マスコミ受験は
根気が大事

Y君/慶大 新聞社内定


  憧れのアナウンサー目指して

 田舎者の私にとって、マスコミは憧れの職業だった。その中でも特に、アナウンサーに憧れていた。将釆の夢は、NHKのキャスター。小学校時代の文集にもいつもそのように書いていた。さて、私の就職活動は3年の夏に始まった。フジテレビの「お台場アナウンススクール」への申し込みからだった。しかし、書類で落ちてしまった。アナウンス学校などに通っていなかったとはいえ、心の中で多少の自信があった私は、いきなり出バナをくじかれた。
 だが、悪いことばかりではない。次に募集された、テレビ朝日のアナウンスセミナーには書類で合格したのだ。このセミナーでは、現役のアナウンサーから直接指導していただいた。特に、丸川アナに教えていただいたことは一生の思い出だ。最終日には、ニュースステーションのスタジオを使ってのカメラテストもあった。
 結果的に、このセミナー受講者から、キー局で3人ものアナウンサーが誕生することになる。また、この年はTBSでも同様のセミナーが開催された。

  まずは順調な出だし

 そして、年明け。いよいよ就職活動の本番である。第一目標であるNHKアナウンサーへの道は、順調であった。12月に行われたCTI講座の終了後、担当アナから勧められ、1月からはNHKアナウンスカレッジに通った。また、2月中句には、CTIから選抜された30名ほどの特別講座にも出席した。
 だが、NHK一本に絞るのは危険だ。民放も受けることにしていた。また、アナウンサーが駄目なら、記者になりたいという気持ちも強くあったのだ。
 民放のアナウンサー受験は、厳しかった。特にキー局は、まるで宝くじに当たるくらいの倍率である。唯一、面接を受けることのできるフジテレビでさえ、面接自体厳しかった。具体的には、フジの場合、書類配布の当日、全身写真などを持参し、その場で志望書を書き上げ、すぐに面接に移る。志望書の内容も「今の気持ちを五、七、五の俳句で詠め」のような難しいものが含まれていたのだ。
 結局、キー局のすべてに書類で落ち、アナ受験はNHKのみにこの時期決めた。受かるには、それ相応の準備が必要だと痛感したからである。
 NHKアナ受験を第一目標とした私は、次に民放の一般職採用に挑む。
 2月24日。キー局のトップを切って、フジの面接が始まる。2対2の面談だが、緊張はしなかった。もうひとりの受験者は、記念受験らしく、全く発言しない。結局10分間、私はしゃべりまくった。私の独壇場だった。もちろん、通過。2次からは、個人面接だ。
 3月6日。フジ2次面接。この日は、2対1である。私は、この時、プロデューサー志望で受けていた。私がやりたいのは、ドキュメント。しかし、面接者はラフな服装から察するに、バラエティーっぽい。結局、会話も盛り上がらないまま面接終了。通過したらかかってくるはずの施語のベルは鳴らなかった。
 この時、「やっぱり、記者で受けた方がいい」と決定。自分は、どうやら取材向きのようだと自分で判断したのだ。
 3月16日。この日は、朝から忙しい。午前中から午後にかけてNHK-CTIの呼び出しを受けていた。しかし、TBSの書類提出もある。幸いにも、TBSの方は午後7時ぐらいまで大丈夫のようだ。私は、TBSの志望書を徹夜で書き上げ、NHKの砧研修センターに向かった。
 この呼び出しには、1クラス30名ほどが呼ばれていた。対象は、NHKアナウンスカレッジや、2月に開かれたCTI講座からの選抜生のようだ。なかには、テレビ朝日のアナウンス講座で友人になった人間もいて、あまり緊張感はなかった。午前中は自己PRの練習。昼からは筆記テストと作文。翌日は、カメラテストもあった。ここでの青田買いは、最近はなくなったとの噂もある。しかし、力を抜かず精一杯やった。
 そして、TBSに向かう。急いだため、汗もタラタラと流れる。控室で気合いを入れて、書類を提出する。簡単な面談があった。私は面接者と話が盛り上がり、結局30分近くしゃべった。あとで友人に聞くと二、三言で終わった人間もいたそうだ。少し自信を持った。
 その後、TBSは順調に進む。2次、3次、筆記などをパスし、いよいよ最終面接というところまで残ったのだ。

  TBS社屋に内定祈願

3月29日。TBS最終面接の日だ。最終には約1万4千人中45名程度が残ったと人事の方が言っていた。最終面接は2日にわたって行われ、2日目の夜に合否にかかわらず電話があるという。私は、初日、しかもトップバッターであった。午前9時にTBSへ到着。TBS社屋に向かい、「どうか内定させて下さい」と祈った。そして、午前10時。面接は始まった。約7,8人もの役員を前にさすがに緊張。さまざまな質問がとぶ。「ここさえ乗り切ればいいんだ」と約10分間、私は真剣に答えた。面接が終わった時は、「えーい、どうか合格しますように」と祈るのみであった。
 昼からは、健康診断。その時、TBSの「アッコにおまかせ」を受験者達と見ていた。その日は、TBSの内定者、つまり我々の1期上の新入社員が出演していた。
 「私も来年は内定者として、あの場にいるのかな」とぼんやり思った。
 翌日。8時前に電話があった。しかし、結果は無惨にも不合格。その夜、私は大学に入って初めて涙した。本当に悔しかったのだ。だが、立ち直りが早いのも私の特徴。「いいところがあったからこそ、ここまで残ったんだ」と自分を納得させた。
 その後もキー局、準キー局を受ける日々が続いた。でも、ある程度いいところまでは残るのだが、結局内定にたどりつくことはなかった。
 4月に入って、NHK、そして新聞社が筆記を始める。大本命のNHKは、どうしても合格したい。NHKは、今年から書類選考を導入している。もっとも、書類選考はパスできるとNHK-CTIから聞いていたので安心していた。
 4月10日t。NHK予備面談。面接者は、CTIでも面識のある方だった。緊張もあまりなかった。約40分しゃべって終了。別れ際、面接者に、「とにかく筆記テストをがんばって下さい」と言われた。筆記テストまで残すところ約1週間である。
 4月16日。新聞杜の最初の筆記試験となる日経新聞である。会場は東京ビックサイト。あまりの人数に正直、驚く。テストは、作文、論文、一般教養、英語などボリュームがありすぎた。結果は不合格。

  大本命NHKは筆記敗退

 4月19目。自分にとって一番重要な日である。午前中は、大本命のNHK筆記試験。午後からは、新聞社では最も行きたい朝日新聞の筆記である。NHKは、失敗してしまった。特に、作文。「角」という題で全く書けないのだ。こんなことは今までなかった。結局、作文が書けないのは致命傷。不合格であった。その尾を引いてか、昼からの朝日でも作文が書けなかった。一般教養と英語は、試験終了後配布された解答で確認すると、7割以上できていただけに悔やまれる。
 4月26日。毎日新聞筆記試験。この日は、作文が書けたという自信を持てた。「父」というテーマから、強引にも少年犯罪事件に結びつけて書いた。論・作文に手応えがある時は、やっぱり合格していた。
 5月8日。毎日新聞1次面接。意外とたくさんの受験者が呼び出されていた。時間は約10分。面接は淡々と進んだ。面接者も私に興味がないのか、あまり話を聞いていない様子。こんな時は、たいてい不合格。
 5月10日。読売新聞筆記試験。いよいよ大手新聞の試験は最後である。ここで落ちたら、留年も考えなければならない。それだけに、まさしく正念場である。苦手の作文であるが、題は「環境問題について」。アルバイトの経験を元にして書いた。一般教養、英語には自信があったので、あとは作文次第だと思った。運よく通過。
 5月18日。読売新聞1次面接。面接者は30代前後の若手であった。私は中日ファンであるため、そのことについて訊かれた。意外と穏やかな面接だと思っていたら「読売の憲法試案については、どう思いますか」とも訊かれた。硬軟のある面接だが、なんとか通過。
 5月25日。読売新聞2次面接。今回は、前回と変わって、年配の面接者だ。時間は短かった。約5分間。最後に「体力は大丈夫だね?」と尋ねられ、「大丈夫です」と元気よく言った。これも合格。いよいよ次が最終面接である。
 5月28日。読売新聞最終面接。いよいよここまで来た。今回の面接者は、編集局長や人事担当者など、約5〜6人。さすがに迫力ある面接となった。緊張はあったものの、自分が新聞記者になりたい気持ちを正直に語ることができた。

  そして運命の電話が鳴った

 そして、1週問後、運命の電話は鳴った。読売の記者としての内定であった。1月、いや3年時から始めた就職活動になんとかケジメをつけることができた。私は、一般企業3杜からも内定をもらっていた。しかし、最後はマスコミに行きたい気持ちが勝ったのだ。神は私を裏切らなかった。
 結局、マスコミ受験は根気との勝負であった。受かるには、運もある。だが、最後は自分を信じることのみだ。私の場合、マスコミで働きたいという一念が土壇場で功を秦した。後輩のみなさんは、いろいろ大変な思いもするかもしれない。しかし、ひとつだけ言えることは、「あきらめない」ということだ。多くのみなさんがマスコミで活躍できることを祈っています。


出発点はスポーツ記者になりたいという思い

Fさん/全国紙、通信社内定:
1年間の韓国留学を終えた大学4年の1月に、就職活動を始めた。しかし、なかなか気持ちを切り替えられず、しばらくは久々に会う友人たちと遊んでばかりいた。

新聞か出版か放送か思い悩んだ末に…

Kさん/放送局内定:
1年間の韓国留学を終えた大学4年の1月に、就職活動を始めた。しかし、なかなか気持ちを切り替えられず、しばらくは久々に会う友人たちと遊んでばかりいた。


多浪・既卒就活の末、出版社の編集者に

S君/出版社内定:
浪人時代も長く、いわゆる「マーチ」に届かない私大出身の私は、全国から秀才が集い、かつ高倍率であるメディアの仕事に就くことが果たして可能なのか、という不安があった。

一貫して広告志望だった私の就職活動

Yさん/広告会社内定:
「人のための課題解決がしたい」ただの綺麗ごとかもしれない。でも、これが広告業界を目指した私の心からの本音だった。私は小学生のころ、人と話すことが苦手で内気な自分にコンプレックスを抱いていた。