事を、その遺志をついでいく。身体でも心でも病を持つ人はとても孤独......。全員かはわからないし、自ら一人を望む人もいるけど、結局は孤独というか......一人何かに取り残される。私も正直......ポツーンと......。でも結局は余程の理解がある人でないと一人の方がいい。理解あって支えてくれても依存してしまうから......やっぱ一人なのかな。
 明日は初のEMDR治療開始。少し緊張。でも前に進めると信じてる。そして誕生日。正直嬉しくも、祝われたい気持ちもない。でも、33年前の日、私を産んでくれた事に感謝。様々な困難があったけど、その分学んだ。沢山学んだ。
 恨むパワーがあるくらいなら、そのパワーを良い事に生かしたい。この気持ちは、Mちゃんから教えてもらった。ありがとう。あぁ......早く動けるようになりたい・......。
 MY birthday......何も感じない。Happyになんかなれない。ただ時間が過ぎていくだけ。
でも0時過ぎてから仲良い友人からのお祝いメールが何通か届く。先日もわざわざ家までプレゼントを届けてくれた!社交辞令じゃない心遣いに、ありがとう。
友達、家族に恵まれてる私は幸せなんだろうな。沢山の人に幸せを......皆が幸せになって欲しい。
事件の少し前に姉と2人でイギリス一周バックパッカーをした。今でもCanadaに続く大切な楽しかった思い出。帰国の時、ヒースロー空港でロンドンバージョンのマイルドセブンを買った。Kへのプレゼントだった。事件の日、渡そうと鞄に入れていった。......渡せなかった。

●10月25日
 これからいよいよEMDR。久々にバスに一人で乗る。気持ち悪い。フラフラ。お腹も痛く、PDも出るので多めにとん服薬を飲む。座っているのが精一杯。イスに完全にもたれる。
 昔は外の景色を見るのが好きだったのにな。
 カウンセリング終了。
 やはりとても良い先生。気持ちが先走らず、ゆっくりと心の内を出していける。
先ずは家族構成~育った環境等。そして事件前までの辛かった事の問答。小~中の差別の件を話し、その中でも一番嬉しく思った記憶を思い出しながら胸をトントンと。リラックス法。これもEMDRの一種らしい。その時は高校時代の恩師の言葉と顔を思い出す。名前を忘れてしまった......。
 あと、母方の祖母の言葉も思い出した。
それを何度か行ううち、胃腸の辺りが軽くなった。胃が空っぽになる感。良い意味で。ここ十数年そんな空腹感(自然な)は無かったから不思議。先ず一つのトラウマが薄れる......抜けていったと思う。先生曰く、まだ事件については触れないで、小さなことの心の安定化からと。そしてそれを10回くらいは必要だろうとの見解。一本ずつ紐解いていってくれる。私には最適な治療法だと感じた。その後、篠田さんとのやり取りの事も伝え、「話の後でフラッシュバックが酷くなったりしたら時間を短くしたり、間を空けるのがいいでしょう」と。
 私のこの意志を前向きに「OK」と言ってくれて良かった。次回、事件のコピーを先生にもお渡しする。
 そして今日の最後にリラックス法を教えてもらった。毎日の日課に出来ればな。
 この先生は本当に素晴らしい。やっと信頼・安心できる先生に出会えたのかもしれない。私の治療が上手くいけば、今後他の方々への光にも繋がるかもしれない。相性・適合はあるが、少なくとも0ではない。


(続く)>>

 
 〔編集部より〕さる2013年5月10日、横浜地裁で出版社「現代書林」及び関係者に無罪判決が出されたことは月刊『創』7月号に書いたが、この事件について詳しく報じた『創』2012年1月号「薬事法違反容疑で『現代書林』逮捕事件の行方」をここに公開する。無罪判決が出たことでこの事件、改めて注目されているのだが、言論出版のあり方に関わる大事な問題を突きつけていると言える。


 
 最初の家宅捜索は1月25日だった
 
 新宿区にある出版社「現代書林」が最初に家宅捜査を受けたのは、2011年1月25日のことだった。
「午前中、トントンとドアを叩く音がしたので開けると5~6人の背広姿の人たちが立っていました。何だろうと思ったら、『神奈川県警です』と言うのです。薬事法違反容疑で、というのですが、話を聞くだけかと思ったら、いきなり強制捜査だったのです」
 そう語るのは坂本桂一社長だ。同社は隣接する2つのビルに分かれて事務所があるのだが、それぞれ数人ずつ、計10人以上の捜査官が訪れていた。
「契約書はないか、とか言われたのですが、問題とされた本はもう10年近く前に出版したものですからね。押収する資料もあまりなく、2時間あまりで引き揚げていきました」(同)
 その本とは2002年4月に出版された『医師・研究者が認めた! 私がすすめる「水溶性キトサン」』だった。中木原和博・中井駅前クリニック院長が監修、医療ジャーナリストの石田義隆氏が執筆したものだ。健康食品「水溶性キトサン」について医者や専門家の話をまとめたもので、実際に試してみた体験者の証言も掲載されていた。当時よくあった健康食品本で、発売当時は巻末に取扱店のリストも掲げられていた。
 その巻末に一番目立つように連絡先が記載されていたのが、八王子に本社のある健康食品メーカー「キトサンコーワ」だった。同書は1万部発行されたのだが、同社がそのうち5000部を買い取っていた。現代書林では、その3年前にも『「水溶性キトサン」衝撃の治癒力』という本を出版。同じように買い取りがなされていた。同社では自費出版の一種と考えているようだが、事前に企画部という部署が交渉をして制作費などを負担してもらうというビジネスのやり方が多かったらしい。この本の出版当時は、8年前に退社した武谷紘之元社長が企画部の統括をしていた。
 当時は健康食品ブームで、体験者の証言などを載せた本の出版と抱き合わせで健康食品を販売するやり方は「バイブル商法」と呼ばれていた。現代書林の本でも「水溶性キトサンで直腸ガン、肝臓ガンに打ち克つ」などという体験記が掲載されていたが、特定の商品「キトサンコーワ」のPRでなく、それに含まれる「水溶性キトサン」について解説した本、しかも第三者のきちんとした取材に基づくもので、いわゆる「バイブル本」とは違うというのが同社の考え方だった。
 薬事法は第68条「承認前の医薬品等の広告の禁止」をうたい、「認証を受けていない医薬品について、その名称、製造方法、効能、効果又は性能に関する広告をしてはならない」と定めている。制定当時はもちろん広告といえば新聞・放送の広告を想定していたのだろうが、今回問題になったのは、それを紹介した書籍である。警察・検察は、これを「広告」のひとつとみなしたわけだが、現代書林側は、それは一方的な拡大解釈で、問題の本が違法にはあたらないという主張である。
 かつて一時期、「がんに効く」といった健康食品本はブームになっていたが、 現在はあまり見かけない。実は2003年に健康増進法施行に伴い、書籍も一定の基準を満たした場合は広告物とみなすという厚生労働省のガイドラインが示されたからだ。これを機に、その類の本は一斉に姿を消した。現代書林でも、適法であると考えつつも、慎重を期して、それまで出版していた健康食品本を絶版にするなどし、今回問題になった本も、巻末の取扱先リストを「一丁切り」という方法で切り取っていた。
 既に一般書店への出荷もほとんどなかったから、事実上絶版になっていたような本なのだが、それがなぜ今この時期に捜査の対象になったのか。しかも健康食品メーカーのほかに、出版社も罪に問われ、編集者やライターが4人も逮捕されるという大事件になったのか。12月 27日から始まる裁判を見ないと背景などよくわからぬ点も多いのだが、編集者やライターがいきなり逮捕されるという今回の事態は、言論・出版の自由という観点からも大きな問題を提起しているように思う。そうした点への考察の前に、まず1年近くにわたった捜査の経緯をたどっておこう。

 捜査の過程で変更された公訴事実

 最初の家宅捜索の後、担当編集者が神奈川県警に呼ばれ、事情聴取を受けたのは、2月に入ってからだった。
「その時点では、弁護士にも相談して『それほど心配しなくてもよいのでは』と考えていました。出版社としては関連して事情を聴かれているだけだろうから、静観していればよいのではないか、という受け止め方でした。
 ところが次にゴールデンウイーク前に再び編集者が呼ばれ、行ってみたら、被疑者になっていたのです。同時に出版当時の元社長や執筆したライターの自宅へも警察が来て、取調べを受けたことがわかりました。
 元社長の武谷は、今は業務を全く離れており、軽井沢に自宅があるのですが、そこにわざわざ神奈川県警が出向いたようなのです。その時はただ話を聞くだけで帰ったのですが、その後警察に呼ばれたので弁護士に聞いてみると、任意だから行く必要はないだろうというアドバイスでした。だから上申書を提出することにしたのです。私も5月に入ってから上申書を提出したし、弁護士から意見書も提出しました。
 薬事法違反という容疑は聞かされていたし、取調べの過程で、メーカーのキトサンコーワが弊社の本を一緒に送るというセット販売のようなことをやっていたらしいとも聞かされました。でも当時だってセット販売はやってはいけないというのが業界の常識だったし、もちろんキトサンコーワが買い取った本については弊社としては全く関知していません。
 警察からはキトサンコーワとは接触するなと言われていましたから、私たちは、具体的に何が問題になってどういう捜査が行われているのかよくわからなかったのです」(坂本社長)
 ちなみに、後に10月6日、関係者が一斉に逮捕され、翌7日に勾留された時点での勾留状によると、被疑事実として、キトサンコーワが2009年6月から翌年7月にかけて6人に書籍を発送したことが、「広告」にあたるとされ、また、書籍を製作したことが、医薬品販売行為の「幇助」にあたるとされていたのだが、10月26日の起訴状での「公訴事実」からはそれらがいずれもなくなっていた。それに代わって、09年から11年にかけて一般書店でその本を販売・陳列していたことが「広告」にあたるとされていたのだった。警察はセット販売を想定して捜査を始めたようなのだが、どうもそれで立件はできないということになったようなのだ。
「いや、もし仮にセット販売が行われていたとしても、それが直ちに薬事法違反にあたるということにはならないと思っています」
 そう語るのは、現代書林側の弁護人を務める永野剛志弁護士だ。今回、4人もの逮捕が出たことで、弁護側も4人の弁護士が弁護団を構成することになった。永野弁護士によると「今回の警察・検察のやり方は不可解であり、憤りを感じることばかりで、そもそも関係者を逮捕する必要など全くなかったのではないか」というのだ。

 執筆者の自宅にもいきなり家宅捜索が

 前述したゴールデンウイーク直前の神奈川県警の動きについて、もう少し紹介しておこう。今回逮捕・勾留されながら勾留満期で不起訴となったライターと元社員に話を聞いた。
「4月28日の朝8時過ぎでした。自宅に突然警察官4人が訪ねてきたのです。
神奈川県警だと言って、いきなり捜査令状を見せられたのでびっくりしました」
 そう語るのはフリーライターの石田義隆氏(54)。問題の本の執筆者だが、編集者の指示で取材執筆をしただけで、買い取りの件などキトサンコーワとのやりとりには関わっておらず、なぜ逮捕までされることになったのか、いまだにわからないという。
「警察は段ボールを用意してきていて、パソコンの本体や書籍、名刺、ノート、帳簿などを押収していきました。さらに私は千葉県の市川市に住んでいるのですが、市川署まで来てほしいと言われ、そこで10時から午後4時頃まで取調べを受けました。
 どういうふうに取材をしたのかとか、いろいろ聞かれました。『体験者の中には、そんなことは言っていないという人もいるが、ウソを書いたり誇張して書いたりしてないか』などと言っていましたね。
 容疑が薬事法違反であることも聞かされ、『本に販売先のリストも載っているのだから、これは広告でしょう』と言われました。私はよくわからなかったものだから、その時は『大きな意味で言えばそうかもしれませんね』と言いました。後にこれが、容疑を認めたと報道されてしまったようなのですが、その調書の記述についても、私はそういう意味で言ったのではないので訂正してほしいと後で言ったのですが、応じてもらえませんでした」
 家宅捜索を受けるだけでも大変な経験だったが、後に10月6日に逮捕にまで至る。「信じられませんでしたね。日本でこういうことがあるんだ、と思いました」結局不起訴になるのだが、実名報道されたことで近所にも知られることになり、打撃は測り知れないという。
 もうひとり後に逮捕された元社員H氏も、連休直前に取り調べを受けていた。ちなみにこの元社員は、2年前に現代書林を退社し、2011年春に二度目の転職をしたばかりだった。入社して約半年でいきなり逮捕されたわけで、転職先の会社も驚いたに違いない。不起訴となったことで会社側も理解してくれたが、起訴されていたら解雇された怖れもあった。
 H氏は現在の会社にも迷惑がかかるからと取材を受けるにも慎重で、記事にする際には匿名でという条件で話を聞くことができた。問題とされた本の出版当時は現代書林企画部に所属し、武谷元社長がキトサンコーワとまとめた契約に基づいて契約書作成などにあたったという。
 実際の取材・執筆は、ライターと起訴された編集者が行ったのだが、H氏も取材などに同席することはあったという。
「連休直前だったと思いますが、転職中で自宅にいたら突然、神奈川県警南署の刑事から電話があって、話を聞きたいので来てほしいと言われたのです。1週間ほどして南署を訪れ、午後1時から6時頃まで事情を聞かれました。調書には既に『被疑者H』と書かれていたので、『私は容疑者なのですか?』と聞いたら、刑事は『その通りだ』と言いました。
 取り調べに入ると、刑事はいきなり本を取り出して、『これは誰が見ても広告だろう』と言うので、私はそういう認識ではないと答え、押し問答になりました。それからキトサンコーワに販売した5000部の使いみちについても訊かれたので、『それは知らない』と答えると、『そんなはずはないだろう』と、またも押し問答になりました。押しの強い刑事で、私の言うことなどなかなか聞いてくれませんでしたね」
 この間、今回起訴された現代書林の編集者らも事情聴取を受けているし、坂本社長の上申書や弁護士の意見書など、現代書林側は何通もの文書を提出している。そして7月6日には、問題とされた本を印刷した印刷所にも刑事が足を運んでいる。
「印刷屋さんがびっくりして連絡してきたのです。印刷部数などは既に警察に教えていたのに、わざわざ確認しに行ったようです」(坂本社長)
 この7月初めの動きを最後に、捜査の目立った動きはなくなった。3カ月ほど全く動きがなかったために、現代書林側は、もう嫌疑が晴れたのではと思い、弁護士と相談して、押収された物の返却を求める書類を提出しようと考えていたという。その文書を出そうとしていた矢先の10月6日、突然、一斉逮捕が行われたのだった。

 青天の霹靂だった10月6日の一斉逮捕

「私は朝早く起きるのが習慣で、その日も風呂に入っていたのですが、6時少し前、風呂から上がると、突然、元社員で今はフリーの編集者をしている知人から電話があったのです。ネットか何かのニュースで『きょう逮捕へ』と報道されていたというので知らせてくれたのです」
 逮捕の日のことを、そう語るのは坂本社長だ。
「私も驚いて、それまで取調べを受けていた誰かが逮捕されるのだと思い、片っ端から電話を入れました。まず編集者の自宅へ電話すると、奥さんが出て、『さっき連れて行かれた』と言われました。次にライターに電話すると、奥さんが出て、『今取り込み中です』と言うのです。元社長と元社員については、電話をしてもつながりませんでした。
 大変なことになったと思い、とにかく会社へ行かなくてはと、7時頃出社しました。各方面と連絡をとって、どうも4人が逮捕されたらしいことを知りました。
 警察が会社へ家宅捜索に来たのは9時か10時頃でしたね。たぶん10人以上来たと思います。帳簿類やメモ、パソコンのデータなどを押収されたのですが、特にパソコンのデータは、特殊な機械を持ってきていて本体からコピーしていくのですが、それに時間がかかり、引き揚げていったのは昼過ぎでした」
 坂本社長が電話した時、「取り込み中」だったライターの石田氏の状況はどうだったのか。本人に聞いた。
「朝6時半頃でしょうか、私は寝ていたので家内が出たのですが、神奈川県警の刑事4人がいきなりやってきたのです。家宅捜索令状を持ってきていて、最初にパソコンや本を押収されました。4月の時と違って今回はパソコン一式、キーボードやモニターも押収されました。
 その捜索が一段落したところで逮捕状を示され、『逮捕します』と言われたのです。『共犯者もいるし最低10日は帰れない。もしかすると20日くらいかかるかもしれない』と言われたので、自分の部屋で着替えや少しのお金などを用意しました。ちょうど締切が幾つか迫っている時だったので、家内に連絡してもらわないと迷惑がかかる。どこへどういう連絡をするか、メモに走り書きをしました。
 家を出ると車が用意されていて、そのまま湾岸道路を経由して横浜南署まで連れていかれたのです。警察署に入る時にはテレビカメラ2台、スチールカメラ2台が待ち構えていました。私はその時になっても事態が信じられず、何かの間違いだ、話せばわかってもらえるはずだと思っていました。でも結局、10月26日まで満期勾留され、連日取調べを受けたのでした」
 元社員H氏の自宅にも朝6時半過ぎに刑事4人が訪れた。
「私は朝早く家を出るので、その日もちょうど出かけようと準備していた時だったのですが、6時半頃いきなり呼び鈴が鳴ったのです。『神奈川県警南署の者です』と言って刑事4人が立っていました。『家宅捜索令状が出ていますので協力して下さい』と言うのです。
 家宅捜索といっても、本が出てから10年近くたっているし、現代書林を退社して2年もたっていますからね。押収するものなどほとんどないのです。結局、30分ほどして簡単な書類やノートパソコン、履歴が残っている携帯電話などを押収した後、『これからあなたを通常逮捕します』と言われました。20日間は帰れないと言われたので、指示されるまま着替えやタオルなどをカバンに詰めました。『カード類など余計なものは入れないで下さい。帰りに使う定期券などと身分証明書は構いません』ということでした。
 それから1時間半ほど車に乗せられて、横浜南署へ連れていかれました。留置されたのは都築署でしたが、その日の取調べは南署で、9時半から昼食をはさんで午後も、さらに夕食も取調室で弁当を食べ、夜まで行われました。昼に弁護士さんが接見に来てくれて、『20日間で終わりますから頑張って下さい』と激励されました。取り調べを終えて都築署に移されたのはもう夜8時過ぎだったのではないでしょうか。着いたとたんに『もうすぐ寝る時間だ』と言われました」

 連日行われた厳しい取り調べ

「逮捕の日から21日間身体拘束されましたが、取り調べがなかったのは1日だけでした。その間、地検の取り調べも9回も受けました。
 26日に釈放されるのですが、その日も昼前から検事の取調べがありました。釈放されることは教えられなかったので、手錠・腰縄姿で護送される時、『これは長くなるなあ』と思いましたね。本当は夜に釈放だったらしいのですが、弁護士が掛け合ってくれたようで、午後1時過ぎに都築署に戻ってからいきなり『釈放だ』と言われました。1時53分、釈放でした」(元社員H氏)
「取調べは連日、朝9時半か10時から昼まで、1時間半くらいの昼食時間をはさんで午後も1時半から5時まで。後半には5時を超えることもありました。神奈川県警本庁から来たという刑事が、自分でパソコンを打ちながら取調べをし、もうひとりが立ちあっているのですが、とにかく時間がかかる。毎日取り調べるほどの内容だとは思えないのですが、細かい事実を何度も訊いてくるのです」(ライターの石田氏)
 逮捕直後から現代書林側もすぐに体制を整え、弁護士4人が交代で連日、分散留置されていた4人に接見を行った。
「弁護士さんが最初に接見に来たのは逮捕された当日の夜9時半頃でした。私が曖昧な答え方をしたため、容疑を認めたかのような調書をとられてしまったことについても、弁護士さんからアドバイスを受けました。その後、弁護士さんは、交代で毎日、時には1日2回も接見に来てくれました」(石田氏)
 逮捕者への取調べと並行して、警察は関係者を何度も呼び出して事情聴取を行った。現代書林の社員も何度か呼ばれ、坂本社長も神奈川県警に1回、横浜地検に2回呼ばれている。
 結局、勾留満期の10月26日、逮捕された4人のうちライターの石田氏と元社員は不起訴で釈放され、元社長と現役編集者が起訴された。
「その日10時55分、突然、もう帰っていいからと釈放されました。不起訴になったことも後で聞きました。釈放の時は理由も何も説明されないのです。外へ出て誰か迎えに来てないかと思ったら誰も来てない(笑)。帰り道もわからないので警察に訊きましたよ」(石田氏)
「起訴された2人についてももちろん保釈申請はしています。元社長は72歳と高齢で、膠原病と糖尿病を患っており、膠原病では一時生死の境をさまよったこともあったほどです。編集者も不整脈で薬を飲んでいます。そういう健康状態を訴え、早く保釈してほしいと申請しているのですが、今のところ認められていません」(坂本社長)
 起訴された2人はいまだに保釈されず接見禁止も解けていない。否認をしていると保釈も認めないというこういうやり方は非難も多いのだが、検察側は強気のようだ。早く公判を開始して、保釈をという期待もあって弁護士がかけあって、第一回公判は年末、12月27日に行われることになった。キトサンコーワの女性社長も容疑を否認しており、被告3人の統一公判となる。
 永野弁護士に丸の内の事務所で話を聞いた時に、問題の商品『キトサンコーワ』を見せられた。
「裁判ではこれが薬事法上の医薬品にあたるかどうか問われることになりますが、見ていただければわかるように、効能も書かれていないし、むしろ「健康維持食品」とはっきり明記されている。これを販売したからといって、薬事法に定める医薬品の販売にはあたらず、薬事法違反にはならないのです。
 裁判の争点は幾つもあると思いますが、今回の書籍がその『広告』にあたるかどうかも問題です。この本をキトサンコーワという商品の『広告』と言うのは、どう考えても無理があります。この本はそのほとんどの部分が水溶性キトサンについて書いたもので、キトサン自体は専門家にも認められ、それについての学会もあるくらいです。
 さらに10年近くも前に発売された書籍がどうして今頃になって問題になるのか。万が一、薬事法違反が認められたとしても、既に時効が成立していますからね」(永野弁護士)

 「捏造」「改ざん」など報道をめぐり提訴も

 問題の書籍が薬事法違反にあたるかどうかは裁判で争われることになるのだが、それと関連して現代書林が憤っているのは、逮捕時の報道だ。「効能の証言 捏造か」(朝日新聞)「内容『ほぼでっち上げ』」(神奈川新聞)などと、薬事法上の問題と別に、この本自体がでっち上げだという報道が新聞などでなされたのだ。
記事を読むと、明らかに警察情報に依拠しているのがわかる。意図的なリークと言ってもよいかもしれない。
 警察は捜査の過程で、本に登場している医師や専門家にも事情を聞いているのだが、一部の医師の中には「取材を受けた記憶がない。名前が勝手に使われたのではないか」などと言っている人がいるというのだ。坂本社長が憤慨して語る。
「本を見てもらえばわかりますが、ちゃんとインタビューし、実名も写真も載っている。こんなものを無断で捏造するなんてありえないでしょう。ちゃんと取材対象者には本も送っているし、謝礼も払っています。だいたい、本が出て10年近くたっているのに、これまでそういう人からクレームが来たことはなかったですからね。
 捏造だという報道がなされたので、弊社としても当時取材させていただいた方々に連絡をとっています。確かになかには、もう10年近くも前のことなので『覚えていない』という人もいます。『でも、先生から頂いた謝礼についての自筆の請求書がこちらに残っているのです』と説明しました。いずれにせよ事件に関わりたくないという思いはあったと思うので、警察に事情を聞かれた時に、『知らない』と答えたケースもあるのではないですか」
 監修者となっている医師も薬事法違反の容疑をほぼ認め、自分が語っていないことが本に書かれているという趣旨の供述をしていると言われるが、この医師は東京のクリニックをやめてしまったようで、連絡がとれないという。この医師は書類送検となっているのだが、恐らく裁判でこの供述は検察側から証拠調請求されるのではないだろうか。
 本を作るにあたっていい加減な取材・編集がなされていたかどうかは、直接薬事法違反かどうかの争点にはならないが、裁判所の心証形成には意味を持ち、情状に関わってくる。しかも、何よりも現代書林はいまだに出版社として活動しているのだから、ここのところは死活問題でもある。
「いくら警察がそう言ったとしても、裏をとらず誤ったことをそのまま報道したというのでは責任は免れない」(永野弁護士)
 現代書林側は既に神奈川新聞などを相手に名誉棄損等の損害賠償請求訴訟を提起することを決めているという。
 裁判が始まってみないと、まだわからない点も多い。だからこのレポートは引き続き裁判の経緯を伝えるつもりだ。しかし、事件全体を通して気になるのは、フリーライターや編集者をいきなり逮捕してしまうという、今回の捜査のあり方だ。逮捕をしなくても取り調べを行うことは十分可能だったはずなのに、敢えて一斉逮捕に踏み切った背景には、警察側の思惑があったとしか思えないのだ。
 逮捕後の報道に使われた写真や映像には、1月の家宅捜索の時に警察が撮影したと思われるものも含まれていたという。警察としては、この事件のインパクトを強め、大きく報道させて社会的警告を発したいという意図が読み取れるのだ。
 言論・出版に携わる者が突然逮捕されるという事態が前例となっていけば、必ずそれは萎縮効果をもたらすだろう。たとえ裁判で被告が無罪となっても、そういう萎縮効果がじわじわと出版界に影響をもたらす怖れもある。その意味では、この裁判は単に薬事法の問題だけでない側面を持っているともいえる。
 二度目に夜遅く取材に訪れた時、坂本社長は社内に一人残っており、「逮捕からずっと私は会社に泊まり込んでいるのですよ」と語っていた。現代書林側は、裁判で全面的に争うつもりだという。

篠田博之