第一志望 毎日新聞の記者になれた喜び
T君/都内私大 毎日新聞内定

  12月まで海外にいて就活の出足が遅かったというT君。
  内定を得た後、心配をかけた親に電話。
  「おめでとう」という言葉にそれまでの苦労を思い出して、思わず涙が溢れたという。



 胸ポケットの携帯電話が鳴った瞬間、すぐさま電話を取り、ディスプレーを見た。「毎日新聞社」という表示に少し戸惑いながらも、電話に出る。「最終選考を通過されました」という声を聞き、飛び上がらんばかりの思いだった。毎日の記者になれる。ただただ、嬉しくて仕方がなかった。

 12月まで海外にいた私は、新年に入ってから就職活動を始めた。海外にいた頃の新聞を必死に読み返し、遅れを取り戻そうとした。志望動機や自己PRは海外にいた間に、ある程度考えていたものの、やるべきことは山ほどあった。

 視野の狭い人間にはなりたくなくて、一般企業も回った。新しい考えに接することも、多くの社員の方々や学生に会うことも、想像以上に楽しかった。だが、本当に働きたいと思えるような会社には出会えなかった。利益にとらわれず、現実と理想の狭間で葛藤できる記者の仕事があまりに魅力的だったのだ。


TBSテレビは最終で敗退

 1月の下旬からはテレビ局のES提出が始まる。大変な作業ではあったが、前年から自己分析をし、自己PRなどは練っておいたことが役に立った。2月の上旬からはES通過の連絡をいただくとともに、面接日程も決まってきた。民放の志望度は低かったが、腕試しのつもりだった。

「報道のTBS」とも言われるTBSテレビは、志望動機も作りやすく、全力を出したいと考えていた。「あなたを動物にたとえると?」などのテレビ局らしい質問を恐れていたが、1次面接はいたって普通の質問ばかり。柔和な顔で私の拙い話に頷いてくれた面接官に、かなり助けられた。

 1次面接を通過すると、4日後に2次面接。今度は一転して、いわゆる「圧迫面接」に近く、ダメだと思ったが、これもなぜか通過できた。そして、2日後、3日後に筆記試験・3次面接がセットで行われた。筆記では「アメリカ人の母親とフィリピン人の父親を持ち、今月CDデビューを果たしたグラビアアイドルとは?」との設問に驚かされた。私は芸能には疎いのだ。しかも、帰り途中、「あれはみんなできてるでしょ?」との声が。リア・ディゾンは常識らしい。面接で挽回しようと思ったが、こちらもいまいち。

 ところが、これも通過。次の選考はまたも翌日、翌々日にセットされていた。まずは、グループディスカッション(GD)。一般企業でもいくつかGDを経験していたことで、少しは余裕を持って進められたと思う。翌日は人事の方による面接。自分を出せたという自信はあった。そして、この選考を通過。いよいよ最終面接が2日後に決まった。2月15日の2次面接から8日間でTBSに行っていないのはわずか2日。TBSの空気に染まり、志望度も高くなってきた。

 TBSの20階に人事の方に連れていってもらう。空気が違う。学生が来るところではない。役員面接とはやはりそういうものなのか。身構えた。人事の方からアドバイスを頂き、役員室へ。1対6の面接である。質問内容は特に変わったことはないが、その雰囲気に飲まれそうだった。それでも必死に答えた。

 自信などなかった。でも、ここまでそれで通ってきた。受かるのではないか。そんな甘い気持ちを持っていた。1時間後に、携帯に電話が入る。もちろん、TBSからだ。しかし内容は「残念ながら……」。調子に乗っていた自分が何より恥ずかしかった。就活はやはり甘くない。とは言っても、志望度が高いところはこれから。いつも自分は徐々に学習し、成長していける人間だと自らを励ました。


勝負は4月に持ち込まれた

 その後、準キー局も受けてみたものの、志望度は低く、選考も早々に落とされることが多かった。3月に入ると、本命であるNHK、毎日新聞、朝日新聞のES提出も始まった。ESの重要性はこれまでの面接で痛感していた。しかも、民放に比べ、NHKや新聞社はESの分量も多く、面接時間も長い。最高のES作りに力を入れた。

 3月下旬にテレビ東京に最終選考手前で落とされ、いよいよ勝負は4月に持ち込まれることとなった。この時点で一般企業からも内定を頂いていたものの、NHK、毎日、朝日のどれかに絶対入りたいという気持ちが強くなっていた。ブロック紙のESも提出はしていたが、やはり地元でないがゆえに、志望理由が薄っぺらく、受かる可能性は低いと考えていた。

 ついに、4月1日。NHKと朝日の筆記試験である。面接まで進めないのはあまりにもったいない。時事問題と論作文の対策もそれなりにしてきたつもりだった。NHKは時事問題が絶好調。朝日は、時事問題に自信はなかったが、「この国を生きる」という論文のテーマにはガッツポーズした。以前に、「美しい国」というテーマで練習をしていたのだ。

 NHKは筆記と面接がセットで評価される。4日の1次面接は面接官2人による個人面接であった。和やかな雰囲気で、質問内容も一般的なものだった。以前に聞いていた通り丁寧な面接で、自分を出せたという実感があった。1次選考は通過し、2次選考に進めることとなった。面接時間は産経とかぶっていたが、NHKを優先しようと決めた。強気を大事にしようと考えた。

 朝日の筆記も通過し、6日に1次面接。自分が一番得意な部活の話が中心で、新紙面に対する感想もうまく言えた自信があった。翌日はNHKの2次面接。1対1の個人面接が違う面接官により2度行われた。「面接は会話だ」とよく言われるが、NHKは特にその色合いが強い。2次面接もそうだったのだが、自信がなかった。いわゆる「自己PR」といったような話はほとんどできなかったからだ。

 NHK2次面接の夜に朝日1次面接通過の連絡をもらった。NHKに自信がなかっただけに嬉しかったが、翌日の毎日の筆記のために心を落ち着かせ、早く寝た。持ち駒が少ない中、筆記で落ちるわけにはいかない。だが、作文テーマ「学力」には驚かされた。抽象的なテーマというイメージがある毎日の作文で、思わぬ具体的テーマだった。何を書こうかと迷ったが、精一杯考え、原稿用紙を埋めた。

 試験を終え、家に帰り、パソコンをつけた。すると、NHKの2次面接を7日に受けた通過者は既に電話が来ているようだった。自分には来ていない。心からがっかりした。筆記試験の勉強ももうする必要がなく、やることが少なくなっていたためか、余計に時間が過ぎるのが長く感じ、無駄なことばかり考えた。


激しく落ち込んだり救われたり…

 10日。中国新聞の受験のため、新幹線に乗っていると、非通知で電話があった。非通知の心当たりはどこもない。電話に出ると、なんとNHKからだった。2次面接通過連絡で、翌日に2・5次面接が設定された。補欠かもしれないが、全力を出すしかない。ところが、GDと面接。終えてみて、手ごたえも自信もなかった。

 13日には朝日の2次面接。GD、模擬取材、面接と一日がかりで盛りだくさんの内容で、非常に楽しい一日だった。一方、NHKから電話がかかってくるとすれば、13日が指定されていた。朝日の選考が終わった18時の時点で電話はなく、激しく落ち込んだ。夕食を食べ、新聞を読んだりしたが、手に付かない。そんな精神状態の中、朝日新聞から2次面接通過の連絡をもらった。何とか救われたという想いだった。

 18日には朝日の3次面接、毎日の1次面接が設定されていた。朝日では、質問が立て続けに飛んでくる厳しい面接であった。アドリブに自信がない私は、「これで朝日も終わりか」と思った。続いて行われた毎日は、一番好きな新聞でありながら、その説明がうまく出来ず、歯がゆかった。「今日でもしかして、全てが終わってしまうかもしれない」。そんな思いが頭をかすめた。ところが、何とか2社共にその日中に通過連絡を頂くことが出来た。

 20日に毎日2次面接。序盤はうまく話が進められなかったが、後半部活の話をしたり、毎日新聞への思いを語ったりしながら、思い通りの面接が出来た。これもその日に通過連絡を頂くことが出来た。朝日・毎日の2社の最終面接に進めることとなった。

 毎日の方が志望は高かったが、ここまで来たら、何が何でも記者になりたかった。22日の朝日最終面接では「どうしても朝日新聞に」、24日の毎日最終面接では「どうしても毎日新聞に」と答えた。それまで嘘はつかずに就活をすることを自分に課していたが、ここは勝負だと思った。


電話を切った後、涙が溢れ出した

 朝日の発表は24日18時以降。毎日の発表は面接をした24日以降。大学のパソコンルームで、朝日からの連絡を待ち、携帯を握り締めていた。毎日の連絡は翌日以降だろうと思っていたのだ。しかし、時間は経てども、電話はかかってこない。全力は尽くしたつもりだった。それでもダメだったのか。暗澹たる気持ちとなってきた。

 もう帰ろう。パソコンルームを出た。酒でも飲もうか。自暴自棄になりそうだった。そうして、建物を出ようとした瞬間、ついに携帯が鳴った。ディスプレーを見ると、表示は「毎日新聞社」。「もう毎日?

 早い」。戸惑いながら、出た。通過連絡の電話だった。健康診断は残していたが、事実上の内定に、感極まる想いだった。記者になれる。それも、一番好きな新聞の記者として働けるのだ。

 親に電話した。就活中、そしてこれまで自分がどれだけ支えられてきたのか思い出し、涙が出そうだった。「おめでとう」という言葉に、いろんなシーンを思い返した。電話を切ると、抑えていた涙が溢れ出した。親だけではない。信じられないくらい多くの人が私を支えてくれた。それは痛いほどに、嬉しいことだった。

 幸運にも、スタートラインには立たせてもらえた。しっかりと基礎を身に付け、「少数派の苦しみ」を伝えていきたい。逃げず、本気で勝負する就活は、内定以外にも得られるものが多いのではないかと思う。頑張ってください。


出発点はスポーツ記者になりたいという思い

Fさん/全国紙、通信社内定:
1年間の韓国留学を終えた大学4年の1月に、就職活動を始めた。しかし、なかなか気持ちを切り替えられず、しばらくは久々に会う友人たちと遊んでばかりいた。

新聞か出版か放送か思い悩んだ末に…

Kさん/放送局内定:
1年間の韓国留学を終えた大学4年の1月に、就職活動を始めた。しかし、なかなか気持ちを切り替えられず、しばらくは久々に会う友人たちと遊んでばかりいた。


多浪・既卒就活の末、出版社の編集者に

S君/出版社内定:
浪人時代も長く、いわゆる「マーチ」に届かない私大出身の私は、全国から秀才が集い、かつ高倍率であるメディアの仕事に就くことが果たして可能なのか、という不安があった。

一貫して広告志望だった私の就職活動

Yさん/広告会社内定:
「人のための課題解決がしたい」ただの綺麗ごとかもしれない。でも、これが広告業界を目指した私の心からの本音だった。私は小学生のころ、人と話すことが苦手で内気な自分にコンプレックスを抱いていた。