歴史が動く現場に立ち会いたいと記者を志望

C君/ 読売新聞社・NHK内定

「歴史的な出来事の現場に立ち会いたい」と

 友人たちに内定先を話しても、信じてくれる人はあまりいなかった。返ってくる反応は、「もうエイプリルフールは終わってるよ」「どうした? 就活で頭がやられたか」など、ひどいものばかりだ。だが、その反応はもっともなのだ。私は、自分の学部の授業は必修以外にはあまり姿を見せず、一般教養科目であるマスコミ(メディア)関係の授業や政治や社会、国際問題を考察するような授業にばかり出席、同じ学部の友人たちは、あまり授業で見かけない不真面目な落第生(学業成績においては、だが)の烙印を押していただろう。
  入学当初は、自らの学部の勉強に励み、司法試験を目指すつもりだった。ところが、あまりの難しさと授業の退屈さに閉口し、「俺には合わないな」とすっぱり諦めた。資格試験→就職に考え方がシフトし、ぼんやりと記者という仕事に憧れを持ち始めたのは2年生になった頃だった。自分の学部の科目にとらわれず、政治や農業の抱える諸問題、戦争や紛争の歴史、またセクシャルマイノリティーの人々のことなど、多方面にアンテナを張って勉強したり本を読んだりすることを通し、社会の様々な問題と一般市民をつないだり、歴史的な出来事の現場に立ち会い、その目撃者となったりするような仕事をしたいと考えるようになっていた。授業や読書などを通じ、歴史が大きく動く現場にはいつもそうした仕事をする人、すなわち記者の姿があったことを知ったからだ。特に印象深かったのは、大学の授業に来ていただいたある新聞記者の方が、「ケ小平死去か?」という特ダネを打った時の話だった。病院周辺の雰囲気や、病院に向かう黒塗りの車列からいち早くケの身に起きた異変を嗅ぎ取り、裏取りに奔走してスクープを打った逸話に感動させられた。記者は、まさに歴史が大きく動く瞬間に立ち会っているのだ。
  そういうわけで、新聞・テレビ・雑誌の記者か、本や言葉(日本語)が好きだったので出版社の編集者に絞って就活をしようと決めた。といっても、当初は編集者は滑り止めのような位置づけだったが、のちのち、編集者のほうが狭き門だったらしいことを知る。
  就活を本格的に始めたのは3年生の10月も終わりに近い頃だった。それでも、まだ情報を集めるという意識に欠けていた私は、ネットに公開されている採用説明会やインターンシップ募集に気付かず、友達に「○○社の説明会、行く?」などと言われてから慌てて会社のホームページ(HP)を見る、ということが多かった。そのせいで満席になってしまった説明会や、参加できなかったインターンシップもある。
  まずは就職を希望する業界を定め、その業界の会社をブックマークし、こまめにチェックすることを強くお勧めする。また、友だちとの情報網を強固にしておくのは極めて重要で、私も、マスコミ志望者の友人から思いがけない情報をもらえたり、説明会に誘ってもらったりしてだいぶ救われた。

  日テレの面接に緊張で汗が噴き出た

 さて、就活が始まり、一番初めにエントリーシート(ES)を提出し、面接に向かったのは日本テレビ。ESの課題量がものすごく多く、「この分量のESが毎回課されるのか……」と早くも気鬱になっていた。が、日テレが特殊なケースだったようで、その心配は杞憂に終わる。日テレほどESが面倒くさくて分量の多い会社は、少なくとも私の受けた会社ではもうなかった。
  11月の上旬に初の面接。マスコミ志望者は練習としてみんな日テレを受けるらしい。ものすごい数のスーツの学生が汐留に集結する。雰囲気にはのまれなかったが、いざ自分の番になると、初めて異性に告白した時のように緊張をし、いやな汗が噴き出るのがわかった。言いたいことの3割も伝えられず、あえなく敗退。面接では、@相手の目を見て話すA面接を楽しむB声を大きくする、の3つを意識しようと思っていたが、今回はどれも達成できなかった。@については、普段友人らと話すときは無意識にできているのだが、面接では緊張して目を逸らしてしまっていた。残念。
  11月に入ると、周りのみんなも相当活発に動き出し、大学内のスーツ率・黒髪率は異様に高くなる。1日にOB訪問3件なんていうヤツ(特に女子)もザラだ。説明会のハシゴも当たり前。私はESに忙殺されながらも、なんとか時間をやりくりして説明会に参加していた。「絶対に記者になったるわ!」という思いは、説明会を通じて徐々に強くなっていったと言える。
  記者は他の職種よりワークライフバランスがよくない。中途半端な気持ちでマスコミや記者を目指す人は、説明会で怖気づく。そりゃそうだ。夜中の3時半に携帯電話が鳴り叩き起こされ、「放火だ! 現場へ急げ!」と言われる仕事など、半端な覚悟じゃできないだろう。また、恋人とフランス料理のフルコースを食べに行き、前菜が出てきたところで呼び出された、なんていうエピソードを説明会で先輩記者からも聞かされた。だが私は、そうした話を聞くたび、「なんてエキサイティングな職場なんだ!」と興奮していった。
  自分の性格からして、9時出社〜17時退社(あるいは残業)という、デスクワークでかつルーティンな仕事は向いていないと思っていた。たとえ自分の時間がある程度、犠牲になったとしても、毎日何が起こるかわからない、他律的な仕事のほうが面白い。
  また、「世間からは、記者は何でも知っているように思われがちだが、そうじゃない。ある分野にとても詳しい人をたくさん知っている人。それが記者なんだ」という言葉を聞いたことがある。それに象徴されるように、様々な人に話を聞き、その人の考え・人生体験・知識に触れることで自分自身を成長させていける仕事である点に強く惹かれた。面接で「なんで記者志望なの? 相当きついよ」などと、ゆさぶりをかけてくる質問が出たときにも、面接官に、私の「記者という仕事への気持ち」を真正面からぶつけることができた。

  ドキュメンタリーに惹かれ民放ではテレ朝を受験

 12月になってからは読売新聞社の5日間のインターンシップに参加した。ここで新聞とは何か、どういう風に新聞ができるのか、記者とは、などを学び、地方支局への研修も経験した。このインターンシップが決定打となり、「もう俺には記者しかない」と思い、記者になるためならなんでもやるぜ! という精神状態になっていた。
  周囲の記者志望者は、受けるとしてもブロック紙までで、それでダメだったら商社や銀行に、という人たちが多かったが、私は違った。ブロック紙はもちろん、地方紙にも出願を決意。規模の小さな新聞社もHPを見て出願方法をチェックしていった。
  年明け、学期末試験と続く中、並行して就活も続いていた。この時期は民放キー局の選考が多い。1月下旬にES締切が集中していたフジテレビ、テレビ朝日、テレビ東京のうち、ESを出したのはテレビ朝日だけだった。テスト勉強とのかねあいで、1社が精一杯だろうと判断したのだ。テレ朝の「ドキュメンタリ宣言」や「ザ・スクープ」といったドキュメンタリー番組が好きで、3社から選ぶならテレ朝しかない、との思いからだった。
  2月半ばから3月下旬にかけては、死ぬほど忙しかった。テレビ局の選考と時を同じくして出版社と新聞社大手の説明会・ES締切が毎週怒濤のように続いた。毎日PCに向かいESを書き上げては手書きし、郵送し……その繰り返しだ。選考は、TBSでは撃沈したものの、テレ朝ではESや筆記を順調にクリアし、3次面接まで進んでいた。選考が進んでいくのは嬉しかったが、反面、ある怖さが心の中に芽生えていた。それは、「万が一テレ朝の内定が出たら、それに甘んじて就活をやめてしまうのではないか」というものだった。
  記者になるとしたら絶対に新聞記者、テレビならNHKしかないと思っていたが、もし内定が出たら妥協してしまうのでは……と。そんな心情で挑んだ3次面接。やはり面接官は見透かすのだろうか。制作部門と業務部門を併願していたが、両方ともここでゲームオーバー。本気でその会社に行きたいと思わなくては、面接の突破はできないと悟った。案の定、滑り止めと位置づけていた出版社は、筆記は全て通ったが面接で落とされた。講談社の面接では、「当社の本で印象に残っているのは?」との質問に対し、あとで読もうと買っておいた本が確か講談社文庫だったと思い、とっさに話してしまうテキトーぶり。この頃はかなり面接馴れし、前述した3点を実行する余裕まで生まれていたので、さも読んだかの体で切り抜けられた。が、自宅に帰り、かの本を手に取って絶句。背表紙には「新潮文庫」の文字。さらば講談社……。

  NHK面接の帰りに松平アナに遭遇

 3月末〜4月の手帳には、新聞社とNHKの筆記・面接の予定がひしめいていた。そのゾーンを突破するべく、私は就活ノートの最終ページに、あるチャートを作った。「マスコミへの興味の入り口」「大学時代やってきたこと」「自分のモットー」「記者になってやりたいテーマ」「記者になった10年後の姿」……などを一覧できるものだ。頭の中が整理できるし、面接の前はこれを眺めてモチベーションを高められる。面接で使えることなどを思い出したり思いついたりする度にどんどん書き込んでいった。ページを作りながら、いかに自分が記者になりたいかと、テンションがますます高まっていく。まさにモチベ上昇のスパイラルにハマり、就活の原動力となった。
  書類選考を突破したNHKに4月2日、面接に呼ばれた。数々の失敗を繰り返していたので、もう緊張は微塵も感じなかった。眼光鋭い面接官と20分ほどの面接を2度。両方の面接官とも、多角的に自分を見てくれ、話も熱心に聞いてもらえた。1次面接から、1人の受験者に対し計40分近くも時間を割いてくれる姿勢に感動。そして帰り道、偶然にも地元近くの駅で、なんと元NHKの松平定知アナウンサーに会ったのだ。「今ちょうどNHKの面接の帰り道なんです。『その時歴史が動いた』のファンでした」と言って握手を求めると、笑顔で応じてくださり、「がんばってね」と声をかけてくださった。この出来事で私はもう有頂天。NHKに入れというお告げなのか、と本気で思った。
  4月4日は、午前中に産経新聞社、午後に日本経済新聞社の筆記。移動が強行軍で大変だったが、何とか両方とも突破。5日は朝からNHKの筆記と、午後から読売新聞社の筆記。この日は選考を通過していた共同通信・岩波書店と合わせて4つ筆記があったが、共同と岩波は辞退し、NHKと読売に臨んだ。わずか2日間で4本の論文を書き、頭は疲労困憊。帰宅後に飲んだビールは最高だった。
  4月7日に読売から通過の連絡をもらった。8日には産経の1次面接があったが、「あなたは桃太郎です。鬼ヶ島に3つ持って行くとしたら何を持っていきますか」との質問に面食らい、通過できず。「グリーンベレー部隊と食料とバズーカ砲です」と、とっさに口から出まかせで答えたあの瞬間のしらけた空気は忘れられない。
  9日は新聞社では第一志望だった読売のグループ面接と、日経の1次面接。グループディスカッションは初めてだったので少し緊張していたが、控室で就活ノートの最終ページを見て心を落ち着かせた。「これだけ記者への想いがあるんだ。周りの連中になんか負けるわけがない」。自信は、表情や声となって、面接官に伝わると信じた。この時は、意地悪な質問にもなぜかスラスラ答えることができた。自分でも「なんていい切り返しなんだ!」とニヤニヤしてしまう始末だった。読売の面接官もとても優しく、話をじっくりと聴いてくれていた。夕方から日経に向かったが、逆にここでは全く頭が冴えず。控室で1時間も待たされたのが響いたか、通過せず。だがこの日、読売から日経への移動中にNHKから通過の連絡が。松平さんの顔が頭に浮かぶ。
  10日はNHKで2次面接。また20分程度を2回。面接官の風格も明らかにランクアップした感があった(後日譚だが、面接官のうちの一人は国際部長だったそうだ。ひえぇー)。だが、物怖じせず、しっかり目を見据えて思いを吐き出した。総じて、NHKの面接官は柔和で、面接後に清々しい気分になれるのが不思議だった。夜には読売からも通過連絡を頂いた。

  NHK最終面接で「戦争体験伝えたい」

 このあとも、毎日新聞、北海道新聞などの他社と並行して選考は進み、NHKのいわゆる2・5次面接や読売新聞社の支局インターンシップを経て、両社の最終選考を迎えた。最初に選考があったのは19日のNHK。今までの選考会場と違い、イスは革張り、付近一帯が見渡せる大きなガラス窓……。自分がどういう立場にいるのか、置かれている状況が物語る。面接の前に人事の方から「私は君に内定を出したい。今日は『人事はこの人を採りたいです。どうですか』という役員へのお披露目みたいなもの。今まで通りリラックスしてがんばって」と励まされる。
  部屋に入ると、テレビで見たことのあるような御歴々が5人ほど居並ぶ。身が引き締まりながらも「俺を落としたら絶対損するぞ」オーラを全身からみなぎらせ、イスに座った。面接内容は、半ば雑談のようなものだったが、祖父母の戦争体験に触発され、戦争体験者の声を生で聴ける最後の世代として、太平洋戦争を経験した人たちを取材したいと思っていることなども話した。
  翌20日。大学で授業があったが、通過者のみ正午以降にNHKから連絡がある、とのことだったので、授業には全く集中できず。そして、15時過ぎ……机の上に出しっぱなしにしてあった携帯が鳴動する。即座に携帯を握り締めて外に飛び出した。「NHKです。来年の4月から、ぜひあなたと一緒に仕事がしたいと思っています。君の意向はどうですか」と告げられる。私は、丁寧にお礼を言い、電話を切った。叫びたい衝動を抑え、授業に戻ったが、授業そっちのけで家族に内定を伝えるメールを送った。
  24日には読売の最終。NHKと同じく、終始和やかに面接は進んだ。「記者はキツイけど、やっていける自信はあるの?」と訊かれ、「今は、やってやる、という気概のみです」と答えた。夕方に内定の連絡を頂く。
  ここから、私の苦悩が始まった。まだ読売にするか、NHKにするか心が決まっていなかったからだ。そして、散々悩み抜いて、NHKを選ぶことにした。記者としての自分の取材が、ニュースや番組として形になり、より多くの人に届けることが、NHKならできる。また、記者になりたいと思い始めた原点には、NHKのつくる良質なドキュメンタリー(私は特に「映像の世紀」に強い影響を受けていた)があった。その制作に関わるチャンスに恵まれている点も決め手になった。
  それでも、今新聞を読むと、「ああ、自分の書いた記事がこうして活字になり、残っていくのはいいなあ」と思うことがある。ただ、それは隣の芝生は青いというものだ。念願叶って、今度の4月から記者として働き始めるのだ。より多くの人に、自分の見たものを伝えていくという初志を忘れることなく、働こう。私はこの選択を悔いることのないよう、全力で走り抜くだけだ。


出発点はスポーツ記者になりたいという思い

Fさん/全国紙、通信社内定:
1年間の韓国留学を終えた大学4年の1月に、就職活動を始めた。しかし、なかなか気持ちを切り替えられず、しばらくは久々に会う友人たちと遊んでばかりいた。

新聞か出版か放送か思い悩んだ末に…

Kさん/放送局内定:
1年間の韓国留学を終えた大学4年の1月に、就職活動を始めた。しかし、なかなか気持ちを切り替えられず、しばらくは久々に会う友人たちと遊んでばかりいた。


多浪・既卒就活の末、出版社の編集者に

S君/出版社内定:
浪人時代も長く、いわゆる「マーチ」に届かない私大出身の私は、全国から秀才が集い、かつ高倍率であるメディアの仕事に就くことが果たして可能なのか、という不安があった。

一貫して広告志望だった私の就職活動

Yさん/広告会社内定:
「人のための課題解決がしたい」ただの綺麗ごとかもしれない。でも、これが広告業界を目指した私の心からの本音だった。私は小学生のころ、人と話すことが苦手で内気な自分にコンプレックスを抱いていた。