時には「根拠のない自信」を

Tさん/慶大 広告会社内定


 小さい頃から移り気で、ひとつのことに集中するよりも多くのことに目移りしてしまうタイプの人間だった。就職活動に関しても、マスコミに憧れは抱いていたものの百貨店、ホテル、化粧品会社等さまざまな会社に興味を持っていた。おそらく二度とないであろうこの機会に自分の今まで知らなかった世界について大いに学ぼう、そんな気持ちで私の就職活動は始まった。が、現実はそれほど甘くはなかった。今までの人生をなあなあで生きてきた自分を恥ずかしく感じるほど、私はこの数カ月精一杯自分について、人生について考えた。毎日が苦しみの連続だったが、その分だけ得たものも多かった。間違いなく私の大学生活4年間の中で最も充実した時だった。
 就職活動は、真剣にやればやるほど大変になる、自分との戦いだと思う。中途半端で終わらせることもできなくはないが、ぜひ全力でぶっかっていってほしいと思う。そうすれば、就職先だけではなく、今まで気付かなかった本当の自分とも出会えるのだから……。

  ひたすら0B訪問の日々

 とりあえずは人に会うことから始めようと思い、11月末からサークル0Bや身近な友人のつてをたどってOB訪間を始める。最初は週1、年が明けると三日にひとりくらいの割合で会っていた。ちょっとでも興味のある会社のOBには会っておこうと思い、マスコミはもちろん、アパレル、ホテル、化粧品等あらゆる職種の人間と会いまくった。向こうも忙しい時間を割いて来て下さっているのだから、こちらもそれなりの準備をしなくてはと思い、0B訪問をする会社のことはある程度調べ、自分のその時点で思いつく志望動機は言うようにしてチェックしてもらった。
 そうやってOBにどんどん会ううちに、今まであまり興味のなかった広告という仕事に興味を持つ。が、広告の就職活動シーズンは5月のGW明けと、とても遅い。よし、それならば5月までに一般企業やその他マスコミでおおいに自分を鍛えてから臨もうと決意。2月27日のフジテレビを皮切りに、面接が始まった。が、まだ志望動機も自己PRも固まってはいない(0B訪問で度胸だけは身につけていたが)。私が受かるほど、世の中は甘くない。フジ、日テレ、TBS、テレ朝……とキー局を1次面接もしくはエントリーシートで落ちる。覚悟はしていても本当に落ちまくると結構辛くて、ひたすら落ち込むが、本当の就職活動はまだこれからだと自分を励ます。そして、3月後半からは本命の博報堂リクルーター面接が始まった。今思うと、これがなければ今の私はなかっただろう。学校の近所だったこともあり、コンサートのチケット予約の如く博報堂に電話をかけまくり、0Bに5分でも10分でも会ってもらった。相当しつこい奴になってしまったが、そのおかげで自分の「売り」というものがだんだん分かってくる。相手をほんの数分でいかにして自分に魅きつけるかを考える毎日だった。でも徹夜で書いた志望動機や自己PRをちらっと見ただけで「0点」と言われて突き返されるのは辛く、帰り道は目が涙で一杯、ということも少なくなかった。そして一般企業を受ける傍ら30人近いOBと会って自分の「売り」を固めていった。
 5月9日電通の筆記試験。昨年のが難しかったといううわさを聞いていたので不安だったが、簡単なSPI。一般企業のSPIに慣れていた私にはとても楽だった。この会社は人数が多いのでいちいち軍隊のように並ばされるのが気にくわなかった。三日後、通過のTELあり。
 5月17日電通1次面接。面接者は眼のキラキラしたかっこいい「広告マン」だった。やはり出た「どうして電通なのか」という質問に「御社の社員が聖路加タワーの前で熱くケンカをしている姿にホレました」と答える。反応は今いちだったが、後日通過のTELあり。まさか受かるとは思っていなかったので天にも登る心地だった。

  本命の博報堂で大失敗!

 5月21日いよいよ本命の博報堂1次面接。リクルーターで落とされたあとだったので自信は全くなかったが、これだけ頑張ったんだからと自分を励まして田町に向かう。しかし、運悪く面接は最終の6時30分から。しかも、「最後のひとり」として8時すぎまで待たされる羽目になってしまった。午前中に一般企業を2社回ってきていた私に8時は限界で、面接者のやる気のなさに流されてしまった。「あなたのことを、周囲の友達は何と言っていますか」という質問に、「一度やると決めたことを最後までやり抜く人間です」と返し、「あなたの周囲の人は皆あなたのことを『一度やると決めたことを最後までやり抜く人だね』と言うんですか」となぜか爆笑され、耳の先まで赤くなってしまった。その後もいくつか質閥されたが、完全に脱力してしまい、ただ帰りたくてしょうがなかった。何と答えたかも覚えていない。でも博報堂を出た瞬間物凄い後悔の念が襲ってきた。私の2ヵ月余りの博報堂通いが頭をよぎり、その夜は相手のぺースに流されてしまった自分が悔しくて泣き明かし、目はウサギのように赤く、顔はお岩さんの如くはれあがってしまった。しかしその顔で第一企画と朝日広告社の書類提出に行く。悲劇のヒロインぶってる時間なんてないのである。ここで立ち止まっては、前には進めない。そして案の定、博報堂から連絡はこなかった……。
 5月24日電通の2次面接。これが事実上の最終と聞いてとても緊張する。私が華道の師範であることが珍しかったらしく、華道を始めたきっかけなどを突っ込まれた。面接のあとのクリエイティブテストは写真を見てストーリーを作るものと、中高生の間で「お習字」を流行させるためのアイディアを20個書くというものだったが、時間が足りず、惨敗。さようなら、電通。いつか絶対にあなたを超える仕事をしてやるわと心に誓いつつ、聖路加タワーを去った。もちろん、TELはなかった。
 5月25日朝日広告社の1次面接。フレンドリーな面接者と1対1だった。「君はラグビーマネージャーをやっていたようだけど、一連の不祥事についてどう思っている?」と訊かれる。T大ラグビー部員を批判するべきかと一瞬迷ったが、「被害者にも責任があるのでは」と自分の思ったことを体験も混じえて話したら熱心に聞いてくれた。これがよかったのか通過。
 5月26日東北新社、小学館、読売広告社の書類提出と某化粧品メーカーの最終面楼。面接のあと、銀座のドトールに駆け込み、ダッシュで2枚のエントリーシートを仕上げ、締切10分前に提出。この危機一髪のスリルが徐々に楽しくなっている私がいて、ちょっと反省。
 6月5日第一企画の1次面接とI&Sの書類提出に行く。第一企画は「松田聖子は好きか嫌いか」についてのグループディスカッションだった。話はそれて合コンの話になり、私は「合コンは女の戦いなんです」と真剣に語ってしまった。心の底から落ちたと思ったが通過。でも、そのあとに行ったI&Sは手作り名刺は完壁、面接もOKと白信満々だったにもかかわらず、さくっと落とされる。マスコミ受験は本当に、何が起きるか分からない。

  度胸がつくと面接もまた楽し

 6月6日吉本興業の1次面接。「どうしてこんなええ大学出といて吉本なんや」と言われ「どうせ短い人生なら、やりたいことをやるんです!」から始まり、ノストラダムスの大予言話や人生の教訓話で盛り上がった。結局落とされたが、学生のボケに面接者がすかさず突っ込むという、あんな楽しい面接は最初で最後だった。
 6月7日読売広告社の1次面接。午前中はオレンジページの選考会だった。オレペが女だらけだったのに対し、読広は男しかいない。そのギャップが面白かった。この時期になると、面接にしろ説明会にしろ、慣れたので周囲を見渡す余裕が出てきた。面接ではふたつしか質問をされず、結局質問とは全く関係ない「宝塚の魅力」について私が一方的に語って終了してしまった。終わったと思ったが2日後に電報が届く。
 6月11日読広の筆記。暗号の謎ときや図形の問題が山ほど出てちんぷんかんぷんだった。それと英語、性格診断履歴書提出。読広の志望理由を5個書く欄があり、周囲の人は皆細かい字でびっしり書いていた。5つもまともに書けないと思い、ひたすら見やすさを追求してでかでかと書いた。試験自体は全体の半分もできていない自信があったのでダメだと思ったが、通過。そしてその日の午後のJR東日本企画の面接では、日本文化となぜかピカチュウの話をしていた。ピカチュウをほめちぎって通過。自社商品の賞賛に弱いのは、どの会社でも一緒らしい。
 6月13日オレペ1次面談。私のことより、ダイエーグループのライバルである私の某内定先に明らかに興味を持った面接者にムッとしてしまい、まともな答えを出せなかったが通過。少し複雑な気分。

  「女だから」だめなの?…

 6月17日J企の2次。おじ様6人を前にしてのひとり面接は初めてだったので、緊張するが、途中、ひとりの面接者の娘さんがガールスカウトだと分かり、ガールスカウト歴1O年の私とその話題で盛り上がる。しかしJ企に勤めている先輩の話を出した頃から雲行きはあやしくなり、最後に「うちの会社、君の志望する部門にはほとんど女はいないんだよ。知ってた?」と訊かれ、悔しくて涙をこらえた。今までも「女だから」と遠回しに言われたことはあったが、とても行きたかった会社だけに、悔しかった。
 6月18日読広の2次面接。昨日で大勢のおじ様に囲まれる面接に慣れたので、リラックスして臨めた面接だった。研究課題がまとめにくく困っていたら、「結論から言ってごらん」と言われてなるほど、と感心&感謝。時間は短かったが次から次へと質問攻めにあい、アイドルの記者会見のような気分になった。3日後、最終面接の案内が電話できた。
 6月26日読広最終面接。初めての集団面接だった。マルチメディアと広告の今後の関係について思うところを述べる、新聞広告についてどう感じているか等思いもよらない質問が飛ぴ交い、焦ってしまったが、新聞広告については、コボちゃんの四コマ漫画うしろにちょこんとついてくる黒ラベルの広告について「思わず目がいってしまう、良い広告ですよね」と言ったら、社長の目が笑ったのを感じた。
 その日の夕方、帰路の電車の中で携帯電話が鳴った。母からで、「合格らしいわよ」とのこと。全身の力が抜けて、涙があふれてきた。夢でないことを確かめるために、大慌てで電車を降り、人事に電話する。本当だった!
 周囲の人が異様なものを見る目つきで私を見ていたが、そんなことはどうでもよかった。涙が止まらなかった。

  叩かれてもはい上がれ!

 こうして私の就職活動は終わった。が、ここに載せたのはほんの一部で、私はマスコミのほかに一般企業も20社以上受け、内定も項いていた。マスコミを目指す人(特に女の子)には一般企業もできる限りたくさん受けることをお勧めします。内定をひとつ持っているだけで心の余裕が出てくるし、面接慣れもできるからです。そして、1回や2回落ちたからといって絶対にめげないこと。それこそ叩かれても叩かれてもはい上がってくる就職活動のゾンビになりましょう。そして時には「根拠のない自信」を持って下さい。「この私を落とす会社なんて、潰れるわ」、それくらいの気持ちで、とにかく振り向かずに、前へ前へと進みましょう。そうすれば必ず道は開けます。頑張って下さい!


出発点はスポーツ記者になりたいという思い

Fさん/全国紙、通信社内定:
1年間の韓国留学を終えた大学4年の1月に、就職活動を始めた。しかし、なかなか気持ちを切り替えられず、しばらくは久々に会う友人たちと遊んでばかりいた。

新聞か出版か放送か思い悩んだ末に…

Kさん/放送局内定:
1年間の韓国留学を終えた大学4年の1月に、就職活動を始めた。しかし、なかなか気持ちを切り替えられず、しばらくは久々に会う友人たちと遊んでばかりいた。


多浪・既卒就活の末、出版社の編集者に

S君/出版社内定:
浪人時代も長く、いわゆる「マーチ」に届かない私大出身の私は、全国から秀才が集い、かつ高倍率であるメディアの仕事に就くことが果たして可能なのか、という不安があった。

一貫して広告志望だった私の就職活動

Yさん/広告会社内定:
「人のための課題解決がしたい」ただの綺麗ごとかもしれない。でも、これが広告業界を目指した私の心からの本音だった。私は小学生のころ、人と話すことが苦手で内気な自分にコンプレックスを抱いていた。