テレビ最終落ちで広告会社に内定

S君/全国紙・大手広告会社他内定


 転勤族かつ、両親が共働きの家庭で育った私にとって、数々の情報源であるメディア(特にテレビ)と一人でも遊べるということで始めたサッカーが娯楽であった。もちろん小学校の卒業文集の将来の夢には、サッカー選手orテレビマンと書いていた。
 欲張りな私はその2つの想いを実現したいと考え、テレビ局のスポーツ局を志望。ただ中継や取材をするだけでなく、スポーツ選手の内側に迫ったドキュメンタリーやバラエティー制作に興味を持った。第一線でプレーしていたことから選手目線はもちろん、審判や指導者としてもサッカーに関わってきたので、苦悩や現状を伝えたいと考え、就職活動を始めた。
 第一志望であったテレビ業界の持ち駒が無くなった後、失意のどん底に。しかし自分を見つめ直した結果、3歳から休まずサッカーに打ち込めたモチベーションはスポーツ番組の報道ではなく、自らが参加するサッカー大会である事に気づく。スポンサーの財政的問題から大会中止に直面した事もあり、「未来の子供たちが力一杯にサッカーに打ち込める環境を作りたい」と考え、大手新聞社のビジネス部門と大手広告会社を志望。運よく両社ともに内定した。

 インターンシップが就活のはじまり

 3年生の6月。テレビ東京、テレビ朝日のインターン応募が私の就職活動の始まりだった。大学の先輩で各社内定者がいたので、無理を承知に何度も添削をして頂いた。
 その結果、2社共に書類通過。ホッとする暇も無く、面接練習へ。そこで先輩に「君は自己PRや学生時代に頑張ってきたことのネタの数は他の学生に負けないと思う。だけど “見せ方・魅せ方” が下手だね。それでは人を引き付ける番組は作れない」と言われた。考えてみれば1の面白さを100の面白さに見せるのが番組制作の肝だと感じた。そこからは自分という商品を魅力的なモノにプロデュースするという意識のもと、面接練習に取り組んだ。
 テレビ東京インターン1次面接が面接デビュー戦。自信はあったが、質問内容を忘れるくらい緊張。一通り、自己PRや志望動機が終わり、面接も終盤。無難な感じだったので、正直落ちたと思った。「何か印象付けたい!何か糧となるものを得たい」と考え、「最後に一言は?」という質問に、幼い頃からテレビマンになりたかったという夢の話とそれを実現する為にインターンに行きたいと語った。正直、話自体長かったし、一言ではなかった。でも言い終わった後、気持ち良かった。
 結果はまさかの通過。電話越しに何故、合格の理由を聞くと、「最後の言葉から“本音”を感じた」と言われた。その後のテレビ朝日の面接でも自分の見せ方に注力し、熱意を伝えた結果、インターンに参加でき、順調なスタートを切れた。

 日本テレビは 3次面接で敗退

 インターンが終了してからは日本テレビの選考が近いということもあり、本選考対策として、およそ300個の質問問答集を作成。一つ一つの質問に自分を最大限出せるように、時間を掛けて作成した。それらをOBOG訪問の際に渡し、質問と回答の肉付けをした。
 本選考一発目は日本テレビ。ES課題の量にボリュームがあることで有名だ。書類を通過し、1次面接へ。インターン面接やOBOGとの面接練習で自信をつけて挑むも、本選考という独特の雰囲気に圧倒された。終わった後に何を聞かれたか振り返っても思い出せないほど緊張していた。ただ、元気な挨拶、受け答えだけを心がけた結果、1次通過。
 2次も緊張でガチガチに震えていたが、「面接だと思わないで。素直に思っていることを話してください」という面接官の気遣いに落ち着きを取り戻した。面接では会社に入って何やりたいのか、なぜうちなのか?ということを中心に聞かれた。OBOG訪問を通して、業界・企業研究をしていたため、この手の質問には準備していた。その結果もあり、2次も通過した。3次は筆記試験だ。
 筆記対策は毎日、新聞を読むことしかしていなかったため不安ばかりだった。開始されると、クリエイティブ問題ばかりで冷や汗が止まらなかった。必死に埋めた結果、何とか通過。しかしその後の3次面接で敗退。面接の雰囲気は良かったが、面接終了直前に面接官に「学生っぽさがないな」と言われた。その一言が直接的な原因ではないが、確かに変に背伸びしていて、学生の持つ初々しさ等が欠如し、部下にしたいという印象が無かったと考える。志望度が高い企業だけに、悔しかった。この悔しさを味わいたくないと感じ、日々着々と面接練習・筆記対策を怠らなかった。
 1月からはES締切のラッシュ。1月、マスコミではキー局(TBS、フジテレビ、テレビ朝日、テレビ東京)、準キー局(読売テレビ、毎日放送、関西テレビ、朝日放送)、名古屋の放送局、広告会社(博報堂、ADK)、東宝などのESを提出した。自由記述の課題(例えば、学生時代に頑張ってきたことをA4用紙に記入)に関しては年末までに約20人のOBOGに添削して頂き、予め作成した原稿を会社ごとに分けて使用。必ず締切の3日前までには提出を完了した。そこから結果発表までの期間は一人になると不安になるので内定者、OBOGに面接練習を依頼し、その時間に当てた。ESに関しては、提出した企業全てで通過した。

 テレ朝、フジテレビなどともに最終落ち

 面接は1月21日のニッポン放送1次面接を皮切りに、ほぼ毎日面接があった。日頃から練習していた成果が出たのか、各社、1次〜役員前までの面接に関しては、殆ど通過。入社1年目などの若手社員から部長クラスのOBOGにはお会いしていたので、面接もそこまで緊張することなく臨めた。しかし、役員面接になると会場の雰囲気が変わる。何とも言い難い重々しい空気。質問の内容もインコースをついてくる難しい質問で、かつ、リアクションは薄い。会社によってはわざと圧迫しているようにも見えた。その空気に圧倒され、普段の自分が出せず、敗退する日々。更には、その面接会場に居る受験生も華々しい経験をしている人が目立って見えた。「こういう人たちがテレビ局には必要なのか」とも考え、ネガティブに考え始めた。
 この状況を一人ではどうしようもできないと考え、時間の合間を縫って再びOBOG訪問。その際に「何万人も受験するテレビ局。他の受験生との差別化が図れないと、内定は厳しい」と言われた。自己PRなどの軸は変えずに、他の受験生との差別化を意識し、見せ方を変えて挑んだ。迎えた朝日放送の1次面接。私は関西出身であるため、第一志望であった。意気込んで挑むも、結果は1次面接落ち。初めての1次落ち。どうしようもない気持ちでいっぱいになった。
 何が良くて、何が悪かったのか。完全に正解発想に陥っていた。そして落ちた原因を分析する暇も無く、テレビ朝日・関西テレビ・フジテレビの最終面接を迎えた。「あと1歩で内定。この面接を突破できれば、夢を実現できる権利を得られる」とにかく今まで味わったことのない緊張と興奮から平常心ではいられなかった。特にサッカーのテレ朝と言われるほど、サッカー番組・中継に力を入れているテレビ朝日と、学生が就職したい企業ナンバー1のフジテレビの最終選考に残れたということで、相当な倍率を勝ち上がったという自信があった。いつも通り自信満々にドアをノックし、元気良く挨拶するも、無反応。今までの面接とは完全に空気が違った。
 質問の内容も、テレビ朝日では『2011年 新聞・テレビ消滅』を見せられ、「これでもテレビで働きたいの? そもそもテレビは無くなると思う?」、フジテレビでは「スポーツは数字取れないけど、それでもスポーツやりたいの? やる価値はあるの?」や「スポーツジャーナリズムから見た、日本代表に対する報道についてどう思う?」等、鋭い質問ばかりであった。質問に答えても、反応はイマイチ。今までの人生では感じたことのないくらいの温度差を感じた。それでも諦めず、必死に答えた。結果発表までの間は生きている心地がしなかった。そして、残念ながら電話が鳴ることはなかった。

 マスコミ3社の内定 電話のたびに号泣

 朝日放送と同じように他の受験生との差別化を図り、挑むも3社ともに最終落ち。失意のどん底に。気付けば他のキー局、準キー局の選考は終わっており、長年の夢であったテレビマンにはなれなかった。しかし、迫り来る広告、新聞社など他のマスコミ面接。目の前の面接に食らい付く日々。どうしてもマスコミ!という思いが強かったので、時間があるときにはビデオカメラを用意し、面接練習の様子を友人と撮り合った。
 その映像を見ると、面白くなかった。本番もこのような面接で挑んでいたのかと思うと落ちた原因が明確になった。確かに差別化を意識して挑んだ面接は、終わった後、気持ちよくなかった。それは私の売りでもある熱意が中途半端にしか伝わっていないと感じた。そこで再度、原点に立ち返った。
 第一志望であったテレビの選考も最終面接3社も落ちたことで傷心していた4月。マスコミ以外の会社数社から内定を頂けて気持ちに余裕が出てきた。「マスコミなんて一握りの人しか行けない狭き門。想いをぶつけて、納得したカタチで就職活動を終えよう!」そう考え、選考が進んでいた大手新聞社と大手広告会社の選考に懸けた。
 この時の面接は業界が不安定な時期であることから、厳しい質問も次から次へとされた。しかし、自らが考えている業界のこと、会社のこと、そして将来私ならこうしたいというビジョンをとにかく熱く語った。すると、「君には勢いがあるね。頼りにしてるよ」など面接中にフィードバックを頂くこともあり、面接中とにかく笑顔が絶えない空気ができた。この時に初めて、会話(言葉のキャッチボール)ができたと感じ、あっという間に時間が過ぎていった。全勝とまでは行かなかったが、大手新聞社、大手広告会社の合計マスコミ3社から内定を頂け、納得した形で就職活動を終えられた。普段はクールな私も、内定通知の電話を頂く度に、号泣した。

 就活を通して人生を学んだ

 私は就職活動を通して、大袈裟であるが人生を学んだ。
 大学までの受験は問題が出されれば正解が必ず一つある。その正解を求めて、努力さえすれば結果は伴う。しかし、就職活動における選考では正解は無い。選考員との相性、その会場の雰囲気などあらゆる要素が重なり、判断される。「就活は運も大事だよ」と言われる所以はここにあるのではと感じる。「何であいつが通過で俺が駄目なんだ」なんて思わず、自分の納得した形で就職先を見付ければ良いと思う。
 関西テレビ、フジテレビを最終で落ちた際にはショックで就職活動から逃げようと考えた。しかし、普段あまり話すことのない父が言った言葉から再度頑張ろうと奮起できた。
「就職活動での失敗(落ちる)なんて悲しむのは本人と家族など親しい人くらい。社会に出たら自分自身、家族、親しい人だけでなく、クライアント、はたまたそのクライアントの家族まで路頭に迷わせるかもしれない。そう考えると就職活動なんてまだ気が楽な方だろ」
 この一言は効いた。父は就職活動を経験していないが、社会の第一線で働く父の言葉は重みがあった。これをキッカケに自分がやりたいこと、やってきたことのブラッシュアップだけでなく、どういった社会人になりたいのかを深く考えるようにした。そのようなことを考えると、物事一つ一つに深みが出てきて、面接でも面接官との会話が盛り上がった。
 就職活動は自分を見つめる良い体験となった。そして、内定した今は、支えてくれた両親、家族、親しい人達に恩返ししたいと強く思うようになった。
 就職活動は孤独な戦いと言われるが、周りの支えが内定に繋がると感じた。

【最後にアドバイス】 ◎大人と対話してください。面接の場では話している内容は勿論のこと、身だしなみや服のセンスなど細かく見られることがある。
 普段から接する機会があれば緊張軽減に繋がると思う。
◎面接で緊張しがちの方は、面接官を親戚のおじさん、おばさんと話している感覚で話せば、選考と気負いせず、一気に会話の意識へと変わる。言葉のキャッチボールを心がけましょう!
◎就活マニュアル本ばかりにとらわれず、 “自分” を確立しよう。
 ESの書き方が分からないから、面接で何を聞かれるか不安だから就活のマニュアル本に頼るのはよく分かる。だけど貴方の人生において経験してきたことは唯一無二のこと。本に書かれてある一種の受け売りの言葉ではなく、自分の言葉で伝える事に就職活動の本質があると考える。なのでマスコミという伝え手を目指す以上、自分の言葉、目で語って頂きたい。
 皆様のご健闘を祈っております。


出発点はスポーツ記者になりたいという思い

Fさん/全国紙、通信社内定:
1年間の韓国留学を終えた大学4年の1月に、就職活動を始めた。しかし、なかなか気持ちを切り替えられず、しばらくは久々に会う友人たちと遊んでばかりいた。

新聞か出版か放送か思い悩んだ末に…

Kさん/放送局内定:
1年間の韓国留学を終えた大学4年の1月に、就職活動を始めた。しかし、なかなか気持ちを切り替えられず、しばらくは久々に会う友人たちと遊んでばかりいた。


多浪・既卒就活の末、出版社の編集者に

S君/出版社内定:
浪人時代も長く、いわゆる「マーチ」に届かない私大出身の私は、全国から秀才が集い、かつ高倍率であるメディアの仕事に就くことが果たして可能なのか、という不安があった。

一貫して広告志望だった私の就職活動

Yさん/広告会社内定:
「人のための課題解決がしたい」ただの綺麗ごとかもしれない。でも、これが広告業界を目指した私の心からの本音だった。私は小学生のころ、人と話すことが苦手で内気な自分にコンプレックスを抱いていた。