新聞一本にしぼって
あこがれの記者に

H君/東北大 新聞社内定


新聞記者を志したあるきっかけ

 新聞記者になりたいと思い始めたのは、大学3年の頃だったと思う。はじめは、「どうしても新聞記者」というわけではなかった。勉強はもうたくさんだから、大学院には行きたくない。父親が高校の教師なので、親と同じ先生にもなりたくなかった。公務員も当時は、「カラ出張」や「官官接待」、将来的には、行政改革に伴う定数減で風当りが強そうに思え、敬遠してしまった。だから、新聞記者という職業は、最初のうちは、消去法で選んだきらいがあった。でも、そんな軽い気持ちを熱望へと変える出来事をいくつか体験した。
 ある時、参議院選挙の際、候補者の公開討論会を主催した、Fさんという会社員と話した。Fさんによれば、こうした催しを始めてまだ間もない頃は、さまざまな嫌がらせを受け、身の危険を感じたことすらあったという。職場や近所の人には、マスコミで取り上げられたいがために、やっているのでは、と誤解する心無い人もいたらしい。
 また、ある町で行われた産業廃棄物処分場建設の是非をめぐる住民投票の当日、現地に出口調査に行った際にも、似たような経験をした。反対運動をしたいけど、あまり表立ってやると、何者かに襲撃されるのではという不安に駆られて、思うようにできないというのである。
 私たちは、言論の自由の妨害、と言った時、ごく一部の過激な人たちによる暴力を、まず思い浮かべる。しかし、このような体験を通して感じたことは、言論の自由は、学校、職場、地域社会など、私たちの身近な所で、かなり妨げられているのではないか、ということである。そして、そのような身の回りに存在する言論の不自由を直さない限り、真の意味での民主主義は達成されないのでは、と痛感した。だから、記者としていろいろな事象についての記事を書くことで、日本の社会にさまざまな主張を受け入れるだけの土壌が少しでも根付いてくれるといい、というのが新聞記者を志した理由だった。
 とは言ったものの、いったいどう始めていいのやら分からず、まさに五里霧中。マスコミ予備校に行けば、効率がいいのでは、とも考えたが、何せこっちは貧乏学生である。そんな「軍資金」なんてどうひねっても出てこない。「新聞社の筆記試験は論作文がキー」という話を聞いたので、とりあえずは、新聞社のカルチャーセンターの通信添削から始めることにした。赤いペンでびっしりと注意点や講評が書き込まれた原稿が送り返されてくると、いやがおうでも、自分の未熟さを痛感させ、かつ奮起させてくれた。
 また、活動を始める際に、僕が迷ったのは、新聞社だけに絞って、その準備にひたすら励むか、それとも、やはり肩慣らし程度に他の会社もいくつか受けておくかということだった。思案の末、地方在住ということもあり、上京するコストと手間を考え、新聞社だけしか受けず、時間とエネルギーを全てそこに投入することにした。

新聞社だけに絞って就職活動開始

pic004_s.gif 「マスコミだけに絞るなんて、むちゃすぎる」。友達からはよくそう言われた。確かに、マスコミ一本に絞ることで、自分で自分を「背水の陣」に追い込んだ形となり、かなりのプレッシャーがかかったことは事実である。しかし、一本に絞ったことで、逆にそれが自分を奮い立たせるモチベーションになり、時間的な余裕もでき、腰を落ち着けて準備に励むことができた。結果的には、これが功を奏したと言える。後に、自分と同じよラにマスコミだけ、または新聞社だけしか受けなかった「ギャンブラー」が内定者仲間にかなり多いことを知り、マスコミ一本に絞った受験者は、そんな特異な存在ではないことが分かった。
 4月11日朝日新聞筆記試験。一般的な問題もあるが、かなりマニアックな問題も多い。思ったより難易度が高い。英語の文法間題にいたっては1問も分からず、「敗北」を悟る。結局、通過の連絡は来ず、予想通りの結果。「予想通り」とはいえ、数少ない持ち駒の一つを早くも失ったため、精神的ショックは大きかった。
 筆記試験で敗退してから、同じく就職活動で奮闘中の友達に電話をし、愚痴を言いまくり、互いの傷をなめ合う。なにかとストレスのたまりやすい活動中にあって、気の置けない友達と話すのは、荒涼たる砂漠の中のオアシスのごとし。友人の大切さを身にしみて感じる。
 4月18日毎日新聞筆記試験。作文は2題のうちー題選択で、うちひとつは自分の予想していたテーマが的中。感謝感激雨あられ。「まさに学習効果の現れ」とばかり調子づき、他の科目も怒涛の勢いで解きまくる。帰りの足どりも軽し。
 4月23回毎日新聞より筆記試験通過のTELあり。朝日の筆記試験不合格でかなり落ち込んでいたため、これはかなり嬉しかった。「毎日新聞社よ、待っておれ!」と一人、部屋で意気込む。
 4月27日毎日新聞1次面接。面接官のうち一人が、環境科学部の次長。そんな部があったことをはじめて知る。産廃処分場をめぐる住民投票の際、出口調査に行ったことを志望書に書いていたので、その次長が興味をもったらしく、盛んにそのことを突っ込んでぐる。あとは、「なぜ記者を目指すのか」や「なぜウチなのか」という質間。
 圧迫ではなく、極めてスタンダードな質問ばかり。しゃべりすぎていたからか、「語すのと人の話を聞くのとでは、どちらが好きか」という質間も。即、「話すほうが大好きです」と答えると、なぜか笑われる。雰囲気としては、和やか。答えの内容を見ているというより、どのような態度で答えるか、という点を見られているような気がした。その日の夜、1次面接通過のTEL。ホッとひと安心。でも、まだ先は長いからと、風呂へ入り、ビールを飲み、すぐ就寝。

天国と地獄を体験した一日

 4月30日毎日新聞2次面接。毎日の2次は圧迫面接と聞いていたので、気合を入れる。やはり、圧迫面接。いろいろな嫌味や皮肉を言われる。それで僕も頑なになったのか、「なぜ今の大学を選んだか」との質問に、なぜか「自分の学力に相応だったから」と正直に言えず、「その街が好きだったから」とか「良い教授がいると聞いていたから」と言い、見栄を張ってしまう。すると面接官に「ふーん、君ってそんなことまで考えて大学を選んだんだ」と嫌味なことこの上ない調子で皮肉を言われ、後悔するも時すでに遅し。通過の場合は、その日の夜連絡があるので、家で待機するように、と人事部の人から言われたが、これでは通過は無理、連絡もないだろうと思い、帰宅後、家を空け、銭湯に憂さ晴らしに。しかし、帰宅すると、なんと2次面接通過のTELが留守電に入っていた。一日のうちで天国と地獄、両方の気分を味わう。これだけ感情の起伏が激しいと、精神的に疲弊し、不安定になる。
 5月1日。両親に電話をし、活動の状況等を伝える。「全力を尽くして、がんばれ」とのこと。息子が新聞記者なんぞになれば、もはや、地元に戻ることはないのを、承知の上で、それでもなお、自分に「がんばれ」と言う親の言葉は、ありがたく、重い。この言葉を肝に銘じ、今後の面接の支えにすることとする。
 5月7日毎日新聞最終面接。緊張していたのか、いつになく早起き。朝5時半ごろに目が覚め、寝起きなのに、心臓がバクバクしている。最終面接にもかかわらず(最終面接だからか)厳しい質問や突っ込みが容赦なく飛んでくる。面接官自身も質間が厳しいと自覚していたのか「ちょっと意地悪なようだけど…」と前置きしてから質問してくるほど。志望書に「強靱な体力と精神力が持ち味」と書いたので、それを試されたのかも……。そう書いた以上は、引き下がることもできず、こちらも「徹底抗戦」。面接が終わりかけたころに、面接官のひとりが、最後に「酒は好きか?」「カラオケは?」との質間をしてくる。「酒は大好き。カラオケも大好きだ」と答えると、面接官がうれしそう。その面接官もよほど好きなのだろうか。やるだけのことはやったので、悔いはなし。あとは「人事を尽くして、人事部(?)を待つ」のみ。
 当日の夜に最終面接通過の連絡が入る。後日、健康診断に来るように言われた。「これって内定なんですか」と聞くと、「いや、ハードルはまだあります」とのこと。毎日新聞では「最終面接通過=内定」ではないらしい。内定がいつ、どのような形で出るのか不安である。
 5月13日。健康診断のあと、しばらく待たされる。自分の名前が呼ばれ、別の部屋に行く。中には、人事部の人が2人いた。うちひとりが、「こちらとしては、君に内定を出す用意があるけど、本当にウチに来る気はあるの」と質問してくる。入社の意思確認だった。「第一志望なので、ぜひここで働きたいです」と答えると、「それなら、内定を出します。おめでとう」との言葉が返ってきた。長かった就職活動が終わり、なりたかった新聞記者としてスタートラインに立てた瞬間だった。

周りの人の支えに感謝

 新聞社一本に絞って、やりとおした就職活動。最初は不安でいっぱいだったが、なんとか内定をいただくことができた。短い期間ではあったけれども、犬学から飛び出し、社会に身を投じることで、「シャバ」の様子を、少し垣間見ることができた。そして、世間の荒波にもまれることで、自分でも少し大人になったような気がする。最後に、一人息子にもかかわらず、転勤が多く、地元に戻ることもできない記者という仕事に理解を示してくれた両親、僕の不満や愚痴にも根気強く付き合ってくれた友達に感謝したい。そんな周りの人たちのアドバイスや励ましが、どれだけ自分の支えとなったか知れない。今後、文章をあつかう仕事に携わる者として、あらためて、言葉の力の大きさを痛感させられた。新聞記者として働き始めても、周りの人の支えのおかげで記者になれたことを決して忘れず、常に生活者の祝点に立った記事を書いていきたいと思う。


出発点はスポーツ記者になりたいという思い

Fさん/全国紙、通信社内定:
1年間の韓国留学を終えた大学4年の1月に、就職活動を始めた。しかし、なかなか気持ちを切り替えられず、しばらくは久々に会う友人たちと遊んでばかりいた。

新聞か出版か放送か思い悩んだ末に…

Kさん/放送局内定:
1年間の韓国留学を終えた大学4年の1月に、就職活動を始めた。しかし、なかなか気持ちを切り替えられず、しばらくは久々に会う友人たちと遊んでばかりいた。


多浪・既卒就活の末、出版社の編集者に

S君/出版社内定:
浪人時代も長く、いわゆる「マーチ」に届かない私大出身の私は、全国から秀才が集い、かつ高倍率であるメディアの仕事に就くことが果たして可能なのか、という不安があった。

一貫して広告志望だった私の就職活動

Yさん/広告会社内定:
「人のための課題解決がしたい」ただの綺麗ごとかもしれない。でも、これが広告業界を目指した私の心からの本音だった。私は小学生のころ、人と話すことが苦手で内気な自分にコンプレックスを抱いていた。