体力と情報で勝ち得た
NHK記者職

Yさん/明大 テレビ局内定


 私は「どうしてもマスコミで働きたい」と熱望していたわけではない。恥かしながら年も押し迫った頃まで「卒業したら働かなくちゃならないのか。いやだなあ。一生遊んで暮らせる方法はないかなあ?」などと本気で考えていた。寅さんのように自由奔放な人生に憧れながらも、現実問題として「自分の好きなこと、やりたいことってなんだろう?」と模索している自分もいた。「理想」と「現実」は違うもの。少し大人になった気がした。

  マスコミ業界との出会い

 ある日何気なく見ていたドキュメンタリー番組に衝撃を受け、それをきっかけとして「マスコミ業界」に興味を持つようになった。その番組は「松本サリン事件」で犯人扱いされた被害者と誤報をしてしまったある新聞記者とのドキュメンタリー番組だった。そこには被害者がマスコミによって犯人にしたてあげられていく姿が克明に記録されていた。しかもマスコミ報道をあおっていたのは実は国民であり、私もその加害者のひとりであることを認識させられた番組でもあった。大衆操作も可能なほど多大な影響力を持つマスコミの存在は「恐い」、「とても社会的責任のある職業」だと思う傍ら「いったい何が記者たちを誤った方向に動かしてしまったのか?」ということに疑問を持ち、白分が事件の加害者になってしまったことへの自省も込めて、同じ過ちを二度と繰り返さないためにも自らが記者となってこの事件を再検証したいと思ったのだった。マスコミに興昧が出てきた頃、偶然体育会の先輩にNHKに勤めているOBの方がいらっしゃったので、早速「OB訪問」をお願いした。先輩にお会いして、入局してからのこと、心に残った事件取材、特ダネを取るための涙ぐましい努力といったお話を伺った。特にペルーの日本大使館占拠事件の奮闘収材の話は私の方も身を乗り出し、時折鳥肌をたて興奮しながら聞いていた。最後に先輩は「記者には適性なんてない。特ダネを取るには『粘り・知恵・運』が必要だ。そしてもっと必要なのは『体力』だ。体育会で4年閉鍛えた君ならば多少頭が悪くても(!?)記者に向いているかもしれないね」とニヤリと笑っておっしゃった。私は先輩の話にすっかり閉き惚れ、白分は記者に向いていると勝手に思い込んでしまった。

  いったい何から始めれば…

 すっかり「記者」という職業に惚れ込んでしまった私だが、いったい何をどう勉強していったらよいのかわからない。部の練習があったためマスコミ予備校に行く時間はなかったので、独学で乗り越えるしかなかった。まず受験科目である一般教養と英語の問題集を買ってきた。問題集の巻末にNHKの過去問がついていたので試しにやってみると、全て選択問題であるにもかかわらず、一般教養は3問しか正解できず、英語にいたっては1間も正解できなかった。私は「運」はかなり強いほうだと信じて疑わなかったので、この結果はかなり「ショック」だった。しかし時は2月の下旬。落ち込んでいる暇はない。やるしかないのだ。苦手の英語は今から始めても手遅れと思い断腸の思いで捨てる決心をし、ありあまる全エネルギーを一般教養に注いだ。問題集の答えを覚えてしまうくらいひたすら繰り返した。論文は、一般教養が軌道に乗り出した3月上旬からNHK文化センターの通信添削講座を始めた。評価は散々だったが、先生からの辛口の講評は白分の盲点に気付かせ、底に潜む未知なる自己の魂を奮い立たせてくれた。
 1月12日フジテレビアナ面接。「資料配布会」とあったので、大雪だったこともありジーンズにセーターで出かけて行った。もちろんノーメーク。しかしいきなり面接が始まってしまった。周りは騎麗なお姉様ばかり。すっかり気後れしてしまった。面接者から「目標とするアナウンサーはいるか?」と訊かれ「黒田あゆみさんと国答裕子さんです」と答える。「フジではいないの?」と訊かれたが何も答えられず。隣のブースからは「小島奈津子さんみたいになりたいです」と、言う声が閉こえたが「小島奈津子っていったい誰?」もちろん1回戦敗退。その後目テレ、TBS、テレ朝、テレ東は全て書類選考敗退だった。
 気を取り直して次は東京キー局の一般職に挑戦!!
 2月27日フジテレビ。2対2の面接。自己PRをさせられ、記者志望だったためか「昨日の夕刊のトップ記事を答えよ」と言われた。予想通りと思い無難に切り抜けるが敗退。「なぜ?」今回は大金をはたいて買ったスーツで米たのに。やっぱり「小島奈津子」を根にもたれているのだろうか?

  合宿所で書いた志望書

3月下旬になると就職活動も大詰になるが、フェンシングの大会も迫る。「練習・合宿・就職活動」のバランスが非常に難しい。もうすぐ本命のNHKの志望書の提出期限がくるというのに、私は合宿中。練習後合宿所で眠たい目をこすりながら疲れた体にムチを打ちなんとか完成させた。しかし辞書を持って行かなかったため、漢字がわからずほとんど平仮名で書いてしまった。提出後、今年から書類選考があると聞いて思わず絶句。「エッ、閉いてないよ!」
 4月7日。部活からの帰り道電車の中で突然携帯電話が鳴った。母からだ。「NHK、書類通ったみたいよ」「ウソ、信じられない」。疲れも一気に吹っ飛んだ。
 4月9日NHK予備面談。民放の面接時間はひとり5分ぐらいだったのに対し、NHKは1対1で60分。じっくりと受験者の話を聞いてくれるという感じがした。フェンシングから学んだことや入局したらやってみたいことなどを熱く語った。反省点としては、自己PRをしている最中に地震が来て動揺してしまい、途中から何を言っているのかわからなくなってしまったこと。面接者も話を聞きながら頭をひねっていたから、多分意昧不明なことを話していたのだろう。地震にも負けない強靱な精神力を持ちたいものだ。
 4月19HNHK筆記試験。終了後、分厚めの眼鏡をかけたいかにも「勉強してました」という雰囲気を漂わせるオタクっぽい兄ちゃん達が「今年は易しめだったな」とか言って楽勝ムードに浸っていたが、私は「工ー、そうか?」と肩を落としていた。午後からは朝日新聞社の試験だったため、悲しんでいる暇もなく試験会場の上智大学に走る!
 4月22日。NHK筆記試験合格のTELをもらう。「エッなんで?本当に?」と自分のほっぺたをつねる。「痛い!」本当だ!
 4月24日NHK2次面接。1次の時とは違い質問が矢継ぎ早に飛んでくる。それもかなり突っ込んだところまで。「所沢高校」の問題では面接者と激しく意見を闘わせる。「小島奈津子」を教訓としてテレビや新聞を見ておいてよかった。なっちゃんに感謝! 1対1の面接であったうえにまたもや60分に及ぶ長丁場で、疲労困憊。帰り遺、渋谷の街でヤンキーの兄ちゃんに声をかけられ、さらに疲れる。
 4月28日。NHK2次面接合格のTELをもらう。放心状態がしばらく続いたが、何を思ったかいつもは放ったらかしの仏壇に花を供える。先祖を大切にしよう!
 4月30HNHK最終面接・健康診断。健康診断でトラブル発生! 尿検査の前にトイレに行ってしまったため、尿が出ない。しかも極度の緊張からか検温で「38度」を記録。看護婦さんから「大丈夫よ。落ち着いて」と励まされる。「もしや健康診断で落ちたのでは?」と一瞬不安が頭をよぎる。面接は役員クラスと4対1で時間は15分ほど。待時間に気持ちを落ち着かせるために手の平に「人」と書いて食べていたが、その現場を人事部長に見られ笑われる。緊張のせいか面接の内容は記憶から抹殺されているが、「君は声が大きくてよろしい」と褒められたことだけは覚えている。やるだけのことはやったが、得意種目である健康診断で「勝負弱さ」を露呈してしまい、なんのために体育会で鍛えたのかと思い悩みながら帰宅する。

  NHK内定の連絡に涙…。

 5月2日。NHK最終面接合格のTELをもらう。人事の方と話しながら、鋭い質問が矢継ぎ早に飛んできた面接の光景がよみがえり、困惑しながらも夢中になって話した自分の素直な、意見が相手に伝わったんだと思うと嬉しくて涙が出てきた。「一生の運を使い果たしちゃったんじゃない。結婚に残しておかなくて大丈夫?」などと意地悪を言っている両親の声も気になったが、「記者」になりたいと思ってこの3カ月間努力してきて今こうして夢が現実のものになったのだから、まずは「がんばってみよう!」という意欲でいっぱいだった。そして長くて険しかった私の就職活動は幕を閉じた。
 最後に、私が就職活動を乗り切ることができたのは、弱音を吐いていた私を叱吐激励してくれた友達、陰で支えてくれた家族、親身に相談に乗ってくれた先輩方のお陰でもある。たくさんの人たちの「温かさや優しさ」に触れ、危機一髪のところを救われた場面は数知れない。記者という職葉は人間が人間を取材する仕事だけに、厳しい局面に立たされることもあるだろうが、「同じ人間であるからこそ同じ人間の気持ちがわかるのだ」と私は信じる。人に興味を持ち統け、人間の「喜怒哀楽」や「温かさ」を亨受できる、そんな記者になりたいと思う。


出発点はスポーツ記者になりたいという思い

Fさん/全国紙、通信社内定:
1年間の韓国留学を終えた大学4年の1月に、就職活動を始めた。しかし、なかなか気持ちを切り替えられず、しばらくは久々に会う友人たちと遊んでばかりいた。

新聞か出版か放送か思い悩んだ末に…

Kさん/放送局内定:
1年間の韓国留学を終えた大学4年の1月に、就職活動を始めた。しかし、なかなか気持ちを切り替えられず、しばらくは久々に会う友人たちと遊んでばかりいた。


多浪・既卒就活の末、出版社の編集者に

S君/出版社内定:
浪人時代も長く、いわゆる「マーチ」に届かない私大出身の私は、全国から秀才が集い、かつ高倍率であるメディアの仕事に就くことが果たして可能なのか、という不安があった。

一貫して広告志望だった私の就職活動

Yさん/広告会社内定:
「人のための課題解決がしたい」ただの綺麗ごとかもしれない。でも、これが広告業界を目指した私の心からの本音だった。私は小学生のころ、人と話すことが苦手で内気な自分にコンプレックスを抱いていた。