TV報道の仕事で勇気を与えたい

F君/ 東海テレビ内定


「なぜ報道なのか」考え抜いた

 マスコミで働きたいという熱い想いがあれば、頭が良くなくても、名の知れた有名大学でなくても大丈夫。私はただがむしゃらにマスコミ就職戦線を駆け抜けましたが、自分の熱い想いを伝えることで無事に内定をいただくことができました。私は学校の成績が優秀なわけでもなければ、一芸に秀でているわけでもありません。しかし、なぜマスコミを志望するのか、なぜ報道の仕事がしたいのか。この答えだけは何度も何度も考え、納得できるまで悩み続けました。うわべで飾った言葉ではなく、自分が経験して感じてきたこと、考えてきたこと。それを報道の仕へどうつなげていくのか、自分の言葉で説明できるように考えぬきました。
  記者として、悲劇の中から希望の光を見つけ出し報じることによって、人に生きる勇気や元気をあたえたい。そんなふうに私が記者を志すきっかけとなったのは、幼い頃に経験した震災や、高3の春に起きたJR福知山線の脱線事故でした。身近な現場で起きた事件や事故。悲しむ人たちの姿を見ながら、どうにかしてこの人たちに元気になってもらいたい。生きる勇気をあたえたい。悲しみだけでなく、希望を持ってもらいたい。そう思うようになりました。事件や事故で流れる悲しいニースは、見ている側にとってもつらいものです。そんな悲しみの中から、少しでもいいから希望の光を見つけたい。さまざまな現場に足を運ぶにつれ、その現場で働ける記者という仕事を目指すようになりました。
  そして報道の記者を目指して10月頃からマスコミの就職試験が始まりました。最初は日本テレビでした。驚いたのは、エントリーするまでの課程です。Webで志望理由などの入力の後、膨大な書類を提出してようやくエントリー完了です。しかし、多いからといって手を抜く事ができません。ESなどの書類は役員面接まで使われます。徹夜で悩みながら、締め切りギリギリに速達で郵送しました。こんなふうに締め切りに追われながらESを書くという生活が、内定をいただくまで何カ月も続きます。
  そして無事、日本テレビの書類審査に通過し、面接となりました。面接が始まる前に、夏のインターンの面接やアナウンサー試験をいくつか受けていたこともあったので、緊張しないだろうと考えていましたが、その考えは甘いものでした。大阪での1次面接。控え室にいっぱいの受験者。どの顔も真剣で張り詰めた空気でした。面接会場は多くのブースが並び、隣の声も聞こえる中、5分というとても短いものでした。質問も5つくらいしかされません。失敗は許されないというプレッシャーのあまり、私は緊張でガチガチに固まってしまい、うまく答えられず面接中に面接官の人と一緒に深呼吸をするという失態を晒しました。額から噴き出す汗。その瞬間、落ちたと思いました。しかし、最後にチャンスがきました。「何か言い残すことはありますか」という質問に対して、私の報道へのありったけの想いをぶつけました。すると、思いが通じたのか通過することができました。
  東京での2次面接。控え室にいっぱいだった前回と比べ、人数は半分ほどになっていました。面接で好きな番組の話で、他局の番組をあげると、少し嫌な顔をされましたが、「スーパーの出し方が好きなんです」と熱く語ると、「とてもマニアックだね」と喜んでいただけました。そんな調子で面接も終始なごやかな雰囲気で8分ほど面接していただくことができ、無事通過することが出来ました。
  次は初めての筆記試験でした。ほぼ半日をかけてホテルで行われる試験は、体力だけでなく精神力も必要とされるドラマのシナリオ作成、新聞のラ・テ欄を考る問題、記号に絵を描いてタイトルをつける問題などクリエイティブな問題が多く、キー局の中では難
TBSの採用試験も12月から始まりました。またこの時期に、フジテレビの「クリエイターズスクール」というインターンシップに参加し、そこで多くの仲間と出会うことができました。マスコミの採用試験はとても厳しいものですが、同じ業界を目指す多くの仲間と出会えるチャンスでもあります。選考中に励ましあったり、互いに切磋琢磨することで良い刺激になることも多く、そうやって出会った仲間の中には同じ業界で働くことになった人もたくさんいます。仲間との出会いは大切にしたいものです。

日テレ辞退とTBS不合格で振り出しに

 インターンが終わってからTBSの選考が始まりました。1次面接は、8分間、自分が大学時代に力を入れてきたことを重点的に訊かれました。日本テレビで面接を受けていたおかげで、8分という時間にとても余裕を持つことが出来ました。また1対1のため面接官の方もよく自分の人柄を見てくれたように感じました。無事通過。そして2次面接は、A4の紙にTBSでしたいことを3つ書き1分30秒でプレゼンテーションしてから面接というもので、私は悩んだあげく、「1報道、2報道、3、4がなくて、5報道」とシンプルに書き上げました。中には凝っている人も多かったですが、1分30秒という短い時間では説明できなかった人が多かったようです。私の場合はシンプルでわかりやすかったため、面接官の反応もよく、裏に書いた3つの企画案についても、一つずつじっくた。それはそこに表れる人間性を大切にしてくれるからだと思います。内容よりも熱意を見てくれたことがとても嬉しく感じました。そして2次面接も無事通過。筆記試験とあわせて行われた3次面接は、これまでの内容をより掘り下げたものでした。私は震災や脱線事故で見た遺族の姿から、悲劇を繰り返さないためにも報道し続けることの大切さ。しかしながら、その報道によって再び傷つけられてしまう人がいることの難しさも含めて、面接官の方と熱く話をすることが出来ました。
  筆記試験の日はホールで朝早くから社員の方の話を聞かせていただくことができ、その後、漢字、作文、宣伝PR案の試験がありました。試験自体はそこまで難しいものではなかったにもかかわらず、私は漢字が思ったよりもできませんでした。自分では落ちたと思いましたが、通過していました。おそらく面接の内容が評価されたんだと思います。
  4次試験は、面接とGD(グループディスカッション)で、この時点ですでに約50人に絞られていました。日本テレビにくらべると、とても真面目な人が多いように感じました。GDのグループの希望職種はバラバラでした。そのため営の人が矢継ぎ早に話を先導していく中で、私は採用試験でGDをするのが初めてで不慣れだったため、完全に出遅れ、議論についていくことができませんでした。しかも、集団での議論にも関わらず、みんなの議論を無視して自分の意見を貫いてしまいました。GD後の面接でも、いきなり「君のプライドは何?」と聞かれ、焦りながら答えると、「じゃあ君はそのプライドを守るためなら、落ちてもいいかい?」と訊かれ、迷わず「はい」と答えてしまいました。今考えるとそれが落ちても後悔させないための質問だったと気付きますが、その時は必死になりすぎて全BSにどうしても入りたかった私は辞退していました。そして、案の上TBSからの通過の電話もなく、私の就職活動は一気に振り出しに戻ってしまいました。両方ともいいところまで進んだだけに、とてもショックを受けました。しかし、内定者の方や多くの仲間から応援や激励をうけ、なんとか立ち直ることができ、そしてもう一度、「なぜ自分は報道の仕事がしたいのか」、「なぜマスコミなのか」という根本を考え直すいいきっかけになりました。これが本当に私にとって大きかったことだと思います。多くの本を読み、いろんな方に話を聞く中で、あいまいな言葉ではなく、自信をもってはっきりと記者になりたい理由が言えるようになりました。

キー局全滅なれど地方局から内定

 1月の中旬からはキー局・準キー局のエントリーシートの締め切りが次々とやってきます。またキー局の選考で残っていたことがあっても、準キー局では一次面接であっさり落とされることもあります。一番ショックだったのは、朝に東京でテレビ朝日の3次面接を受けて、昼から大阪の朝日放送まで1次面接を受けに大阪まで新幹線で帰った日でした。テレビ朝日の面接は順調に終わり、気分よく大阪まで帰ってきました。朝に東京で面接だったため、大阪の朝日放送は一番時間帯の遅い面接の時間になったのですが、その時にはすでに面接官が疲れ果てている様子でした。いきなり「おもしろいこと言って」など変わった質問ばかりで、自分の言いたいことをうまく伝えることができず、案の定、テレビ朝日は通過して、朝日放送は落ちるという苦い経験をしました。改めて採用試験には運や縁も必要だなと感じた出来事でした。
  無事通過したテレビ朝日の報道の4次選考はワークショップでした。配布された資料をもとに、ある人物に模擬取材し、30分の企画を作というものでしたが、記者会見場に設定された部屋に入った瞬間とても驚きました。1人の取材者が座るその後ろには多くのテーブルが並び、20人ほどの社員の方々がジロリとした目つきで私たちを見つめていました。初めての模擬取材という経験だった私は、その場の雰囲気に固まってしまい、つくり笑いでたじろいでしまいました。完全に空気に呑まれ、いい質問をすることができなかったせいで、良い企画もできませんでした。
  面接でも企画について「何を伝えたいのかわからない」とはっきり言われ、やはりそこで落選。しかし、この経験は記者という仕事東海テレビから内定をいただくことができました。

支えてくれる仲間がいることが重要

 やはりマスコミへの就職活動はとても過酷なものでした。通過して喜ぶこともあれば、落ちて落ち込むこともあります。その中でうまくモチベーションを保つには、やはり支えてくれる仲間がいることが重要だと感じました。私がテレビ朝日に落ちてキー局が全滅したとき、落ち込む私にある人が電話をくれ、「私も以前落ちた時にとても落ち込んだけど、なぜ報道をしたいのか本当に考え直すいいきっかけになった。落ち込まないで。頑張って一緒に働こう」と励ましてくれました。私はその電話のおかげで落ち込みから早く立ち直ることができ、無事内定までた
  採用試験の中では、強い個性をもった人や一芸に秀でた人に出会ったりもします。そんな中で、時に自信を失いそうになることもありますが、自分らしさや強みについてじっくり考えることで、その逆境を乗り越えていってください。
  また、採用試験が忙しくなると、ESの締切に追われる中で面接が続き、寝る時間もなくなってきます。自分がどんな仕事をしたいのか。どういった現場で働きたいのか。しっかりと自分の軸を決め、受ける職種を絞っていくことで、一つ一つの試験に対して全力で向かっていくことができると思います。
  私はマスコミ業界以れから寝過ごしてしまい、遅刻をしてしまいました。そんなことで選考に落ちるのは後悔しても後悔しきれません。忙しくても、体調を整えるのも実力のうちだと痛感しました。
  また選考では必ず実施される筆記試験も重要だと思いますが、それよりももっと大切なのが自分の熱意を面接官に訴えることだと思います。正直な話、私はあまり筆記試験の勉強はしていませんでした。しかし、その分、面接で報道に対する熱意を訴え、筆記試験の分をカバーしました。筆記試験の勉強はしなくていいと言っているのではありません。筆記で失敗しても面接で頑張れば、そこで挽回も可能なのです。面接でも変に話を誇張せず、自分がやってきたこと、学んできたことを自分の言葉で、明るく元気に話せば伝わるはずです。
  採用試験では、自らをよく見せようと自分を作ってしまう人がいますが、いつか必ずボロが出てきます。また、あらかじめ質問を予想し、答えを決めて話す人もいますが、それは会話ではありません。面接では会話を楽しんでください。正直にありのままの自分の姿を見せて、勝負してください。経験上、私はそのほうが内定につながると思います。

内定も決して一人の力ではもらえない

 私はマスコミ業界を受けていく中で、迷うことも不安になることも落ち込むこともありましたが、諦めずに挑み続けました。挑戦すること、そして自分の軸を曲げないことが大切です。内定も決して一人の力ではもらえませんでした。さまざまな場面で、多くの人からの支えや、助けがありました。これからはそうして支えていただいた人たちに恩返ししていく番だと思っています。そして私が支えられたように多くの人の支えになっていきたいと思います。
  まだスタートラインに立ったばかりで、不安や心配もありますが、持ち前の行動力と明るさと元気で突っ走っていきたいと思います。みなさんも元気いっぱい頑張ってください。


出発点はスポーツ記者になりたいという思い

Fさん/全国紙、通信社内定:
1年間の韓国留学を終えた大学4年の1月に、就職活動を始めた。しかし、なかなか気持ちを切り替えられず、しばらくは久々に会う友人たちと遊んでばかりいた。

新聞か出版か放送か思い悩んだ末に…

Kさん/放送局内定:
1年間の韓国留学を終えた大学4年の1月に、就職活動を始めた。しかし、なかなか気持ちを切り替えられず、しばらくは久々に会う友人たちと遊んでばかりいた。


多浪・既卒就活の末、出版社の編集者に

S君/出版社内定:
浪人時代も長く、いわゆる「マーチ」に届かない私大出身の私は、全国から秀才が集い、かつ高倍率であるメディアの仕事に就くことが果たして可能なのか、という不安があった。

一貫して広告志望だった私の就職活動

Yさん/広告会社内定:
「人のための課題解決がしたい」ただの綺麗ごとかもしれない。でも、これが広告業界を目指した私の心からの本音だった。私は小学生のころ、人と話すことが苦手で内気な自分にコンプレックスを抱いていた。