記者という夢へ向けて走り続けた
Y君/明治大学 朝日新聞、共同通信内定

  昔から絶対に新聞記者になりたいと思っていたY君、
  内定の電話を受けた後、思わずその場にへたりこんでしまったという。
  就活の初期の面接では心臓バクバクの末敗退。その失敗をどう克服したのか。


「記者になりたい」という確固たる思い

 内定の電話をもらった時、電話を切ると同時に大声で叫んだ。
「シャー!!!」
 だが叫んだ次の瞬間、ふっと全身の力が抜け、その場に座り込んでしまった。ほっとした。
「とりあえずスタート地点には立てるんだ」という安堵、安心感。そんなものが一番大きかった。

 絶対に新聞記者になりたかった。
きっかけは、小さな頃から大ファンだった西武ライオンズの試合結果を毎朝、新聞でチェックしていたこと。
小学校に入る前から新聞を手にとるのが毎日の日課だった。
段々と読むページが増えていき、高校生の頃には1面から順番に1時間くらいは読んだ。
気付いた時にはそれを作る仕事、記事を書く仕事をしたいなぁと漠然と思うようになっていた。
大学入学と同時に入室した研究室で、多くの記者の方の話を聞くうちに、こんなに面白い仕事は他にないんじゃないかと、漠然とした思いが確固たる目標になった。

 そして迎えた就職活動。僕がまず始めたのは図書館にこもることだった。
10月頃から1割くらいしか通過できないと言われている筆記試験対策に取り組み始めた。
漢字の本、一般教養の本を買い、頭に詰め込む。
時事問題は毎日、朝夕刊合わせて何時間も読み込んでいるからそれで自信があった。
でも『新聞ダイジェスト』で復習、復習。

 大学受験を経験していない僕にとってはこれは辛かった。
まともな勉強というのは中学3年生以来。
毎日授業が終わると図書館へ行き、閉館の音楽を聴いて帰路に着く。
年が明けて春休みに入ると、それが1日中になる。やっぱり辛かった。
でもこの時期を乗り越えられたのは、やはり記者になりたいという確固たる夢があったから。
それと同じ志を持って一緒に頑張っている仲間がいたから。
これを読んでいる皆さんも、そんな仲間がいれば大事にして欲しい。

 本命である新聞社の試験の前にテレビ局の試験を報道志望で受けてみた。
先輩や仲間、記者の方にも見てもらい、万全とも思えたエントリーシート。
だが自惚れだったのかテレビ朝日はあっさりと書類で落とされる。
会ってさえもらえれば……、そんなどうしようもない負け惜しみのような思いだけが残った。

 そして運よく書類が通って臨んだ2月11日、TBS1次面接。
初めての面接だったが、待合室でゼミの友人と隣合わせになったり、夏のインターンで1カ月一緒だった友人に出会えたこともあり、リラックスモード。

 しかしうまくリラックスできたのは待合室まで。
もともとアガリ症の僕はブースへ移動すると人生で一番かと今でも思うほどの緊張ぶり。
面接官に「顔真っ赤だけど大丈夫?」と心配され、ハンカチで拭ききれないほどの大量の汗。
心臓はバクバク。
自分でも何を言っているのかよくわからないまま、面接終了。結果はもちろん落選。

 フジテレビは書類、筆記は通過するも面接に遅刻し受けられないまま終了。
テレビ局とは縁がなかったということか。ただ、さすがにへこんだ。
内定まではいかないにしても、もうちょっと善戦できるんじゃないかという根拠のない自信があったからだ。
でもここでよかったのはそれを引きずらなかったことと、自分を考え直すきっかけになったこと。
「大丈夫、俺は新聞記者になりたいんだ。テレビ局なんて落ちたって何の問題もないんだ」と無理矢理言い聞かせ、落ち込んだ心を自分で慰めた。

 それと合わせて、風呂に入っている時や、駅から家までの帰り道などで今までの自分の人生を振り返るようにした。
あんなことあったな、こんなことやったな。なんでこうしたんだろう、どんなことを考えたんだっけな……。
友人とマックで4〜5時間ひたすらお互いの自己分析をやったりした。
これがその後の新聞社の面接で活きてくることとなる。


緊張を抑えるおまじないを発見

 そんなこんなで本命だった新聞業界へ。最初の面接は3月23日、共同通信1次面接だった。
1時間近くの待ち時間があったが、ここでは適度な緊張を保ったまま面接ができた。
緊張を抑えるおまじないを発見したのだ。
「大丈夫。俺にはまだ朝日と読売と産経がある。だからここは落ちたっていいんだ」

 何の効果もなさそうだが、これが意外と効果を発揮するのだから何でもやってみるものだ。
ちなみに各社の最終面接までこのおまじないは唱え続けた。ここは無事に通過。

 そして4月に突入。僕は勝手にこの日が就職活動のヤマ場だと信じていた。
4月1日、共同通信(午前)、朝日新聞(午後)筆記試験。
両方受験するのは厳しいかと思ったが、両者の試験の間は15分、場所は代々木と渋谷。
友人と試験日の前に実験をして、走れば行けると確信。
だが、共同通信では作文が70分のところ40分で書き終わったのですんなり到着。
落ち着いて受けられたのがよかったのか、両社とも通過。
朝日新聞はWEBでの発表だったのだが、手が震えてIDとパスワードがなかなか打てなかった。
就職活動中、唯一「おまじない」が効かない瞬間だった。

 4月6日、朝日新聞1次面接。僕の家族の話とか大学の研究室の話を雑談風に話しただけで終わり。
こんなんでいいのかとも思ったが、通過していたのでいいんだろう。
面接のコツというかポイントが少しつかめたような気がした。

 4月8日に読売新聞筆記試験。苦しみながら図書館にこもったかいもあって順調にこなしてきた筆記試験だったが、最大のピンチが訪れる。
それが読売新聞の小論文だった。題が「宇宙と平和」。見た瞬間に頭が真っ白に。
何を書いていいのかわからないまま、時計の針だけが進む。
そのまま20分経過したところで無理矢理書くしかないと決心し、ひたすらペンを動かした。
支離滅裂なことを書いてるなぁと自分でも感じたが、もう止まれない。滑り込みセーフで書き終わる。
あの小論文で通過したことは今でも信じられない。皆書けなかったということだったのか。

 その後、就職活動で一番楽しかった試験が訪れる。
朝日新聞の2次試験と読売新聞のインターンシップトライアルだ。

 朝日新聞の2次試験は、適性検査、グループディスカッション、模擬取材、原稿執筆、個人面接を6人1グループに分かれて1日がかりでやる。
同じ志を持つ学生と実際に現場で働く記者の方達との議論、昼食、待ち時間のおしゃべりはいい刺激にもなったし、自分はこんなんじゃだめかなぁと思わされたりもした。
就職活動は、試験を受けながらもいろんなことを感じて吸収できる場なのだ。

 読売新聞のインターンシップトライアルは就職活動の中で一番楽しかった試験だということと同時に、最も記憶に残る1泊2日だった。
街頭取材や模擬取材、その講評を通して記者という仕事がどんなものかを初めて体験できたし、夜の懇親会では支局の方々の本音(?)を聞くことができたりで、採用試験だという意識すらほとんどなかった。
懇親会の後に学生5人だけで食べに行ったラーメンはすこし脂っこかったけど、いつもとは違う美味しさがあった。


朝日新聞3次で圧迫面接

 だが楽しみながら試験を受けられたのもここまで。
朝日新聞の3次面接はいわゆる圧迫面接。志望動機を言うと、「それって綺麗事だよね」。
いきなり「君のお母さんを僕がイメージできるように簡単に紹介して」。
「最近面白かった本は?」「あらすじを説明して」「じゃあ僕が石田禮之助(本の主人公)さんで、ここが記者会見場だとしてインタビューして」などなど。
何を話しても何の反応もなく、リアクションもない。
20分ということだったが、1時間にも2時間にも感じられた。
絶対ダメだと思い、翌日19時から電話ということだったが、何の期待も抱かずに地下鉄に乗ったりしていた。
電話が来た時は何かの間違いじゃないかと疑った。

 そして各社の最終面接。まずは4月18日、共同通信。
特別な質問もなく、圧迫でも和やかでもない普通の面接だった。
面接官の年齢層が高いためか、終始小ばかにされていたなぁ、ということくらいしか印象に残っていない。
次に4月21日、朝日新聞。これも面接会場が豪華だなぁ、という以外はいたって普通の面接。
困ったことといえば、面接前に必ず立ち寄っていたカフェが休みだったことと、面接官との距離が遠くて声が聞きにくかったことくらいだった。

 面接自体は自分でも意外なほど緊張もせず、ミスというミスもなく無難にこなせた。
だが、2社の面接が終わり一気に気が抜けた。何もする気が起きず2日間家から一歩も外に出ずに、2社とも落ちたらどうしよう……秋も受けるのかぁ……そんなことばかり考えていた。


共同、続いて朝日から内定の電話が…

 そして3日目、気合いを入れて外に出た日のことだった。
買い物中に電話が鳴る。見たことのある番号、共同通信だった。
試着中でパンツ一丁だったため、後でかけ直したら、「あさって会社に来てください」。
嬉しくて嬉しくて、にやけながら池袋の街を歩いた。その次の日には朝日新聞からも内定の電話。
元々、新聞が好きということもあり、新聞社に入れる、という報せはまた格別のものだった。
冒頭のその場にへたれこんだ、というのは朝日新聞の電話の時である。
若干の迷いはあったが、元々新聞というモノが好きだったので、朝日新聞社に決めた。

 僕は大学時代に自信を持って語れる何かをしていたわけではない。人に誇れるような経験もない。
ただ、家での仕事のことや普段の遊び、研究室での活動など、小さなことでもなぜそれをしたのか、どう感じたのか、それが社会の現象や問題に置き換えられないかを、普段から考えていたし、就職活動前には徹底的に掘り下げた。
身の回りから社会全体に対する興味と関心、問題意識みたいなものを普段から持つことが記者志望の学生には大事なことだと思う。
また、僕の場合はそれを議論する仲間がいたことも大きかった。

 これから就職活動を迎える人たちには、いろいろ迷うことや悩むこともあるだろうけど、一度夢や志を持ったら一直線に走り続けてほしい。
それと合わせて、自分を支えてくれる家族や友人を大切にすればきっと夢のスタート地点には立てるはずだ。


出発点はスポーツ記者になりたいという思い

Fさん/全国紙、通信社内定:
1年間の韓国留学を終えた大学4年の1月に、就職活動を始めた。しかし、なかなか気持ちを切り替えられず、しばらくは久々に会う友人たちと遊んでばかりいた。

新聞か出版か放送か思い悩んだ末に…

Kさん/放送局内定:
1年間の韓国留学を終えた大学4年の1月に、就職活動を始めた。しかし、なかなか気持ちを切り替えられず、しばらくは久々に会う友人たちと遊んでばかりいた。


多浪・既卒就活の末、出版社の編集者に

S君/出版社内定:
浪人時代も長く、いわゆる「マーチ」に届かない私大出身の私は、全国から秀才が集い、かつ高倍率であるメディアの仕事に就くことが果たして可能なのか、という不安があった。

一貫して広告志望だった私の就職活動

Yさん/広告会社内定:
「人のための課題解決がしたい」ただの綺麗ごとかもしれない。でも、これが広告業界を目指した私の心からの本音だった。私は小学生のころ、人と話すことが苦手で内気な自分にコンプレックスを抱いていた。