広告目指した
つらかった就職活動

Iさん/私立大 広告会社内定


 広告は人と経済を動かす。こんな漠然とした理由で、昔から憧れていた。映画や音楽のように、人を感動させるわけでもない。消費者とクライアントと代理店が三者三様の利益を生むコミュニケーションに興味を持って、広告を志望することにした。
 活動は2月中旬から。広告は比較的遅いのでOGやリクルーター訪問を続ける。それに並行して練習のため一般企業は無差別に受けた。内々定をいくつかもらっていたが、拘束もあるのにさほど行きたくない、割に合わないので結局断った。反対に0G訪問は何度行っても自己PRや志望動機を直される始末。このままじゃだめだ、焦っているうちに2力月が過ぎる。ついに戦いの火蓋が切られた。

広告会社受験まずは電通から

 5月2日。電通通筆記試験予約。ES(エントリーシート)を練り直して、築地に乗り込む。その人数に圧倒された。不安が襲う。他社の選考を全て辞退して、毎日SPI漬けの日々を送る。そして5月8日、電通筆記。約4分の1に振り落とされるらしい。
 5月26日電通1次面接。たくさんのブースに分かれた部屋に入る。最初に白己PRから始まり、卒論や社会問題なども聞かれた。自分の広告観を話したら、「電通の弱点、欠点は?」とつっこまれる。そんなこと言えませんよと言いながら、外資代理店と比較しながら大いに熱く語ったら、「すいません、改善しなくちゃね」と頭を下げられる。○
 5月20日、レオバーネットの説明会。その後は社員の方々とビールやジュースで交流会。さすが外資だなあ、という感じ。翌日は辞書持ちこみでの筆記。しかし私はお約束のように辞書を忘れる。なんとか通過。
 5月23日。朝は電通2次面接、タ方から博報堂の1次面接。就職活動きっての豪華な日。電通は実質最終面接らしい。女の子の少なさにはびっくり。面接官はひげにサングラスをかけて強面、一瞬場所を間違えた気になった。まず自己PRを言うと、それに一言。「君の自己PRは、電通には別にいらない」。頭が真っ白になった。何を言っても、打ちのめされる。会話にならなかった。田町に行く足が重い。
 その夜は、久しぶりに泣いた。親にも変な期待をさせてしまい、すまなかったと思う。面接で少し話した男の子の言葉を思い出した。「この程度で電通最後までこれるってことは、どこでも受かるよ」。電通に落ちたら立ち直れない、こんなネガティブ思考を覆してくれた。

聖路加タワーに決意を誓う

 5月24日、昨日の傷が癒えぬままオリコム1次面接。圧迫面接という噂は聞いていたが、電通で免疫ができていた。営業に必要な資質や将来の夢などを聞かれる。通過。その足でビデオリサーチの説明会へ。書類通過したのに、また論文を提出しろと言う。近くのドトールで少し休憩。ガラスの向こうに聖路加タワーが見えた。この会社に入れなかったことが、いつか良かったと思えるように。よし、まだがんばれる。
 6月8日、オリコム筆記とレオバーネツトの1次面接。もう、レオバーネットにかけるしかない! 対策を十分したいがために、オリコムを辞退。英語と日本語混合の面接。「なぜ電博ではなくレオか」「尊敬するリーダー」「やってみたいクライアントと具体的な企画」など。レオバーネットの扱う、フィリップモリスを挙げて、今後のタバコ産業のあり方、マナーCM、SPグッズなどを提案する。約1時間の面接、かなり疲労はあったが、手応えあり。○
 6月8日、久しぶりに学校に向かう。皆、銀行や生保損保、メーカーなどの一般職で手を打っているらしい。この就職難で広告を志望するなんて、自殺行為なのか。焦る気持ちを押さえようと必死だった。
 6月10日、読売広告社と朝日広告社の筆記が重なる。何を血迷ったか、読広を受けた。朝広は扱う媒体のほとんどが新聞だったため、意に添わない志望動機でのし上がる自信がなかった。読広の筆記は一般常識5科目とESの再記入。そこで友達に会う。みんな頑張ってるんだなあ。
 6月16日レオバーネット2次面接。面接はあまりうまくいかなかった。というよりもこのころから自己PRや志望動機を言うことに飽きがきていた。圧迫に反論する気力を失っていた。結果は×。ただこの毎日にうんざりだった。自分で自分の背中を押してやることが、本当に疲れる。
 翌日、読広から筆記通過の電報が届く。まだ終わってない。読広には0Gがいないので、人事から紹介してもらい急遽会う。午後は東北新社の1次面接。先着順の面接でかなり待たされた。私はプロマネ志望だが、プランナー志望も多く、作品を持ちこんでいる。プロダクションを受けるのは初めてだったが、CM制作の本をいくつか読んでおいた。1次にしては面接官の年齢が若千高め。3Kの仕事なだけに、中学から女子高育ちの私、「お嬢さん何しに来たの?」という感じ。悔しい気持ちを押さえて言い倒した。流通のSPについても考えを言ったら、「女性だから」と勝手にCMからSPに志望を変えられた。通過はしたが、腑に落ちない。
 6月18日読売広告社1次面接。ドアをノックする瞬間にスーツのボタンが落ちて、緊張がほぐれた。今考えると、縁起が悪い話だ。営業職の厳しさから日本サッカーの弱点と各国の戦略、扱ってみたいクライアントやキャンペーンなど。読広はアニメに力を入れていたので、キャラクタービジネスの可能性を「だんご3兄弟」を例に語る。「君は一聞くと十話してくるね」と言われ、全員に笑われた。なんだか恥ずかしくなり逃げるように出たが、結果は○。
 6月21日、書類通過したJR東海工ージェンシーの1次面接。広告の集団面接なので覚悟して臨んだわりに、一般企業と変わらなかった。学生4人で女の子は私だけ。皆緊張していて、かわいそうだった。聞かれたことは志望動機やJR東海が総合代理店に成長するための方策など。ハウスエージェンシーの強みを逆に生かすという発想で語ったら、面接官に誉められた。「最後にJR東海を俳句にしてくれ」と。皆うつむいているので、私が手を挙げて場をつなげた。重い空気は苦手だ。通過。
 6月24日、TBWA日放の1次面接と筆記試験。書類で相当絞ったのか、50人くらいしかいなかった。もうこのころになると、皆顔見知り。意外とこの業界は狭いと実感。「ここまでは来れるんだけどねえ」と、互いに慰め合う。久しぶりの筆記試験と英語面接で、あまり出来はよくなかった。案の定、落選。TBWAの海外CMにはかなり興味があったので、けっこう落ちこむ。

圧迫面接も笑いに変える

 6月25日、読売広告社2次面接。少々圧迫気味の雰囲気だった。まずい、何とかしなければ。南米で宝石を卸している父親の仕事を聞かれ、「密輸じゃない」、サラリと言ったら強面の面接官が大笑い。「君の家は大丈夫か」と心配されたが、通過。こんなのでいいのか不安になったが結果良ければ全てよしだ。この夜、書類、筆記、面接4回を終えたNKBから電話で内々定をもらう。交通広告ではあるが、一般企業の内定は辞退していたし、良かった。ともかく自分が広告を仕事にできる、これが確定しただけで十分うれしい。
 7月1日、JR東海エージェンシーと日本経済広告社を辞退して、読売広告社の最終面接に全てを賭ける。集団面接と聞いていたので、悪い予感がした。控え室で予感的中。選考中に毎回会った友人が部屋に入ってくる。「今日会うと思った」、ポツリと言われる。面接は社長を真中に役員がずらりと並ぶ。友人は私よりもよっぽど元気でハキハキしていたし、魅力的。しかも隣の子は電通賞をもらっているらしい。もうひとりの子は帰国子女で英語が堪能らしい。倍率は4倍くらい。とんでもなく自分が場違いな気がした。気になる社会や経済問題、好きなCM嫌いなCM、名前の由来、活字に接する時間などを聞かれる。インターネットショッピングの成長による流通業界の危機とSPによる解決策、女性の視点から見た車の選び方とそのCM、などを話す。最後に言いたいことはと聞かれたので、もう自己PRは言い飽きたし、広告業界で果たしたい夢を伝えた。すばらしい自分を演出できたとは言えないが、自分らしさは表現できた。悔いはない。

人生で一番辛かった就職活動

 その日は最終面接で会った友人と朝まで飲み明かした。選考中だった毎日広告社と東北新社の筆記試験を辞退。7月7日に電話が鳴る。読広最終面接通過。健康診断後、正式に内定を出すとのこと。母親が泣いて喜んでくれた。とその時、携帯が鳴る。こっちでも喜んでいる。面接で一緒だった友人も通ったのだ!
 就職活動はもう二度としたくない。正直今までの人生で一番辛かった。反対に言うならば、それほど苦しい経験を学生の身で味わえて、良かったと思う。通過すれば舞い上がり、落とされれば泣きをみる、ただこの繰り返しに翻弄された。想いが強ければ強いほど、その落差は大きい。私は友人に意志が固いとよく言われるが、違う。一般企業で手を打とうとか、一般職でいいやとか、時には親にコネはないかと尋ねたり、情けないこともいっぱい考えた。それでもやっぱり食らい付いていけたのは、広告業界への惰熱のおかげだと思う。相手が突っ込んできた点を改善して、明日はもっと素敵な自分をアピールしよう。失敗を利用するべきだ。何を言えば受かるか、どうすれば内定するか、これに正しい答えなんてない。最後は自分の信じた価値観で勝負して欲しい。ぜひ頑張ってください。


出発点はスポーツ記者になりたいという思い

Fさん/全国紙、通信社内定:
1年間の韓国留学を終えた大学4年の1月に、就職活動を始めた。しかし、なかなか気持ちを切り替えられず、しばらくは久々に会う友人たちと遊んでばかりいた。

新聞か出版か放送か思い悩んだ末に…

Kさん/放送局内定:
1年間の韓国留学を終えた大学4年の1月に、就職活動を始めた。しかし、なかなか気持ちを切り替えられず、しばらくは久々に会う友人たちと遊んでばかりいた。


多浪・既卒就活の末、出版社の編集者に

S君/出版社内定:
浪人時代も長く、いわゆる「マーチ」に届かない私大出身の私は、全国から秀才が集い、かつ高倍率であるメディアの仕事に就くことが果たして可能なのか、という不安があった。

一貫して広告志望だった私の就職活動

Yさん/広告会社内定:
「人のための課題解決がしたい」ただの綺麗ごとかもしれない。でも、これが広告業界を目指した私の心からの本音だった。私は小学生のころ、人と話すことが苦手で内気な自分にコンプレックスを抱いていた。